彼岸の傾城傾国

高嗣水清太

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第一章 偽りの皇帝

第十六話

「何をしている紅焔こうえん! 殺せ!!」

 皇帝が李冰りひょうを殺せと叫ぶが、名指しされた紅焔こうえん煌威こういの傍から動かない。
 むしろ、紅焔こうえんの眼は煌威こういの意志にのっとり、皇帝を捉えて離さなかった。

 臣下が皇帝じぶんよりも皇太子むすこの命令を優先したということがどういうことなのか、考えもしないのだろう皇帝が舌打ちする。そしてそのまま周囲を見回すが、娘である筈の煌凛こうりんは皇后の背後からとがめるような視線を寄越すだけで動く気配はなく、最初に命令した紅焔こうえん煌威こういから離れようとしない状況に、皇帝はやっと味方が誰もいないと気づいたようだった。
 唇を噛んで、憎々しげに李冰りひょうを見やる皇帝は、今自分が周囲からどう見られているのかさえ分からないらしい。

 ――態度を取りつくろうこともしないとは。

 耄碌もうろくした、どころの話ではない。と、煌威こういは顔をさらにしかめた。

 ただえればいいだけの家畜と違うのだ。理性を持つ生き物として当たり前で、簡単なことの筈だ。人のものを取ってはいけないと理解することも、人の嫌がることをしてはいけないと己をりっすることも。今どき、幼子でさえ悪いことだと知っている。 

 誰よりも法を熟知し、法をき、自らその法を厳守しなければいけない地位にいる皇帝が、その法を犯したのだ。皇帝だからと言って、何をしてもいいわけではない。
 
「こんな……っお前のような男に……ッ」

 皇帝がギリギリと歯を噛み締め、なおも李冰りひょうを睨む。

 自分が何をしたのか。自分がしたことを棚に上げて、李冰りひょうを睨む愚かさを分かっているのかいないのか。
 いや、確実に分かっていないのだろう。さらに皇帝が続けた言葉は、暗愚あんぐなその性格を如実にょじつに表していた。

「こんな……蛮族ばんぞくの男に花姑かこは……なぜっこんな……、こんな男の娘など死んで当然だ! 蛮族の男の娘など……っこんな男の血統を我が国に入れてたまるか!!」
「っ父上!!」

 煌威こうい咄嗟とっさに声を上げたが間に合わず、皇帝の裏切りを示す言葉が室内にこだまする。
 どこまで帝国の品位をおとしめれば気がすむのか。
 これが己の、血の繋がった親なのだと思うと、煌威こうい羞恥しゅうちを覚えた。 

「まさか……」

 李冰りひょう愕然がくぜんとしたように呟く。
 当然だ。これでは、帝国は最初から条約を結ぶ気は無かったどころか、北戎ほくじゅの娘を殺す為に条約というえさおびき寄せたことになる。
 正確には、皇帝は確実に北戎ほくじゅ棟梁とうりょうである李冰りひょうとその娘を殺す腹積もりだったのだろうが、それは皇帝自身が画策したことにより皇帝イコール帝国という図式になってしまった今では些細な違いだった。

 皇帝が、醜悪しゅうあく表情かおで笑う。

花姑かこが想う男の……っ北戎ほくじゅの娘など要らん! 男も娘も存在自体が邪魔だ! 皇后はちんのものだ!!」
「……っ」

 自分勝手な欲望の為に、北戎ほくじゅの娘を殺したのは皇帝じぶんだと宣言したも同然の父親の姿は、帝国を何とも思っていないことの証明で、それは酷く煌威こういの胸を刺した。

 皇帝が、私利私欲で動いては終わりだ。皇帝は帝国の象徴であるだけではない。導くものだ。国の在り方を決める皇帝が愚帝ぐていでは、いつかその国は滅びる。

 ――いつからなのだろうか。皇帝がこうなってしまったのは。

 煌威こういの中で、記憶にある父は民を思って法をき、歴代の皇帝にも劣らず立派な献帝けんていと呼ぶに相応しい出で立ちをしていたように思う。
 しかし今の皇帝を見ていると、あの姿は幻だったのかと思ってしまうほどその落差は激しい。単に自分が皇帝の理想を父親に見ていただけなのか。 

 悲しいという感情と、しかしああ……だから、という思考も煌威こういの中にはあった。犯人が皇帝であるなら、姿を見かけても不審に思われないし咎められない。
 北戎ほくじゅの娘が死んだとき、全くと言っていいほど目撃情報が出てこなかった理由がはっきりした。 


 李冰りひょうだけでなく、北戎ほくじゅ側からの視線が突き刺さる。どう責任をとるつもりか、と眼が言っていた。
 李冰りひょうからは皇帝への憎悪を飛び越え、殺意すら感じる。 
 そんな中、似つかわしくない艶やかな笑い声が響いた。

「……ふふっ。貴方に、いいことを教えて差し上げますわ」

 声の主は、妖艶な美しさで虫を誘って食べてしまう食虫花のような笑みを浮かべた皇后だった。 麗しい笑みを浮かべて、皇后が爆弾を落とす。

李冰りひょう殿の連れていた娘はわたくしが二十七年前産んだ娘です」
「な……っ」

 煌威こうい紅焔こうえんは、皇后と李冰りひょうの再会現場に居合わせたことから前もって知っていた情報で、北戎ほくじゅ側の重鎮じゅうちん達も知っていたようだが、皇帝にとっては初めて聞く内容だったらしい。大きく目を見開いて、立ち尽くしていた。

 さらってきて三十年近くも傍に置いて、皇后のことを何も知らなかった。知ろうともしなかった、という事実が明るみに出る。

 しかし、皇后はさらに追い討ちをかけた。

「父親は李冰りひょう殿だとお思いなんでしょう」
「……当たり前だろう」
「……ですが、父親は貴方です」
「な……ッ!」
「なんだと!?」

 皇后の発言に、皇帝だけでなく李冰りひょうも目を見開いて愕然と立ち尽くす。
 李冰りひょうのその表情は信じられないものを見る眼で、皇后は一度ぐっと固く両目を閉じた後、震える唇を開いた。
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