普通に、普通で、普通の

森 千織

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水曜日のきみ

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 ぬるいシャワーで身体を冷やして、額を流れる水滴を拭いながら、部屋に戻る。照明を落とした部屋の真ん中、寝乱れたベッドの上で、嘉大があぐらをかいていた。もちろん、裸のままだ。白い身体に情事の名残の、赤い痕を散らしている。
「浩平さんって、水曜日の人?」
 ホテルに備え付けの冷蔵庫から出したペットボトルを弄びながら、嘉大が言う。他所では見たことのない、シンプルなラベルのミネラルウォーターだ。事を終えて、俺がベッドを出たときには眠そうな顔をしていたけれど、もうすっかり目が覚めた顔をしている。煙草をくわえて、火をつける。口元の赤い光の向こうで、嘉大の白い身体がくっきりと見えた。
「じゃあ、水曜日は、浩平さんの日ね」
 ペットボトルの水を一口飲んで、嘉大は、すっと口角を上げた。濡れた唇が、弱い灯りを反射して光る。もの言いたげな目に、どきりと心臓が鳴る。裏返りそうな声を咳払いでごまかして、「それはどうも」と返した。きれいな顔の思わせぶりな笑顔ってのは、いいな。いざ対峙すると、どうしたらいいか分からなくなるけど。
 嘉大は、しばらく表情を変えずに俺を見ていた。ふと息を吐いて、ベッドに寝転んだ。隠すつもりもなさそうな裸体が、シーツの上に晒される。随分と、自分の身体に自信があるんだな。まあ、あってしかるべききれいな身体だ。毎度寝るたびに見ているけれど、少しも飽きない。抱いているよりも、こうやって、嘉大を眺めている時間の方が長いかもしれない。ベッドから出ると、さっきまであれだけ乱れていたとは思えないくらい、嘉大はきれいだ。人間味がないとでも言うか、こんなきれいなものに触ってもいいのかと、怖くなるくらいに。
 ソファに座って、ゆっくり煙草を吸う。嘉大は、ベッドでうつぶせて携帯をいじっている。浮き出た肩甲骨と、その周りに配置された筋肉の流れが、弱い蛍光灯の光を反射する。嘉大は、ほとんど毎日フロイデに来ているらしい。何歳なのか、昼間は何をしているのか、興味もないし詮索するつもりもないけど、変なやつだなとは思う。
 フロイデは、かなり昔からある店らしく、常連も半可通なやつではない。筋金入りのゲイと言うかなんと言うか、社会的な地位があるやつも多くて、聞いたところによると医者とか弁護士とか、どっかの会社の社長もざらにいるらしい。そうして、その全員と嘉大は寝ている。フロイデに行き夕飯を食べ、ちょうどその日に居合わせた男と寝る。並みいる列強の間を裂いて、水曜に俺が食い込むことに居心地の悪さを感じないこともないけれど、まあ、悪くはない。



 短くなった煙草の最後の一息を吐いて、ガラスの灰皿で火を消した。そうして、床に落としたままのTシャツを拾い上げる。生地の薄いTシャツの広い袖口に、そろそろと腕を通した。シャワーで冷やして濡れたまま放っておいたけれど、真っ赤に焼けた肌には、ほんの少しの布のずれでも痛かった。
「浩平さん、すっごい焼けたよね」
 思わず「いてェ」と上げた声に、嘉大がうつ伏せのまま笑う。俺は袖を直して、肘の少し上にある日焼けの境目を撫でた。もともと色白な方じゃないけど、薄暗闇でも分かるくらい、くっきりと痕がついていた。日焼けと言うより、やけどだ。ベッドの上で嘉大に触られて、とっさに腕を振り払ってしまったくらいには痛かった。それ以上に、目をぱちくりさせて、事情を察して大笑いした嘉大の顔が、びっくりするくらいかわいかった。
「外で、なんかしたの? 浩平さんの仕事って、外仕事?」
「そういうんじゃないけど……、まあ、似たような」
 ちょっとな、と濁して答えると、嘉大は「ふうん」とだけ言って、それ以上、食い下がってはこなかった。本当は、体育祭だ。ゴールデンウィークが明けたばかりの土曜日は、バカがつくくらいの快晴だった。子供らの熱中症防止のためにそこら中にテントを立てていたけれど、先生が、その下でじっとしていられるわけがない。最初はいつものようにジャージを着ていたけれど、あまりに暑くて、早々に脱いでしまった。部活指導のときも着ている五分袖の野球用アンダーの痕が、腕と首筋にくっきりと残っている。ついでに、下は七分丈のジャージとスニーカーソックス。左手首には、腕時計の太いバンドの痕も。あの日の俺の服装を見るように日焼け痕をなぞる目が、俺の顔に戻ってくる。目が合うと、嘉大はふふと笑った。
「日焼け止め、塗った方がいいよ」
「塗って、これだよ」
「汗かくと流れちゃうからね、ちょくちょく、塗りなおさないといけないんだよ」
「仕事中に、そんな暇ねぇんだって」
「ふうん、大変だねぇ」
 半ばバカにするように、嘉大はくすくす笑う。大人のような、子供のような顔。ひとしきり笑うと、ふあと大きなあくびをした。骨の形がよく分かる背中が、ゆっくりと上下する。今度こそ本当に眠くなってきたみたいで、嘉大は、床に落ちていた掛布団を引っ張り上げた。ばさりと被り、もぞもぞと寝がえりを繰り返して、一番いい具合になる姿勢を探している。ああ、今日はこれで終わりだ。時計も、もう日付が変わる。明日も、いつも通り五時起きだ。それまでには、この日焼けも少しはマシになっているといいけど。



 服を着て、小さい鞄を肩にかける。ホテル代をテーブルに乗せて、財布をしまう。余計には、もう出さない。二度目に寝たときに、嘉大が、かなり本気で嫌がったから。
「浩平さん、またね」
 嘉大の声が、俺を追う。振り向くと、布団にくるまった嘉大が、顔だけ出してこっちを見ていた。巣ごもりする動物みたいな、年齢不相応の暴力的なかわいさに、ぐっと喉が詰まる。なんだ、こいつは。かわいいかきれいか、どっちかにしろ。白くて大きい、中身のほとんど入っていない枕を抱きしめて、嘉大は俺を見上げている。上目遣いの目の淵で、濃いまつ毛がぱさりと音を立てる。まるで恋でもしているかのように、頬がじわりと熱くなる。
「ま、気が向いたらな」
 実質イエスでしかない言葉に、嘉大は、顔を上げてぱっと笑った。裏なんて少しもなさそうな笑顔に、こいつ、本当は俺のことが好きなんじゃないか、なんて、勘違いしそうになる。まあ、でも、いいか。水曜の夜の数時間だけ、自分が誰かに好かれているような勘違いをしたって、罰も当たらないだろう。
 ベッドに寄って、髪に触れる。嘉大の笑顔は、昼間の仕事で見る子供らの笑顔より、何倍も明るかった。
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