大人の味

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苦味と旨味

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「なんや。兄さん、えらい痩せたなぁ。」


まるで、動物園のモモンガでも覗き見ているような口調で、棺の小窓を開けながら涙一つ流さずに叔母が言う。


その言葉の端に「お前はずっと一緒に居て気付かなかったのか?」という棘が混ざっている気がして、私は何も言えなかった。





仕立ててから間も無いリクルートスーツの首元が苦しい。


どうせ親戚しか参列していないのだから、少しくらいボタンを緩めてもよかった。


これからもう、私は一人で生きていかなければならない。


その覚悟を問われているようで、首元のボタンを緩める事にすら罪悪感があった。





「アンタなぁ…もう二十歳やで?学生とちゃうんやから、その格好はあかんよ。もう大人なんやから、喪服くらいは持っとかんと。しかも、アンタ喪主やで?」


そんな事、言われなくても分かっている。




自分の父が死ぬ事を想定して、喪服を作っておこうなんて思えなかっただけだ。


あんなに元気だった父が、ある朝突然死んでいるなんて思ってもみなかっただけだ。






「たまには、お前も付き合えよ。」


父は、母が使っていた花柄のマグカップにビールを注ぎ、私に向かって差し出す。

赤ら顔で上機嫌。

風呂上がりの父のいつもの表情だった。



私はそのマグカップを横目で見ながら、無視を決め込んだ。


私はビールが好きではない。

あの苦味が美味しいだなんて思えない。

二十歳になった日に「祝い酒」と称して父に無理矢理飲まされて以来、一滴も飲まなかった。


「冷てえなぁ。」


自分でもそう思う。

あの時私が飲んであげれば、父はもう少し笑って逝けたかもしれないのに。




「奈々ちゃん。アンタ、彼氏は?結婚とかはせえへんの?」


やっぱり。

絶対聞かれると思った。


「若いアンタが一人で生きて行くいうのも大変やろ?さっさと結婚でもして、男に養ってもろた方が楽なんと違う?あたしの職場の若い子紹介したろか?」


下世話だと思った。



どうしてこんな時に。


私がそんな事が考えられる状態では無い事くらい、見れば分かるだろうに。


「まぁええわ。何か困った事があったら、ちゃんと言うんやで?」


叔母はそう言うと、ピカピカに輝く黒いヒールをコツコツと鳴らしながら、遺影の前で立ち尽くす私を置いて控え室へと引っ込んで行った。



小窓を開ける。

似合わない花に埋もれた父は、日焼けの跡を綺麗に死化粧で隠されて微笑んでいる。


痩せた。

…のかな?


ずっと一緒に居たから気付かなかった。

ずっと一緒に居たのに気付けなかった。



「事件性が無いから」という理由で検死なんて無かったから、細かい死因が分からなかった。


叔母が言うように、父は痩せていたのだろう。


何か病気だったのに、一番近くに居た私が見過ごしていたのかもしれない。

そう思うと、どうしようもなく悔しくて悲しかった。



遺影と見比べると、確かに痩せている。


父の写真なんて、母が生きていた10年以上前に旅行先で撮った家族写真しか残っていなかったのだから、当然と言えば当然だった。


「もう少し最近撮ったお写真はございませんか?」

葬儀会社の人間の問いかけに、首を振るのが心苦しかった。


他人からは、それだけ顔付きが変わっているのが見て取れたのだろう。

私は、その変化にすら気付かなかった。



もっと後悔する事があるはず。

もっと悲しむ事があるはず。


あるはずなのに、頭が回らない。


母を亡くし、男手一つで私を育ててくれた父の微笑みを見ていると、この状況が悪い冗談のように思えてしまう。





どうしよう。


私も、お父さんに連れてってもらおうかな。





「暗い顔して。泣いたらブスになんで。」


背後から現れた気配に全く気付かなかった。


外仕事で真っ黒に日焼けをした従兄弟が、塞ぎ込む私の心にヘラヘラと笑いながら強引に入って来る。


筋肉質な身体付きに茶髪。

喪服が似合わない。



「久しぶりやなぁ。何年振りや?お前、ちょっと太ったんとちゃうか。」


口の減らない男だ。


私と二つしか歳の変わらない従兄弟は、叔母に似てよく喋る。


私の気分などお構い無しに、悪びれもなく笑いながら心に手垢を付けて回る。


呆然と立ち尽くす私の隣で笑いながら線香を立て、パンパンと大きな音を出して手を叩き、合掌する。


ここを神社か何かだと思っているのだろうか。




「大変やったなぁ。これからどうするんや?」



私にも分からない事を聞かれても困る。

こっちが聞きたい。

私はどうすればいい?


「お先真っ暗いう顔やな。まぁ、こんな事になったらしゃあないわな。家どうすんの?あの家、叔父さんが買うた家なんやろ?女の一人暮らしには、ちょっと広いよなぁ。」



確かに。

二十歳の小娘に3LDKは広過ぎる。


「あのな、あの家に居候させてくれへん?」


は?

何を言い出すかと思えば。

親子二代でデリカシーを質にでも入れたのか。



「次の現場な、ちょうど奈々の家の近所やねん。家から通える距離ちゃうし、家借りんのも勿体ないやろ?」


さっさと実家を出て、一人暮らしでもしろ。

そう思った。


「ちょうど叔父さんに部屋の間借りを頼もうと思ってたところやってん。こんな事になってしもて、タイミング間違てんのは承知の上や。」


悪いとは思っているのだろう。

ポリポリと頭を掻きながら、従兄弟は表情の温度を落とした。


「絶対お前に変な事はせえへんから。お袋にも、寮に入る言うつもりやし。な?頼むわ!この通り!」


茶髪が大袈裟に揺れ、私に頭を垂れる。


「あ!家賃はちゃんと払うで!あと、俺料理も出来んねん!お前、どうせ料理下手やろ?俺がようさん美味いもん食わせたるから!な?」


失礼な。

母が死んで以来、家事一切を引き受けていた私を舐めるな。



…それにしても。

何だ?

この少女漫画みたいな展開は。



父さん?

父さんの差し金なの?


だったら、私が「うるさい男」が嫌いな事をきちんと話しておくべきだった。


父は何も応えない。

ただ、うっすらと微笑んでいるだけ。




 



「久しぶりやなぁ、この家来んの。叔父さんの部屋、俺が借りてええやろ?」


結局、慌ただしさと寂しさと不安に流された私は、この男の要請を受けてしまう。



「先に、手だけ合わさせてくれな。」


家に入るなり、母の仏壇へと真っ直ぐ向かう彼を見て、私が思っていたよりも常識があるのかもしれないと安心した。




ヂリン!

ヂリン!



やっぱり訂正する。

この男に常識など無い。


仏壇の鈴は、鳴らすものだ。

シンバルのように、振りかぶって叩く物ではない。



「これからしばらくお世話になります。たまに酒でもあげさせてもらいますから、何卒一つ、よろしゅうに。」


まるで道端の地蔵に手を合わせているようで、不意に笑いが込み上げる。


「何笑てんねん!お前もこれからが大変なんやで!笑てる場合ちゃう!行くで!景気付けや!」


それほど多くない荷物を父の部屋に放り込むと、彼は私を外へと連れ出した。






夜に外に出掛けるのは久しぶりだ。

私が進学をせずに就職を選んでから、友人達とも時間が合わなくなり、疎遠になった。


最後に出たのは、父と居酒屋に行って、無理矢理ビールを飲まされたあの日。



「この辺にどんな店があるかは、きちんと知っとかなあかん。」


真面目な顔しやがって。

お前はただ、知らない街で飲みに行きたかっただけだろうが。


「俺の奢りやから、思いっきり飲むんやで!嫌な事があった時は、飲んで忘れるに限る!」


父親の死を忘れさせようとするな。


馬鹿者め。




「そういや、お前酒は?飲めるか?」


首を振る私を見て、彼はにこりと微笑む。


父に無理矢理ビールを飲まされ、それ以来苦手だと話すと、子供のようにケラケラと笑い出す。


「いきなりビールは早かったかもしれへんな。叔父さんも、お前と飲んでみたかったんやろな。今日は、俺がちゃんと初心者でも飲めそうな酒を選んだるから。ちょっとだけ頑張ってみ。酒は、少しくらい飲めた方が人生楽しいで。」


そうかもしれない。


仕事から疲れて帰って来た父も、晩酌をし始めると表情が解れた。

酒の味を知らなかった私は、大人にしか分からない魔法のような効能でもあるのだろうと、朧げに感じていた。






店での出来事は、あまり覚えていない。


余程飲み慣れているのか。

余程遊び慣れているのか。


彼の勧めた酒はどれも飲みやすく、手綱の引き方が分からなかった私は、その日居酒屋のトイレと契りを交わすところだった。


「すまんすまん。止めるの遅かったな。飲める酒は教えられたけど、飲み方までは教えてやれへんからな。これも勉強やで。」


夜風が気持ち良い。


彼は千鳥足の私を肩に抱えながら、ゆっくりと家路につく。


「ちょっとそこで座って待っといてくれ。すぐ戻って来るから。」


コンビニの前の街路樹の隣の小さなベンチに私を座らせ、彼は小走りでコンビニへ駆け込む。


小さなビニール袋を携えて出て来た彼は、他にもいくつか物が入った袋の中からミネラルウォーターのペットボトルを引き抜き、私に差し出した。


「飲んどき。少しは楽になる思うで。」


火照った身体に冷えた水が心地良い。


これがコーヒーや紅茶だったら、私はまたトイレを探さなければならなかったかもしれない。




家に帰ると、彼は私の部屋のドアを足で蹴り開け、私をベッドに放り投げた。


「明日も休みやろ?そのまま寝とけ。二日酔いも大人の儀式や。おやすみ。」


なんて男だ。

お姫様抱っこでゆっくりとベッドに抱き下ろすのがセオリーじゃないのか。

返せ!

私の中の白雪姫を返せ!



私は、夢の入り口でそう思った。




明け方。

喉の渇きで目覚めた私は、ゆっくりとキッチンへ向かう。


電気が付いたまま。


キッチンと向かい合った仏壇のある部屋を覗くと、彼が仏壇の前でいびきをかいていた。


仏壇には、父と母が使っていた揃いの花柄のマグカップと、封の開いた瓶ビール。


二つ並んだマグカップになみなみと注がれたビールは、思い出したように泡を立てていた。


彼は、コンビニでこれを買いたかったのだろう。


家で待つ父と母の二人と一緒に飲みたかったのかもしれない。


酒を飲まない私には、無かった発想だった。



寒そうに身を丸めて眠る彼に、小さな毛布をかけた。


「ンゴッ!」というおかしな声を上げ、彼は毛布に包まった。






日々は、あっという間に過ぎて行く。


寂しさなど感じる暇すら与えられず。



まだ慣れない仕事に追われながら、クタクタになって家に帰る。


家事が分担出来たのは、正直有難い事だった。


誰も居ない家で一人きりだったら、きっと私は自炊などしなくなっていただろうから。





彼は毎日晩酌をする。


必然的に晩御飯も、味の濃い物が多くなる。


私の作った料理に、ビールを飲みながら塩や醤油をかけようとした彼に何度もデコピンを食らわせた。


「どうや?たまには。」


花柄のマグカップに、なみなみと注がれたビール。


あの日、父から受け取らなかったものが、思い出したように私に差し出される。



やっぱり、まだ苦い。



「まだお前には早かったか。」


彼は笑う。


その表情が、父と重なって見えた。




「そのうち慣れるわ。飲めるようになったら、今度は4人で飲もな。」


4人、ね。



そっか。


お酒が飲めると、こんな風に色々な人との距離が近くなるんだな。


それこそ、彼には死んだ人との距離も遠くは感じないのだろう。



私は、残ったビールを一息で飲み干した。


「やるやんか。もう一杯行くか?」



赤ら顔が、瓶を差し出す。

私は、花柄のマグカップを差し出す。



この生活に慣れるには

きちんと苦味を楽しめる大人になるには、もう少し時間がかかるだろう。




この奇妙な同居人は、私の作った唐揚げに塩とレモンをかけてデコピンを食らった額をさすりながら、嬉しそうに微笑んでいる。



  


開いた仏壇に供えたビールが、シュワシュワと音を立てていた。

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