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第三夜ー NobodyKnows ー
しおりを挟むこんな夢を見た。
かつてここに一人の男がいた。一人の娘を心から愛していた。
*
壁に触れた指先。冷たいその感触に眉をひそめた。
結界が死んでいる。
思わず下品な舌打ちがもれる。くそが、と吐いてみるがその罵声を浴びせたい相手もここにはいない。
ますます煮え切らない気分だ。むかむかする胸の内をなんとかしたいところだが、ここには人一人いないのだ。殺したくても殺す人間が誰もいない環境というのはなんという苦痛だろう。
人をくれよ、人を、それと、目を返せよ、なあ、なあ、なあ、なあ、なあ、なあ、なあったらよ………、
死んだ結界は解除も構成も拒絶する。破壊もできないのだ。死してそこにあるのみだ。足に纏わりつく枷を引きずる音がする。自分のものだろうか。感覚がない。足の感覚を殺されたのはついさっきだ。ただ感じるのは動きにくさと太い枷が引きずられる音だけ。せめて視覚で捕えることができれば枷を外すことなどわけないことなのに。
顔に手を這わし、眼球があることを確認する。しかしそれはもはや機能を果たさないただの球体だ。抉り取って口に運ぶと、それは硝子玉のように砕けて散った。いくつかが手のひらに食い込み、鈍い痛みを訴えた。底知れぬ暗闇は思考さえ飲みこんだ。苛立ちは次第に掠れ、自分の存在さえ希薄になる。
手を伸ばした。筋肉の筋が伸びきって骨が軋んだ。ちぎれそうなその腕を、それでも伸ばした。まっすぐ、まっすぐ、ただまっすぐに。
やがて、指先に柔らかいものが触れた。それは自分のものでない、他の誰かの指だった。柔らかくて優しい手のひらが、死にかけの自分の手に丁寧に、繊細に触れる。
触れたその瞬間から指先の感覚が消えてゆく。
それでもその優しい手を振り離すなどという選択肢は頭に浮かんでこない。
触れれば触れるほどに神経を侵されてゆく。
失った眼球の奥、網膜にうっすらと映し出されるその手の持ち主は、美しい娘の姿をしていた。ああ、そこにいるんだな、と声をかければ、いるよ、と優しく娘は返事をした。娘の細い両腕が自分の片腕を愛おしそうに抱きこんでいる。それは一枚の絵画のようで、目を伏せて微笑を浮かべた娘はまるでこの世のものでないかのように光を纏って輝いていた。
抱きこまれた自分の腕に感覚がないことが口惜しい。しかしなんと心満たされる光景だろうかとため息をついた。
娘の指先は軽やかに腕をたどり、胸に触れた。娘の手が触れた瞬間に神経は殺されてゆく。抱え込まれていた腕はすでに付け根部分で折れ、娘の胸の中で砕け散った。
愛おしくその娘を見つめた。その手を見つめた。その手が、
優しく自分を殺していくその美しい手が何よりも愛おしい。
やがて娘の両の指先が首にかけられる。唇が触れあいそうな距離で、ああ、そこにいるんだな、と声をかければ、いるよ、とこの世の何よりも優しい声が降ってきた。
自分の首が砕け散る音は、もはや聞こえなかった。
かつてそこには男がいたが、それはすでに皆の記憶から抹消されていた。
正確には、皆その男の存在を抹消しようと躍起になっている最中だった。誰もが語らず、不自然な沈黙が自然な流れへと転じる。
いつかこの暗黒の時間が過ぎ去ってくれるだろう。そうすれば、我々はまた次世代を担う子供たちに囲まれ、その笑顔に癒され、ともに年を取り、時代は変わってゆく。
そのために今は耐えねばならないのだと、皆が覚悟を決めていた。
かつてそこには一匹の魔物がいた。
魔物は人間に化けて村へと入り込んだ。
人間となって、一人の娘を愛したかったからだ。
今となっては誰も知るよしのないことで、信じる者もなかった。
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