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第二章
31.一年
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リュシアン・ド・オーヴェルニュは、愛息子アレクサンドルの眠る傍らで、その額を愛おしげに撫でながらも、気持ちを沈ませていた。
帰国して数ヶ月の日々とタリアでの二ヶ月の生活の、そのあまりの違いに、何度目かの悲嘆に憂いていた。
タリアで過ごした二ヶ月はまるで夢のようだった。
生まれて初めて使用人のいない生活を送ることになり、おぼつかないながらも家事をやり始めた。
掃除は楽しい。洗濯は重労働だ。
料理は想像の何倍も手間はかかるし面倒で、ひとつの失敗で全てが無駄になったりもする。
しかし喜びは段違いだった。
二人で作った料理をあれこれと批評しながら食べる。
料理人がつくった料理に敵うべくもないが、段違いに楽しく、美味だった。
「もう一度味わいたいな……」
リュシアンはぽつりと言った。
「タリアの料理はそこまで美味でいらっしゃいましたか」
執事兼家令のジャンの声がした。
声のほうへ視線を向けると、開いたままのドア口に立ち、湯を入れているのであろう桶とタオルを持っている。
「そんな時間か」
「はい。申し訳ありません。私の予定が詰まっておりまして」
ジャンは遠慮がちにアレクサンドルに近づき、その上にかがみ込んで衣服を脱がせ始めた。
頭から身体まですべて綺麗に拭き整え、下着まで取り替える。毎日行っている清拭の時間だった。
おそらく退室して欲しいのだろうけど、それを訴えることができない様子で、おずおずと進めている。
「私も手伝おう」
そのほうが早い。タリアでの日々のおかげで、こういった世話事に抵抗がなくなっていた。
「リュシアン様……」
ジャンは驚いたようだ。いつも鉄仮面のように感情を表に出さないのに、見て取れるほどだ。
リュシアンもタオルを持ち、息子の身体を拭き始めた。
「毎日着替えさせてくれているんだな。ありがとう」
「いえ。当然のことです」
アレクサンドルは半年以上前に昏睡状態になり、そのまま現在に至るまで眠り続けている。
お茶を飲んだ直後に倒れ、そのまま意識が戻らない。命に別状はないらしく、経口の栄養と水分補給だけで生きながらえている。
少し背が伸びたかもしれない。しかし、体躯は骨が浮いて見えるほどやせ細っている。
「フレデリック様は見つけることができますでしょうか?」
ジャンが言った。この数ヶ月の間に、何度案じる言葉を聞いたかわからない。
「そうだな。ここまで痩せてしまったのを見ると焦ってしまう」
「タリアにも魔法の花は存在するのでしょうか?」
「魔術師の話では各国にあるとのことだが、見つけ出せるかは別の話だな。……それよりもあの女が明け渡してくれたら話が早いのだが」
「リュシアン様!」
ジャンが珍しく咎めるように声を荒げた。執事が主人に対してする態度ではないが、今の場合はジャンが正しい。
「ああ、申し訳ない。しかし私たち以外に誰もおるまい?」
「壁に耳ありでございます」
あの女──アレクサンドルの母のことは、この執事の鑑といえる忠誠心の篤いジャンと、フレデリックの二人にしか話していない。
「利己的な目的と実の息子の命を天秤にかける女が、この国を治めているとは許しがたいな」
「リュシアン様……」
今度の咎めは勢いが半減している。ジャンも同じ気持ちでいるからに違いない。
「アントワーヌがそんな母から逃げ出したくなるのも無理はない」
「……リュシアン様が直接陛下にお目通りできないのですか?」
「二度と顔を合わせぬという約束がある。それにもし叶ったとしても、あの女は聞く耳を持ちはしない。何よりもアントワーヌが大事なのだからな」
「ではやはりフレデリック様になんとかしていただかなければならないのですね」
「……それか、魔術師だな」
リュシアンが吐き捨てるように言うと、ジャンはハッとしたように、アレクサンドルの衣服を整える手を止めた。
すぐに召し着せに戻ったものの、今度ばかりは咎め立てないだけでなく、それ以上進められないとばかりに会話を打ち切った。
フレデリックはアレクサンドルのために奔走してくれている。
しかし、他にもう一人同様に助け出そうと行動してくれている男がいる。
魔術師──この国で唯一の存在である、ジェラール・メルガルだ。
その夜も、当然のように彼は邸を訪れた。
「どうした? 元気がないようだな」
リュシアンの部屋へ入るなり、衣服をすべて脱ぎ、ローブだけの姿になる。
「ええ、最近は引きこもってばかりですから、身体を動かしていないせいでしょう」
リュシアンはそんな場面を見たくもなく、ベッドに座って窓に目を向けて答えた。
「身体なら毎晩動かしているではないか」
顔を背けているものの、おそらく好色な笑みを浮かべているのだろう。
ベッドの足元が静かにきしむ。上掛けがたわみ、近づいてくるのを振動で感じた。
「美しい……」
肩越しに抱きしめられ、背中に怖気が走る。
顎に手を添えられ、ぐいと顔の向きを変えられると、目の前に漆黒の瞳が見えた。
青白く若々しい肌にゾッとするほどの美貌。
しかし、その深淵のような瞳に射すくめられると、肉食獣を前にした小動物のような気持ちになる。
瞬間その瞳が迫り、唇に冷たい感触を得た。侵入する舌も蛇のように鋭利で、温度を感じない。不気味で、絡められると不快に肌が粟立つ。
「絶世だ」
リュシアンのローブを剥ぎ取りながら、まじまじと身体を見られる。
あらわになった肌にざらざらとした舌が這っていく。
快楽であるはずの愛撫に心を打ち砕かれ、触れられるたびに地獄の底へ落ちていく気分になる。
ジェラールの行為は常に一方的で、自分の快楽のみを求める自己本位の行為だ。
受け入れるための場所を馴染ませるのも、滑りをよくさせるのもリュシアンがやらなければならない。ジェラールを求めて仕方がないという演技をしながら。
「欲しいんだろう?」
「はい」
「ならば、早くしなさい」
なかなか勃たないそれの準備を整えるために、どれだけの屈辱を味わわねばならないのだろう。
毎晩何度も口に含み、後孔を広げ、ジェラールのものを受け入れなければならない。
「……気持ちいいだろう?」
「はい……」
喜び、こちらが欲しがっているかのようにしなければならない。
「もっと声をあげなさい」
「っ……はい」
喘がねば、強く打ち付けられる。
「もっと腰を使いなさい」
「あっ……はいっ……」
応えねば、いつまでも果てない。
「やめてほしくないだろう?」
「はい……あぁっ……んっ……」
やめてほしい。
触れないでほしい。
二度と顔を合わせたくない。
しかし、それはできない願いだった。
魔術師は国に一人しかいない。一子相伝の能力がゆえに、死を迎える際に自身の魔力を弟子に渡し、地位と魔力を相続する。
それを代々続けているため、魔術師となった者以外に魔力を扱える者はいない。
魔法の花を手にしても、それを使ってアレクサンドルを治すためには、ジェラールの力を借りなければならない。
だから、どんなに不快でも、どんなに憎悪を感じていても、ジェラールの求めには応じなければならない。
アレクサンドルに完治の見込みがないと診断されたとき、魔術師ならその限りではないと聞き、すがる思いで邸の門を叩いた。
「欲しいものがあるならば、それ相応のものを差し出すべきだ」
そう言って始まった逢瀬であったものの、取引はうやむやになった。
「リュシアンを愛しているから、その力になりたいのだよ」
そう言葉を変化させ、愛しているから愛しなさいと、身体を差し出す理由をすげ替えられた。
アレクサンドルの母であるイザベルも同様だった。
16で両親が相次いで亡くなり、領地も失い、住む邸もなくなったリュシアンを引き取ってくれたが、以前から見初めていたと言われ、妾になることが条件だった。
当時30のイザベルは精力旺盛で、それまで性行為というものの存在すらおぼろげだったのに、毎夜のように求められた。
世話する代わりに見返りを。
求めているのだから応えなさい。
それは『自らを律して、困っている人々を全力で助ける』というオーヴェルニュの家訓にも通じるものだった。
両親とはまともに会話もままならないままに死に別れてしまったから、どういう意味なのか深く知ることもなく、ただ言葉だけが家訓として残った。
倍も年が上で、君主ともあろうイザベルが言うならば正しいはずだと考えて、求められるすべてに素直に従った。
イザベルもジェラールも、求めているのはリュシアンからの愛なのだと思っていた。
きっかけは取引でも、徐々に愛され、自身も愛しているのだと思い込もうとした。
身体を重ねるのは、愛を生むためであり、それ以後は確認のために過ぎないと。
「今夜もよかった」
ジェラールはワイングラスを空けると、満足そうな声をもらした。
「ではまた明日」
ソファから立ち上がり、こちらに一瞥をくれた。見送れという合図である。
こちらはまだローブ一枚羽織っただけだというのに、女中のように着替えを手伝わされ、酒を注がさられ、見送りまで求められる。
リュシアンものろのろと立ち上がり、ローブの紐を硬く縛りながら聞いた。
「……魔法の花はどうなりました?」
この質問は一月ぶりだった。それ以下の頻度では不満げな顔をされてしまうため、機を伺わねばならない。
「未だに許可をいただけない。王太子のお気持ちが変わらねば難しいかもしれないな」
いつもと同じ返答だった。
ジェラールはアレクサンドルの母が誰なのかを当然知っている。そこから、アントワーヌとリュシアンが気まずい関係であると導き出していても不思議ではない。
つまり、魔法の花が手に入るのはまだまだ先だと暗に口にしたわけだ。
「私は帰る」
「はい……」
毎晩訪れて、少なくとも二度はさせられる。当初は三日置きだったはずが、タリアから戻ってきて頻度が毎晩になった。
この地獄のような苦しみが毎晩だなんて。
「では、また明日の晩」
玄関のドアを開け、馬車までは来なくてもいい、と気を効かせた自分を誇るかのような笑みを見せられる。
リュシアンは心底残念そうな顔を作った。
「明日の夜が待ち遠しいです」
「そうか。毎晩来るようにして正解だったな」
ジェラールは馬車に乗り込み去っていった。
一秒でも早くその姿を視界から消し去りたいのに、名残惜しい様を演出しなければならない。
馬車が見えなくなるまで見届けてから、ようやくドアを閉めた。
今この場で嘔吐したかった。
しかし耐え、震える足を無理に動かして部屋へ向かった。
ジェラールはイザベルに花の話など既にしていないのではないか。
何度聞いても同じ答えしか返ってこなくなり、そう考え始めるようになった。
こちらがアントワーヌを説得できないことも知っていて、そのうえで自分もどうしようもないのだと、無力であるのは仕方がないという態度を見せる。
それはつまり、アレクサンドルは目覚めないままで、この関係にも終わりがないということだ。
フレデリックが成功しない限りは。
リュシアンは自室へは戻らず、彼が使用していた部屋へ向かった。
毎晩ジェラールが来る部屋など自室ではない。
彼が寝ていたベッドに入り、枕にまだ彼の温もりが残っているかのようにキスをした。
アレクサンドルのために実際に動いてくれているのは彼だけだ。
しかし、だからではなく、ただただ彼に会いたかった。
彼のことが恋しくてたまらない。
リュシアンはハッとして、ハンカチを取り出した。
彼の痕跡を汚したくない。
枕に涙を落とさぬようにハンカチで目元を拭った。
リュシアンは、それが彼であるかのように枕を抱きしめて眠りに落ちた。
帰国して数ヶ月の日々とタリアでの二ヶ月の生活の、そのあまりの違いに、何度目かの悲嘆に憂いていた。
タリアで過ごした二ヶ月はまるで夢のようだった。
生まれて初めて使用人のいない生活を送ることになり、おぼつかないながらも家事をやり始めた。
掃除は楽しい。洗濯は重労働だ。
料理は想像の何倍も手間はかかるし面倒で、ひとつの失敗で全てが無駄になったりもする。
しかし喜びは段違いだった。
二人で作った料理をあれこれと批評しながら食べる。
料理人がつくった料理に敵うべくもないが、段違いに楽しく、美味だった。
「もう一度味わいたいな……」
リュシアンはぽつりと言った。
「タリアの料理はそこまで美味でいらっしゃいましたか」
執事兼家令のジャンの声がした。
声のほうへ視線を向けると、開いたままのドア口に立ち、湯を入れているのであろう桶とタオルを持っている。
「そんな時間か」
「はい。申し訳ありません。私の予定が詰まっておりまして」
ジャンは遠慮がちにアレクサンドルに近づき、その上にかがみ込んで衣服を脱がせ始めた。
頭から身体まですべて綺麗に拭き整え、下着まで取り替える。毎日行っている清拭の時間だった。
おそらく退室して欲しいのだろうけど、それを訴えることができない様子で、おずおずと進めている。
「私も手伝おう」
そのほうが早い。タリアでの日々のおかげで、こういった世話事に抵抗がなくなっていた。
「リュシアン様……」
ジャンは驚いたようだ。いつも鉄仮面のように感情を表に出さないのに、見て取れるほどだ。
リュシアンもタオルを持ち、息子の身体を拭き始めた。
「毎日着替えさせてくれているんだな。ありがとう」
「いえ。当然のことです」
アレクサンドルは半年以上前に昏睡状態になり、そのまま現在に至るまで眠り続けている。
お茶を飲んだ直後に倒れ、そのまま意識が戻らない。命に別状はないらしく、経口の栄養と水分補給だけで生きながらえている。
少し背が伸びたかもしれない。しかし、体躯は骨が浮いて見えるほどやせ細っている。
「フレデリック様は見つけることができますでしょうか?」
ジャンが言った。この数ヶ月の間に、何度案じる言葉を聞いたかわからない。
「そうだな。ここまで痩せてしまったのを見ると焦ってしまう」
「タリアにも魔法の花は存在するのでしょうか?」
「魔術師の話では各国にあるとのことだが、見つけ出せるかは別の話だな。……それよりもあの女が明け渡してくれたら話が早いのだが」
「リュシアン様!」
ジャンが珍しく咎めるように声を荒げた。執事が主人に対してする態度ではないが、今の場合はジャンが正しい。
「ああ、申し訳ない。しかし私たち以外に誰もおるまい?」
「壁に耳ありでございます」
あの女──アレクサンドルの母のことは、この執事の鑑といえる忠誠心の篤いジャンと、フレデリックの二人にしか話していない。
「利己的な目的と実の息子の命を天秤にかける女が、この国を治めているとは許しがたいな」
「リュシアン様……」
今度の咎めは勢いが半減している。ジャンも同じ気持ちでいるからに違いない。
「アントワーヌがそんな母から逃げ出したくなるのも無理はない」
「……リュシアン様が直接陛下にお目通りできないのですか?」
「二度と顔を合わせぬという約束がある。それにもし叶ったとしても、あの女は聞く耳を持ちはしない。何よりもアントワーヌが大事なのだからな」
「ではやはりフレデリック様になんとかしていただかなければならないのですね」
「……それか、魔術師だな」
リュシアンが吐き捨てるように言うと、ジャンはハッとしたように、アレクサンドルの衣服を整える手を止めた。
すぐに召し着せに戻ったものの、今度ばかりは咎め立てないだけでなく、それ以上進められないとばかりに会話を打ち切った。
フレデリックはアレクサンドルのために奔走してくれている。
しかし、他にもう一人同様に助け出そうと行動してくれている男がいる。
魔術師──この国で唯一の存在である、ジェラール・メルガルだ。
その夜も、当然のように彼は邸を訪れた。
「どうした? 元気がないようだな」
リュシアンの部屋へ入るなり、衣服をすべて脱ぎ、ローブだけの姿になる。
「ええ、最近は引きこもってばかりですから、身体を動かしていないせいでしょう」
リュシアンはそんな場面を見たくもなく、ベッドに座って窓に目を向けて答えた。
「身体なら毎晩動かしているではないか」
顔を背けているものの、おそらく好色な笑みを浮かべているのだろう。
ベッドの足元が静かにきしむ。上掛けがたわみ、近づいてくるのを振動で感じた。
「美しい……」
肩越しに抱きしめられ、背中に怖気が走る。
顎に手を添えられ、ぐいと顔の向きを変えられると、目の前に漆黒の瞳が見えた。
青白く若々しい肌にゾッとするほどの美貌。
しかし、その深淵のような瞳に射すくめられると、肉食獣を前にした小動物のような気持ちになる。
瞬間その瞳が迫り、唇に冷たい感触を得た。侵入する舌も蛇のように鋭利で、温度を感じない。不気味で、絡められると不快に肌が粟立つ。
「絶世だ」
リュシアンのローブを剥ぎ取りながら、まじまじと身体を見られる。
あらわになった肌にざらざらとした舌が這っていく。
快楽であるはずの愛撫に心を打ち砕かれ、触れられるたびに地獄の底へ落ちていく気分になる。
ジェラールの行為は常に一方的で、自分の快楽のみを求める自己本位の行為だ。
受け入れるための場所を馴染ませるのも、滑りをよくさせるのもリュシアンがやらなければならない。ジェラールを求めて仕方がないという演技をしながら。
「欲しいんだろう?」
「はい」
「ならば、早くしなさい」
なかなか勃たないそれの準備を整えるために、どれだけの屈辱を味わわねばならないのだろう。
毎晩何度も口に含み、後孔を広げ、ジェラールのものを受け入れなければならない。
「……気持ちいいだろう?」
「はい……」
喜び、こちらが欲しがっているかのようにしなければならない。
「もっと声をあげなさい」
「っ……はい」
喘がねば、強く打ち付けられる。
「もっと腰を使いなさい」
「あっ……はいっ……」
応えねば、いつまでも果てない。
「やめてほしくないだろう?」
「はい……あぁっ……んっ……」
やめてほしい。
触れないでほしい。
二度と顔を合わせたくない。
しかし、それはできない願いだった。
魔術師は国に一人しかいない。一子相伝の能力がゆえに、死を迎える際に自身の魔力を弟子に渡し、地位と魔力を相続する。
それを代々続けているため、魔術師となった者以外に魔力を扱える者はいない。
魔法の花を手にしても、それを使ってアレクサンドルを治すためには、ジェラールの力を借りなければならない。
だから、どんなに不快でも、どんなに憎悪を感じていても、ジェラールの求めには応じなければならない。
アレクサンドルに完治の見込みがないと診断されたとき、魔術師ならその限りではないと聞き、すがる思いで邸の門を叩いた。
「欲しいものがあるならば、それ相応のものを差し出すべきだ」
そう言って始まった逢瀬であったものの、取引はうやむやになった。
「リュシアンを愛しているから、その力になりたいのだよ」
そう言葉を変化させ、愛しているから愛しなさいと、身体を差し出す理由をすげ替えられた。
アレクサンドルの母であるイザベルも同様だった。
16で両親が相次いで亡くなり、領地も失い、住む邸もなくなったリュシアンを引き取ってくれたが、以前から見初めていたと言われ、妾になることが条件だった。
当時30のイザベルは精力旺盛で、それまで性行為というものの存在すらおぼろげだったのに、毎夜のように求められた。
世話する代わりに見返りを。
求めているのだから応えなさい。
それは『自らを律して、困っている人々を全力で助ける』というオーヴェルニュの家訓にも通じるものだった。
両親とはまともに会話もままならないままに死に別れてしまったから、どういう意味なのか深く知ることもなく、ただ言葉だけが家訓として残った。
倍も年が上で、君主ともあろうイザベルが言うならば正しいはずだと考えて、求められるすべてに素直に従った。
イザベルもジェラールも、求めているのはリュシアンからの愛なのだと思っていた。
きっかけは取引でも、徐々に愛され、自身も愛しているのだと思い込もうとした。
身体を重ねるのは、愛を生むためであり、それ以後は確認のために過ぎないと。
「今夜もよかった」
ジェラールはワイングラスを空けると、満足そうな声をもらした。
「ではまた明日」
ソファから立ち上がり、こちらに一瞥をくれた。見送れという合図である。
こちらはまだローブ一枚羽織っただけだというのに、女中のように着替えを手伝わされ、酒を注がさられ、見送りまで求められる。
リュシアンものろのろと立ち上がり、ローブの紐を硬く縛りながら聞いた。
「……魔法の花はどうなりました?」
この質問は一月ぶりだった。それ以下の頻度では不満げな顔をされてしまうため、機を伺わねばならない。
「未だに許可をいただけない。王太子のお気持ちが変わらねば難しいかもしれないな」
いつもと同じ返答だった。
ジェラールはアレクサンドルの母が誰なのかを当然知っている。そこから、アントワーヌとリュシアンが気まずい関係であると導き出していても不思議ではない。
つまり、魔法の花が手に入るのはまだまだ先だと暗に口にしたわけだ。
「私は帰る」
「はい……」
毎晩訪れて、少なくとも二度はさせられる。当初は三日置きだったはずが、タリアから戻ってきて頻度が毎晩になった。
この地獄のような苦しみが毎晩だなんて。
「では、また明日の晩」
玄関のドアを開け、馬車までは来なくてもいい、と気を効かせた自分を誇るかのような笑みを見せられる。
リュシアンは心底残念そうな顔を作った。
「明日の夜が待ち遠しいです」
「そうか。毎晩来るようにして正解だったな」
ジェラールは馬車に乗り込み去っていった。
一秒でも早くその姿を視界から消し去りたいのに、名残惜しい様を演出しなければならない。
馬車が見えなくなるまで見届けてから、ようやくドアを閉めた。
今この場で嘔吐したかった。
しかし耐え、震える足を無理に動かして部屋へ向かった。
ジェラールはイザベルに花の話など既にしていないのではないか。
何度聞いても同じ答えしか返ってこなくなり、そう考え始めるようになった。
こちらがアントワーヌを説得できないことも知っていて、そのうえで自分もどうしようもないのだと、無力であるのは仕方がないという態度を見せる。
それはつまり、アレクサンドルは目覚めないままで、この関係にも終わりがないということだ。
フレデリックが成功しない限りは。
リュシアンは自室へは戻らず、彼が使用していた部屋へ向かった。
毎晩ジェラールが来る部屋など自室ではない。
彼が寝ていたベッドに入り、枕にまだ彼の温もりが残っているかのようにキスをした。
アレクサンドルのために実際に動いてくれているのは彼だけだ。
しかし、だからではなく、ただただ彼に会いたかった。
彼のことが恋しくてたまらない。
リュシアンはハッとして、ハンカチを取り出した。
彼の痕跡を汚したくない。
枕に涙を落とさぬようにハンカチで目元を拭った。
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