犬と侍

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桜花、爛漫

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「こりゃ、駄目かも分からんな。」


まるで対岸の火事でも見守るような口調で、与兵衛爺さんは笑いながら呟く。

高台の野原で胡座をかいたまま、まんじりともせずに前だけを見つめている。



花見でもしているつもりなのか。

呑気な爺さんだ。

これから死ぬというのに。




目の前に土煙が立ち昇っている。

おそらく、騎馬が10~20は居るだろう。

後ろは断崖。

逃げ場は無い。




傭兵は戦うのが仕事とはいえ、勝てない戦なら逃げ出すのが定石。


相手が侍ならまだ死ぬ理由にもなったが、徒党を組んだ山賊では命を張る甲斐もない。


戦に敗れて主を失い、路頭に迷っていた俺を真っ当な「侍」として雇ってくれた恩など忘れて、さっさと逃げれば良かった。




大体、こんな田舎の山城など落として何になる?

金目の物など何も無ければ、博打も女も無い。

隣国との戦に備えて睨みを効かせていたのは昔の事だ。

今は、役に立たない老兵を番に据える、単なる姥捨山と変わらない。




「お前は、よう逃げんかったな。」


相変わらずのらりくらりとした口調で話す与兵衛爺さんは、俺に向かって声を掛けた。



見くびるなよ。



逃げようとしたさ。




俺を拾ってくれたあんたがあまりにも飄々としてるもんだから、逃げる機を逸しただけだ。


あんたがもう少し怯えてくれていれば、俺だってあんたを抱えてでも逃げたさ。




あんたが一つも怖がる素振りを見せずに堂々と笑ってるから、「もしかすると妙案があるんじゃないか」なんて思っちまっただけだ。



数人いた他の番兵どもは、見張り台から見える土煙を見てとっくに逃げ出し、今は俺と与兵衛爺さんの二人だけ。


俺が逃げ支度を整えて城を出ようとすると、甲冑を着込んでふらふらと歩いて高台へ向かう与兵衛爺さんが見えた。


逃げ道があるのかとついて行ってみれば、この体たらくだ。




「儂はこの辺の村で生まれたんだよ。随分と昔に戦で無くなったがな。」


与兵衛爺さんは遠い目をする。


「小さいが良い村だった。この山城が建ってる辺りに、村の守り神の桜の木が生えてた。そりゃあ立派な木でな。春になると、まるで燃え上がるように花を咲かすから『不知火桜』と呼ばれとったよ。」


昔話をし始めたって事は、この爺さんどうやら元より死は覚悟の上だったようだ。





儂がまだ子供の時分の話だ。


春先に山に入って遊んでいたら、急な大雨に見舞われてな。


この辺りにあった洞穴で雨宿りしたんだ。


暗いわ恐ろしいわで、儂は一人で震えとった。


そうすると、ちょうど洞穴の入り口に立っておった『不知火桜』の足元で、鞠をついておる子供がおったんだ。


おかっぱ頭の美しい子でな。


見事な薄紅色の着物を着ておったよ。


儂が恐る恐る見てると、向こうもこちらに気付いて手招きするんだ。


俺は誘われるがままにその子と遊んだよ。


外は土砂降りだったが、その子は水一滴にも濡れておらんもんだから、儂は雨など忘れてしまって、夢中で駆け回って遊んだよ。


雨が止み日が沈む頃、その子は儂を山の麓まで連れて行ってくれたんだ。


あの子が連れて帰ってくれねば、儂はあのままあの洞穴で飢えて死んでおったかもな。


まぁ、それからは散々な目に遭ったんだ。


お父とお母にはこっぴどく叱られるわ、びしょ濡れだったから風邪は引くわで。


それでも儂はそれから何度も何度もあの桜の木に逢いに行ったよ。


いつかまたあの子に逢えるんじゃないかと思っておったからな。


あれは、儂を助ける為に『不知火桜』が寄越した花の精だったんじゃろうな。




儂はあの娘にずっと焦がれておったんだ。


こんな歳になるまで嫁も取らず、気付けば一人身のまま、ここに居る。





村を出て殿様に支えるようになり、随分と長い事、儂は村には戻らなかった。


矢傷で馬にも乗れんようになってここに番兵として行かされた時、初めて『不知火桜』が切り倒されている事を知ったよ。




儂は、もうあの娘にもう一度逢いたかった。


儂を救ってくれたあの桜を、儂は救えなかった。




だから、せめて最期の時くらいは、『不知火』の傍に居たいんだ。








与兵衛爺さんは瞬きもしない。

目を閉じると、堪えている涙が落ちて来てしまうのだろう。





俺は腹を括って爺さんの隣に座り、くすねておいた酒瓶を懐から取り出し、ぐびりと一口飲った。


そのまま爺さんに酒瓶を差し出すと、爺さんはにやりと笑う。


爺さんは口をつける前に足元に酒を撒き、その後でごくりと音を立てて飲む。


かつてここに立っていた『不知火桜』への手向けの酒だったのだろう。




馬の蹄が土を叩く音がどんどん大きくなる。

統率の取れていない山賊達の鬨の声が、小さく聞こえている。





こんな禿山に、夏の日本晴れじゃ。


『不知火』よ。


せめて春なら、またお前さんに逢えたかの。








一陣の突風が吹いた。


振り向くと、まるで昔見た屏風絵の天女のような美しい女が、突風に躍る雨のような桜吹雪の中で微笑みながら舞っていた。






なるほど。

『不知火』も爺さんを待っていたのか。





恩人と女を守って死ぬなら、悪くない戦だ。


俺は笑いながら膝を打って立ち上がった。




「どうした?突然笑い出しおって。幻でも見えたのか?」



俺が指先で爺さんの頭の上を示すと、爺さんは自分の頭をひょいと撫でる。



爺さんの手のひらの上には、季節外れの桜の花びらが一枚乗っかっていた。



「そうか…そうか…」


爺さんは微笑むような、懐かしむような、なんとも言えない表情で涙を流しながら立ち上がった。



「さて、そろそろ行くかの。付き合わせて悪かったの、五郎よ。ぬしも侍じゃ。ぬかるなよ。」



与兵衛爺さんは膝を手で支えながらゆっくりと立ち上がる。




土煙と鬨の声が近い。



「逝こうか。五郎。」


「応。」





笑いながら、俺と与兵衛爺さんはあらぬ限りの力で鬨の声を上げた。






風に舞う真夏の桜が、最後の戦を彩っていた。
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