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第一部
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「ハヴィン」
ある長閑な昼間、訓練場での打ち合いの最中に声をかけられ、観戦していたローナはそのままアイザスに木陰に連れていかれた。
何だかんだで、あの誘拐事件からもう一月と半月が経とうとしていた。
「どうしたんですか、アイザスさま」
「あとで全員に周知させるが、お前には先に知らせておこうと思ってな」
アイザスはどこかためらうように視線を揺らがせ、やがてぽつりと告げた。
「……南方ケルシュで、ヘーゼルの旗が上がった」
「…………え?」
ローナは思考を停止させた。ケルシュも、ヘーゼルもわかる。ただ、その意味がわからなかった。
「……待って、ください。エーラのあと、消息がまた途絶えていたんじゃ……」
「王都の南に、やくざものや流れ者が多かっただろう。即位式のためだけかと思っていたんだが、今も流入は止まっていないのはお前も出動を繰り返しているから知っているだろ、ケルシュから逃げてきていたんだ」
先日の会議でおれも知った、とアイザスは苦い顔で頭をかいた。
「逃げてきた奴らは不法者が多い。関所を逃げ出すのは民間人には厳しいからな。……しかし、ハルジアの報告によると、ケルシュの都市機能自体、いつ破綻するかわからないそうだ。だいたいケルシュ内部でも情報が錯綜している。――わかるな、ハヴィン。お前に先に言うのは、ナジカちゃんのためだ。他に口外するな。余計な混乱を招くことは許さん」
「……はい」
ローナの喉はからからに干上がっていた。ナジカのトラウマの根源――しかも、ナジカはヘーゼルの魔の手から逃れた唯一の生存者だった。
「……城は、どう対処するんですか」
「…………それ、は」
なおさら、アイザスは言い淀み、呆然としたローナをちらりと見て、重々しくため息をついた。
「……まだもめている。相手はハルジアでさえもが形を掴めない、巨大かつ不透明な団体だ。決定的な戦力も足りなければ、大騒ぎで人員を動員するわけにはいかない。しばらくは様子見だろう」
「ナジカは」
「安心しろ。出頭要請なんて出させない。記録上は全滅だし、大した情報もないのは、以前にレイソル殿の作った報告書だけでも明らかだ。……ナジカちゃんの目の前にいたのが、頭領であってもな」
「――アイザスさま」
「異論はセフィアさまが先に潰すさ。万が一があったら、ナジカちゃんを連れてセレノクール家に逃げ込め。お前、あそこの公爵殿とも仲がいいんだろ」
「ナジカは、今、ようやく立ち直ってきたところなんです」
「ああ、知ってるよ。だからだ」
公私混同なんて百も承知、アイザスはそう嘯いた。
「あの子を守りきれなかったティリベルの責任を、あんなちっさな子に押し付けられるか。……大勢を取るか、一人を取るか、まだ猶予はある。だから、お前はちゃんと――」
「ナジカを傷つけるくらいなら、おれが出ます」
「――おい!それは!」
ローナの決意を秘めた瞳に、アイザスは声を荒げた。ぎょっとするどころの話ではない。
「お前、何を言ってるのかわかってんのか!?」
「おれの『力』なら、充分にナジカの代わりになるでしょう」
「お前のそれもリスクがあるんだろうが!だいたいクラウス殿にも止められている!」
ローナは、なぜあの穏和な伯父がこうも聞く先々で危険人物のように言われるのか、よくわかっていない。この際に聞いてみると、アイザスは頭を抱えた。風船の空気が抜けるような脱力の仕方に、ローナの方が驚いた。
「……お前、身の周りのことを見逃しすぎだろ。クラウス殿は先の大戦でも戦場を渡り歩いては小競り合いを鎮圧しまくった方だぞ。武力によらず、知恵だけで」
「そうなんですね」
「反応が軽い!!」
「話を戻しますけど、ナジカの代わり、というだけです。最後に抑えきれなくなったらおれを使ってください。それまでには伯父さんを説得します」
「……この阿呆が!打開策考えてやるよ!お前、危なっかしいんだよ本当に!」
「終わりがよければ、それでいいです」
「言っとくけど後始末はおれらがやるんだからな!?お前の能力も極秘事項なんだよ!一旦漏れたら……それどころか、利用価値があると見込まれたらもう庇えないんだぞ!」
さすがにそこまで考えていなかったローナは、ぱちぱちと目を瞬かせ、確かに、とぽそりと言った。先程までの怒りも消え失せ、ローナは自分の進退が気になり始めた。
「……おれのこれって、そんなに有用なんですかね?それに……」
セレノクール家が守るにしても、ローナはすでに公爵家当主に対して大恩を感じている。結局、最後には、ローナは自分の意志でもそうでなくても、『力』を使う未来が待っている気がした。
アイザスがなんとも変な顔をしているうちに、ローナはうん、と頷いた。
「でも、おれも官吏です。おれが望んでやることなら、いいでしょう」
「……お前、それ、丸投げって言うんだぞ」
「本当に考えなしで申し訳ないです。でも、駄目なんです」
ナジカはようやく前を向き始めたのだ。止めていた時を回して、ゆっくりと。――今失敗すれば、ナジカは今度こそ闇に落ちて溶けていってしまうだろう、そんな予感があった。
「……わかった。とにかく、今の話はおれの胸に留めておく。万が一の逃げ道に使われたらたまらんからな。お前もそのつもりでいろ。いいな」
「ありがとうございます」
ローナはアルザスが提示する最大限の便宜に、深々と頭を下げるしかなかった。
やりたいことと、やらなくてはいけないことが多すぎる。
今のローナには誰も守れない。だからといって、周りがその代わりに守ってくれるわけではないのだ。物理的にも、政治的にも。
手始めは、この部署にいるからには必要な能力を身に付けることから。それから、父の死にまつわるあれこれを明らかにすること。
恩情で生き長らえている状態から脱却するために、確固たる地位が必要だった。
ローナは、急いで強くなるべきだった。
ある長閑な昼間、訓練場での打ち合いの最中に声をかけられ、観戦していたローナはそのままアイザスに木陰に連れていかれた。
何だかんだで、あの誘拐事件からもう一月と半月が経とうとしていた。
「どうしたんですか、アイザスさま」
「あとで全員に周知させるが、お前には先に知らせておこうと思ってな」
アイザスはどこかためらうように視線を揺らがせ、やがてぽつりと告げた。
「……南方ケルシュで、ヘーゼルの旗が上がった」
「…………え?」
ローナは思考を停止させた。ケルシュも、ヘーゼルもわかる。ただ、その意味がわからなかった。
「……待って、ください。エーラのあと、消息がまた途絶えていたんじゃ……」
「王都の南に、やくざものや流れ者が多かっただろう。即位式のためだけかと思っていたんだが、今も流入は止まっていないのはお前も出動を繰り返しているから知っているだろ、ケルシュから逃げてきていたんだ」
先日の会議でおれも知った、とアイザスは苦い顔で頭をかいた。
「逃げてきた奴らは不法者が多い。関所を逃げ出すのは民間人には厳しいからな。……しかし、ハルジアの報告によると、ケルシュの都市機能自体、いつ破綻するかわからないそうだ。だいたいケルシュ内部でも情報が錯綜している。――わかるな、ハヴィン。お前に先に言うのは、ナジカちゃんのためだ。他に口外するな。余計な混乱を招くことは許さん」
「……はい」
ローナの喉はからからに干上がっていた。ナジカのトラウマの根源――しかも、ナジカはヘーゼルの魔の手から逃れた唯一の生存者だった。
「……城は、どう対処するんですか」
「…………それ、は」
なおさら、アイザスは言い淀み、呆然としたローナをちらりと見て、重々しくため息をついた。
「……まだもめている。相手はハルジアでさえもが形を掴めない、巨大かつ不透明な団体だ。決定的な戦力も足りなければ、大騒ぎで人員を動員するわけにはいかない。しばらくは様子見だろう」
「ナジカは」
「安心しろ。出頭要請なんて出させない。記録上は全滅だし、大した情報もないのは、以前にレイソル殿の作った報告書だけでも明らかだ。……ナジカちゃんの目の前にいたのが、頭領であってもな」
「――アイザスさま」
「異論はセフィアさまが先に潰すさ。万が一があったら、ナジカちゃんを連れてセレノクール家に逃げ込め。お前、あそこの公爵殿とも仲がいいんだろ」
「ナジカは、今、ようやく立ち直ってきたところなんです」
「ああ、知ってるよ。だからだ」
公私混同なんて百も承知、アイザスはそう嘯いた。
「あの子を守りきれなかったティリベルの責任を、あんなちっさな子に押し付けられるか。……大勢を取るか、一人を取るか、まだ猶予はある。だから、お前はちゃんと――」
「ナジカを傷つけるくらいなら、おれが出ます」
「――おい!それは!」
ローナの決意を秘めた瞳に、アイザスは声を荒げた。ぎょっとするどころの話ではない。
「お前、何を言ってるのかわかってんのか!?」
「おれの『力』なら、充分にナジカの代わりになるでしょう」
「お前のそれもリスクがあるんだろうが!だいたいクラウス殿にも止められている!」
ローナは、なぜあの穏和な伯父がこうも聞く先々で危険人物のように言われるのか、よくわかっていない。この際に聞いてみると、アイザスは頭を抱えた。風船の空気が抜けるような脱力の仕方に、ローナの方が驚いた。
「……お前、身の周りのことを見逃しすぎだろ。クラウス殿は先の大戦でも戦場を渡り歩いては小競り合いを鎮圧しまくった方だぞ。武力によらず、知恵だけで」
「そうなんですね」
「反応が軽い!!」
「話を戻しますけど、ナジカの代わり、というだけです。最後に抑えきれなくなったらおれを使ってください。それまでには伯父さんを説得します」
「……この阿呆が!打開策考えてやるよ!お前、危なっかしいんだよ本当に!」
「終わりがよければ、それでいいです」
「言っとくけど後始末はおれらがやるんだからな!?お前の能力も極秘事項なんだよ!一旦漏れたら……それどころか、利用価値があると見込まれたらもう庇えないんだぞ!」
さすがにそこまで考えていなかったローナは、ぱちぱちと目を瞬かせ、確かに、とぽそりと言った。先程までの怒りも消え失せ、ローナは自分の進退が気になり始めた。
「……おれのこれって、そんなに有用なんですかね?それに……」
セレノクール家が守るにしても、ローナはすでに公爵家当主に対して大恩を感じている。結局、最後には、ローナは自分の意志でもそうでなくても、『力』を使う未来が待っている気がした。
アイザスがなんとも変な顔をしているうちに、ローナはうん、と頷いた。
「でも、おれも官吏です。おれが望んでやることなら、いいでしょう」
「……お前、それ、丸投げって言うんだぞ」
「本当に考えなしで申し訳ないです。でも、駄目なんです」
ナジカはようやく前を向き始めたのだ。止めていた時を回して、ゆっくりと。――今失敗すれば、ナジカは今度こそ闇に落ちて溶けていってしまうだろう、そんな予感があった。
「……わかった。とにかく、今の話はおれの胸に留めておく。万が一の逃げ道に使われたらたまらんからな。お前もそのつもりでいろ。いいな」
「ありがとうございます」
ローナはアルザスが提示する最大限の便宜に、深々と頭を下げるしかなかった。
やりたいことと、やらなくてはいけないことが多すぎる。
今のローナには誰も守れない。だからといって、周りがその代わりに守ってくれるわけではないのだ。物理的にも、政治的にも。
手始めは、この部署にいるからには必要な能力を身に付けることから。それから、父の死にまつわるあれこれを明らかにすること。
恩情で生き長らえている状態から脱却するために、確固たる地位が必要だった。
ローナは、急いで強くなるべきだった。
応援ありがとうございます!
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