彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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目蓋がピリリ⑥

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 物音はなるべく立てないほうがいい。如何なる状況に於いても、慎みやかに振る舞い、鳥跡を濁さない趣が何より肝心だ。普段の生活から心掛けていると時折驚かれる事もあるが、それは私の身の処し方に間違いがない証である。人は外見に左右される。良し悪しを語っている訳ではない。私と友人が親しみを覚え、関係を発展させたのも少なからず影響しているからだ。だからこそ、あの男を理解不能の怪物だと蔑むつもりはないし、コソコソと物音を潜める姿勢に敬意を示すが、やはり監視の目というものは心落ち着かない。あまつさえ、労働の疲労に合わせて現れる背後の足音は、私の神経に障った。

 次の街灯をきっかけに、私は身を翻し、男に威嚇を込めて迫ろうと思う。警戒を促し、更なる慎重さを求める所存だ。一寸先の街灯の翼下に入ると、私は息を吸い直して踵を返す。勿論、男の虚を突く行動となり、意図しない横道への侵入をおっかなびっくりにした。私が今、実現できる精一杯の走力を動員し、視界を外れた男の背中を捉えようとした。だが、

「あれ?」

 忽然と姿を消したかのように、あっけらかんとした風景がそこにはあった。左右の抜け道も発見できず、土地を区切って空間を確保する家の垣を乗り越えたとしか思えない。そうなれば、私の踏み込むべき領分を乖離し、無理に追おうとするとまさに男が冠する「ストーカー」の汚名を授かる事になりかねない。振り上げた矛をどうにか収め、私は帰路に戻る。これで少しでも男の肝を潰せたなら、満足だ。

「あるもんだな。お前が言ってた通り、不可解な事は」

 自宅に帰って早々、同居人の様子は引き続き妙であった。携帯電話の取り回し一つとっても、浮き足立っているのが看取でき、事情を問わなければ薄情者と形容されても文句は言えない。私はあくまでも親切な同居人の皮を被り、訊いた。

「朝の事?」

「違う。ストーカーだよ」

 私を悩ます一つの問題が、まさか同居人にまで及ぶとは露も思わず、目を白黒させた。緩んだ顎は口を半開きにし、節操がない男の行動は生物としての本能に強く寄り添っているように感じた。

「それは、本当?」

 私は意趣返しのように欺瞞を同居人にぶつけた。

「すまない。世の中には理解に及ばない人間は確かにいる」

 同居人は私に対する数々の揶揄を陳謝した。五体投地を望まずとも、もう幾ばくかの誠意を見せて欲しかったが、これ以上は恐らく新たな軋轢を生む。私は口を慎み、同居人のそれを受け入れる。

「それもそのストーカーは、夢に見た男とソックリなんだよ」

 苦笑混じりに言った同居人の恐怖は、目を擦って現実を疑うより切実に思えた。それでも私は、半信半疑に同居人の言動を洗う。

「偶然でしょう?」

「いや、これが本当なんだって!」

 身振りは熱がこもり、私への訴えに真実味をもたせようとする。素直に咀嚼しても良かった。ただ何故か、そう易々と訳知り顔をして相槌を打つ気にはなれなかった。仮に前のめりで男の話を受け入れてしまえば、現実と妄想の境界が曖昧になり、解決の糸口は混迷極まる。
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