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第二章 悪意を呑んだ天命
第三十一話
毒物は酒に直接混入されたものではなく、銚子の内側に塗布されていた。しかもその銚子は、煌威の卓に置かれていた皇帝専用の銚子である。
当初、青酸による毒殺は李冰自身が狙われたものだと思われていたが、煌威を狙った毒だったのではないか、という疑惑が浮上した。
結果だけ見れば、李冰は煌威の身代わりになって殺害されたと言ってもいいものなので、その疑惑は当然である。
だが、それには疑問が残る部分があった。
まず第一に、使われた毒物が青酸だったことである。
青酸は強い毒性を持つぶん、独特の匂いがある。違和感、という些細なものであるのも確かだが、煌威を対象にしているならば普通は使わない毒だ。それが銚子に塗布されていたのは、どうにも腑に落ちないという見解だった。
だからこそ、李冰が暗殺対象だと勘違いさせるに当初は至ったのだが……。
そもそもの話、皆おいそれと口には出さなかったが、煌威が李冰に毒を盛ったのでは、という疑いもあった。
乾杯儀礼は主催側から行う。
煌威の銚子に毒物が塗布されていたのだから、断れないのをいいことに李冰を毒殺しようとしたのだと言われれば、それらしく聞こえた。
酒宴は帝国主催だ。会場にいた人間は、帝国の人間が大半だった。そして、北戎育ちには判断の難しい、しかし誰にでも用意しやすい毒物が殺害手段とくれば、煌威が李冰を殺害したのではないかと疑いたくなるのは普通であり、帝国が北戎を傘下に置こうと棟梁を殺害したのでは? と皆が考えるのも当然だった。
だが、ある一つの可能性を考慮するならば、その疑問は解決したも同然であり、誰よりもまず紅焔がその可能性を煌威に指摘した。
「李冰殿は利用されたのでは?」
「…………」
煌威も、その可能性を全く考えなかったわけではないぶん、一瞬言葉に詰まった。
つまり、今回の李冰毒殺は、煌威の失脚を狙った毒殺だったのでは、と紅焔は言っているのだ。
その場合、犯人は帝国の人間に間違いないだろうと煌威は考える。
皇帝の銚子に毒物を塗布できる人間は限られているし、北戎側が犯人である説は棟梁である李冰が被害者なのを考えると確率的に低い。
帝国と友好条約を結んだ李冰を快く思わない北戎の人間が、皇帝の煌威諸共、という想定も無きにしも非ずだが、それを確定するには今一歩足りないのだ。
犯人は下の弟達か、帝国古参の重鎮達かは分からないが、しかしその思考回路は簡単に想像することが出来た。
煌威を失脚させて己が皇帝になる――。
そこに権力欲だけでなく、民を思う気持ちがあったとしても、あからさまで何とも頭の悪い方法をとったものだと煌威は唇を歪めた。
紅焔一人を重用する皇帝としての煌威は、さぞ権力を乱用する愚帝に見えたのだろう。愛欲に溺れていると捉えられても、おかしくはない。
分からない、でもない話だ。帝国内の話だけでなく、他国でも女に入れあげて国を傾けた皇帝の事例は数え切れない。
紅焔は女ではないが、皇帝を狂わせている人間だという意味で言うならば、間違いではなかった。
――だが、この方法では北戎を敵に回すことが確実だ。
真に国を思うのならば、民を思うのならば、李冰を殺すべきではなかった。
李冰を殺された形になる北戎側は、実際に煌威が手を下したわけではないとしても、帝国の人間が仇だと考えるだろうし、帝国側は真犯人以外はおそらく煌威が李冰を殺した、と思うだろう。
煌威専用の銚子に塗布されていた毒で李冰が殺されたということは、どんなに最もらしい理由を並べ否定しようと、いや逆に強く否定すればするほど一番疑惑の目を向けられるのは煌威だ。
その点、真犯人は上手いことをやったと思う。人間は否定されればされるだけ、疑ってしまう性質がある。
しかしだからこそ、これは利用できるのではないかと、煌威は思った。
――例えば。例えば、だ。
『煌威に李冰は殺された』。北戎側がそう決めつけ、帝国側の人間ですらそう疑っているだろうこの状況で、当の煌威自身が一切それを否定せず犯人探しもしなければ、どう思われるのか――。
最初は『やはり』と思い、だが段々と……こう、思う筈だ。
――『本当に?』
煌威が李冰を殺した。皆がそう思っている、そう考えている中で、当の本人はなぜ否定しないのか。
――普通なら、否定するのではないか?
そう考える人間は、必ず出てくる。
人間とは、つくづく天邪鬼な生き物だ。否定されれば疑い、否定されなくても今度は逆の意味で疑う。
――本当に、煌威が李冰を殺したのか……?
微かな綻びでいい。ほんの小さな、針の穴ほどの疑惑でいい。誰かを庇っているのでは? といった想像を植え付けることが出来れば……。
これは、一種の賭けとも言える。皆が皆、そう思うわけではないだろうことも煌威は分かっている。
だが試す価値はあった。
真犯人が誰か、は重要ではない。
煌威をよく知らない民衆や北戎の人間は、こう考える筈だ。皇帝である煌威が庇う人物。ならば……
犯人は、同じ皇族――兄弟ではないかと。
犯人は皇族だと思い込ませることが出来れば、皇位の簒奪を企てたとして、嗣尤か抄昊どちらかを犯人に仕立てることが可能だ。
この場合は嗣尤が相応しいだろう。嗣尤が紅焔を慕っていることは有名だが、直結皇族の血を引いていて、腕の立つ将軍だ。
いや、紅焔を慕っているからこそ無能な煌威が皇帝でいることに我慢ならなかった、とでも理由はでっち上げられる。
弟の抄昊は言わずもがな、兄至上主義の上に丞相の地位についているのだ。叛乱を起こさない理由を探すほうが難しい。
そうなれば、皇族から罪人を出した皇帝として煌威も責任をとる形で退位が可能だ。
そうなった場合、臣下に降下も自然にできるかもしれない。
――皇帝となった紅焔の下で、わたしも臣下として傅けるかもしれない……。
煌威は、知らずうっそりと唇をつり上げた。
――何の罪もない弟達を罠に嵌めることになるかもしれないが、構うものか。
――もしかしたら、一番上の兄として程度には慕われているのかもしれないが、構うものか。
弟達との血の繋がりなど、実際のところ煌威には無いのだから。
一番は、紅焔なのだから――。
煌威に、躊躇いはなかった。
当初、青酸による毒殺は李冰自身が狙われたものだと思われていたが、煌威を狙った毒だったのではないか、という疑惑が浮上した。
結果だけ見れば、李冰は煌威の身代わりになって殺害されたと言ってもいいものなので、その疑惑は当然である。
だが、それには疑問が残る部分があった。
まず第一に、使われた毒物が青酸だったことである。
青酸は強い毒性を持つぶん、独特の匂いがある。違和感、という些細なものであるのも確かだが、煌威を対象にしているならば普通は使わない毒だ。それが銚子に塗布されていたのは、どうにも腑に落ちないという見解だった。
だからこそ、李冰が暗殺対象だと勘違いさせるに当初は至ったのだが……。
そもそもの話、皆おいそれと口には出さなかったが、煌威が李冰に毒を盛ったのでは、という疑いもあった。
乾杯儀礼は主催側から行う。
煌威の銚子に毒物が塗布されていたのだから、断れないのをいいことに李冰を毒殺しようとしたのだと言われれば、それらしく聞こえた。
酒宴は帝国主催だ。会場にいた人間は、帝国の人間が大半だった。そして、北戎育ちには判断の難しい、しかし誰にでも用意しやすい毒物が殺害手段とくれば、煌威が李冰を殺害したのではないかと疑いたくなるのは普通であり、帝国が北戎を傘下に置こうと棟梁を殺害したのでは? と皆が考えるのも当然だった。
だが、ある一つの可能性を考慮するならば、その疑問は解決したも同然であり、誰よりもまず紅焔がその可能性を煌威に指摘した。
「李冰殿は利用されたのでは?」
「…………」
煌威も、その可能性を全く考えなかったわけではないぶん、一瞬言葉に詰まった。
つまり、今回の李冰毒殺は、煌威の失脚を狙った毒殺だったのでは、と紅焔は言っているのだ。
その場合、犯人は帝国の人間に間違いないだろうと煌威は考える。
皇帝の銚子に毒物を塗布できる人間は限られているし、北戎側が犯人である説は棟梁である李冰が被害者なのを考えると確率的に低い。
帝国と友好条約を結んだ李冰を快く思わない北戎の人間が、皇帝の煌威諸共、という想定も無きにしも非ずだが、それを確定するには今一歩足りないのだ。
犯人は下の弟達か、帝国古参の重鎮達かは分からないが、しかしその思考回路は簡単に想像することが出来た。
煌威を失脚させて己が皇帝になる――。
そこに権力欲だけでなく、民を思う気持ちがあったとしても、あからさまで何とも頭の悪い方法をとったものだと煌威は唇を歪めた。
紅焔一人を重用する皇帝としての煌威は、さぞ権力を乱用する愚帝に見えたのだろう。愛欲に溺れていると捉えられても、おかしくはない。
分からない、でもない話だ。帝国内の話だけでなく、他国でも女に入れあげて国を傾けた皇帝の事例は数え切れない。
紅焔は女ではないが、皇帝を狂わせている人間だという意味で言うならば、間違いではなかった。
――だが、この方法では北戎を敵に回すことが確実だ。
真に国を思うのならば、民を思うのならば、李冰を殺すべきではなかった。
李冰を殺された形になる北戎側は、実際に煌威が手を下したわけではないとしても、帝国の人間が仇だと考えるだろうし、帝国側は真犯人以外はおそらく煌威が李冰を殺した、と思うだろう。
煌威専用の銚子に塗布されていた毒で李冰が殺されたということは、どんなに最もらしい理由を並べ否定しようと、いや逆に強く否定すればするほど一番疑惑の目を向けられるのは煌威だ。
その点、真犯人は上手いことをやったと思う。人間は否定されればされるだけ、疑ってしまう性質がある。
しかしだからこそ、これは利用できるのではないかと、煌威は思った。
――例えば。例えば、だ。
『煌威に李冰は殺された』。北戎側がそう決めつけ、帝国側の人間ですらそう疑っているだろうこの状況で、当の煌威自身が一切それを否定せず犯人探しもしなければ、どう思われるのか――。
最初は『やはり』と思い、だが段々と……こう、思う筈だ。
――『本当に?』
煌威が李冰を殺した。皆がそう思っている、そう考えている中で、当の本人はなぜ否定しないのか。
――普通なら、否定するのではないか?
そう考える人間は、必ず出てくる。
人間とは、つくづく天邪鬼な生き物だ。否定されれば疑い、否定されなくても今度は逆の意味で疑う。
――本当に、煌威が李冰を殺したのか……?
微かな綻びでいい。ほんの小さな、針の穴ほどの疑惑でいい。誰かを庇っているのでは? といった想像を植え付けることが出来れば……。
これは、一種の賭けとも言える。皆が皆、そう思うわけではないだろうことも煌威は分かっている。
だが試す価値はあった。
真犯人が誰か、は重要ではない。
煌威をよく知らない民衆や北戎の人間は、こう考える筈だ。皇帝である煌威が庇う人物。ならば……
犯人は、同じ皇族――兄弟ではないかと。
犯人は皇族だと思い込ませることが出来れば、皇位の簒奪を企てたとして、嗣尤か抄昊どちらかを犯人に仕立てることが可能だ。
この場合は嗣尤が相応しいだろう。嗣尤が紅焔を慕っていることは有名だが、直結皇族の血を引いていて、腕の立つ将軍だ。
いや、紅焔を慕っているからこそ無能な煌威が皇帝でいることに我慢ならなかった、とでも理由はでっち上げられる。
弟の抄昊は言わずもがな、兄至上主義の上に丞相の地位についているのだ。叛乱を起こさない理由を探すほうが難しい。
そうなれば、皇族から罪人を出した皇帝として煌威も責任をとる形で退位が可能だ。
そうなった場合、臣下に降下も自然にできるかもしれない。
――皇帝となった紅焔の下で、わたしも臣下として傅けるかもしれない……。
煌威は、知らずうっそりと唇をつり上げた。
――何の罪もない弟達を罠に嵌めることになるかもしれないが、構うものか。
――もしかしたら、一番上の兄として程度には慕われているのかもしれないが、構うものか。
弟達との血の繋がりなど、実際のところ煌威には無いのだから。
一番は、紅焔なのだから――。
煌威に、躊躇いはなかった。
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