彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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とある小春日和に

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 病室で余生を謳歌するのに困らない、絵に描いたような穏やかな陽気を季語を交えて呼んだ小春日和が、白い布団に人肌の暖かさを与え、出し抜けに吐かれる湿っけたっぷりの嘆息すら、まどろみ漏らす吐息へ変えた。時刻は午後二時を過ぎた。暗雲がよしなに伺いを立てることはしない。ゆっくりと、確実に這い寄りつつそれはやってきて、濡れそぼつものだ。病室の扉が馬を走らせる車輪のように勢いよく音を立てて開かれたのと同じように。

 萎れた果実さながらに浅黒く染みができた腕が、血圧の低下や意識状態の悪化を原因とする痙攣めいた動きをしている。ベッドが自立してようやく上体を起こせる老齢の耳にも、どうやらこの空気の揺れが伝わったようだ。徐に黒目が目頭から距離をとって端へ寄る。

 近親者を迎えるための丸椅子に腰を下ろす男の尻は、肉布団まがいの広がり方をした。男が気まぐれに胸を張れば、白いシャツは破れることも厭わない密集感を湛えた。男の身体はいわゆる肥満に定義される風采をしており、院内を闊歩した理由がよもや、見舞いとは誰も思うまい。手ぐすね引いて待つ死臭が明日にも臭ってきそうな老齢の病室で、男は太い腕を組んだ。余命を労わる気苦労を感じさせず、それどころか鞭を打つかのような眼光の鋭さだけがはっきりと見て取れる。含蓄も放棄した老齢の口元の緩さは、男が見せる敵意に口答えする気概は感じられない。しかし、重苦しい目蓋のたるみで閉じかけた目には、僅かながら知見のようなものが伺える。

「そう、その目だよ。人を白眼視した様子がまた……」

 粘性たっぷりの恨み節は、生涯をかけて精算させる怨恨を感じさせた。次に男が語るに落ちるのは時間の問題で、間も無く吐露する。

「アンタはいつもそうだ。俺の哄笑に舌打ちし諫めて、物音一つ立てればあからさまに嫌悪してみせる。灰皿を携帯し忘れたことに託けて、路上でありながら灰を肌に押し付けられたこともあったな」

 脳圧を高めてのべつ幕なしに語る男は盛大に唾きを飛ばしつつ、老齢の耳元まで顔を近付ける。

「アンタは今すぐにも死ぬべきなんだ。この世からいなくなっても誰も悲しまない。それどころか、誰もが嬉々として受け入れるだろう」

 虐待めいた口吻を見舞った男が病室から出て、通りすがりの看護師と杓子定規なお辞儀と愛想笑いを振り撒くと、舌の上を這った熱い怨嗟が霧散し日常は回帰する。同日の夕方、中年女が老齢の病室へやってきた。脇に花を拵えた中年女は老齢に一声かけて、花瓶に挿さった萎れつつある花を水場で取り替え始めた。

「久しぶりだなぁ」

 あれほど堅固に口をつぐんでいた老齢が、何事なかったかのように言葉を吐いた。

「昨日も来たでしょ」

 中年女の返す言葉に生気はない。荒凉たるものだ。既に冷え切った丸い椅子へ腰掛けるなり、携帯電話にかじりつく。一瞥もしなければ、口を開くわけでもない。ただひたすら、持て余した時間を消費する。見舞いという体裁はとうに尽き、喉の渇きを覚えた中年女が病室を出る。各階に複数台、置かれている自販機の元へ向かっている途中で、出し抜けに看護師から声を掛けられる。

「息子さん、親孝行ですね。ここ最近、毎日お爺さんの顔を見に来られていて」

 看護師の差し出がましさに苦虫を噛み潰す中年女は、怒気マシマシに返す。

「私に息子なんていませんよ」

 看護師は見る間に顔を青くし、腰を深く折り曲げた。

「申し訳ありません!」

 手前勝手に家族関係を推測してしまった看護師の非礼は、空気を読んで察することの奥ゆかしさに繋がり、いざこざを招くばかりではない。だがしかし、今回に限っては看護師が頭を下げる要因になった。額から流れて止まらない汗を隠すかのように、看護師は頭を下げ続け、中年女が目の前を去るまでそれは続いた。

 看護師は中年女の背中を見送った後、同僚に脈略なく訊いた。

「十五号室のお見舞いにくる男の人、知ってる?」

「いきなり何?」

 斯々然々と起こったことを伝えると、同僚は深く息を吐いた。

「世の中には、理解に及ばない人間っていうのは幾らでもいるのよ」

 同僚は看護師をそう窘めて、思索をやめさせた。
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