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あの人の婚約者【水差しメイドさん視点】
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何の脈絡もなく唐突に、あの女は現れた。
数日前から、私の心は浮き足立っていた。
アルバート様が、王都の公爵屋敷にそろそろ帰ってくる頃だったからだ。
王立騎士団を通じた王子からの依頼で、魔物狩りに出かけていたアルバート様。
一介のメイドである私が、お相手にされることなど勿論ない。
それでも、美しく、屈強なアルバート様を遠目から眺めるだけで満たされた。
どこか神秘的な、深い海の底を思わせる藍色の髪と瞳。
貴族にありがちな傲慢さもなく、メイドや使用人にも分け隔てなく接してくれる人格者だ。
嫡男のアルバート様だけでなく、公爵閣下も夫人であるダリア様も素敵な方だ。
モンフォール家に仕えさせていただけるだけでも光栄なのに、その家人達が素晴らしいのは、私の自慢だった。
同じように、アルバート様に憧れているメイドは多い。時折、アルバート様の素晴らしさを語り合っては、適齢期となったアルバート様に、いつ婚約者ができるかヒヤヒヤしたものだ。
最も、モンフォール家に来るご令嬢は、素晴らしい方に間違いないのだろうけれど。
そんな複雑な思いを抱きつつも、その時は長らく訪れなかった。
社交の場に出かけていないわけでも無いし、当然だが、人気がないわけでもない。
我こそはと自ら名乗りをあげるご令嬢も少なくなかった。
もしかしたらアルバート様は、何か思うところがあって、独身を貫かれるのかもしれない。
そんな淡くも儚い望みを抱きかけていた矢先だった。
アルバート様が帰って来たという連絡を門番からうけて、私も含めた幾人かのメイドは出迎えのために、玄関ホールへと急いだ。
いよいよ、久しぶりに、アルバート様のご尊顔が拝める……!
迎えにでたセバスチャンが、再び扉を開く。私たちはスカートを持ち上げて、片足を斜め後ろに引き、もう片方の膝を折り曲げて、丁寧にカーテシーをした。
「「「お帰りなさいませ、アルバート様」」」
「ああ。彼女に部屋をあてがってくれ」
…………彼女?
顔を上げると、あの女がいた。
一体、彼女は何者なのだろう?
湧き上がる疑問を押さえつけて、言われた通り、部屋の準備に取り掛かる。セバスチャンに指示されたのは、最上級の客室だった。
部屋の用意を終え、私たちは使用人用の休憩室へと集合した。いつも噂話をする時に集まる、秘密の場所だ。
「聞いて! 執事長から教えてもらったのだけれど、あのお方は、男爵家のご令嬢で、アルバート様の婚約者になるんですって!」
情報を入手してきたメイドが興奮とともにまくし立てると、休憩室は阿鼻叫喚となった。
あるものは悲鳴をあげ、あるものは啜り泣き、あるものは頭を掻きむしった。
皆、貴族女性相手だから、口には出さない。
しかし、心のうちでは同じことを思っていたに違いない。
嘘でしょ⁉︎
あんな野暮ったいドレスに、ぽっちゃりとした、芋っぽい女が、アルバート様の婚約者だなんて……!
アレなら、もしかしてひょっとして私にもワンチャンあったんじゃない……⁉︎ なんていう、分不相応な夢を抱いてしまうほど、あの女 ——セレスティア様は、パッとしなかったのだ。
その日、モヤモヤとした気持ちを抱えて寝台にもぐりこんだ私は、うまく眠ることができなかった。
翌日。
キッチンで朝食の片付けをしていたら、なんと、あの女とアルバート様がやって来た。
キッチンの隅に移動し、何事か料理を始めるようだ。
一体、何をしているのだろう? どうしても気になってしまい、作業の手を止めて、時折そちらの様子を伺った。
乳棒を手に持ったアルバート様が、何かをゴリゴリと削っている。腕の筋肉に見惚れていると、アルバート様は手を止めて、銀のスプーンを手に取って、何かを口に入れた。
瞬間、毒でも盛られたのかと思うほど、激しく苦しみ出す。
慌てて、水差しとコップを掴んで駆け寄った。
「大丈夫ですか、アルバート様! お水です!」
「助かる」
キッとセレスティア様を睨みつける。もしや彼女が毒を、と思ったが、アルバート様と同じように苦しんでいた。仕方なく、水を差し出す。
「あ、ありがとう」
「いえ」
毒でないのなら、一体なにが?
乳鉢の中身を覗き込むと、公爵夫人のダリア様が取り寄せた、カカオ豆が入っていた。思わず、目を細めてしまう。
「こちらは、奥様が南方から薬用にと取り寄せたものの、苦くてとても飲めなかった、と存じ上げますが……?」
アルバート様が苦しんでいたのが許せず、お灸を据えるような口調になってしまった。セレスティア様はオロオロと戸惑った様子で、
「……ええ、そうね。でも、これはとっても美味しいお菓子に——」
「先ほど、苦くて苦しんでおられましたよね?」
「…………」
さっさとキッチンから出ていってもらおう。そう決心した私の目の前にずいとコップが差し出された。アルバート様だった。
「助かった。下がっていてくれ」
「……はい」
仏頂面で告げられては、引き下がるしかない。でも、視線だけは引かない。アルバート様とあの女は、変わらず苦いカカオを調理している。
途中、あの女に命じられて、乾燥した果物を食糧庫から取り出し、手渡した。
「ありがとうございます!」
「いえ、当然のことですので」
答えて、再び作業に戻る。しばらくして、公務でもできたのか、アルバート様はキッチンから出ていった。あの女と一緒にいるところが見たいわけではないが、料理をするアルバート様の姿は貴重で、いくらでも見ていられたのに残念だ。
私自身も、掃除や洗濯など、他の仕事があり、キッチンには時折顔を出す程度で、戻ってこれたのは夕食の準備の時間だった。
私が見る限り、あの女はずっと作業台に向かっていて、熱心に試行錯誤を行っているようだ。
すごいな……。
私のささやかな趣味は手芸や服飾だ。刺繍や編み物なんかを、いくらでもできる! とは思うのだけれども、実際には長く続かない。1時間もすれば飽きてしまって、ちまちまと進めていくのが精一杯だ。
最後には納得のいく出来のものができたのか、どこか満足そうな顔で冷蔵庫に皿を収めていた。
一体、どんなものが出来たのだろう。
覗くだけなら問題ないだろうと、作業の手が空いたタイミングでそっと冷蔵庫を開けてみた。中には、ドライフルーツに茶色い何かが付けられた、見たこともない料理が収められていた。
……あの女は、これを菓子だと言っていたっけ。
確かに、乾燥した果物は、貴族のお菓子として出回っている。私自身もほんの少しだがかじったことがあり、とても甘く、美味しかったのを覚えている。
扉を閉じる。
思い出した乾燥果物の味を振り払う。これは、あのカカオ豆から出来ているのだ。とてつもなく苦くて、食えたものじゃないに決まっている。
夕食の準備を終えた私は、使用人用の食事部屋へと向かった。ようやく一息つくことができる、憩いの時間だ。
「アルバート様とセレスティア様、キッチンで何かしているみたいだったね」
同室のメイドがそんなふうに言った。彼女は庭仕事を中心にしているから、事の詳細が気にかかるのだろう。
「カカオ豆からお菓子を作っていたみたいよ」
「カカオ豆から⁉︎ 信じられないわね」
「実際、すごく苦くて、アルバート様は苦しまれていたのよ……」
「まあ! おいたわしいわ!」
この子もアルバート様を陰から見守る会の一員だ。口には出さないものの、あの女への敵意がひしひしと感じられる口調だった。
そんな、他愛もない夕食を終えて、食後の仕事に取り掛かろうと廊下に出た時だった。
——何者かの気配が……ぴったりと、私の後をついてくる。
背中がぞくぞくと泡立つ。
使用人達にあてがわれた食堂は、地下階にある。格式高い公爵家なので、主人方の生活動線とは離れた場所に私達の居住空間があるのだ。
魔石の仄かな明かりはあるが、薄暗く、人気のない廊下。
呼吸が少し荒くなる。怖くない、怖くないと考えるほど、背後に何かが忍び寄って来ているような気がする。
手汗がすごい。グッと拳を握りしめる。一体、何年ここで暮らしていると思うのだ。
ここは薄暗い地下階だが、後少しで、メインフロアへと上がる階段だ。
上階にはアルバート様も、ダリア様もいらっしゃる、公爵家なのだ。何も、おかしいことなど起こることはない。
勇気を振り絞り、私は背後を振り返った。
「…………ほら。やっぱり、誰もいないじゃない」
鼻歌でも歌いたい気分で、視線を前に戻す。先ほどと比べて、自然と背筋が伸びる。
階段の向こうに——何か、黒い影がある。
瞬間、ギョッとした。
段々と明るさに慣れてきた瞳が、その輪郭を捉え、ますますギョッとした。
それは、先ほどまで私たちの口上に上がっていた者——あの女、セレスティア・アルトハイムだった。
あの女は、上階から上半身だけ出して、こちらを覗き込んでいる。私と目があったことに気がつくと、にんまりと笑った。
…………ああ、そういうことか。
私は、ある種諦めの気持ちを持ちながら、廊下を進む。この屋敷に来てから、ほんの少しだけ……世間の厳しさを忘れていた。
どうしても、アルバート様への感情が先走り、あの女への敵意が滲み出ていた。それは、私自身分かっていたことだ。
けれど、アルバート様やダリア様と一緒にいる時の、どこか間抜けなフワフワとしたあの感じ。舐めた態度を出したとしても、やり返してくることはない。
その直感が、判断が、間違っていたということだ。
とんだ狸だ。
どんな仕打ちを受けるのだろう。悪口も、折檻も構わない。相手は貴族だ。けれど、一つだけ。この公爵家を追い出されることだけは、何としても避けなければ。
「セレスティア様、何かご用でしょうか?」
階段を上がり背筋を伸ばし、堂々とした態度で口に出す。これから何が起きるのか、怯えた様子は一切見せたくなかった。ただの虚栄だけれど、私なりの精一杯のプライドだ。
あの女は、にっこりと笑って、両手で持った大きな皿を突き出して来た。
「ええ。あなたにコレを食べてもらいたくって!」
「…………は?」
心から間抜けな声が出た。
お皿の上に乗っていたのは、今日一日中、キッチンで二人が作っていた菓子だった。
オレンジ、りんご、いちじくの一部分が、カカオによって茶色くなっている。けれど、粉のようではなくて、ツヤツヤと固まっている。
もう一つは、同じようにツヤツヤと固まった茶色い物に、細かに砕かれた乾燥果実が練り込まれている。
「チョコレートっていうお菓子なの。信じられないかもしれなけれど、美味しく出来たから……是非、あなたにも食べてほしくって」
「『ちょこれーと』……」
これは、何かの罠ではないだろうか。
皿を差し出すあの女の顔を、こっそりとうかがう。彼女の表情には、期待と緊張が入り混じっており、不穏なものや腹黒いものは感じられなかった。
貴族の方にこうまで言われて、食べないという選択肢は取れない。
それに、一体どんなお菓子が出来たのか、気にならないといえば嘘になる。
そっと指先で、いちじくの乾燥果実をつまむ。
えいやと思い切り口に入れた。
「……………………」
「…………ど、どうかしら?」
黙って味わっていたら、不安そうな表情で尋ねてきた。ごくりと飲み込む。
「…………もう一ついただいても?」
「! ええ、もちろん」
乾燥果実が細かく砕かれている物をつまみ、ゆっくりと口に入れた。いちじくの甘酸っぱさを強く感じた先ほどのものより、よりカカオ豆の苦味と、乾燥果物の甘さが混じりあっている。
どこかほっとする甘さのある乾燥果物の甘味に対して、苦味のあるカカオ豆の『ちょこれーと』は、なるほど、良いアクセントになっている。
「…………美味しいです、すごく」
分け隔てのない感想を伝えると、ぱぁと輝くような笑顔を浮かべた。
あぁ、この方は、こんなにも可愛らしい方だったのだ。
「気に入っていただけて良かった! たくさんあるから、よければ他のメイドさんや、使用人さん達にも分けていただけるかしら?」
「良いのですか? 皆、とても喜ぶと思います」
「ありがとう!」
大皿を受け取り、使用人たちの食堂へと踵を返す。
そのタイミングで「待って!」と声をかけられ、首だけ振り返る。
「あの……あなたの名前は何かしら?」
「…………マリーです。セレスティア様」
「マリー……マリーね! これからよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて、セレスティア様が立ち去っていく。その背中を少しだけ見送ってから、前を向く。
アルバート様の婚約者。
そのお立場への羨ましさから、私の目は狂いに狂っていたらしい。
「メイドに頭を下げたり、菓子をくださる貴族はなかなかいませんよ、セレスティア様」
ひとりごとをつぶやき、薄く微笑む。
確かに、見てくれは他の貴族令嬢に見劣りするかもしれない。けれどその中身は、存外アルバート様にふさわしいのかも……いやいや、まだ完全に認めたわけじゃあないけれど!
うん。やっぱり見た目も大事だし、もっとよくできる余地が多分にありそうだ。長い栗色の髪の毛に、油をつけて手入れをしたほうが良いし、ヘアアレンジだって必要だ。緑の瞳を引き立てるアクセサリーだって、公爵家にふさわしいものを身につけていただかなければ。
アルバート様にふさわしいご令嬢となれるよう、微力ながらお力添えをしよう。
そんなふうに、セレスティア様に似合う服の色を考えながら、ちょこれーとを抱えた私は、弾むような足取りで使用人の食堂へと向かった。
数日前から、私の心は浮き足立っていた。
アルバート様が、王都の公爵屋敷にそろそろ帰ってくる頃だったからだ。
王立騎士団を通じた王子からの依頼で、魔物狩りに出かけていたアルバート様。
一介のメイドである私が、お相手にされることなど勿論ない。
それでも、美しく、屈強なアルバート様を遠目から眺めるだけで満たされた。
どこか神秘的な、深い海の底を思わせる藍色の髪と瞳。
貴族にありがちな傲慢さもなく、メイドや使用人にも分け隔てなく接してくれる人格者だ。
嫡男のアルバート様だけでなく、公爵閣下も夫人であるダリア様も素敵な方だ。
モンフォール家に仕えさせていただけるだけでも光栄なのに、その家人達が素晴らしいのは、私の自慢だった。
同じように、アルバート様に憧れているメイドは多い。時折、アルバート様の素晴らしさを語り合っては、適齢期となったアルバート様に、いつ婚約者ができるかヒヤヒヤしたものだ。
最も、モンフォール家に来るご令嬢は、素晴らしい方に間違いないのだろうけれど。
そんな複雑な思いを抱きつつも、その時は長らく訪れなかった。
社交の場に出かけていないわけでも無いし、当然だが、人気がないわけでもない。
我こそはと自ら名乗りをあげるご令嬢も少なくなかった。
もしかしたらアルバート様は、何か思うところがあって、独身を貫かれるのかもしれない。
そんな淡くも儚い望みを抱きかけていた矢先だった。
アルバート様が帰って来たという連絡を門番からうけて、私も含めた幾人かのメイドは出迎えのために、玄関ホールへと急いだ。
いよいよ、久しぶりに、アルバート様のご尊顔が拝める……!
迎えにでたセバスチャンが、再び扉を開く。私たちはスカートを持ち上げて、片足を斜め後ろに引き、もう片方の膝を折り曲げて、丁寧にカーテシーをした。
「「「お帰りなさいませ、アルバート様」」」
「ああ。彼女に部屋をあてがってくれ」
…………彼女?
顔を上げると、あの女がいた。
一体、彼女は何者なのだろう?
湧き上がる疑問を押さえつけて、言われた通り、部屋の準備に取り掛かる。セバスチャンに指示されたのは、最上級の客室だった。
部屋の用意を終え、私たちは使用人用の休憩室へと集合した。いつも噂話をする時に集まる、秘密の場所だ。
「聞いて! 執事長から教えてもらったのだけれど、あのお方は、男爵家のご令嬢で、アルバート様の婚約者になるんですって!」
情報を入手してきたメイドが興奮とともにまくし立てると、休憩室は阿鼻叫喚となった。
あるものは悲鳴をあげ、あるものは啜り泣き、あるものは頭を掻きむしった。
皆、貴族女性相手だから、口には出さない。
しかし、心のうちでは同じことを思っていたに違いない。
嘘でしょ⁉︎
あんな野暮ったいドレスに、ぽっちゃりとした、芋っぽい女が、アルバート様の婚約者だなんて……!
アレなら、もしかしてひょっとして私にもワンチャンあったんじゃない……⁉︎ なんていう、分不相応な夢を抱いてしまうほど、あの女 ——セレスティア様は、パッとしなかったのだ。
その日、モヤモヤとした気持ちを抱えて寝台にもぐりこんだ私は、うまく眠ることができなかった。
翌日。
キッチンで朝食の片付けをしていたら、なんと、あの女とアルバート様がやって来た。
キッチンの隅に移動し、何事か料理を始めるようだ。
一体、何をしているのだろう? どうしても気になってしまい、作業の手を止めて、時折そちらの様子を伺った。
乳棒を手に持ったアルバート様が、何かをゴリゴリと削っている。腕の筋肉に見惚れていると、アルバート様は手を止めて、銀のスプーンを手に取って、何かを口に入れた。
瞬間、毒でも盛られたのかと思うほど、激しく苦しみ出す。
慌てて、水差しとコップを掴んで駆け寄った。
「大丈夫ですか、アルバート様! お水です!」
「助かる」
キッとセレスティア様を睨みつける。もしや彼女が毒を、と思ったが、アルバート様と同じように苦しんでいた。仕方なく、水を差し出す。
「あ、ありがとう」
「いえ」
毒でないのなら、一体なにが?
乳鉢の中身を覗き込むと、公爵夫人のダリア様が取り寄せた、カカオ豆が入っていた。思わず、目を細めてしまう。
「こちらは、奥様が南方から薬用にと取り寄せたものの、苦くてとても飲めなかった、と存じ上げますが……?」
アルバート様が苦しんでいたのが許せず、お灸を据えるような口調になってしまった。セレスティア様はオロオロと戸惑った様子で、
「……ええ、そうね。でも、これはとっても美味しいお菓子に——」
「先ほど、苦くて苦しんでおられましたよね?」
「…………」
さっさとキッチンから出ていってもらおう。そう決心した私の目の前にずいとコップが差し出された。アルバート様だった。
「助かった。下がっていてくれ」
「……はい」
仏頂面で告げられては、引き下がるしかない。でも、視線だけは引かない。アルバート様とあの女は、変わらず苦いカカオを調理している。
途中、あの女に命じられて、乾燥した果物を食糧庫から取り出し、手渡した。
「ありがとうございます!」
「いえ、当然のことですので」
答えて、再び作業に戻る。しばらくして、公務でもできたのか、アルバート様はキッチンから出ていった。あの女と一緒にいるところが見たいわけではないが、料理をするアルバート様の姿は貴重で、いくらでも見ていられたのに残念だ。
私自身も、掃除や洗濯など、他の仕事があり、キッチンには時折顔を出す程度で、戻ってこれたのは夕食の準備の時間だった。
私が見る限り、あの女はずっと作業台に向かっていて、熱心に試行錯誤を行っているようだ。
すごいな……。
私のささやかな趣味は手芸や服飾だ。刺繍や編み物なんかを、いくらでもできる! とは思うのだけれども、実際には長く続かない。1時間もすれば飽きてしまって、ちまちまと進めていくのが精一杯だ。
最後には納得のいく出来のものができたのか、どこか満足そうな顔で冷蔵庫に皿を収めていた。
一体、どんなものが出来たのだろう。
覗くだけなら問題ないだろうと、作業の手が空いたタイミングでそっと冷蔵庫を開けてみた。中には、ドライフルーツに茶色い何かが付けられた、見たこともない料理が収められていた。
……あの女は、これを菓子だと言っていたっけ。
確かに、乾燥した果物は、貴族のお菓子として出回っている。私自身もほんの少しだがかじったことがあり、とても甘く、美味しかったのを覚えている。
扉を閉じる。
思い出した乾燥果物の味を振り払う。これは、あのカカオ豆から出来ているのだ。とてつもなく苦くて、食えたものじゃないに決まっている。
夕食の準備を終えた私は、使用人用の食事部屋へと向かった。ようやく一息つくことができる、憩いの時間だ。
「アルバート様とセレスティア様、キッチンで何かしているみたいだったね」
同室のメイドがそんなふうに言った。彼女は庭仕事を中心にしているから、事の詳細が気にかかるのだろう。
「カカオ豆からお菓子を作っていたみたいよ」
「カカオ豆から⁉︎ 信じられないわね」
「実際、すごく苦くて、アルバート様は苦しまれていたのよ……」
「まあ! おいたわしいわ!」
この子もアルバート様を陰から見守る会の一員だ。口には出さないものの、あの女への敵意がひしひしと感じられる口調だった。
そんな、他愛もない夕食を終えて、食後の仕事に取り掛かろうと廊下に出た時だった。
——何者かの気配が……ぴったりと、私の後をついてくる。
背中がぞくぞくと泡立つ。
使用人達にあてがわれた食堂は、地下階にある。格式高い公爵家なので、主人方の生活動線とは離れた場所に私達の居住空間があるのだ。
魔石の仄かな明かりはあるが、薄暗く、人気のない廊下。
呼吸が少し荒くなる。怖くない、怖くないと考えるほど、背後に何かが忍び寄って来ているような気がする。
手汗がすごい。グッと拳を握りしめる。一体、何年ここで暮らしていると思うのだ。
ここは薄暗い地下階だが、後少しで、メインフロアへと上がる階段だ。
上階にはアルバート様も、ダリア様もいらっしゃる、公爵家なのだ。何も、おかしいことなど起こることはない。
勇気を振り絞り、私は背後を振り返った。
「…………ほら。やっぱり、誰もいないじゃない」
鼻歌でも歌いたい気分で、視線を前に戻す。先ほどと比べて、自然と背筋が伸びる。
階段の向こうに——何か、黒い影がある。
瞬間、ギョッとした。
段々と明るさに慣れてきた瞳が、その輪郭を捉え、ますますギョッとした。
それは、先ほどまで私たちの口上に上がっていた者——あの女、セレスティア・アルトハイムだった。
あの女は、上階から上半身だけ出して、こちらを覗き込んでいる。私と目があったことに気がつくと、にんまりと笑った。
…………ああ、そういうことか。
私は、ある種諦めの気持ちを持ちながら、廊下を進む。この屋敷に来てから、ほんの少しだけ……世間の厳しさを忘れていた。
どうしても、アルバート様への感情が先走り、あの女への敵意が滲み出ていた。それは、私自身分かっていたことだ。
けれど、アルバート様やダリア様と一緒にいる時の、どこか間抜けなフワフワとしたあの感じ。舐めた態度を出したとしても、やり返してくることはない。
その直感が、判断が、間違っていたということだ。
とんだ狸だ。
どんな仕打ちを受けるのだろう。悪口も、折檻も構わない。相手は貴族だ。けれど、一つだけ。この公爵家を追い出されることだけは、何としても避けなければ。
「セレスティア様、何かご用でしょうか?」
階段を上がり背筋を伸ばし、堂々とした態度で口に出す。これから何が起きるのか、怯えた様子は一切見せたくなかった。ただの虚栄だけれど、私なりの精一杯のプライドだ。
あの女は、にっこりと笑って、両手で持った大きな皿を突き出して来た。
「ええ。あなたにコレを食べてもらいたくって!」
「…………は?」
心から間抜けな声が出た。
お皿の上に乗っていたのは、今日一日中、キッチンで二人が作っていた菓子だった。
オレンジ、りんご、いちじくの一部分が、カカオによって茶色くなっている。けれど、粉のようではなくて、ツヤツヤと固まっている。
もう一つは、同じようにツヤツヤと固まった茶色い物に、細かに砕かれた乾燥果実が練り込まれている。
「チョコレートっていうお菓子なの。信じられないかもしれなけれど、美味しく出来たから……是非、あなたにも食べてほしくって」
「『ちょこれーと』……」
これは、何かの罠ではないだろうか。
皿を差し出すあの女の顔を、こっそりとうかがう。彼女の表情には、期待と緊張が入り混じっており、不穏なものや腹黒いものは感じられなかった。
貴族の方にこうまで言われて、食べないという選択肢は取れない。
それに、一体どんなお菓子が出来たのか、気にならないといえば嘘になる。
そっと指先で、いちじくの乾燥果実をつまむ。
えいやと思い切り口に入れた。
「……………………」
「…………ど、どうかしら?」
黙って味わっていたら、不安そうな表情で尋ねてきた。ごくりと飲み込む。
「…………もう一ついただいても?」
「! ええ、もちろん」
乾燥果実が細かく砕かれている物をつまみ、ゆっくりと口に入れた。いちじくの甘酸っぱさを強く感じた先ほどのものより、よりカカオ豆の苦味と、乾燥果物の甘さが混じりあっている。
どこかほっとする甘さのある乾燥果物の甘味に対して、苦味のあるカカオ豆の『ちょこれーと』は、なるほど、良いアクセントになっている。
「…………美味しいです、すごく」
分け隔てのない感想を伝えると、ぱぁと輝くような笑顔を浮かべた。
あぁ、この方は、こんなにも可愛らしい方だったのだ。
「気に入っていただけて良かった! たくさんあるから、よければ他のメイドさんや、使用人さん達にも分けていただけるかしら?」
「良いのですか? 皆、とても喜ぶと思います」
「ありがとう!」
大皿を受け取り、使用人たちの食堂へと踵を返す。
そのタイミングで「待って!」と声をかけられ、首だけ振り返る。
「あの……あなたの名前は何かしら?」
「…………マリーです。セレスティア様」
「マリー……マリーね! これからよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて、セレスティア様が立ち去っていく。その背中を少しだけ見送ってから、前を向く。
アルバート様の婚約者。
そのお立場への羨ましさから、私の目は狂いに狂っていたらしい。
「メイドに頭を下げたり、菓子をくださる貴族はなかなかいませんよ、セレスティア様」
ひとりごとをつぶやき、薄く微笑む。
確かに、見てくれは他の貴族令嬢に見劣りするかもしれない。けれどその中身は、存外アルバート様にふさわしいのかも……いやいや、まだ完全に認めたわけじゃあないけれど!
うん。やっぱり見た目も大事だし、もっとよくできる余地が多分にありそうだ。長い栗色の髪の毛に、油をつけて手入れをしたほうが良いし、ヘアアレンジだって必要だ。緑の瞳を引き立てるアクセサリーだって、公爵家にふさわしいものを身につけていただかなければ。
アルバート様にふさわしいご令嬢となれるよう、微力ながらお力添えをしよう。
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