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第一部
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今日は訓練と書類仕事の日だった。第四大隊は総計二十七人。うち新人が四人で、最初の三ヶ月は半分に分けて実働とその他を交互に繰り返している。
「おいアボット。始末書やり直しだ」
「うえっ?」
隣にいたシュカが面倒くさそうに世話係のルークの元へ向かっていくのを、ローナは苦笑しながら見送った。シュカはどうにも机仕事が苦手ならしく、意欲は実働や訓練の五割にも満たない。そのためか些細なミスが多いので、指摘する側のルークもわりとげんなりしている。
「お前なぁ……誤字にも間違う場所ってのがあるだろうが。さっさとやり直し!昼飯早めに食いたいんだから。ハヴィンを見習え」
引き合いに出されたローナは、難を逃れたこちらを恨めしそうに見てくるシュカに曖昧に笑っておいた。こっちはわりと頭を働かせるのも好きなので、書類整理の他に第四大隊の備品の管理と予算についても少しかじらせてもらっていた。
「ローナぁ」
「頑張れ」
なんとか午前中に仕事をやっつけ、昼の鐘が鳴ると、しおれた菜っ葉みたいだったシュカが俄然元気を取り戻した。
「よっしゃーめしだ!訓練だ!!」
勢いよく机から立ち上がったと思うと、ローナの腕をがっしり掴んで走り出そうとする。
「おい、シュカ、こける」
「なら引きずってやんよ!さっさと行かねぇと食堂が混むだろ!」
わりと大食漢なシュカはその分満足に食べるのにも時間を使う。城の食堂は各機関ごとに点在しているがやはり狭いので、シュカにとっては席が空くのを待つ時間がもったいないのだった。
「もう弁当作ってもらえよ……」
「足りねぇんだもん。お前こそ」
食堂まで走りながらシュカが言った。
「ルアちゃんの愛情がこもった弁当持ってこいよこのむっつり野郎!」
ローナは愕然とした。足が止まりかけたが、なんとか追いついて反論する。
「お前……むっつりってそりゃないだろ」
「うっせぇ!!おれにもあの子みたいな彼女がいたら……っ」
「彼女じゃないって!何度も言ってるだろ!?」
「じゃあ血が繋がんない女の子と一つ屋根の下でなにしてんだよ言ってみろ!」
「お前もう叫ぶな!!」
周囲がぎょっと振り返ってくるのを知ったローナは破れかぶれに言い返し、「一時休戦だ」と持ちかけた。
「へっ。どうせおれはモテねぇや」
「あーもう話を聞けって」
ローナは、どう言い返してもこのひと月、シュカどころか職場の誰にも信じてもらえない現実に頭を抱えつつ食堂に向かうのだった。
このひと月の間に二回ほど、警備部第四大隊には二人の天使(アイザス命名)が訪れていた。それぞれ髪色になぞらえて金の天使、銀の天使と言われている。
言わずもがな、ルアとナジカのことである。
男しかいない――それも実働があるのでわりとむさ苦しい――仕事場に、まだ年若い二人の少女は大歓迎された。手の込んだお菓子の差し入れがあったこともそれに拍車をかけた。独身四十路のアイザスを筆頭にわらわら群がっていき、人見知りのナジカはルアの背後から出ず、ここまで大人数に接したことがないルアも笑みがひきつっていた。事前に何も知らされていなかったローナが慌てふためいて二人を救援に行ったくらいだ。
しかし、もみくちゃになる次の標的に選ばれたのはローナであった。
『なに、お前ら知り合いなの』
シュカがお菓子を頬張りながら言ったことに端を発した。さっきローナがルアの名前をよんでいたことに疑問を持ったのだろう。
『え、うん。幼馴染みで……』
ローナはそれ以上話すことができなかった。大隊の九割(=独身)の目が一斉に向けられたからだ。
『……幼馴染み?それだけか?』
アイザスがやたらといい笑顔でにじり寄ってくるのに、嫌な予感を持ちつつローナは頷いた。
『は、はい』
『どっちもか?』
『いや、ナジカはおれの義理の妹です』
『……羨ましい!!』
突然の絶叫にローナもルアもナジカ(二人は差し入れた後もお茶を出されて仕方なくくつろいでいた)も飛び上がった。
頭をかきむしって悶えるのは若手の十数人。他もぎりぎりと歯軋りしていた。普通に怖い。
『え?』
『ちっくしょうおれもこんなかわいい子たち連れて「妹と幼馴染みなんです」くらい言いてぇ!』
『これが貴族と平民の差か!?』
『うっせえおれなんて子爵位なのにそんな出会い微塵もなかったわ!!』
『あれか?毎朝ナジカちゃんに起こされてルアちゃんがごはん作りに通ってくれてんのか?』
『あ、や、その』
『……起こすのも作るのもルア』
興奮していた男たちは、ナジカの呟きにぴたりと動きを止めた。
思わずローナが逃げ出したくなったほど、場が殺意に満ち溢れた。ルアは余計なことを口走ったナジカの口を押さえている。
『……おい…………。今、なんつった?』
『ローナ・ハヴィン。説明してもらおうか?』
『朝から起こしてくれるって?……幼馴染みが?』
ローナは思わず後ずさった。冷や汗が半端ない。しかし逃げた分だけ距離を詰められる。いつもは仲のいいシュカも今ばかりは追い詰める側に回っていた。目がやばい。
『……ア、アイザスさま、ルーク先輩……』
筆頭に詰め寄る二人の名を呼ぶと、二人はにこりとそれはそれは愉快げに(ただし目は殺気だっている)微笑んだ。
『怒らないから言ってみな?』
『早く言って楽になろうぜ?』
結局ローナは白状してしまった。
反応は以下の通りである。
『嫁じゃん!!』
「理不尽だ……」
思い出すだけであの後訓練場で袋叩きの目に遭った痛みを思い出す。
ルアとナジカを帰してすぐに連れて行かれ、五人くらい連続で試合ってぼろぼろになったところで、たまたまこれまで席を外していた第四大隊副隊長(既婚者子持ち)に助けられなければどうなっていたことか。
「そりゃ信じないに決まってんだろ。なんだよ三歳からの付き合いって。しかも使用人としてでもなく、対等の関係だろ?ほんとにそんなのじゃないのか?」
「だからそう言ってる。兄妹みたいなもんなんだよ、いわば」
「ふうん……?ルアちゃんの両親はいないんだったな。乳母さんは一緒で」
「そうだよ。おれもあの人にはかなり世話になった」
「なんだっけ?遠縁の子?」
「らしいけど」
うーん?と首を捻るシュカは、昼前の苛立ちは全部、満腹になったことで解消されたらしい。単純だ。何がそんなに気になるのかと聞こうとしたら、声が飛んできた。
「おらー!アボット!ハヴィン!無駄話してると走り込み増やすぞ!」
「いっけね」
後ろから見守るように走るルークを二人で振り返って、今は体力作りに集中することにした二人だった。
「……ん?」
走り込みから始まった訓練は模擬戦に切り替わり、先輩と後輩の一対一の試合を繰り返している。見取り稽古も立派な練習になるので、あぶれた者たちは休憩がてら思い思いに試合を観察していた。
ふと目を逸らしたローナは、ティリベルの訓練場の隅で試合全体を監督していたアイザスと誰かが話し込んでいる様子なのに気づいた。
(誰だ?)
官吏の服装ではないということは、貴族の誰かなのだろうか。体格のいいアルザスと比べて線が細いが、すらりと背が高く、ベージュよりも淡い白のズボンの他は上着からブーツまで、果ては腰に提げている剣まで真っ黒だ。髪も汚れない黒で、だからか肌の白さと瞳の濃い青が際立っていた。
アイザスと気心が知れたように話しているが、見た目の年は二回りくらい若い気がする。「目」を使えばもっとわかることも多いだろうが、ローナにそんな意欲はなかった。
(疲れるしなー。温存温存)
滅多に使う機会がないのでなおさらだ。
カンッと木剣同士が打ち合う音が一段と高く鳴り響き、試合の方に目を向けようとして、どうでもいいと思っていたその人と一瞬だけ目が合った。
(――?)
今、こっちを見たのか。試合ではなく。
視線を二人に戻すと、二人ともこちらを見ていた。再びぴったりと目が合い困惑する。
と、アイザスが軽く手招きの仕草をしたので首を傾げた。一応自分を指差して人違いではないか確認すると、しっかり頷かれる。隊長命令だとローナは立ち上がってそちらに向かっていった。
「こちら、ティリベル副長官の、ランファロード・セフィアさまだ」
まずローナはその人の美貌に驚嘆した。そしてその肩書きにひっくり返りそうになった。「氷の貴公子」の名はあまりにも有名だった。平民出身である中でも突出したその仕事ぶり。貴族相手だろうと臆せず対等に立ち向かい、実際に多くの者から畏敬を集めている。その有能さで副長官にまで登り詰めたのは、五年ほど前のこと。今は空位である宰相に最も近いと黙されるお方……。
今でさえ、まだ三十歳にもなっていないのに。
つまり、ローナにとっては雲の上の人であった。
そして、それ以上に。
(……「氷の貴公子」って、第一王女さまの従者じゃ……)
気まずいことこの上ない。恐る恐る長身のその人を見上げると、全くの陰りもない微笑で迎えられた。
「はじめまして。本来ならもっと早くに会っておくはずだったんだが、時間が中々とれなくてね」
……ローナは俄然警戒を強めた。そしてランファロードは、その様子を見てはますます笑みを深めるのだった。アイザスが隣でドン引いた顔をしていたが、気にしない。
「……ローナ・ハヴィンです。父が申し訳ありませんでした」
「それは何のことをいってるのかな?」
問い返されて失敗を悟ったローナだった。藍色の瞳はまるで底無し沼のように得体が知れない。
全部、公式にはなかったことになっているのだ。それを掘り返すなということなのだろうが……加害者から示す態度では、ないと思うのだが。だいたい、滅多に笑わないと噂の人の笑顔を見てるだけで冷や汗がものすごい。
「……おい、セフィアさま。いじめもそこまでにしてやってくれ」
アイザスがそう取り成そうとした、その時だった。
「――ローナ!!」
ルアが血相を変えて訓練場に飛び込んできたのは。
「ルア!?」
辺りも一気にざわめき始めた。ローナはランファロードのことも忘れてルアに駆け寄った。
「どうした?ナジカは一緒じゃないのか?」
どこからか知らないがずっと走りっぱなしだったのだろう、全身で息をするルアの後ろには、きっと先導役を果たしてくれたのであろう兵士がいる。城の門の警備はダールの管轄で、身分証明がなくば城勤めの者であろうとその親類縁者であろうと立ち入りは許されない。ルアとナジカの場合は二人セットでしか使えない、伯父クラウスの証文か何かを使っているらしい。
そして、ルアがナジカ一人を放り出すはずがないのだった。
「ローナ……!」
ルアは紅潮した頬と涙目を一杯にローナに向け、抱きついた。
周囲からいきなり殺気を感じ取ったが、気にしない。気にしたら死ぬ。
ローナは、珍しくルアが動転しているので気を引き締めた。腕を掴んで目を合わせる。
「何があった?」
「…………ナジカが……」
「ナジカに何かあったのか?」
来るべき時が来たのかとローナは顔を強張らせた。ルアはしばらく震えていたが、何度か深く呼吸を繰り返し、目を乱暴に擦って決定的な一言をこぼした。
「ナジカが拐われた……!」
「おいアボット。始末書やり直しだ」
「うえっ?」
隣にいたシュカが面倒くさそうに世話係のルークの元へ向かっていくのを、ローナは苦笑しながら見送った。シュカはどうにも机仕事が苦手ならしく、意欲は実働や訓練の五割にも満たない。そのためか些細なミスが多いので、指摘する側のルークもわりとげんなりしている。
「お前なぁ……誤字にも間違う場所ってのがあるだろうが。さっさとやり直し!昼飯早めに食いたいんだから。ハヴィンを見習え」
引き合いに出されたローナは、難を逃れたこちらを恨めしそうに見てくるシュカに曖昧に笑っておいた。こっちはわりと頭を働かせるのも好きなので、書類整理の他に第四大隊の備品の管理と予算についても少しかじらせてもらっていた。
「ローナぁ」
「頑張れ」
なんとか午前中に仕事をやっつけ、昼の鐘が鳴ると、しおれた菜っ葉みたいだったシュカが俄然元気を取り戻した。
「よっしゃーめしだ!訓練だ!!」
勢いよく机から立ち上がったと思うと、ローナの腕をがっしり掴んで走り出そうとする。
「おい、シュカ、こける」
「なら引きずってやんよ!さっさと行かねぇと食堂が混むだろ!」
わりと大食漢なシュカはその分満足に食べるのにも時間を使う。城の食堂は各機関ごとに点在しているがやはり狭いので、シュカにとっては席が空くのを待つ時間がもったいないのだった。
「もう弁当作ってもらえよ……」
「足りねぇんだもん。お前こそ」
食堂まで走りながらシュカが言った。
「ルアちゃんの愛情がこもった弁当持ってこいよこのむっつり野郎!」
ローナは愕然とした。足が止まりかけたが、なんとか追いついて反論する。
「お前……むっつりってそりゃないだろ」
「うっせぇ!!おれにもあの子みたいな彼女がいたら……っ」
「彼女じゃないって!何度も言ってるだろ!?」
「じゃあ血が繋がんない女の子と一つ屋根の下でなにしてんだよ言ってみろ!」
「お前もう叫ぶな!!」
周囲がぎょっと振り返ってくるのを知ったローナは破れかぶれに言い返し、「一時休戦だ」と持ちかけた。
「へっ。どうせおれはモテねぇや」
「あーもう話を聞けって」
ローナは、どう言い返してもこのひと月、シュカどころか職場の誰にも信じてもらえない現実に頭を抱えつつ食堂に向かうのだった。
このひと月の間に二回ほど、警備部第四大隊には二人の天使(アイザス命名)が訪れていた。それぞれ髪色になぞらえて金の天使、銀の天使と言われている。
言わずもがな、ルアとナジカのことである。
男しかいない――それも実働があるのでわりとむさ苦しい――仕事場に、まだ年若い二人の少女は大歓迎された。手の込んだお菓子の差し入れがあったこともそれに拍車をかけた。独身四十路のアイザスを筆頭にわらわら群がっていき、人見知りのナジカはルアの背後から出ず、ここまで大人数に接したことがないルアも笑みがひきつっていた。事前に何も知らされていなかったローナが慌てふためいて二人を救援に行ったくらいだ。
しかし、もみくちゃになる次の標的に選ばれたのはローナであった。
『なに、お前ら知り合いなの』
シュカがお菓子を頬張りながら言ったことに端を発した。さっきローナがルアの名前をよんでいたことに疑問を持ったのだろう。
『え、うん。幼馴染みで……』
ローナはそれ以上話すことができなかった。大隊の九割(=独身)の目が一斉に向けられたからだ。
『……幼馴染み?それだけか?』
アイザスがやたらといい笑顔でにじり寄ってくるのに、嫌な予感を持ちつつローナは頷いた。
『は、はい』
『どっちもか?』
『いや、ナジカはおれの義理の妹です』
『……羨ましい!!』
突然の絶叫にローナもルアもナジカ(二人は差し入れた後もお茶を出されて仕方なくくつろいでいた)も飛び上がった。
頭をかきむしって悶えるのは若手の十数人。他もぎりぎりと歯軋りしていた。普通に怖い。
『え?』
『ちっくしょうおれもこんなかわいい子たち連れて「妹と幼馴染みなんです」くらい言いてぇ!』
『これが貴族と平民の差か!?』
『うっせえおれなんて子爵位なのにそんな出会い微塵もなかったわ!!』
『あれか?毎朝ナジカちゃんに起こされてルアちゃんがごはん作りに通ってくれてんのか?』
『あ、や、その』
『……起こすのも作るのもルア』
興奮していた男たちは、ナジカの呟きにぴたりと動きを止めた。
思わずローナが逃げ出したくなったほど、場が殺意に満ち溢れた。ルアは余計なことを口走ったナジカの口を押さえている。
『……おい…………。今、なんつった?』
『ローナ・ハヴィン。説明してもらおうか?』
『朝から起こしてくれるって?……幼馴染みが?』
ローナは思わず後ずさった。冷や汗が半端ない。しかし逃げた分だけ距離を詰められる。いつもは仲のいいシュカも今ばかりは追い詰める側に回っていた。目がやばい。
『……ア、アイザスさま、ルーク先輩……』
筆頭に詰め寄る二人の名を呼ぶと、二人はにこりとそれはそれは愉快げに(ただし目は殺気だっている)微笑んだ。
『怒らないから言ってみな?』
『早く言って楽になろうぜ?』
結局ローナは白状してしまった。
反応は以下の通りである。
『嫁じゃん!!』
「理不尽だ……」
思い出すだけであの後訓練場で袋叩きの目に遭った痛みを思い出す。
ルアとナジカを帰してすぐに連れて行かれ、五人くらい連続で試合ってぼろぼろになったところで、たまたまこれまで席を外していた第四大隊副隊長(既婚者子持ち)に助けられなければどうなっていたことか。
「そりゃ信じないに決まってんだろ。なんだよ三歳からの付き合いって。しかも使用人としてでもなく、対等の関係だろ?ほんとにそんなのじゃないのか?」
「だからそう言ってる。兄妹みたいなもんなんだよ、いわば」
「ふうん……?ルアちゃんの両親はいないんだったな。乳母さんは一緒で」
「そうだよ。おれもあの人にはかなり世話になった」
「なんだっけ?遠縁の子?」
「らしいけど」
うーん?と首を捻るシュカは、昼前の苛立ちは全部、満腹になったことで解消されたらしい。単純だ。何がそんなに気になるのかと聞こうとしたら、声が飛んできた。
「おらー!アボット!ハヴィン!無駄話してると走り込み増やすぞ!」
「いっけね」
後ろから見守るように走るルークを二人で振り返って、今は体力作りに集中することにした二人だった。
「……ん?」
走り込みから始まった訓練は模擬戦に切り替わり、先輩と後輩の一対一の試合を繰り返している。見取り稽古も立派な練習になるので、あぶれた者たちは休憩がてら思い思いに試合を観察していた。
ふと目を逸らしたローナは、ティリベルの訓練場の隅で試合全体を監督していたアイザスと誰かが話し込んでいる様子なのに気づいた。
(誰だ?)
官吏の服装ではないということは、貴族の誰かなのだろうか。体格のいいアルザスと比べて線が細いが、すらりと背が高く、ベージュよりも淡い白のズボンの他は上着からブーツまで、果ては腰に提げている剣まで真っ黒だ。髪も汚れない黒で、だからか肌の白さと瞳の濃い青が際立っていた。
アイザスと気心が知れたように話しているが、見た目の年は二回りくらい若い気がする。「目」を使えばもっとわかることも多いだろうが、ローナにそんな意欲はなかった。
(疲れるしなー。温存温存)
滅多に使う機会がないのでなおさらだ。
カンッと木剣同士が打ち合う音が一段と高く鳴り響き、試合の方に目を向けようとして、どうでもいいと思っていたその人と一瞬だけ目が合った。
(――?)
今、こっちを見たのか。試合ではなく。
視線を二人に戻すと、二人ともこちらを見ていた。再びぴったりと目が合い困惑する。
と、アイザスが軽く手招きの仕草をしたので首を傾げた。一応自分を指差して人違いではないか確認すると、しっかり頷かれる。隊長命令だとローナは立ち上がってそちらに向かっていった。
「こちら、ティリベル副長官の、ランファロード・セフィアさまだ」
まずローナはその人の美貌に驚嘆した。そしてその肩書きにひっくり返りそうになった。「氷の貴公子」の名はあまりにも有名だった。平民出身である中でも突出したその仕事ぶり。貴族相手だろうと臆せず対等に立ち向かい、実際に多くの者から畏敬を集めている。その有能さで副長官にまで登り詰めたのは、五年ほど前のこと。今は空位である宰相に最も近いと黙されるお方……。
今でさえ、まだ三十歳にもなっていないのに。
つまり、ローナにとっては雲の上の人であった。
そして、それ以上に。
(……「氷の貴公子」って、第一王女さまの従者じゃ……)
気まずいことこの上ない。恐る恐る長身のその人を見上げると、全くの陰りもない微笑で迎えられた。
「はじめまして。本来ならもっと早くに会っておくはずだったんだが、時間が中々とれなくてね」
……ローナは俄然警戒を強めた。そしてランファロードは、その様子を見てはますます笑みを深めるのだった。アイザスが隣でドン引いた顔をしていたが、気にしない。
「……ローナ・ハヴィンです。父が申し訳ありませんでした」
「それは何のことをいってるのかな?」
問い返されて失敗を悟ったローナだった。藍色の瞳はまるで底無し沼のように得体が知れない。
全部、公式にはなかったことになっているのだ。それを掘り返すなということなのだろうが……加害者から示す態度では、ないと思うのだが。だいたい、滅多に笑わないと噂の人の笑顔を見てるだけで冷や汗がものすごい。
「……おい、セフィアさま。いじめもそこまでにしてやってくれ」
アイザスがそう取り成そうとした、その時だった。
「――ローナ!!」
ルアが血相を変えて訓練場に飛び込んできたのは。
「ルア!?」
辺りも一気にざわめき始めた。ローナはランファロードのことも忘れてルアに駆け寄った。
「どうした?ナジカは一緒じゃないのか?」
どこからか知らないがずっと走りっぱなしだったのだろう、全身で息をするルアの後ろには、きっと先導役を果たしてくれたのであろう兵士がいる。城の門の警備はダールの管轄で、身分証明がなくば城勤めの者であろうとその親類縁者であろうと立ち入りは許されない。ルアとナジカの場合は二人セットでしか使えない、伯父クラウスの証文か何かを使っているらしい。
そして、ルアがナジカ一人を放り出すはずがないのだった。
「ローナ……!」
ルアは紅潮した頬と涙目を一杯にローナに向け、抱きついた。
周囲からいきなり殺気を感じ取ったが、気にしない。気にしたら死ぬ。
ローナは、珍しくルアが動転しているので気を引き締めた。腕を掴んで目を合わせる。
「何があった?」
「…………ナジカが……」
「ナジカに何かあったのか?」
来るべき時が来たのかとローナは顔を強張らせた。ルアはしばらく震えていたが、何度か深く呼吸を繰り返し、目を乱暴に擦って決定的な一言をこぼした。
「ナジカが拐われた……!」
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