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宮野 悠二

目覚め

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 ああ、なにもわからない…。
 手が動かない。
 足が動かない。
 とてつもなく…疲れ果てたような感覚が僕を襲う。そもそも、その疲れたという感覚もわからないくらいに、なにも感じない。
 これは本当に僕の身体なのか?
 こんなにも違和感を感じているなんて…。
 そしてそのまま朝が来て、夜が来て…これでもう3日目だ。
 意識はある。昼夜がわかるのは、ここが屋外だからだ。
 感覚はない。朝も夜も、暑くも寒くもない。
 見えていたのは、流れていく雲と、目の端に映る木造の屋根。
 きっと僕はどこかの空き地で仰向けに転がって、そうして天を仰いだままこうして3日間、動いていないんだろう。
 どうしてだろう?誰かが通ったりはしないのか?3日間過ごしてきて、眼球すらうごかせない僕はこの空と朽ちた木造の屋根以外になにもみていない。
 僕の上に被さる、人や野良猫の影や、流れていく雲に混ざる鳥たちなど、その類の「生きた物」は一度も見てはいない。
 どうしてだろう。
 もしかしてここはとんでもなく人通りの少ない場所で…いや、それならばきっとまだ鳥たちくらいはいるだろう。とくにそういった人のいない場所には動物たちはよくいるものだ。
 では一体この生物のいない空間はなんなのか…。
 ……夢?
 夢、夢、夢…ああ、夢…なのか?
 だからこそなのか、身体が動かない、なにも感じない、誰一人いない…全てに説明がつくじゃあないか。
 夢は全ての可能性を持っている。ああ、確かに夢の中で3日間なんて、ただ太陽が沈み、また昇り、その繰り返しが3回ほど起こっただけじゃあないか。果たしてその作業に24時間が経過していたかすらもわからないくらいだ。なにも感じていない時に時間の感覚などわかるはずがない。
 なんだ、なんだ、夢か、夢だったのか…。
 そう思うと、少しばかり安堵した。 しかしふと気づく。
 夢ならば、いつ覚めるのだ。
 僕はまだ知らなかった。このなにもない、なにも感じない世界の意味を。

 どれくらいの時間が経ったのか、全くわからない。空腹感もなければ、身体には未だ全くの感覚も戻らない。
 太陽が昇り、沈む回数は、もう数えるのをやめた。
 永劫に続くようなこの世界に、僕は一つの可能性を考えた。
 僕は、死んだのかもしれない。
 思い返してみれば、僕はこの朽ちた木造の屋根には見覚えがあった。
 知らないわけがないのだ。この屋根は、僕の家の、僕の部屋の屋根なのだ。ということは、ここは僕の家の隣の空き地ということか?
 死んだということは、この場所が死に場所…。この場所に転がっているということは、転落でもしたのだろうか?
 少しずつ状況が飲み込めてきた。だが、全ては推測にすぎない。そもそも死後の世界なんて、もっと夢に溢れたものかと思っていた。まさか死んだ場所から身体一つうごかせないだなんて、想像すらできなかった。
しかし、どうしてだろう。僕はなんの感覚もないこの場所で、心を失ってしまったのだろうか。
 自分が死んでいると想像してなお、その感情は冷静だった。
 きっと心拍数が感じられないからなのだろうか。自身のもともとの性格すらももうわからなくなっている。 僕はもともとドライだったのだろうか。
 まあ、そんなことはどうでもいいか。どうせ死んだのだし…。というか、僕はいつまでこのままなんだ?神様ってのがいるんなら僕は違う生き物かなんかにでもなるんじゃないのか?それともずっとこの雲でも見てろっていうのか?ああ、全くもって死というのはこんなにも退屈なものだったんだなあ。
 まあ、暇つぶしにでも僕が死んだ原因を推測してみようか。

 まず、僕が思い出せる範囲のことを思い出してみよう。
 名前は…流石に憶えてるな。
 宮野 悠二(ミヤノ ユウジ)高校二年生。進路はまだ決めてない。学力はそこそこ。全くもって平凡で面白みのないやつだ。しかし自分自身の性格はあまり憶えていない。
人当たりはよかったか?ここは結構重要だ。人の恨みを買っていれば他殺の可能性もあり得る。いや、どうだろ。単に間抜けで窓の下を見ようとしたら滑って落ちた、とかさ。そんなだろ、どうせ。
 …他殺…ねえ。
  僕がそんな風に自分の死の原因について考えてみると、なにも変化のなかった世界に変化が現れる。
 …目が…動く?
 眼球だけが感覚を取り戻した。
 ようやくの自由に僕は少しばかり歓喜し、周りの景色を眺めようとした。
 瞬間、その眼球が動いたことを後悔した。
 ここは確かに僕の家の隣の空き家だった、が、なぜこんなにも朽ちている?
 屋根はわかっていた。そんなに見ていたものではないし、こんなものだったろうと思っていた。だが、僕の部屋の窓、そこには明らかに異様に蔦が這っていた。
 ガラスにもヒビが入り、薄く苔が生えている。窓の奥、部屋の中からは長く伸びた草が顔を出している。
 あれから、どれほどの時が経った?
 この家に侵食した植物は、文明の触れていない時の流れを教えてくれるかもしれない。これほどまでに植物に侵食されている僕の部屋は、一年やそこらで形成されたものではないように見える。軽く100年、200年は経っているんじゃないか…。
 そしてついその窓から目を落とし、隣の地面を見つめる。
 いや、ここはどうやら地面じゃなかったようだ。
 隣にいたのは、人だった。鳥だった。猫だった。犬だった。どれも、生きてはいなかった。
 それらが積み重なり形成された肉の床、それが僕のまわりには満ちていた。

 世界は、どうなったのか?今の僕には驚愕の感情すら湧かないらしい。それほどまでに異様な光景を目の当たりにして、焦りや不安も湧いてはこない。心臓や汗腺が働かないのだから、鼓動が速まったり、冷や汗をかいたりしない。だから驚いていないのだと錯覚しているのかもしれない。
 ただ、少しの興味が湧いた。不思議なことに全ての感情の中から、ある一定の感情は働きを取り戻してきた。
 目が動くことが何より不思議だ。感情以外を動かすことができている。
 そのきっかけは、思い出したことだった。そう思う。
 今はまだほとんど体は動かないが、しかしいつかは全ての僕を動かせるに違いない。そしてきっと、僕にはまだ、思い出せていないことがある。
 思い出すんだ。それで世界が変えられるのかはわからないが。

 2025年、8月25日。僕の誕生日だ。紛れもなく真実だと感じられる記憶を思い出せた。名前の時もそうだった。思い出そうとすると、まるで知っていたかのように頭に浮かんでくる。意識していない時にはまったく思考の内を散らつかないくせして。
 それから高校2年生であるから、17歳くらいで、つまりは今は、いや、記憶のあった時は2042年くらいなのだろうか。
 それから記憶がないので、それ以降のことは思い出しようもないだろう。
 今の僕の思考は、少なくとも高校2年生のそれに違いないのだ。
 そこまで思い出して、ようやく違和感に気付く。首を動かせるようになったのだ。ただ、やはりそれから下はちっとも動かない。しかしこれでようやくこの世界のことを少しずつ知ることができる。
 そうして、思い出すことで身体が解放されるという仮説も成り立ったことになる。場合によっては偶然かもしれないが、少しそれはできすぎている。何日経っても思い出そうとしなかったままでは、なにも変わらなかったのだから。
 納得した僕は、また何の焦りもなく、ゆっくりと辺りを見回した。

 納得した。そして、思い出させられることになった。この世界の惨状を。
 目の端に見えていた肉の床は、辺り一面に広がっていた。不思議なことにどれも腐敗はしていなかった。全ての生物がこうなったのなら、腐敗させる微生物すら動いていないからか、それだけにしても少し不可解だ。まるで何かの呪いのように、それはあまりにグロテスクに鮮やかな肉の色を浮かべていた。
 そしてその光景は、僕に思い出させた。世界の終わりの日のことを。

2042年8月。誕生日を翌週に控えた僕は、柄にもなく少し浮かれていた。高校2年にもなって誕生日ぐらいで浮かれている、だなんて単純なことじゃない。誕生日には、僕の彼女が祝ってくれる約束をしてくれていたのだ。
 彼女の名は山里 明菜。高校2年の春、クラス替えで知り合って、意気投合した子だ。あっちから告白してきたので晴れてカップル成立ということだ。そうしてこの明菜が、僕の初めての彼女だった。
 その彼女が祝ってくれるだなんて言うのだから、男の僕としては、強く期待してしまっていた。
 きっと当日は、人生最高の日になるに違いない。
 そう思った。しかし、その日は、人生最悪の、いや、人類最悪の日、だった。

8月25日。僕の誕生日。そして、あいつらの誕生日。
 朝から僕の携帯電話やテレビが悲鳴をあげていた。
 明菜との待ち合わせに遅れると思いながら、少し不機嫌にその警報の内容を確認しようとする。
 すると、途端にテレビの電源は切れた。携帯も画面が表示されなくなった。
 待ち合わせに遅れそうなのと、高価な電子機器の電源が入らなくなったことに焦る。どうせ暑さのせいだろう。そう思って僕は明菜のもとへ向かった。
 今日はやけに人が多い。

 約束の場所、近所のショップモールに彼女はいた。少しフラフラしている。
 待たせちゃったかな、そう思い、自転車を押して駆け足で近づく。
 明菜———呼びかけて、気がついた。これは、明菜ではない。明菜によく似た何かだ。こちらを振り向いたソレは、はにかみながら近づいてきた。やはり違う。明菜はこんな風には笑わない。
 僕はすぐに自転車に飛び乗り、ソレから逃げた。はにかんだ顔は次第に裂けてゆき、刃のように鋭くなったソレの顔…だったもの…は僕のいた場所を切り裂いた。それから元に戻った顔は可愛らしい顔に似つかわしくないおぞましい声で僕を追いかけてきた。彼らに僕らと共通の言語はないらしく、その叫び声を聞き取ることはできなかった。
 あいつの追いかけてくるスピードは速くはなく、自転車で簡単に逃げることができた。しかし刹那、気づいてしまう。逃走中にすれ違った者たちは悲鳴の一つも上げてはいなかった。すでに僕は、あいつらに囲まれていたんだ。

 どこか逃げる場所はないか、必死で探す。初めての恋人は変わり果てた姿になってしまった。きっともう二度と、彼女の笑顔を、本当の笑顔を見ることはできないだろう。自転車のハンドルを握る手に、涙が滴り落ちる。
 僕は、何もかも、どうでもよくなり始めていた。明菜がいない今、僕は誰を頼ればいいのだろう。家族は無事だろうか、きっとそうじゃない。学校だって今頃は、あいつらの巣窟と化しているだろう。
 ……もう、どうにもなりはしない。
 あいつらの嫌なところは、その人物に成り代わることだ。明菜を奪われた。その事実だけでも、僕を追い詰めるには十分だった。
 …帰ろう。そうして、死でもなんでも受け容れよう…。ああ…でも…体を奪ったあと、あいつらはなにをするんだろうな…。気になりはするのだが…死んでしまえばまた…明菜に会えるかもしれないな…。

 考えているうちに、僕は家に着いていた。まるで誰かに操られるように、ふらふらと自室へと入っていく。6月に撮った、人生初の彼女とのプリクラ。写真の中の明菜は笑っていた。やっぱりあんな笑顔じゃない。僕はまた、涙を流した。受け容れられるはずがない…。今日は僕の誕生日なんだ…。明菜が祝福してくれるはずなんだ…。悪い夢なんだろう…?もういいからさ、十分怖いからさ…夢なら、醒めてくれよ…。どれだけ嘆いても、なにも変わりはしない。そんな無慈悲な現実は、僕にさらなる絶望を叩きつける。

 玄関の扉が開いた。というか、本来開くはずのない場所が二つに裂かれた。
 明菜だ。いや、明菜…だったものだ。
 やっぱりかわいいな、笑い方は違うのだけど、最期にこの顔を見られただけでも、明菜の身体に殺されるだけでも、幸せだった気がす……
 その時、明菜の顔が再び裂け、僕の身体を引き裂こうと、その鋭利な顔だったものを伸ばす。
 僕の脳裏に明菜の笑顔がちらついた。
 思えば明菜は、自分の身体にだけは、僕を殺してほしくないんじゃないか?…きっとそうだ。もし僕がその立場なら、明菜を殺してほしくはない。それならば、考えることは一つだ。この窓から飛び降りる。それしかもう道はない。逃げる場所などない。僕はもう、どうやって死ぬかを考えることしかできない。ただ、飛び降りた方が、明菜に殺されるよりはずっとマシだ。
 眼下には沢山のあいつらがいる。もはや、落ちて助かるなんて確率は微塵もないだろう。
 僕は意を決して、飛び降りた。
 落下中に、不可思議な光景を目にする。あいつらの様子がおかしいのだ。ぶるぶると震え、低く唸っている。
 直後、あいつらは皆、一斉に弾け飛んだ。あたりが肉色に染まる。それに驚いた僕は、落下のショックも忘れ、それから何もわからなくなった。

 あの時何が起きたのか。僕は飛び降りる必要はなかったのか。いや、多分そうしていなければ明菜の姿をしたあいつに引き裂かれていただろう。どれだけもがいてもどうしようもない時がある。ただ不思議なのは、今僕が横たわっているこの場所が、あいつらの上であることで、つまりあいつらがなぜだか皆弾け飛んでしまったということだ。ただ、何故だかあいつらになっていない死体はそのままで、しかし腐敗することもないようだった。
 そうして僕の部屋に野草が侵食するほどの時を経て、なおもその肉は不気味に艶めいている。どれだけの時が経ったかわからないが、そんな時に僕が覚醒したのには意味があるというのか。思案することしかできない僕は、まだここで思い出すべきことがあるのだということか。
 そう思った時に、また身体に変化が生じる。遂に感覚が戻ってきたのだ。だがそれは、酷い苦痛であった。自分の触れている肉の感触や、その時を経て治癒することのなかった落下時の怪我の痛みなどが襲ってきた。身体を動かすことすらできないので、その感触を和らげることはできない。まるで僕は罪人のように、その痛みを受け続けなくてはいけなかった。
 いつになったら終わるのか。覚醒はいつまでも途切れそうにはなかった。この世界に僕以外誰もいないのなら、それならもう許してくれてもいいじゃないか。苦痛だけが続き、しかし涙を流すことすらできない。このまま明菜のいる場所に行けたのなら、どれだけ幸せだろうか。そんなことを思っても結局何も変わらない。僕はただその痛みに耐え続けていることしかできなかった。

 痛みの中で、思い出す。僕の、あいつらの、誕生日のことを。
 朝からもうあの事態は始まっていた。ならその夜に、あいつらは生まれたのだろう。あの夜、夢を見た。そうだ、僕は夢を見ていた。ただ、今回の記憶は、一気に思い出せない…。夢だからだろうか、ぼんやりと、そして途切れ途切れにしか思い出せない。
 そこは、薄暗い部屋だ。ただ、窓はある。どうやら外は夜のようだ。その中央に、椅子に縛り付けられた男がいる。ドアが開き、また一人の男が入ってくる。男は、何かを懐から取り出し、縛られた男の口の中に突っ込んだ。しばらくもがいていたが、その男はうなだれて、静かになった。しかし、その数秒後、顔が二つに裂け、部屋の四方の壁を切りつけた。紛れもなく、あいつらのそれだ。つまり、この、やってきた男が元凶なのか?そして、口の中に突っ込んだアレがあいつらを作り出したのか?だとすると、これは大規模な生物兵器による大量虐殺…ということなのか?
 そこまで思ったところで、僕は、その体の異変に気付く。ようやく、すべての体の機能が回復した。つまりは、今僕が知っていることを全て思い出したということだろう。こんな絶望的な世界で、凄まじい痛みと戦いながら、どこへ向かうというのか。ただ、友達を殺された、家族を殺された、そして明菜を殺された。だからこそ、あの男は許せない。そもそもあれは完全に夢かもしれない。そして夢でないにしろ、もうあの男は死んでいるのかもしれない。それでも今は、歩き始めるしかない。僕は、ふらふらとよろめきながら、なんの手がかりもない道程を、あの男への復讐を胸に、歩き出した。
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