さらば、愛しき夫よ

七天八狂

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第一章 早苗

19.車内で

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 車が発進し、帰路を進み始めると、早苗の高ぶり熱くなった頭はそれと呼応して、少しずつ冷めていった。
 
 彼への想いは、夫から逃避したいがゆえのものかもしれない。
 どうしてもその考えが拭えなかった。それに、さすがに倫理的に無理だった。生田の意思だとはいえ、受け入れてはいけないことだった。

 早苗は直後から後悔し始めていた。智也が浮気をしていようとも、だからといって早苗もしてもいい理由にはならない。夫婦が互いに婚外恋愛をしているなんて、そんな泥沼な事態に生田を引きずりこみたくもなかった。

 もし彼が本気ならば、智也と離婚をしなければならない。そんなことをやり遂げられるのだろうか。自分よりも若く、魅力溢れる生田が、待っていてくれるのだろうか。
 
 酔いも覚め始め、冷静になってきた早苗は、この関係を進ませるのは到底無理だと考えていた。
 自分は智也のもとへ戻るべきだし、むしろ冷静になってきた今は、それを望んでいた。殴られてもいい。というよりも、こんな不埒な真似をした自分をとことん痛めつけて欲しいと、願ってすらいた。

 自宅近くのコンビニの駐車場へ到着した。

「どうしますか? まだ僕と一緒に居てくれる可能性はありますか?」

 生田からはにかんだ笑みを向けられた。
 その笑みの意図を読み、一瞬ためらった。しかし、それで流されたら取り返しがつかなくなる。
 早苗はそう考えて、毅然とした態度に見えるように居住まいを正した。

「今夜はありがとうございました。お恥ずかしい姿をお見せしてしまって、ご迷惑をおかけしました。とても楽しかったです。本当に、嬉しくて……」

 言いながら言葉に詰まってしまった。思い返したら、なんて素晴らしい時間だったのだろうと改めて感じて、やはり流されてしまいたいと考えてしまう。

「早苗さん、僕は本気です。いつでも結構ですから、会ってもいいと思ったら声をかけてください」

 誠実な声を聞いて、またぐらりと揺さぶられてしまう。
 しかし、やはりと、流されたあとに訪れる未来を予測せざるを得ない。生田のことを考えると、気が引けてしまう。
 だから、決意を変えるわけにはいかなかった。
 無理やり身体を動かして、車を降りた。

 降りてしまえば名残惜しさも消えるはず。生田との時間は生活から切り離されたフィクションで、降りたと同時に幕が下りるものだ。
 地面に足をつけた瞬間に、そう気持ちを切り替えた。

「ありがとうございました!」
 笑顔で言って、幕を下ろした。
 これで終わりだ。もし次に声をかけられても流されない。固く心に決めた。
 さあ日常へ戻ろうと、アパートの方へ歩き出そうとした。


「お前、なにしてんの?」


 しかし聞き覚えのある声がして足を止め、振り返ると見慣れた車が目に入った。

「誰といんの?」
 そして運転席から覗いた顔は、車どころかさらに見慣れた夫の姿だった。

「あの、車で送ってもらって……」
 まさかのことに、声が震えてしまう。

 智也は生田の車をちらと見た。
「帰っても家にいないし連絡もない。電話しても繋がらない、普通探すよね? 探してたんだけど」
 声に怒気が帯び始めた。

「ごめんなさい」
 恐ろしくなり身体が震えた。
 距離は離れているし、車が隔てているのに、殴られると思ったからだった。

「それが妻のやることなのか? ああっ?」
 威嚇するような怒鳴り声で、とうとう身をすくませた。
「ごめんなさい」
「とにかく乗れ」
「はい」
 俯き、身体を震わせながら、今にもよろけそうな足取りで助手席の方へ回り込んだ。

「はじめまして。柏木さんと同じ職場で働いている生田と申します」
 生田が車から降りて、智也のいる運転席に近づいたようだ。

 早苗は助手席に乗り込みながら戦々恐々とする。
 なんてことだろう。出てこなくてもいいのに。挨拶をしたということは、夫だと気づいているはずなのに。

「こいつの旦那です。妻がお世話になったようで」

 智也に生田の存在がバレてしまった。この先どんなことが起きるのか考えたくない。

「他にも何人かの同僚と一緒だったんです。奥様を無理に連れ出してしまって、大変失礼いたしました」
 生田の返答を聞いてホッとした。誤魔化そうとしてくれているらしい。
「名刺をいただけますか?」
 智也は威圧するような声音で、生田に向かって手を差し出した。
 生田はその手の上に名刺を置いたようだ。
「弁護士からの連絡をお待ちください」

 その言葉の直後、勢いよく車はバックして進行方向を変え、発進した。

「あいつがお前の相手か。旦那を前にしても平然としてやがる。嫌な奴だ」

 言葉とは裏腹に浮き浮きとした声がして、おそるおそる智也を見ると、ゾッとするような薄笑いを浮かべていた。

「お前は貯金なんかないだろうから、慰謝料はお前の両親に請求することになるな。不貞での離婚は山程慰謝料が必要になるぞ」

 不貞での慰謝料? 生田の言い訳を信じろとまでは言わないが、あの場面を見ただけで出てくる言葉としては飛躍のしすぎではないだろうか。

「もちろんあいつにも請求する。もし逃げたらお前があいつの分も払うんだ」

 頭を抱えたくなった。とんでもないことだ。どうしたらいいのだろう。

「離婚は金で解決できるとしても、傷つけられた旦那の心はどうすりゃいいんだろうな」

 智也の薄気味悪い笑顔がさらに大きくなった。自宅に帰ってから起きることを想像し、血の気が引いた。


 これまでとは比較にならないくらいに殴られるのだろうか。
 殴られ、訴えられ、慰謝料まで払わされるのだろうか。
 夫の心を傷つけたから仕方がないことなのだろうか。
 そこまでしなければならないことをしたのだろうか。
 キスはした。それは事実だ。不貞だと言われても仕方がないことだろう。
 しかし証拠もなく、いきなりだ。
 それに智也のほうも……いや、智也はキスどころではないだろう。一度きりでもない。不貞のレベルで言えば比較にならないほどだ。

「と、智也も、浮気してるじゃない」
 どもりながらも、早苗は無理に声をあげた。

「あ? なんだって?」
 反論されるなど思ってもみなかったという声が返ってきた。

「女の人とキスしてるところも、スーパーで買い物してるところも、見たよ」
 智也に言い返すことが恐ろしく、声が震えてしまう。

 しかし言わずにはいられなかった。
 不貞だと断じられるのは事実だから受け入れよう。しかし、自分のことは棚に上げて、一方的にこちらばかりを責め、生田にも慰謝料を払わせるなどと言うならば、そこは抗議するべきだと思った。

「だからどうだっていうんだ! 男の火遊びと女の浮気は天と地の差だ。夫を裏切る女に責め立てる権利はない!」

 早苗はカッとした。これまで智也の不貞を知りながら、一言も文句を言わなかった。言わなかったばかりか、そんな夫から強く当たられるようになっても、耐えて受け入れてきたのだ。智也にこそ責める権利はないはずだ。

「私の働いたお金で、その人と旅行したり遊んだりしてるんでしょ?」
 怒りとともに自分の言葉にも奮い起こされ、少しづつ声に力が帯びてきた。
「喧嘩して不機嫌になったら、私を殴ってストレス発散してるんでしょ?」

 車は既にアパートの駐車場にまでたどり着いていた。
 しかし苛々としている智也は駐車スペースには入れず、その手前で車を停めた。

「お前は、俺のお影で生活できてるんだ!」 
 くるりとこちらを見た智也に、睨みつけられた。
「浮気なんて許されないことなんだ! ましてや歯向かうなどあり得ない……」
 声も身体も震えていることがわかる。怒りでわなないているようだ。

「歯向かっているんじゃなくて、智也はどうなのって聞いて──」

 言いかけた時、突然頬に衝撃を感じた。その反動で窓にぶつかり、頬の強烈な痛みだけでなく頭にも強い痛みが走った。

 目がチカチカとし、痛みで何も考えられない。
 何が起きたのかわからず、視界もぼやけている。

 頬と頭を押さえようとしたとき、胸ぐらを掴まれた。そして何事かと考える暇もなく、身体を揺さぶられた。

「お前は、俺の言うことを聞いて、俺のすることを受け入れていればいいんだ!」怒号とともに、殴られ、髪を引っ張られ、身体を揺すぶられた。「俺が離婚すると言ったら金を払うんだ! お前は、お前は、俺に生かされてるんだ!」

 声と痛みが頭の中で反響し、朦朧とする。

「俺から離れたら、死ねば良いんだ!」

 その声が聞こえた直後に、これまで感じたことのないほどの痛みを感じて、そのまま意識を失った。
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