彼岸の傾城傾国

高嗣水清太

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第二章 悪意を呑んだ天命

第二十九話

「陛下、そろそろ……」

 背後に控えていた紅焔こうえんから、耳元でささやかれる。
 煌威こうい視線だけを紅焔こうえんに向けると、常と変わらない強い眼光で返された。
 普段あれほど強烈な気配を発している男が、今までは煌凛こうりんとの会話を妨げないよう、空気のようにてっしていたのだと。そのことに、煌威こういは今更ながら気づく。

 この後の、李冰りひょう歓迎のうたげの準備に取り掛かるには刻限だと、紅焔こうえんの視線は告げていた。

「ああ、もうそんな時刻か」

 気の置けない兄妹との会話は、時間を忘れさせるもの、とはまた違う状況ではあったが、話の内容は時間を忘れさせるに充分なものだったらしい。

 最近は特に、時間の経過を早く感じるような気がする。気がつけば予定時刻、もしくは予定を過ぎている。そんなことが多々あった。その時々、話のほとんどが不信感をあおる気がかかりと言えるものだったせいもあるのだろうが。

「では、そろそろ行くよ。あまり思い詰めないように、な?」

 煌威こういきびすを返す前に煌凛こうりんの肩にやんわりと触れると、幾分か固く若干強ばったものだったが煌凛こうりんは笑った。

「……はい」


 酒宴しゅえんの時間が近いこともあり、煌凛こうりんとの話を切り上げ賓客ひんかく用の宿泊施設から寝殿に戻ると、狙いすましたかのように宮女が用意したらしい宴の為の袞衣こんえ煌威こういは寝台の上に発見した。
 袞衣に合わせる冕冠べんかんは、寝台横の小卓しょうたくそろえ置かれている。
 しかし宮女の姿は周囲に見当たらず、つくづく優秀らしい宮女の仕事ぶりに苦笑した。
 皇帝の身の回りの世話は紅焔こうえんがするものだと、禁城きんじょうで働く人間全てに例外なく広まっている。煌威こういはそう、実感したからだ。

「陛下」
「わかっている」

 促すように呼ばれ、煌威こうい革帯かくたいを解き、締めていた大帯だいたいを外した。続いて蔽膝へいしつを外し、着ていた上衣も脱ぎ落とす。はかまの上に付けていたを取り外し、残った小袖こそでと袴も脱ぎ捨て、小褲しょうこだけになった格好で紅焔こうえんに背を向けた。
 微かな衣擦れの音と共に、近づいてくる気配を感じる。

「腕を、陛下」

 紅焔こうえんに言われた通り煌威こういが腕を上げると、左腕からそっと袖を通された。

 袞衣は皇帝が用いる礼服というだけあって、その装いは面倒くさい行程が幾重いくえにもなる。
 出来れば避けたい、と煌威こういも思わなくはない。普段から深衣しんいで暮らせたら、どれだけ楽だろうかとも思う。
 しかし、皇帝の威信いしんを保つ為に同じ衣裳で参じるのはよろしくない。と、幼少の折から教育されていれば、着替えるのも致し方なしと煌威こういは感じた。先程まで着ていた衣裳も、昼間の謁見用に用意されていた袞衣だというのに不便なものだ。

 まず最初に袖を通すのは小袖である。襯衣しんいを着用しないことには先に進めない。
 小袖は筒袖つつそでの、大袖おおそでより袖を小さく仕立てたもので、右衽うじん方領ほうりょうだ。その小袖を着用したら、下に細身の袴を履く。色は小袖と袴、どちらも白と決まっていた。
 袴を履いたら、次はその上に裳を身につける。腰巻きのような、ひだのついた布で、こちらは基本的に鮮やかなあか一色だ。これから羽織る大袖とは対比が目立つ色彩をしていた。
  大袖は文字通り、袖が大きく丈が短い上衣である。色は黒一色で出来ているが、なめらかな生地で出来たそれは、黒一色とはいえよく見れば同色の糸で龍が刺繍ししゅうされたきらびやかな物だった。
 元より袞衣とは、首を曲げた龍が刺繍された衣のことを指すので、袞衣とはこの大袖を指すことのほうが多い。

 皇帝の正式な格好ということで用意された袞衣と冕冠だが、宴は何も形式ばったものではない。特に歓迎の、ともなれば無礼講ぶれいこうなものになることさえ珍しいことではないが、如何いかんせん皇帝に求められるのは何時いついかなるときも、その形式だった。



「…………紅焔こうえん?」

 ――ふと。こちらの、袞衣のえりを整えながら、物憂げな表情を浮かべる紅焔こうえんに気づき煌威は首を傾げる。 
 しかし紅焔こうえんは無言で、細い平紐で袞衣の腰をくくった後、寝台の上に置かれていた蔽膝を手に取った。
 前掛けである蔽膝は、袞衣の上から腰位置に付け、背面で紐を結ぶ。
 紅焔こうえん煌威こういの正面に回ったことで、鼻先が触れるような、そんな距離だからこそ気づいた異変だった。
 こちらを、と言うより、煌威こういの眼を見ようとしない紅焔こうえんの姿は、少し前の己以外の全てに嫉妬していたあの姿と重なる。
 ――ならば、と黙って煌威こういが続きを促せば、煌威こういの腰に腕を回す形で蔽膝の紐を結びながら、紅焔こうえんは口を開いた。 

「……陛下も、跡継ぎを望まれていますよね」
「あ、ぁ? うん?」

 突然振られたのは、脈絡のない話だった。思わず威厳も何もない声が出てしまう。
 いや、煌凛こうりんとの話を聞いていた故の話題だと考えれば、脈絡がないわけではない。ないわけではなかったが、煌威こういにはその意図が分からなかった。
 紅焔こうえんは話を振ったっきり、黙々と作業を続けるように大帯を締めてくる。
 沈黙が痛いと感じたときだ。

 「……っ紅焔こうえん?」 

 膝を折った紅焔こうえんが、勢いよくひざまずいた。
 突然の行動に煌威こういもつい身構えたが、理由は革帯を付ける為だとすぐに判明して息をつく。

 革帯は牛の革で出来た帯だ。大帯のように締めるものではなく、金具で留めるものである為、跪かなければ付けにくいものだった。
 黒漆くろうるし塗りの、金の飾りが並べ連ねられている革帯を腰に留め、その左右に玉佩ぎょくはいを下げることで、袞衣という礼服は完成する。
 袞衣が整えば、次は冕冠だ。

「失礼します」

 立ち上がった紅焔こうえんが背後に回った。
 いつの間にか用意されていた椅子に座るよう煌威こういは促され、されるがままに腰を下ろす。
 するり、と。後ろからたま飾りの充耳じゅうじを避けてこめかみに触れた指先が、そのまま冕冠を固定していたかんざしを抜きとった。
 紅焔こうえんの手が被っていた冠をそっと持ち上げた瞬間、解かれた髪が煌威こういの背中を叩いて落ちる。

 なんとなく、話しかける機会を失って。
 髪にくしが入れられたこともあり、髪を紅焔こうえんの手を心地よく感じ始めていたときだった。

「皇后は、いつ迎えられる予定ですか?」
「……っ!」

 何でもない会話のように、掛けられた言葉。それに、冷水を浴びせられたかのようだった。
 煌威こういは思わず紅焔こうえんを振り返り見る。
 ――お前がそれを訊くのか、と。口に出そうとして、つぐんだ。

 確かに、皇帝がいつまでも独り身でいられるものではない。若い皇帝にまず望まれるのは、国の太平よりも子供だ。帝国を護り、次代へと繋いでいく子供。

 皇帝という地位にあれば、それも義務だと分かっている。
 しかし、よりにもよってそれを当たり前のように紅焔こうえんから言われるのは、煌威こういにはどうにも辛かった。
 紅焔こうえんだけには言われたくなかったと、女々しい女のようなことを思う。

「……お前こそ、いつだ? 縁談が来ているだろう?」

 煌威こういが苦し紛れに質問を質問で返すと、紅焔こうえんが苦虫を噛み潰したような顔をした。

 大将軍であり、皇帝である煌威こういの従兄弟でもある紅焔こうえんにも、縁談が途切れることなく来ていることを煌威こういは知っている。それこそ献上けんじょうという名目で、何人かの女が既にてがわれていることも知っている。……仕方ないことだというのもわかっている。
 皇族というのは、いわば皇帝の予備スペアでもある。皇帝に子供が出来ないときや、不慮の事故等で急死したときに、皇族の中から血筋的に一番近い者が次代に選ばれる。

 紅焔こうえんを皇帝としたかった。紅焔こうえんに仕えたかった煌威こういが望むのは、一つだけだ。

「わたしは、お前の子供が見たい」
「……っ」

 コクリ、と。紅焔こうえんの喉が動くのを見た。
 暗に、自分は皇后を迎える気はない。と言ったことに、その意味に気づいただろうか。

紅焔こうえん、お前の子供が欲しいよ」

 ――できれば、わたしに近い女との間に出来た子供がいい。紅焔こうえんの血を引く子供。その子供を、次代の皇帝にしたい。

「……ずいぶんと、酷なことをおっしゃる」

 紅焔こうえんが、酷い苦痛を堪えるような顔で言った。握り込んでいる拳が震えている。
 煌威こういは、お互い様だろうと苦笑した。

「……お前もな」
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