普通に、普通で、普通の

森 千織

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さしも知らじな

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 重い扉を押し開く。からんころんと、鐘が鳴る。
「いらっしゃい」
 響いた小さな声に、ため息で返す。扉より、気の方がずっと重い。週に一度の水曜日、せっかくの夜なのに、仕事に行くより憂鬱だ。間接照明の薄暗い店、ジャズアレンジのBGM、それほど濃くはない酒と煙草のにおい。その全部が、今の俺にはきんきん痛い。
「あっ、来た来た、長谷川先生~」
 お前、ふざけんな。開口一番、なに巨大な爆弾、ぶち込んでくれてんだ。
 ひどく明るい、嘉大の声が響く。嘉大は一番手前のテーブル席に、一人で座っていた。オーバーサイズの白いシャツの裾を翻すように、くるりと振り向く。いつものように、笑顔がきらきらとまぶしい。だけど、太陽が目の前に落ちてきたところで煩わしいだけだ。俺は、目を細めて首を振った。 
 本当なら、大声で叫んで、嘉大の声をかき消したかった。お前、空気読めよ。いくらお上品な店とは言え、ここは発展場のど真ん中だ。そんな場所で、よくも職業と苗字を暴露してくれたな。ただでさえ、俺はこの店の客から、嘉大のお気に入りとして認識されている。嘉大はこの店の全員から、常に視線を注がれている人間だ。
 だから、俺がすることは一つ。
「出るぞ」
 嘉大の靴のかかとがこつりと鳴った。白と黒の、また見たことのない靴を履いている。お前のそういう服とか靴って、この前一緒にいたみたいな男に買ってもらってんの? それ、いくらすんの? そんなどうでもいい疑問は口に出さず、目の前に立った、嘉大の手を掴む。「え」と声を漏らした嘉大の顔を見ず、俺はそのまま踵を返した。押し開けたドアの上で、また鐘が鳴る。からん、ころん。煩わしい。
 フロイデで、嘉大と話なんかできない。周りに人がいる場所で、嘉大と言葉を交わしたくない。どこか、誰もいない場所はないか。どんな話をしても、誰の耳にも触れない場所。だけど、まだ夜には早い時間。寂びれた繁華街の平日の夜でもそれなりに人が歩いていて、誰もいない場所なんかない。
 結局、たどり着いたのは、嘉大と何度も使ったホテルだった。フロントなんていう無粋なものはなくて、空いた部屋に、勝手に入れるラブホテル。非常口みたいな簡素なドアをくぐるまで、俺は一言も声を出さなかった。嘉大はやかましいくらいに「え?」「なに?」「どこいくの?」と、色々な声を上げていたけれど、俺は返事をしなかった。
 べたりとした味気ない蛍光灯が照らす部屋、目の前には、大きなベッド。ベッドにぐるりと背を向けて振り向くと、嘉大の後ろでドアが閉まった。嘉大は足を止めて、大きな目を瞬かせる。きょとんという擬態語がぴったりの顔が、オレを見上げていた。バカ野郎と叫びたい喉を抑えて、俺は一つ咳払いをする。
「もう、会わねえから」
 嘉大が、ぽかんと口を開けた。なんだ、その顔。「なんで?」と聞く声まで、ひどく間抜けだ。なんでじゃねぇよ、当たり前だろ。子供みたいな、セックスのセの字も知らないような顔しやがって。ため息を吐いて、それ以上は何も出さないように、俺は淡々と言葉を吐く。
「お前に、仕事がバレたからだよ」
「えっ、そんなことで?」
「そんなことって、なんだよ」
 喉の奥で、空気が渦を巻く。
「俺にとっちゃ、大問題だぞ」
 思わず上げた声が、ひどく大きな声で響いてしまう。話をするために作られたわけではない部屋で、嘉大が、また目を丸くした。
「あ、ああ、さっきの? ごめん、アレはふざけすぎた。もう、しないから」
 嘉大は慌てて、だけど、まるで駄々をこねる子供を慰めるような声で言った。気を使ったようなその声が、余計に人の神経を逆なですることを知らないらしい。大きく舌を打ってしまってから、俺は頭をばりばりと掻いた。頬が、じりじりと熱い。爪が引っ掻く頭の皮より、喉の奥に渦巻く熱の方が痛い。「決めてんだよ」と、答えた声がかすれる。
「俺のこと、先生だって知ってるやつとは、寝ない」
 大学を出て、先生になって、最初に決めた。俺にとって一番大切なのは、まともな生活をすることだ。まともな仕事をして、まともに稼いで、一人で立派な生活をする。血反吐を吐く思いでようやく就いたこの仕事を、万に一つも失うわけにはいかない。中学校教諭が同性愛者だという時点で、それなりに話題になってしまう。くわえて日々発展場に通って、行きずりの相手と寝ている。こんなことが知れたら、速攻クビとまではいかないかもしれないけど、一部のクレーマー的な保護者に目をつけられたら大変なことになる。もしかしたら、職を失うかもしれない。そんなリスクは、たったの一つも残したくない。だから、嘉大とはもう会わない。この街にはもう来ない。たったそれだけの話だ。
 嘉大が、またぽかんと口を開ける。少しも理解できないという顔だ。そりゃあ、お前にはそうなんだろうな。きっと何も考えず、愛されるまま誰とでも寝ている、お前には。
「だから、もう会わない」
 嘉大の細い眉が震えた。開かれた目が瑞々しく潤んで、長いまつ毛が、頬に影を落とす。ちかりと瞬く蛍光灯の光が反射する頬が、白い。
「やだよ、オレ」
 薄い唇が、ふるりと震える。そんな場合じゃないけれど、本当に綺麗な顔だと思う。神に愛された顔、とでも言えばいいのだろうか。とにかく、綺麗だとしか言えない。だけど、と思う。嘉大と似たような顔立ちの人間は、案外そこらじゅうに存在している。具体的にいうと、学年に五、六人はいる、頭の良すぎるバカの顔だ。空気が読めなくて、人の気持ちが分からずに、人間関係がうまくいかない。悪気なく人を傷つけて、マイペースで、トラブルの真ん中にいるのに本人は全然気づかない。自分のルールやこだわりがあって、そこから絶対に外れようとしない人間だ。程度によっては「障害」と呼ばれるそういう人間を、学校の先生であるところの俺はよく知っている。日本人離れした彫りの深い骨格に、ぱっちりとした大きな目は瞬きが少ない。表情が乏しいせいか皺が少なく、肌が妙に綺麗だ。醸し出す独特の雰囲気が、不気味に映るか魅力的に見えるかは人それぞれで、周囲の環境によるとしか言えない。発展場の姫になった嘉大は、かなり運がよかったんだろう。同級生にいたら絶対にいじめられるし、同僚だったら、絶対嫌だ。
「フロイデにも、もう行かないから」
「どうして?」
「お前が、大声で先生とか言ったからだろ」
「あ、ああ……、だから、それは、ごめんって……」 
 悪いことをした、とは、一応思っているみたいだ。困ったように泳ぐ目の、目尻が薄赤く染まっている。体温が上がって、紅潮しているときと同じ色だ。少しだけどきりとするけれど、だからなんだということはない。
 息を吐いて、「じゃあ帰るから」というと、まるですがるような目が俺を追う。
「ちょっと、待ってよ浩平さん! ほんとに? ほんとに、もう終わり?」
「終わり」
「あっ、分かった! 携帯教えてよ、店に来なくても会えるでしょ」
「だから、もう、お前とは会わないんだって」
 バカか。こいつはどこまでバカなんだ。すがってきた手を振り払うのも面倒で、また、ため息を吐く。やっぱり、同じやつと何度も寝るのはだめだ。情が移るっていうんじゃないけど、面倒くさいことになる。四月に会って、今は七月の末。両手の指で数えきれないほど、一人と寝たのは初めてだ。俺は嘉大のことをそれなりに気に入っているし、これだけ回数を重ねるってことは嘉大もそうなんだろう。だけど、だからってどうということもない。ここまでだ。
 嘉大の哀れっぽい「なんでェ?」に、ばさりと「なんでも」と返し、ドアを背にする嘉大を押しのける。部屋代として、財布から出した五千円をドアの脇のサイドボードに置いて、俺はドアを押し開く。
「浩平さん!」
 今にも泣きそうな嘉大の声に、喉が少しだけちくりとする。だけど、もう、どうでもよかった。
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