MISERABLE SINNERS

ひゃっぽ

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MISERABLE SINNERS

アダムとイヴ 三章二節

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 よくある話だ。
 本当の父親に、俺は会ったことがない。少なくとも、物心がついた時には、すでにいなかった。一度だけ、写真を見せてもらったことはある――色褪せた四角い枠の中に、着飾った母と、母の腕を取るしっかりした身なりの男性が写っていた。幼かった俺は、若く美しい母にばかり目を奪われてしまって、隣の男が誰なのかなんて考えもしなかったけれど、今思えば、あれは最初で最後に見た父の顔だったに違いない。垂れ目が優しそうな、顎髭の立派な紳士だった。母は幸せそうだった。とびきりの笑顔を浮かべていた。幼心に、この小さな空間が羨ましいと感じた覚えがある。俺に向けられる母の微笑みと、写真の中の弾けんばかりの笑顔は、どちらも素敵だけれど、まるで別人のようだった。
 母は女手一つで俺を育てた。
 さもあらんことだが、母が父と別れた理由は知らない。死んだのかもしれないし、捨てられたのかもしれない。特別なわけがあって、離れ離れになったのかもしれない。なんにせよ、俺の世界に存在するのは母一人で、当時は父親という概念すら持ち得ていなかったから、寂しいと思ったことはなかった。
 何より――母は優しかった。
 毎朝、目が覚めると、疲れた顔で眠る母親の亜麻色の髪が、陽光を透かしてきらきら輝いていた。綺麗な人だった。心の底から誇らしかった。幼いながらに、自分はずっとこの人と二人で生きていくんだと、そう思っていた。
 だから、ゴミ溜めのような街での暮らしも、俺は特別、困ったことはなかった。
 学校に通う金はなかった。また、俺には知恵遅れの気があったので、社会に順応できるとは思わなかったのだろう。母は俺の勝手な外出を許さず、囲うように愛したのだった。
 義父と出遭ったのは、俺が十歳の頃だ。
 当時、俺には放浪癖があった。母の目を盗んで家を抜け出しては、風に揺れる葉や、道端の花をじっと観察して過ごした。男児の奔放さに手をつけられなくなった母は、外出する時は紙袋を被るよう言いつけた。四角いそれに好きな顔を書いて、俺は出発した。今思えば、笑ってしまうくらいの苦肉の策だ。しかし、母の判断は正しかったと思う。紙袋は紙袋で目立ったに違いないが――治安など関係のない街で、とびきり上等な顔立ちをしている男児がうろちょろしているとなれば、きっとただではすまなかっただろう。
 その時、俺は風船を追いかけていた。風に飛ばされ、どこからかやってきたのを見つけたのだ。夢中になって走ったから、家からはだいぶ離れてしまったと記憶している。やがて木に引っかかった赤い風船を、俺は物欲し気に二時間も三時間も見つめていた。木に登ろうとは思わなかった。丸いそれが浮かんでいるだけで、俺は楽しかったのだ。ところが、通りがかりの男が手助けをしてくれた。この奇妙な子供に、誰も近寄ろうとしない紙袋おばけに、普通に接してくれた大人は母を除いて初めてだった。俺は確かにその年の子供達よりは、喋りもつたないし、行動も突飛だったけれど、じゃあ何も考えていなかったのかといえば、そんなことはない。見つかってはいけないという意識だったが、人目は自分から避けていたし、おかしな大人には決して近付かなかった。物の分別はついていたのである。
 その人は、至極真面まともに見えた。
 だから、俺の警戒心は働かなかったのだ。
 男は風船を楽々取り上げると、しゃがんで俺へと視線を合わした。押し付けるような真似はせず、俺が手を伸ばすのを待った。俺は風船の細い紐を受け取って、ありがとう、とぽやぽや呟いた。男は明瞭に、どういたしまして、と小さく会釈した。かっこよかった。俺の知る大人達と言えば、襤褸ぼろを着てゴミ箱を漁るような、明日をも知れぬ人間ばかりだったから、この人の身に着ける仕立てのいい洋服も、お洒落なステッキも、何もかも新しく、輝いて見えた。憧憬の視線を感じ取ったのか、男は軽く笑って、ステッキを貸してくれた。小汚い子供は、喜々としてそれを振り回した。何もお礼になるものを持っていなかったから、傍迷惑なことに、俺は紙袋を脱いで、差し出した。
 男は、俺の顔をじっと見つめ――家まで送ろう、と言った。
 その後、男は母に接触した。そうして、俺が眠っている間に親睦を深め、ついに婚約に至った。貧乏な親子の生活は一変した。父は貴族の末子で、豪勢な邸宅を持っていた。俺と母は、ドブ臭い路地裏に別れを告げて、そのきらびやかな世界に移り住んだ。
 義父は信仰の厚い家系であった。俺も勉学を経て、洗礼を受けた。
 屋敷には使用人の老僕夫婦が二組しかおらず、客人の出入りもほとんどなかった。俺は学校へは行かされず、勉強は義父に見てもらった。義父は学者だった。専門は知らない。出張で何日も家を空けることもあれば、自宅にこもって論文を書き続ける日もあった。
 共に暮らし始めて一年が経ち、俺はあっという間に十二を超えた。きっかけはなかったように思う。一日の数時間を占める勉強会の、枠が増やされた。勉強は常に義父の書斎で行われた。召使いをはじめ、母すら入室を許されなかった部屋だ。
 夕食の一時間前になると、俺はそこで犯された。
 義父は煙草を吸う人だった。俺の前では遠慮していたようだけれど、吸ったかどうかは口付けのほろ苦さが教えた。俺はその味が好きだった。窓際で黄昏れる義父の後ろ姿を、廊下から眺めるのが好きだった。内緒だぞ、と耳元で囁く声の、鼓膜を微細に震わせる感覚が好きだった。まるで女のように俺を扱う、義父の熱い手が好きだった。知性をたたえる切れ長の目から、理性が蒸発していく様が、たまらなく。
 好きだったのだ。
 だが、義父に限ってはどうかわからない。
 あの人は俺を愛していたのだろうか。
 母の健やかな愛情を捨ててまで、しがみついた俺が、間違っていたのだろうか――。
 数年に渡り完璧に隠された二人の関係が終わりを告げたのは、例えば誰かに目撃されてしまったとか、どちらかの口が滑っただとか、そういう事件性によるものではなかった。母は勘を働かせたのである。
 一口に言えば、義父を見つめる俺の瞳が――女のものだったからであろう。
 母は禁じられていた扉を開けた。書斎に踏み込み、情事を目撃すると、発狂した。義父を口汚く罵った。怯える俺を、母は追い出した。呼ばれた召使いが俺を外へ連れ出した。帰って来た時、家はなかった。燃え尽きていたのである。
 焼死体は二人分、発見された。
 俺はしばらく召使いと共に暮らしていたが、やがて施設へ預けられた。どうやら義父は、貴族の血筋ではあれど、ほとんど勘当状態だったらしい。理由はわからない。自ら引いた一線のような気もするし、彼の秘密を知った家族に見捨てられてしまったのかもしれない。
 被害者なんて意識はない。どうしたら何も変わらずに家族三人で暮らしていけたのかと、そればかり考えている。その度に、俺がいなければという矛盾に辿り着く。幸せそうだった母の笑顔を思い出した。子供だった俺は、義父とすることが悪いことだとは思っていなかった。それが母を傷付けることになると思い至らなかった。何度も悔いた。戻れない日を思って泣いた。何が間違っていたのかわからなかった俺は、あの男性教師に手を出されて初めて、それが愚かな行為なのだということを知った。清貧を説く大人達の言葉ぶりから、神が淫行を禁止している事実を、ようやく呑み込んだのだった。
 これは愛の末路だったのだ。
 俺は主の意志に背いた。
 淫らな欲望を、止めることができなかった。だから、地獄に堕ちた。悪魔とそしられ、幸福を奪われた。
 そうしてまた、同じ過ちを繰り返そうとしている。
「また私を殺すのか」
 いつの間にか、目の前にあの人が立っていた。周囲は荒れ野だ。草木一本見当たらない、ひび割れた岩だらけの荒野。果てはない。水平線の向こうに、夕陽が沈もうとしている。あの太陽が隠れてしまったら、ここは暗黒に包まれるだろう。
 ジュリア、とあの人は呼んだ。
 ジュリアは手を伸ばした。届かなかった。だから、近付いた。歩けども歩けども、二人の距離は縮まらない。
「お義父さん、待って」
「寂しいよ」
 あの人は顔を手で覆った。
 髪に火が宿った。瞬く間に燃え盛っていく。
「誰か私を愛してくれ」

 可哀想なその人を、俺はまた、殺した。

 目が覚めた。溺れると思った。溺れたいと思った。明かりはない。両脇から寝息が聞こえる。
 ジュリアは床に下り立ち、下着を身に着けた。
「ん……ジュリア」
 助祭の声だ。
「どうしましたか」
「お手洗いに」
「そうですか。暗いですから、気を付けて……」
 呂律の回らない声は、やがて寝息に変わった。脱ぎ捨てられていたシャツを羽織る。音を立てずに部屋を出た。裏庭に出て、洗濯物を吊るす縄を調達した。次いで、どこがいいだろうかと考えた。なるべく手間にならない場所がいい。助祭は掃除を嫌がらないが、簡単に済むに越したことはない。しかし、外では不十分だった。適当な場所は見当たらなかった。仕方なく、風呂場に向かった。おあつらえ向きにカーテンレールがあった。天井はあまり高くないが、ジュリアの身長なら工夫できるだろう。ようは締まればいいのだ。短く縄を結んだ。バスタブの縁に上がってみた。いけそうだった。
 丸い穴に首を通した、その時だ。
「何をしているんです!」
 怒声が風呂場に反響した。
 助祭が駆け込んでくる。驚いたジュリアはよろけた。足が滑り、心臓が縮んだ。首にかかる衝撃に備える間もなかった。ところが――足が、ふわりとすくい上げられたような感覚がして、気付けばジュリアは助祭に抱きかかえられていた。すぐに冷たいタイルに下ろされる。
 頬を打たれた。
「馬鹿なことを! 自分が何をしたか、わかっているのですか!?」
「わかっています!」
 ジュリアは叫んだ。
 遅れて、司祭がやってきた。彼は戸口で立ち尽くしていた。ジュリアは彼のほうを見ることができなかった。
「自死は最も重い罪だ。あなたはそれを理解しているはずだ。信仰に背くというのですか!」
「お、俺は……す、救われては、いけ、いけないんです」
「なぜそんな、」
「神様が、滅ぼしてくれないのなら、自分でき、消えるしか、ないんです……!」
 ジュリアは蹲り、泣いた。喉が裂けんばかりの慟哭だった。助祭は唖然として、しばらく唇を震わせているようだったけれど、やがて膝をつき、ジュリアの肩に手を置いた。
「オレのせいか」
 司祭が言った。
「オレがお前を追い詰めたのか」
 ジュリアは首を振って否定した。
「忘れたく、なかったんです」
「……」
「もう何度、お義父とうさんを殺したか、わからない。もう、嫌だったんです。俺は、神父様、あ、あ……あなたに、」涙がタイルを打った。「貴方に、恋い焦がれているのです! それでは、義父ちちが、う、浮かばれません。あの人は、俺のせいで死んだんだ、お母さんだって、そうだ、そうなんだ、お、俺は、一人幸福に、い、生きていくことなんて、できません。そんなこと、しし、しちゃ、いけないんです。も、もっと早くに、こうすれば良かったんだ!」
 全てはまやかしであった。
 いや、そうでなければならなかった。幸せも、充足も、自己肯定も、未来も、笑顔も、友も、恋も、愛も、欲する以前に、ジュリアは大切なことを忘れていた。それは、愛した人の存在だった。あの人を差し置いて、自分だけ、のうのうと歩いていくなど、許されない。
 こんな――ことになるとは、思わなかったんだ。
 この教会を訪れた当初は、救いを求めていた。けれどまさか、救済が忘却に繋がるなどと、ジュリアは思いもよらなかった。自分は一生、亡き義父を想いながら、いつか終わるのだと思っていた。いついかなることが起ころうと、誰と肌を重ねようと、あの人の面影が消えることなどないと勘違いしていた。違った。人は簡単に忘れる。時は過去を流してしまう。
 記憶も感情も上書きされる。
 ――恐ろしい。
 このまま。
 ここで暮らしていたら。
 自分はきっと、何もかもを失ってしまう。
 ジュリアの中にしかない。
 義父も。
 母も。
 ――殺すのだ。
 俺が。
 二人を。
 殺したのだ――。
 冷たい静寂を押しのけて、イッシュ様が口を開いた。
「――お父様のために死のうというのですか」
 固く、強い声だった。ジュリアは息を詰めた。
「イッシュ、よせ」
 助祭は司祭を無視し、続けた。
「どうなんですか」
「……はい」ジュリアは悄然しょうぜんと頷いた。「そうです」
「信じる神を捨ててまで?」
「はい」
「己が人生を否定して?」
「はい」
「――愚かしい!」
 助祭は一喝した。
 ジュリアは身を竦める。
「お父様があなたにそうしろとおっしゃったのですか」
 すぐに答えられなかった。それは、と言いよどむと、彼は更に畳みかけた。
「はいかいいえで答えなさい。それ以外は認めません。もう一度、訊きます。お父様が、あなたに、死ねとおっしゃったのですか」
「い……いいえ」
「そうでしょうね。お父様はもう生きてはおられないのですから。一介の霊魂にお告げなどできるわけもない。いいですか。もし幻影を見たのなら、それはまさしく影なのです。あなたの心に堕ちた暗い影だ。弔いならまだしも、死者への憂いなど不要。なぜなら、それは」
 彼は口を閉じた。
 ジュリアは首をもたげた。
 暗闇の中、黄金の瞳が光っている。
「――神の領分だからです」
「――――……」
 絶句した。
 ジュリアは自身の首に触れた。縄の跡はなかった。自分は生きていた。それが酷く不思議で、心地が悪かった。ここは、ここは――どこだろう。
 一体、自分は、どこに迷い込んでしまったのだろう。
「そのお父様ですか。何やらきな臭い気配が致しますので、天国に上るか地獄に堕ちるかは定かではありませんが。なんにせよ、土に眠れば後は主の救済を待つのみです。我らが干渉する術はない。死者の無念、憂慮、晴らそうとするのは生者の仕事ではありません。故に。死者のためだなどとお為ごかしは通用しないのです。真実に目を向けなさい。あなたはずっと、自分でつけた汚れで自身を隠している。あなたはただ怖いだけだ。愛に――」
 最後だけ、助祭は口にするのを躊躇う素振りを見せた。
「――捨てられるのが」
 ああ、と声が漏れた。
 殻が崩れていく。
 がらがらと音を立てて瓦解していく。
「それは罪ではありません。安定を望むのは、至極当然のこと。人間の命は有限なのです。短い一生を、安らかに暮らしたいと思うのは過ぎた願いではないんだ――」
 ジュリア、と彼は呼んだ。
「一人で歩く暗闇は怖かったでしょう。恐ろしかったでしょう。寂しかったでしょう」
 あたたかい手の平が、ジュリアの額を撫でた。
「よく頑張りましたね」
「……う……」
 涙が溢れる。最後の膜が剥がれ落ちる。
 剥き出しの心に、彼は優しく触れた。
「あなたは少しばかり疲れてしまっただけなのです。どうか諦めないで。ぐっすり眠れば、すぐにでも――太陽は昇りますよ」
 ジュリアは助祭に泣きついた。まるで母のように、彼はジュリアを慰めた。
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