流天の剣/女

境 仁論(せきゆ)

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海の玉並べ

海の玉並べ-9

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 音も光も届かない真っ暗な水の底。体内の空気がぶくぶくと抜けていく。沈んでいく意識の中で、わたしは命について考えていた。
 生き物だけじゃなく、草とか岩とか。そして今わたしを包んでいる海水にも命はある。そこにも生き物がいるからという意味ではない。それそのものが命であると、わたしは信じ切っていた。
 だってそうじゃないと、説明がつかない。わたしの生き残れた理由が、そこにあったはずだから。
 ———命には、差がある。
 そんな考え方は、殺し合いが当たり前だったあの世界のものであってほしかった。この平穏に満ちた世界は、誰もが、何もかもが命の危機に晒されることはない。
でもその代わりに、彼らは娯楽を求めてしまった。快楽を求めてしまった。生きる事が何も難しくなくなったこの世界で、人は生きる事以上の欲求を持つようになった。
だから、命には差分をつけられている。
弱者は支配者のために身体を明け渡す。有無も言えない存在は、そもそも命ですらないと判断されてしまう。
そんな凶悪な世界に慣れていく度に、命は安いものであると勘違いしそうになる。
やっぱりどこにいっても同じなのかな。どこまで行ってもわたしは、「生きて死ぬ」以上の夢を持つことはできないのかな。

眼を閉じる。これ以上何かを見ようとしても無駄だから。
抗うことも諦めてこの摂理に身体を任せる。どうせ変わらないのなら、もうどうなっても構わない———。
そう思ったら、身体が溶けていくみたいで楽な気持になれた。これはこれで、気持ちのいい末路なのかもしれない。

 ——————————天!
 暗い暗い夢に落ちていく最中に、誰かが必死に、わたしの名前を叫んでいるのが聞こえた。

「槙君、おい槙君!」
 酩酊しているのか、視界がずっとぼやけている。身体が自分のものじゃないみたいだ。何度も揺さぶられているのはわかる。でも肌の感覚がない。全身に血が通っていないみたいだった。
「起きろ槙君!」
 瀬古さんの声だ。何度も呼びかけられて何度も叩かれて、やっと意識が戻ってくる。
「……瀬古さん?」
 絞り出した声はがさついていた。何年も喉を使っていなかったみたいだった。
「僕の顔がわかるかい」
「はい、まあ……」
 視界がはっきりしてくると同時に状況もわかった。どうやら砂浜のど真ん中で一人ぶっ倒れていたらしい。
「全く。急にいなくなったと思ったら外に出ていたとは。よほど天ちゃんのことが心配なんだね」
「それは、当たり前ですよ」
「……僕も同じだ。でも君のことも心配していたんだぞ。外を探すなら一言言ってくれてもよかったのに。どうして一人で向かったんだい?」
「……それは」
 すぐに答えを出せない。確かにあの時、砂浜に行くと言っておけばよかったのに。どうしてバレたらいけないなんて思ったんだろう。
「……わからないのかい?」
「……」
「なるほどね。随分と天ちゃんに入れ込んだらしい。自分の手で助けなきゃとでも思ったのかな」
 まるで俺が天に執着しているみたいな言い方。
「そんな顔するなよ槙君。君は自分の思っている以上に天を大切にしているし、自分の命を秤にかけていない。結構危なっかしいぞ?」
 自覚していなかった。天のことは確かに心配していたけど、身を粉にするほどまでとは思いもしなかった。
「とにかく宿に戻ろう。ほら、立てるかい」
「はい……俺、どれくらいここで?」
「さあ。今さっき見つけたところだからねえ。今はちょうど正午だよ」
 瀬古さんの手を借りながら宿に戻って行く。その間、意識が消える前に何が起こったのかを思い出そうとしていた。
 必死に天を。天の手がかりになるものを探していた。その途中で叫んだ。海に向かって、自分を連れて行けと。
 そのとき、海の中から巨大な何かが出てきて……そこからの記憶がない。でもあれは、まさしく昨日の夜に見たあの絵画を彷彿とさせるものだった。

「槙君、君はもう帰りなさい」
 宿に戻り、部屋に向かっている途中で急にそんなことを切り出された。
「そんなわけにはいきませんよ。第一、天はどうするんですか」
「僕がなんとかするさ。これ以上君に無茶はさせられないからね」
 無茶をさせたことのある人が何を言ってるんだとツッコミたくなったが抑えた。
「ともかくだ。宿から更に百メートル行ったところにバス停がある。お金渡すからもう帰りなさい」
「納得できません。天を助けるまで俺も……!」
「君にそこまでする義務はないぞ」
 冷たく低い声で返される。先の事件で、真剣に相手と話をしていたときの瀬古さんだった。
「天はうちの働き手である前に僕が預かった子だ。彼女を助けるべきなのはむしろ僕の方だ。対して君は最近知り合ったばかり。そんな子に、命を捨てられるほどの責務を背負わせるわけにはいかないな」
「言いたいことはわかりますけど、でも……!」
「君、さっきからおかしいぞ」
 突き放される。瀬古さんは穿った目で自分を見ている。
「何に拘ってるんだ。君に何か、状況を打破できるほどの特別な力があるのか? ないだろう」
「……ありますよ。少しは役に立てる力はあるはず。だから瀬古さんは俺を誘ったんでしょ」
「自惚れるな」
 その一言で時が止まったような感覚に陥る。
「君に求めていたのは正確に記録する力だ。それ以上のものは何も期待していない」
 唖然とする。戦力外だと通告された。
 確かにそうだ。その通りだ。今の俺にできることは何もない。わかってはいた。でもいざそれを口にされると、悔しい。無力な自分が、あまりにも悔しい。
「言い訳はこれ以上聞かない。君をバス停まで連れていく。バスに乗るまでずっと見ているからな」
 部屋に到着するなり荷物を渡されて腕を引っ張られる。
「ちょっと待ってください瀬古さん!」
 抗議しようにも瀬古さんは足を止めない。そのまま外に連れ出され、バス停に放り出される。言った通り、瀬古さんはバスが来るまでずっと俺を見続けていたのだった。

 定刻通りにバスが来た。押される形で乗せられる。
「瀬古さん待って……!」
 瀬古さんは何も言わない。降りようとしても瀬古さんが壁になって一向に進めない。
 ドアから離れてくださいというアナウンスで一瞬我に返り、大人しく従ってしまう。そのままドアは閉じられ、すぐにバスは発車してしまった。
 地域が地域で季節も季節。他の乗客は誰もいない。IⅭカードをかざす設備もなく、慌てて整理券を引っ張った。仕方なく適当な席に座る。
「……くそ」
 何もさせてくれないことへの怒り。そして何もできない虚しさを抱えて項垂れる。窓から建物が流れて消えていくのが見える。段々と、天の元から離れていく。何も為せないまま、俺はいなくなってしまう。
 天を助けるためにできることは絶対にあったはずなのにと何度も自省するが、君には何もできないという瀬古さんの言葉がずっと胸の中で反響していた。事実だ。本当のことだ。俺は天ほど強くはないし、きっと瀬古さんよりも優れているわけではない。でも。それでも走っていないと耐えられなかった。自分の足で何かを為さないと、我慢ならなかったんだ。自分が無力であることを、自覚したくなかったんだ。
 情けない。何もできないのに何かしようと粋がって、それで結局何もできなくて、こうして今帰されている。本当に情けない。何度も心の中で自分を罵った。額の皮を赤くなるまでつまんだ。車内に誰もいないのが唯一の救いだった。
 
 頭の中で反芻する。俺に求められたのは、記録する力だけ。俺にできるのは、見たものをそのまま記すことだけ。
 天みたいには戦えない。それなら戦えないなりに、自分に認められたこの力を活用するだけだ。
 考えろ。俺の、正確に記録するだけの力はどうやって活用できる?
 手帳を開く。どんなに苦しい状況でも。どんなに忙しくても。俺はやっぱり無意識に今までのことを記していた。
 なんて諦めの悪い。時間も経ってほとぼりが冷めたと思いきや、まだ自分にできることを模索している。ページを何度も往復しては考えている。
 神様のことを調べる。あまりに、規模がデカすぎる。脳裏にあの絵画が思い浮かぶ。そして、朝に見た黒いもの。そして……
「ぐっ……あ、は……?」
 記載した覚えのない頁。走り書きしたようなメモがある。人が深海に引きずり込まれて潰れるまでの感触が書かれている。それを見た途端に頭痛がした。
メモの最後には記録した時間が。深夜の三時。
「……夢、か」
 無意識な記録癖はここまで来ていたらしい。どうやら俺は夢で見たものを忘れる前に記録していたみたいだった。
 恐らく神様に連れ去られた人の夢だ。でもなぜ? 絵画を見た恐怖がそのまま夢に? いや……。
 罪人は海に連れていかれる。———俺は死人である天を連れてきた。
 気を失う前に見た、黒い柱。———絵画にあった黒い柱。
 俺は十分に罪人となる条件を満たしている。神様に狙われてもおかしくない。
 本当に、本当に夢想的であまりに論理がなっていない推測だが、あの夢はサインだったのかもしれない。本当に神様に連れ去られた誰かのイメージが、既に神様に狙われていた俺に届いたのかもしれない。本当にわけのわからない話で信用するのもどうかと思うが!
 じゃあ天はどうやって助ける? 連れ去られた人を、どうやって連れ戻す?
 天が最初から死人であったことを考える。神にとって死人が住処にあること自体が怒りの原因となる。
 ……天は剣を持っているときだけは生きていられる。生きた状態で入ったとしても怒りは買わないはずでは? いや、剣に生かされているということは、こういう風にも考えられるかもしれない。天の身体は人形みたいなもの。天は生と死が常に同居している存在。
 記録を読み返しながら気になることがあった。どうして剣だけを消したのだろう。
 神様のことを改めて思い返す。神は死人を置いた要因を連れていく。絵画を思い出す。黒いものに引っ張られていたのは、みんな人だ。
 人を殺めた要因を連れ去るなら、銃とかの武器だけを持って行ってもいいはずだ。でも絵画にはそのような描写がされていなかった。
 なぜ神は、剣という武器だけを持っていった?
 天と剣の関係性。
 天は剣を大事にしていた。まるで、家族かのように。
“それが近衛さんの、家族”
 俺の手帳を見たとき、天はそう言った。
“この土も、あの水の流れも、風も。みんなに命はある。”
 天は景色を見ながらそう言った。無機物に対して、命があると答えた。その考えのルーツが今までの環境にあったと考える。家族に影響されたものとも考えてみる。
 佐々木迷宮の事件のページまで戻しつつ剣のことを更によく考える。
 天は戦う際、剣を抜いているときにだけ人が変わっていた。
「……まさか」
 神は、生きている罪人を連れ去る。
 なら天の剣も、生きている———?
 
 もう一つ疑問があった。天と砂浜にいた俺も確かに神であろう黒いものを見た。それなのになぜ俺は連れていかれなかったのか。
 それは。死人の天を動かし続けていた直接的な要因はあの剣にあったからで、俺自身には罪はないと判断されたからだ。
「……それが、わかったところで」
 わかったところでどうするんだ。連れていかれた原因を考えたところで、連れ戻す算段はちっともついていない。どうする? 天に剣を戻すには。
「……」
 俺が、直接取りに行けば。

 バスに乗り始めて二時間が経った。着いたバス停で降りて、反対方向にあるバス停を見つける。そこで次のバスの時間を探すが、どうやら夕方の五時になるらしい。時間は今三時。待っていられない。タクシーを呼ぼうかとも思ったが場所が場所。ここはそもそも山道で圏外だ。なんてところにバス停があるんだそもそも降りるやつがいるのかと思いつつ、反対方向の道を走り始める。あの海に戻る。俺を神に連れて行かせる。
 瀬古さんも同じことを考えていたのかもしれない。瀬古さんは天と剣の関係を俺以上に知っていたはずだ。だから俺と同じ、もしくはそれ以上の手段を持って解決するつもりだったのかもしれない。
 でも内心、あの人を信用できるわけないだろという我がままな気持ちが生まれていた。あんなおっさんに天を任せるくらいなら、俺がやった方がいい!
それに、別に着いたとき何もかもが解決していてもいいんだ。今こうして走っているのは自分の判断を後悔したくないから。言ってしまえば、やらないよりやって後悔しろ! とかいうやつなんだ。そのためだけに今必死に走っている。何時間かかろうとも、手足がバカになったとしても絶対に辿り着く。
それに、俄然興味が湧いたのだ。天の真相に。どうして瀬古さんは教えてくれなかったんだ? ひょっとしたら俺を、ただの記録ロボットとしてしか見ていないんじゃないのか。残念ながらそれは違う。俺が高校新聞部で好きに記者をやっているのは、興味関心が尽きないからだ!
俺はもっと、天を知りたい。俺とは全く違う生き方をしてきた彼女を知りたい。彼女の見てきた世界を、そうして培ってきた価値観を。
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