その結末に至る所以

きりえ/霧江

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醜女の記憶

上編

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 世界には、巨悪があった。
 それは異形であり、妖かしものであり、神であった。

 遠い遠い、昔のこと。
 巨悪と英雄の争いの音が、少しずつ世界に響き渡り始めた頃。
 地には、巨悪を闇の権現であり神であるとし崇め讃え、それが齎す夜の暴挙を鎮める為に、花嫁を捧げる儀を執り行う村があった。

 世界の広さなんて知りもしない、小さな村。
 その片隅の貧民地で、私は生まれた。


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 その結末に至る所以 醜女の記憶・上編

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 貧民地は、今にも崩れそうな木造の家々が立ち並ぶ寂れた地だったが、自然と共に生き、自然からその厳しさや慈愛、心を教わることができる豊かな地だった。痩せているながらも野菜を育んでくれる土、森林に住む鳥や獣達、季節を伝える野の花、広い空。自然と共に在れば、人の想い及ばぬ神秘が日々の中に常にあった。
それは私達にとって、神々と在るに等しかった。
 自然界の権現とされる地母神への信心が主なものだったが、空の神に天候を伺い乞い、家は木々があればこそ建つものであるから木の神にも日々感謝を捧げた。人が亡くなる時や家畜を屠殺する時、いのちの終わりに際すれば、世界では巨悪とも、村では闇の権現ともされる死の神に祈った。
自然の営みが密着している故、貧困故に死の神が恐らくどの神々よりも近しいものだった。死は恐ろしいが、死を無くして生は成り立たない。私達を生かしてくれた死者の魂を、英雄との争いに於いて使役とはせず、どうか安らかな眠りを齎したまうようにと、死の神に祈っていた。
あらゆる神々は、彼らへ捧げる人々の畏敬の心ごと、尊いものだった。

 食べることもままならない日もある貧困の中、それでも父と母は優しく、親子で肩を寄せ合って笑いながら、明るく暮らしていたと思う。
 私が6歳になる頃、母は身籠った。お姉さんになることが嬉しくて、毎日飽きもせず「いつ生まれるの」と母に聞いていた。口数の少ない父は、いつも微笑みながら見守ってくれていた。
お腹の子の名前を考えようと、父母に挟まれ薪の火にあたりながら、ふと気になって自分の名の由来を尋ねた。

「神様が住む楽園にちなんだ名前よ。
 花が咲き誇り、鳥達が歌い、獣達が踊り、あらゆる神様がその御身を癒す楽園。
 そんな楽園のような、神様さえも癒せるような素敵な女の子になりますように。
 そして、神様が御身を癒す大切な楽園を守るように、貴女のことを守ってくれますように、って。
 貴女の名前は、お父さんとお母さんの、貴女への祈りでもあるのよ。」

 母は私の髪を撫でながら、教えてくれた。泣きたくなる程、嬉しかった。なんて素敵な名前だろう、と、幼心に自分のことを愛して生きようと思った。

「貴女の髪の色は、私達とは違うわね。貴女はとてもきれいよ。
 きっと、神様もすぐに見つけてくれるわ。神様が癒しを求めに、心身を寄せに来るかもしれないわね。」

 黒にも銀にも似通う淡いモーブ色の髪は、自分以外の人にも自然の中にも近しい色を見たことがなく、善き異端なのか悪しき異端なのか分からず、ずっと不安ではあった。大仰な母の言葉に照れ臭さを感じながらも、父が小さく「そうだな」と言ってくれたことで嬉しさや感動が押し寄せ、無意識の内に父母への感謝が口から溢れ出た。
 時に不安の素でもあったこの髪色は善き異端であり特別なもので、父母の祈りのお陰で神々が守ってくれているのだと思うと、いつもの廃れた家々が並ぶ狭い村の片隅は、陽の光が射す楽園へと視界は忽ち変貌を遂げた。
父母と、これから生まれてくる弟妹と、神々に守られながら私達だけのこの小さな楽園で、幸せに生きていくのだと信じていた。

「ごめんね。」

 10歳を迎えた年のある日の朝、母は泣いていて、父は俯き拳を震わせていた。
4歳になる弟は、父母の様子を察知してか、言葉にならない声をあげて泣き喚いていた。

 貧民地には、定期的に村の富裕層からの施しがあった。
格差はあれど同じ村の者として富裕層もそれを憚ることはなく、古くから暗黙的に続いていた。それ以上も以下も富裕層と貧民地の人々に関わりは無く、狭い村の中で支配や隷属を避ける為の不可侵の約定でもあった。
 当時、村で最たる富豪の家の家長、謂わば村の長である男は横暴で独裁的な人間だった。
この日、富豪の男は突然貧民地に足を踏み入れると一通り罵声を上げ「施しを受けたくば、この一帯根こそぎ餓死したくなければ女児を奉公に出せ」と一方的に突きつけてきたのだった。

 この頃、貧民地に健常な女児は私しか居なかった。
事態はすぐに理解できた。私が富豪の元に奉公に行くことで、皆を救える。親元を離れる寂しさも、恐怖も、不安も、その現実の全てが、大したことではなかった。希望だけが胸にあった。
 神々の加護がある。恐れるものなど無かった。

「いいの、お母さん、お父さん、皆。わたし、がんばるから。大丈夫。」
「ごめんね、ごめんね。」

 母は、ずっと泣いていた。
謝らないで欲しかった。父母が、弟が、貧民地の皆が大好きだったから。
貧しくとも苦しくとも、皆で助け合い笑いながら過ごす日々を、愛しいと思っていたから。
ここで生まれたこと、ここの為に役に立てることも、私は神々に感謝していた。
 家族と貧民地の皆に見送られ、風呂敷ひとつにまとまる僅かな荷物を持って、富豪の元へ奉公に出た。

 富豪に連れられ辿り着いた場所に広がる光景は、余りにも衝撃的なものだった。
木だけでなく石や煉瓦を使い建てられた頑丈そうな大きい家々が並び、村を囲む森の木々は幾箇所か無残に切り倒され、塗料を塗られたまま放置されているものもあった。それを気にも留めず、服も髪も綺麗に整え土埃の汚れ一つ無い人々が、高く笑いながら路地を行く。扉や女性の髪にのる花々は装飾の為だけに摘まれたのか、少しでも枯れていれば屑篭に乱雑に捨てられていた。
屑篭には、野菜や肉、卵、瓶に入った飲み物などの食料もあった。貧民地の私達には欲しくてもなかなか手に入らなかった食料。屑籠に棄てられていても、私にとっては十二分に食べられるくらいきれいで、美味しそうだった。

 富豪が「お前達の地域と違って、美しいだろう」と言ったが、私にとっては魅力を感じられる情景ではなかった。無碍にされる自然のもの達、いのちが、悲しかった。
無意味に贅沢で、自然への畏れも敬いも感謝も忘れたこの地が、本当に私の育ったあの地と同じ村なのだろうか。ここで大くの人間のこのような生活が成り立っているのなら、私達は何故こんなにも貧しいのか。支配と隷属を避ける為の約定があればこそ保ってきたものもあるのだろうが、もっと手段はなかったのか。
 不信、嫌悪、恨み、妬み、泥の様に心臓に粘りつく深い怒り、遣る瀬無さを初めて知った。
村の雑踏が人工物に反射して不協和音となって耳に届き、酷く気持ちが悪く、私は吐気に襲われてその場に崩れ落ちた。

「なぁに、この子。」

 富豪は崩れ落ちた私に舌打ちすると、私の腕を抜けそうなほど乱暴に引っ張り、一際豪勢な家へと入っていった。
富豪の家だった。墓地の一部、貴重な花々の群生地を潰して建てたのだと富豪は自慢気に言った。多くの犠牲の上に成り立った家の、殆どの部屋は使われることなく無意味にそこにあった。
自然だけに飽き足らず、死者さえも無碍にする。そんな家に入ったところで吐き気が収まる筈も無く、嗚咽を我慢していると「お帰りなさいませ」と言ったきりこうべを垂れたままの使用人達の背後から、突き放すような物言いの少女-…富豪の愛娘が現れた。

「新しい使用人だ。お前と同い年だそうだ、好きに使いなさい。」

 同い年、と聞き驚いた。彼女はもっと歳上だと思ったからだ。
私よりも背が高くて、人形のような顔立ちは所謂童顔だがどこか大人びていて、高価そうな服にふわりと包まれている身体は既に女性らしい丸みのある線をしているように見えた。
私は痩せこけて、背もそんなに伸びてはいなかった。同い年でもここまで違うものなのかと、貧富の差を体現したような己と彼女との対比に、惨めな気持ちになった。
こんな想いも、初めて知った。

「よろしく…お願い致します、お嬢様…。」
「ふぅん。きったない子。」

 搾り出した挨拶は最後まで言い切る寸前で、冷たい罵声に遮られた。 富豪の娘は、そう吐き捨てると広い家の奥へと足早に去っていった。可愛い娘、気が強いおてんば娘、花よ蝶よ、誰よりも愛らしく美しい娘と富豪は彼女を讃えていた。
そんなに大切な娘にも仕えることになる使用人を、何故わざわざ貧民地の中から選んだのか、この時は全く分からなかったが、恐らく彼女を引き立てる為に、彼女に劣る同性の存在が欲しかったのだろう。
 吐き気は増していくばかりで、ここで暮らしていくという未来の恐ろしさに肩が震えた。
護ってくれている筈の神々と、今は遠くに居る家族を思い、心の中では祈りとも願いとも、嘆きともならない「どうか」という言葉を繰り返していた。
 そして、娘への愛を垂れ流す富豪に連れられたのは、陽の光など一切届かない、暗く冷たい地下の部屋だった。

「ここがお前の部屋だ。準備が終わったら上に来い。」

 富豪は意地の悪い笑みが張り付いた口でそれだけ言うと、昔からの使用人らしい老婆に粗方のことを押し付け、部屋から去っていった。
老婆は、何も言わず指でこれからの動きを示した。声を失っているようだった。決して明るい空気を纏っている訳では無く少々不気味さも感じるが、同時にどこか安心するような懐かしさのある不思議な人だった。
 神々の加護、己の名に込められた父母の祈りをも忘れかける程、この数刻で絶望に近しい感覚に心は呑み込まれていたが、富豪とその娘とは異なる空気の老婆に一縷の望みを見、大好きなあの地を出てここに来た目的と覚悟を、今一度胸に刻み込んだ。

「きっと、大丈夫。がんばろう。」

 老婆に導かれるまま、身体に染みついた土や埃の汚れを洗い流し、用意されていた使用人服を着て、松明の火だけが揺れる薄暗い地下から富豪が待つ地上の部屋へと向かった。
 ゆっくりとした老婆の先導で辿り着いた部屋は、皆で食事をする部屋なのか、大きなテーブルが中心にぽつんとある。富豪とその娘はテーブルの端にある椅子に座っていた。
果たしてこのテーブルを囲む椅子の全てに、人が座ることはあるのだろうか。金と村の中に限られた権力以外を理由にこの父子と縁を持つ人が居るとは到底思えなかったが、理解出来ないことは幾らでもあると既に思い知っていた為、きっとそういう人も居るのだろう、と広い部屋を見回しながら考えていた。
虚栄に見えるのは、私だけかもしれないと。

「…め」

 広い建物自体が初めてということもあってぼんやりと部屋の隅々を眺めていたが、富豪の父子は私を見たまま固まり何も言わず、やけに静かだった。
漸く父子が口を開いたとき、私は父母の祈りを失う、新たな名を得た。

「醜女…魔を呼ぶ醜女よ!父様!」
「お、お前…。
 …そうだ、その見目、髪の色…お前が言う通り、これは魔を呼ぶ醜女に違いない!」

 富豪の娘は、金切声を張り上げて富豪を捲し立てた。鬼気迫った表情で大きな目を見開いて、瞳には寒気がするほどの狂気が確かに宿っていた。
初めは娘の剣幕にたじろいでいた富豪も瞬く間に娘に同調し、父子は私を「魔を呼ぶ醜女」と蔑み続けた。

「父様、どうしてこんな子を連れてきたの!?
 あと何年かしたら、闇の権現への…死の神への嫁入りの儀式があるのに!
 こんな子が居たら死の神が怒って、嫁を取ってくれなくなるわ!あたしが花嫁になれるのでしょう!?」
「いや、これは死の神が、如何にこの醜女を使役するのか、神の混血の家となるに値するのかと私を試しているのかもしれない。」

 悲鳴にも似た娘の声、富豪のいやに響く大声に使用人達が集まり、何事かと富豪に問いただすが、父子は一向に鎮まらない。その内に、声が漏れ聞こえたからと外から他の村人も富豪の家に勝手にあがり、集まってきた。
 私は、この状況を全く呑み込めなかった。父母が、弟が、貧民地の皆が「きれいだ」と褒めてくれたのに、この髪の色は神々が見つけてくれる特別な色だと言ってくれたのに、それは全て醜く、魔を呼ぶものだと蔑まれている。何故なのか分からなかった。
人集りの隙間から、驚き狼狽えている老婆の姿が僅かに見えた。助けて、と、叫びたかった。

「裁きは降るぞ、魔を呼ぶ醜女。私が降す。
 お前はこの家に捕らわれたのだ。醜女、お前を絶対に逃しはしないと、死の神の御許に誓おう。」

 醜女。
 この日から、これが私の名になった。
 村の誰しもが、私をそう呼んだ。

 地下の部屋に至るまでで感じていた絶望に近しいものは、まだ幼かった私の、見たことが無い世界に対する恐怖に過ぎなかったのだろうが、それを感じることが出来ていたことは、この時確かに生きていた証だ。
健気に、惨めに足掻いて、必死に生きようとした。いずれ、死の神を最も求め最も呪い、生も死も諦めて、手放していく。

 私が、あの村に居た頃の話。
 もう長いこと、思い出すことも無かった、命の記憶。
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