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霧の物語
しおりを挟む『久しぶりね』
『…そうだな』
『何年ぶりかしら』
『…随分と久しいのだけは確かだ』
川向こうに揺れる灯籠の群れが
甘酸っぱい過去の記憶を呼び起こす
右岸と左岸の流速は随分と違う
地形の違いに由来する圧力差により
流れ流れるのが川の本質だろう
リバークロッシングをする訳じゃない
スローバッグの腕前を披露する気もない
河川の辺に小鳥は居ない
男がひとり/女がひとり
『変わらないのね』
『…そうかな』
『そうよ』
『…俺は変わったと自覚しているけど』
『変わらないわ』
『…君がそう言うのならそうなんだろう』
静寂を強調するゆったりとした会話に
彼女の細い足首と緩やかな胸元が似合う
首筋は細くどこまでも涼やかだ
リバーサイド・ホテルの灯りがともる頃
くたびれた洋館は黴のような溜息をつく
対岸に一軒のコンビニができた事を除き
此処からの景色は変わっていない
『暮らし向きはどう?』
『中の中の中ってとこだよ』
『◎◎も◎◎も出たのに、変わらないの?』
『求めれば中に居られるってことさ。俺にはどうしても其処の居心地が良いからね…。君はどうなんだ?』
『………』
『…君の暮らし向きの事さ』
橋の欄干の下から聞こえる音の粒
何時か何処かで誰かが奏でていた
アコースティックギターの音色が模倣される
一つの弦の調律が外されているのだと気づく
そして演者の悲しみが深いことに気づく
演者は周囲に迷惑を掛けまいと努力し
川のせせらぎに消される程度の裏声を添える
『わたしは……幸せよ。とっても』
『…そうであって欲しいと願う』
『お金も充分にあるし。家だってあるし。優しい旦那が家でココナッツ・ミルクを作ってもくれるの。老後の心配なんてひとつもないの。だから幸せ…。幸せなんだと思っているけれど』
『それも一つの形ではある。不無』
『…あなたはどう?幸せ?』
水面に反射する月あかり/煌々
彼は右手を伸ばして日々を反芻する仕草
両目を瞑りながら数十年を思い出す
此の川は一級河川であり上流にダムがある
放流量は毎分100立方程度だろう
感覚でそれが理解るが/そんな事は
幼い馴染みの男女にはどうでもいい事象
特にこんなに見事な月明かりの下では
『…難しい質問をする』
『そうかしら』
『…そうさ。俺も君と変わらない。衣食住が担保されており妻がひとり。子供がひとり。前方には踏み外さなければいいだけの道がある。それは年々太くなる道でね』
『……』
『続けるか?つまらない話になるが』
『…続けて』
『…その道を歩いていると…幸福論だとか資本論だとか学び舎で習った方程式だとかの一切が役たたずだと気づくんだ。今/此処にあるものに満足する。それは素晴らしい生き方だとも思うんだがね。渇望は満たされない。その道では』
『……』
『ここらでやめにしよう。つまらない話だ』
初夏の夜は冷たく澄んでいる
凛とした空気は水分を潤沢に含んでいる
東北地への引っ越し以来,この空気が
彼女の時間を無碍に奪ってきたのだ
風習や常識というのはとても強い
上流から下流へと向かって流れる川は
遡上する事を許されずのらりくらり
輪廻の象徴のように其処にある
『………』
『………』
『この曲…何ていう題名だったかしら』
『Norwegian Wood』
『作者は?』
『ビートルズ』
『素敵な曲よね』
『俺もそう思う』
欄干の奏者はAからAmへのイントロを奏で
何かを二人に思い出させようとしている
左岸で一匹の魚が跳ねるのが見える
彼らの足元でもう一匹が同時に跳ねた
初夏の蟲ゝが朧月に酔うが悪さはしない
夜の光量の少なさが幸いし/彼も彼女も
互いの過去を認識する事ができる
皐月の香りに包まれれば何かが変わるのか
『…何で俺を誘い出したんだ』
『あなたと話したかったの』
『…二人で?』
『そうよ』
郷土開催は数年に一度の事
同窓会といえば誰にでも理解るだろう
彼は何時もその誘いを断っていた
放浪者はどの土地も故郷と呼べぬ身分
幼少期を過ごしたこの場所もそう
『戻りたい?会場に』
『…別に』
『良かった』
『…あの頃の話なんて俺には意味がないからね。調子を合わせる事にうんざりしてたんだ。助かったよ。正直なところ』
『良かった』
時折/邂逅主義の獣が顔を出す故
旅行がてらに訪ねた事はあったが
ノスタルジーに浸って現実を離れるという
暇つぶし行事に価値なしと心が知っていたし
彼は孤独の取扱説明書を熟読していた
『聞いてもいいだろうか』
『いいわ。何でも』
『繰り返しになるが別質問だ』
『……』
『何で俺を誘ったんだ』
『……』
『先の質問とは意味が違う。時系列の前後がある。噛み砕いて言えば…どのような意図で俺をこの夜会に誘ったのかという意味だ。それも直筆の手紙で』
星ゝの輝きが美しい
満点の星空という安直な表現を重ねてみる
それ以外の表現がそぐわない夜半の逢瀬
上流には大きな大きな橋が掛かっており
欄干の奏者が紡ぐ音階には
若気の至りで誰かが真剣に書いた
[赤い翼]という叙情詩の横恋慕がある
星ゝの輝きが美しい
田舎の空とはこういうものだったな
流れ星はテグジュペリの物語と寄り添い
星座の中で最も輝かしい一等星が
二人の距離を適正に保つ働きを堅持する
『メールの方が良かった?』
『そういう意味じゃない』
『その手法なら俺は此処に来ていない』
『二人っきりで会いたいなんて言ったら…来なかったでしょ。お互いに納得できる言い訳が必要だったの。そのために同窓会を使わせてもらったのよ。みんなには申し訳ないけれど』
『…成程』
『もっと言えばね』
『………』
『軽率な真似はしたくなかったの。勿論。あなたに失礼な事もしたくなかったの。勿論。お互いに家庭があるとかそういう意味じゃないわ。あなたに会いたくなったの。というより…あなたに会わなくちゃいけなかったの。凄く深い意味でね。あなたと。どうしても。あなたと。どうしても』
『詩的な表現だな』
『何を言っているか理解してほしいの。私本気なのよ。懐古主義じゃないの。可笑しいなら笑ってね。満たされないものがあるの。心の中に。ぽっかりと空いた空間があって…そこに腹ペコのワニが口を開けて何かを求めているの』
『…興味深い。
それを知ったのは何時?』
『極,最近の事よ。
朝食のクロワッサンを焼いている時に』
下流域は湾曲し視界の限界点に森がある
右辺は原始に近い鼓動を放っていた
左辺に大きな橋が架かっている事を繰り返す
其の橋は土地名を冠にし誇り高そうに
自慢の下駄を数本/川に突き刺して空を向く
欄干の奏者は件の演奏をテンポよく続ける
誰かに聞かせる意図を持たぬ謙虚さで
メロディーとベース音を同時に/器用に
夜時間の短針は奏者の高音域に酔っており
低音域に微笑む長針は軸を失って感想を一言
『クロワッサンじゃ仕様がないかもな』
森には木霊が居るのかもしれない
大きな狼のものであろう咆哮が聞こえる
対角線で呼応する衝動が聞こえる
前者は雌のものであり後者は雄のもの
森には熊がいるのかもしれない
大きな大きな熊が対岸で騒ぐならきっと
彼は彼女を愛車で攫う口実を得るのかも
彼女は彼に攫われる好日を得るのかも
『何となくわかる気もする』
『声が聞きたかったの…
それも理由のひとつよ』
『俺の声が?』
『そうよ』
『電話じゃ駄目なのか?』
『電話じゃ駄目なのよ』
『何故?』
『電話をするって…とっても勇気が要る行為なの。少なくとも私にとっては。なのに相手の顔が見えないじゃない。表情がわからないじゃない。心の半分も伝える事なんてできないのに…擦り減っていくものがあるのよ。体温も感じないの』
『同感だね』
『そうやって擦り減っていくものがあるのに…得るものなんて一つもないの。同じように日々すり減っていくものがあるのよ。年齢を重ねるほどに擦り切られるのが早まっていくの。擦り切られる分量も多くなっていくの。ワニの口にどれだけそれが流れても、決して満たされる事はないのよ。きっと』
『クロワッサンを焼く朝
それに気づいた訳か』
『そうよ』
二人の鼓動に幾つかの音が混じり合う
上座と上流がニアリーイコールの意味を持ち
川のせせらぎは「さら/さら/さら」と
星のきらめきは「きら/きら/きら」と
バランスを崩せば雲散霧消する
際どい軸を中心とした心が二つあり
言葉は慎重に且つ大胆に交換される
降り注ぐ月光は旅する姫を探しており
洒落た籠に装飾を施して空を駆ける
此の世の成立要件として遣わした美姫に
迎えの時を告げる宵月/見事
『そしてそれを満たすのが俺って事かい?見当違いなら非常に恥ずかしい発言になるのを承知で言うのだけれど』
絡み合うのは言葉と視線
右手と左手は繋がれておらず
左手と右手に関しても同様だ
初夏とはいえ夜はまだ寒い
水分を含む空気と橙の街路樹は
言葉の距離を近づけたがっており
体温の均衡を求めてもいた
歩幅と同等だった距離は肩幅へと
互いの吐息が聞こえる距離へと
夜の雰囲気が刹那一時の魔法をかける
夜とはそういうものなのだろう
空白の時間が叙情的な処理を求めており
その空白を言葉で埋めようとする二人
『そうよ。あなたが必要なの』
『今の君の生活に?』
『そうよ。間違ってはいないわ』
『どのようにすれば君は満足なんだ
具体的に何をして欲しいんだ?』
『それを考えて欲しいの。一緒に』
『いまいち意味が掴めない。言葉のグリップ力が足りない事を先に謝っておく。もっとも…握力が88あっても君の言葉を掌握する事はできないと感じるが』
『素敵な言い回しね。好きよ。そういうの』
一足も二足も早く
紅葉になれると過信し
高揚に包まれている樹々の影
暗がりには二人/男と女
欄干の奏者は相変わらず
楽器の演奏に只管/没頭している
奏者は当時の正確なピッキングについて
[広葉樹をイメージして弾いていたまでです]
そのように後日談として誰かに語る
気まぐれな大会で二位になる同奏者
営利団体への専属の誘いは断ったらしい
まぁこれは下らない過去の話なので却下
『俺は特別な存在なのか』
『そうよ』
『君にとっての』
『そうよ』
『そして俺が
腹ペコのワニの餌になるんだな』
『私の心の中にはね。何時も何処でも。何をしていても。夫に抱かれていても。夫以外の男に抱かれていても。満たされない空白があるの。空白の中を旅しているのが本当の私。ワニは大口を開けて何時も乾いているの。わかるかしら』
『随分と貪欲なワニなんだな』
『そうよ。何時も渇いているし腹ペコなの。まがい物の液体を入れると吐き出すわ。農薬まみれの野菜も大嫌いみたい』
『俺の言葉は吐き出さない?』
『そうみたい』
『俺の見た目は吐き出さない?』
『そうみたい』
『成程。君の中のワニに適正な栄養を与えてやれるのが俺だという事は理解できた。少し纏めて包んで解りやすくしておくと…』
『……』
『君は今の生活に満足している。夫との関係においても。朝食にはモーニング/コーヒーをつける事を欠かさないし、人並みに新聞やテレビを見る。二人で映画を見に行ったり金利の交渉電話を掛けたりもする』
『同じく人並みに少しずつの秘密を持っている。例えば君の今の状況なんかもそうだ。ここまでは合っているか?』
『…概ね。続けて』
『でも…満たされないものがある。それは渇望のようなもの。心の中のワニが何時も腹を空かせている。渇いてもいる。一日のうち君は24時間以上それを感じている。一年で表現すれば365日以上それを感じている』
『そうね』
『沢山の知り合いの中で…君の言葉を直接引用するなら、君の身体を抱いた…つまりセックス相手の男性達ではその空腹も渇きも癒やせなかった』
『そしてそれを満たせるのは…何年も、ひょっとして何十年も会っていない俺以外に居ないと感じてしまった。クロワッサンを焼いている朝。唐突に』
『合格ね。369点ってとこよ』
『高得点なのかそうじゃないのかはどうでもいい。綺麗な数字で纏めて頂いた事には感謝を告げておく。…続きをもう少し。だからといって俺に何をして欲しいのか自分では解らない』
『…………』
『それを一緒に考えて欲しいと
君はそんな事を言いにきた
それが俺に手紙を書いた理由
つまり俺を誘い出した理由』
『963点だわ。有り難う』
欄干の奏者はブラックコーヒーを一口
喉を潤す最も黒い液体を一口/飲み込んだ
その溜飲音で強調される静寂時間
大きな橋桁は流速に抗いながら
物語の次頁をめくらないかと二人に問うた
月も同様の思いであるのだろう
少し目を細めてしまえばいいのに
少し肩を寄せ合えばいいのに
そんな思いで二人の肩を軽く叩く
会場に戻ることを提案する彼に
彼女は首を振る所作/細い首だった
腕時計を持っていない事は幸いだ
快適電話の電源も切っておこう
それは彼女の本気に対して失礼だ
彼女の瞳は綺麗だった
彼女の言葉も同様だった
腰骨の細さが月光に引かれ陰影を増し
煌々夜が彼女の背伸び仕草を水面に投射する
そんな夜だった
此れは霧の物語
霧の物語へようこそ
霧の物語へようこそ
心に焔を灯しましょう
歩き疲れた旅人様よ
傷の癒えない狐女共々
どうぞ此方へ/どうぞ此方へ
足元泥濘,御注意ください
戸口に注意の書きものが
三途の川ゆき六文銭
金銭時価也/朧なもの也
心由来の広い御部屋を
想像位の間口でもって
貴方に御用意致します
貴女に御用意致します
入屋の水にて身体を清め
庭に芍薬/季節の羽衣
求めのままに
求めのままに
現実賜杯の春夏秋冬
涅槃を心に宿します
無常の世渡り辛かろや
せめて一夜の夢芝居
精一杯のおもてなし
此れは霧の物語
此れは霧の物語
そんな二人を御覧あそばせ
『寒くはないかい』
『…大丈夫』
『暑くはないかい』
『…大丈夫よ』
『気になることは?』
『…ないわ。何も』
『気に病むことは?』
『…………
…………
……ないわ』
河川を住処にする生物のうち
最も長寿なものが拍手を送る
便宜上と形而上の違いを理解する者は
時が変幻自在に流れるのを見る
過去から未来へ/未来から過去へ
フランツ・カフカが涙を流す
過負荷も怠惰もない世界の中で
「魂の差異がない事は素晴らしい」と
核心を持ち真偽を審議する裁判の絵図
右手を腰骨に添えてしまえという男心
右手を腰に添えて欲しいという女心
欄干の奏者は目尻を傾げ
煌々たる月光を手に集めてみる
霧の物語へようこそ
霧の物語へようこそ
囲炉裏で是非ゝお寛ぎください
勿論/今夜のお客様は一組だけ
勿論/睦み合いに必要な分だけ
万年筆は準備万端で御座います
方眼紙は準備万端で御座います
廊下の音鳴り気になりますか
忍び返しの鎹技法で
誰も邪魔だて出来ませぬ
此処は貴方の物語
此処は貴女の物語
御部屋はどうぞお好きなように
広い畳の部屋に天窓
今宵満月/光があれば
狼煙も届かぬ沙羅双樹
着替えに少々時間を要す
霧物語の平時のコース
傷口癒やすに露天をどうぞ
時に客人/出自は何方
『もう一度…』
此れは霧の物語
『………,…………』
此れは霧の物語
『もう一度…』
刹那と永遠の仲直り
『…………,……』
重なりあう体温/鼓動
『おねがい』
呼気と吸気の差異はなく
『ワニが騒ぐかい?』
量子力学は完全なものになる
『…………,……』
誰にも文句は言わせない
『…今は…』
陰と陽がひとつになる
『……,…………』
その一瞬を刻む為に
『…大丈夫。みたい』
輪廻し/求め/生きる
欄干の奏者に聞け
男と女がその夜に何を語らい
何を求めて祈りを捧げたのかを
欄干の奏者よ聴け
『……』彼女の吐息は色即是空
『……』彼の答えは空即是色
欄干の奏者よ見ろ
初夏の口吻を求める男と女を
躰を預けあう無双原理の投射式を
背伸びなんかしなくてもいい
無理することなんかないんだ
無理に膝を折る必要もないんだ
逆も真なりとは良き図らいに候
真理の侵犯に心理は心煩を失う
霧の物語へようこそ
霧の物語へようこそ
此処は心の籠城先であり
安寧秩序を保つ唯一の場所
露天の風呂での眺めは如何
汚染の類は一切皆無
余弦を弾いた欄干奏者
語源を言葉に出来ぬのならば
訴権/閻魔に突き出しましょう
所詮,此の世の景色なんかは
午前と午後とで違うのでしょう
古典文学/歴史を辿れど
月の秘密は誰にも語れず
『…有り難う』
『良かったのか』
『………』
『………』
『…有り難う』
『こちらこそ』
霧の物語へようこそ
霧の物語へようこそ
月は何時しか消えている
元居た場所へ戻りたい
そのように語りながら
彼はそれが自然であると感じていた
彼女も同様の心持ちだった
無双原理は此処に一瞬の完成をみる
在るべきものを在るべき場所へと
彼女の心の中にワニは居なくなった
渇望は希望となり決して消えぬ気泡を残す
彼は気づくのが随分遅かった
今夜/彼女が背骨に居場所を作った事に
夜会に戻り
一応の役割を果たし
互いに目配せをすれば朝がくる
帰路につこうと車に乗りこむが
同じ景色の中,欄干の奏者はもう居ない
『……?』
臓腑の奥底に何かが潜んでいる
背骨に絡みつくように口を開け
空腹の魔獣が叫んでいる
呼吸が少し苦しいのに気づく
移植されたワニは彼のものとなり
はっきりとした気配で体内に宿る
肋間筋が酷く痛むのは何故
色即是空/空即是色
月は誰にも知られぬものとなり
欄干の奏者は次の初夏を待ちわびる
此れは霧の物語
此れは霧の物語
応援ありがとうございます!
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