彼岸の傾城傾国

高嗣水清太

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第二章 悪意を呑んだ天命

第二十八話

 謁見えっけんの場で、李冰りひょうから一歩下がって立つ煌凛こうりんは、武将ではなく女の眼をしていたように思う。
 嫁いでから何があったのか、離れた土地で暮らす煌威こういに推し量ることは出来ないが、おそらく李冰りひょうを人間としても男としても、信頼する何かがあったに違いないと考える。政略結婚とはいえ、夫婦は夫婦だ。共に過ごすことで余人には分からない信頼関係を生むこともあるだろう。
 というか、信頼関係がないと夫婦としてやっていけない。特に国を背負い、民を背負う責任のある立場の人間同士は。先帝と、その正妃であった玉環ぎょくかんの二人がいい例だ。

 そう考えれば、煌凛こうりんの顔色を見るに李冰りひょうとの二人の関係は、悪いものではなかったのだろう。
 この婚姻は、条約の為の婚姻であり、国にとってはそれ以上でもそれ以下でもなかった。二人が仲睦まじい夫婦でいる必要はなく、帝国と北戎ほくじゅを結ぶかすがいであればいい。そう望まれた婚姻だ。
 けれど、それを煌凛こうりんは今、良しとしていないのだ。

 煌凛こうりんが帝国を母国で、己にとって唯一の国と捉えていることに変わりはないだろう。
 だが、おそらく比重は変わっている。帝国と北戎ほくじゅ、いや、この場合は帝国と李冰りひょう、だろうか。煌凛こうりんは、帝国と李冰りひょうを同等に見ている。
 愛して、しまったのだろう。帝国を想うのと同じように。もしくは、それ以上に。

 煌威こういにも覚えのある感情だから分かる。
 正しく同じかと問われれば違うものだが、煌威こういにとってのそれは紅焔こうえんだ。
 紅焔こうえんを皇帝とする為なら、どんな汚いことでも、どんなに人から恨まれようとも、何でも出来ると思った。今でもそれは、別の形で煌威こういの内にある。だから、李冰りひょうの行動に思い悩んでいる煌凛こうりんの気持ちが分かる。

 李冰りひょうが己以外の妻を全員離縁したという事態に、帝国ですら一夫多妻が当たり前の姻習いんしゅうだったのだから、煌凛こうりんは戸惑ったことだろう。
 そこで女の優越感が出てこないところはさすがだが、李冰りひょうを真に想い、上に立つ人間としての自覚があれば戸惑うのが当然だ。

 皇族には、血筋を守る義務がある。
 とある国のように血統の純血性を守る為、近親婚を推奨しているわけではないが、血筋を尊んでいることに変わりはない。
 皇族の生まれである煌凛こうりんにとって、女としての自尊心より優先させて然るべき義務を無視した李冰りひょうの行為は、相手を愛しているからこそ納得のいくものではないと捉えるのが普通だ。


李冰りひょう殿に、子供はいません。先だっての……、その……、あのとき、亡くなられた御息女以外に子は無かった」 

 なんとも複雑な顔で、言葉に惑いながら煌凛こうりんが言う。

「……ああ、知っている」

 だからこその、婚姻によって締結される不可侵条約だった。
 李冰りひょうにとって、ただ一人の血が繋がった娘。その娘を差し出すという行為事態が、帝国と北戎ほくじゅの信頼関係にも繋がっていた。
 それが、横恋慕というにも烏滸おこがましい、最低なことを仕出かした先帝と、さらわれる形で皇后に収まった玉環ぎょくかんの娘だったと判明するまでは。

 玉環ぎょくかん李冰りひょうの妻で、攫われて先帝の正妃にされていた等と。実は李冰りひょうの子供とされていた娘が先帝の娘で、皇太子とされた先帝の子供が李冰りひょうの息子だった等と。誰にも、予想などできなかった。

 今は皇帝であり、皇太子だった煌威こうい李冰りひょうの実子だと知っているのは、肝心の産みの親である玉環ぎょくかん亡き今、李冰りひょう煌威こうい当人だけだが、それが問題だ。

 李冰りひょうは条約締結の条件に、崩れかけた信頼をまた築く為だと詭弁きべんろうして、「妻だった玉環ぎょくかんの忘れ形見である皇太子を煌龍帝国こうりゅうていこく皇帝に」と言いながら、本当は先帝ではなく自分の息子である煌威こういを皇帝とすることで、裏から帝国を支配しようとしている。そう思われてもおかしくない。
 実際、真実はそうでないのかと煌威こうい自身疑っている。

 玉環ぎょくかんから聞くまで己の出自がどういうものか、煌威こうい自身どころか李冰りひょうも知らなかった。それは確かだが、知らなかったでは済まされないのが現状であり、もし万が一それが判明した場合、帝国は北戎ほくじゅに弓を引くだろう。

 そもそも裏を知らない、表しか知らない人間にとって、李冰りひょうが友好条約において煌凛こうりんめとったことだけならまだしも、北戎ほくじゅに利となるわけでもない煌龍帝国こうりゅうていこくの皇帝を煌威こういに、と指名して条約締結としたことに、なぜ誰も違和感を抱かないのか煌威こういはなはだ疑問だった。
 しかし、誰かが違和感を抱いたとして。
 事の発端や全てを調べ、煌威こういの出自やらが白日の元にさらされた場合、煌威こういは皇帝から引きり降ろされた末に処刑されるのは確実と言えるのが悩ましいところだ。
 次の皇帝は弟達か紅焔こうえんかで揉めるところまで想像出来る。

 今の北戎ほくじゅと帝国の関係は、正直言って危ういものだ。
 例えるならば、断崖絶壁に生える木のようなものであり、根が外に出ている木は踏ん張る力もなく、ほんの少しの雨やそよぐ風で崖下に落ちてしまう。
 解決策は、雨をしのぐ屋根を作り、そよ風すら通さぬ壁を設置させることぐらいだろう。
 断崖絶壁という、下手をすれば解決策を講じた人間すら共倒れになる場所で。
 それが分かっていて、第三者に解決策を講じさせるわけにはいかなかった。


「……宴でそれとなく李冰りひょう殿に話を振ってみよう」
「陛下……!」

 煌威こういの言葉に、煌凛こうりんが目を輝かせる。
 期待と、少しの罪悪感を湛える目だ。
 事態を解決出来るかもしれない、頼れる兄に対する期待と、しかし私利私欲と言っていい事柄に一国の皇帝の手を煩わせる自分を恥じている、そんな眼だった。

「ありがとうございます兄上。ありがとうございます陛下……」
「…………」

 深く腰を折って拱手礼きょうしゅれいをとる煌凛こうりんの姿は、どちらかというと叩頭礼こうとうれいの形に近い。
 つくづく、煌凛こうりんは生真面目で清廉潔白な人間だと煌威こういは思う。自分とは大違いだ、と。

 ――わたしが行動する理由は、正しくは煌凛こうりんの為ではなく、わたし自身の保身の為だと言ったら、煌凛こうりんはどんな反応を見せるだろうか。

 煌凛こうりんを妹として大切に思っている。これは本当だ。だが出自が露見したとき、処刑されることを恐れているのも確かだ。間違いではない。間違いではないが、更に言うなら煌威こういの本音は別のところにあった。

 ――やっと、紅焔こうえんを皇帝にと望むことを諦め、紅焔こうえんの望む皇帝であろうとしているところに、皇帝の地位から引き摺り降ろされては堪らない。

「……大丈夫だ。煌凛こうりんを妻にしている今の状況で、まさか李冰りひょう殿も帝国と戦争をしようなどと思ってはいまい」
「……はい」
「妻が一人だけ、というところに李冰りひょう殿を想えばこそ不安を抱く気持ちも分かるが、北戎ほくじゅと帝国では文化や習慣が似ているようで違うところもあるだろう」
「……はい」
「真に煌凛こうりんを想えばこそ、李冰りひょう殿にも何かしら思うところがあっての行動なのかもしれない」
「……はい」

 言葉を弄する。というのは、こういうことを言うのだろう。
 煌威こうい自身も李冰りひょうを疑っているにも関わらず、そんなことはないと。煌凛こうりんを想うが故の行動かもしれない、と。私利私欲の為に、煌凛こうりんを慰める甘い言葉を吐く。

李冰りひょう殿は悪い御仁ごじんではないよ」

 なんと言っても、煌威こうい煌凛こうりんの母である玉環ぎょくかんが命懸けで愛したと言っても過言ではない男だ。
 頭が切れるぶん油断ならないが、無闇むやみに民を虐殺ぎゃくさつするような悪い人間ではないということだけは煌威こういも確信を得ている。

 基本的に李冰りひょうは悪い人間ではないのだ。
 考え方を変えれば復讐の為、離縁は妻達に被害が及ばぬようにという配慮の可能性もある。
 ただしその場合は、李冰りひょう煌凛こうりんをも巻き込んだ復讐を計画しているということになり、あまり良い状況ではなくなるが。

 李冰りひょうは悪い人間ではなかった。立派な、というと語弊ごへいがあるかもしれないが、人の情を踏みにじるような酷い人間ではなかった。
 もしそんな酷い男に李冰りひょうが変わったのだとしたら、帝国が歪めたということだ。妻だった玉環ぎょくかんの娘である、まして今や己の妻でもある煌凛こうりんをも手にかけるほどの非情な男に。

 さすがに煌威こういもこれは言葉にしなかったが、兄の意図を察したのか、煌凛こうりんは力強く頷いた。

「はい。李冰りひょう殿を信じています」
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