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第3章 競争排除則

03-026 ヒトの土地

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 ゴンハジは、意外なほど早く、宴を切り上げた。
「早く寝たほうがいい。
 明日は、朝早くから働かないと行けないからな」
 耕介は、彼の言を畑仕事と解した。
 しかし、いまは農繁期ではない。よく考えれば、ゴンハジの言葉は不自然なのだが、耕介の脳はアルコールの効果で回転が鈍っていた。

 亜子と太志は外敵を警戒していない。この村の住民自体が、敵である可能性があるからだ。だが、太志には村民からの悪意を感じない。同時に太志は知っていた。
 悪意なく、よそ者を殺す農民は少なくないことを……。
 この世界には、悪意をもって殺めるものと、悪意なく残虐を働くものがいることを。

 夜明けと同時に半鐘が鳴り響く。
 村民は毎朝の日課のように、剣を下げ、弓を手に与えられた持ち場に向かう。

 戦闘は5分で終わった。
 いつもなら弓矢の応酬で10分ほどかかるのだが、今朝はゴンハジの息子が猟銃を使ったので、盗賊はさっさと引き上げた。
 盗賊の1人が捕虜になり、必死で命乞いするが、受け入れられなかった。
 盗賊と農民、どちらも残虐だ。盗賊は害獣を屠るように殺された。何の儀式も、感情も、哀れみもなく。

 ゴンハジがウンザリした顔を見せる。
「毎朝、同じことの繰り返しだ。
 あんたたちがヒトの土地に達し、交易できたなら、俺たちも仲間にしてくれないか?
 この村の種を買ってくれ。
 この村は、場所的に中継地にもなる。
 協力させてくれ」
 この申し出に耕介は返答しなかったが、確かに基幹的な中継基地は必要だ。燃料の備蓄、物資の保管には位置的にいい場所にフラーツ村はあった。

 耕介はゴンハジから意外な提案をもらった。
「添え状を書いてくれ。
 この村では採油しても精製はできない。盗賊が現れる前は、村共同の製油所があったのだが、盗賊に焼かれた。その頃でも、精製はできなかった。絞ったままの油を買ってもらっていたんだ。
 あんたの村まで種を運んで、精製までしてもらう。
 できれば、種を買ってもらいたい。
 先々は、精油の技術を指導してほしい。
 あんたたちの油を見て、確信した。あんたたちと取り引きすることが、この村が生きる道だと……」
 耕介が「どうやって運ぶつもりだ?」と尋ねると、ゴンハジは「俺が乗ってきたトラックがある。トラックにトレーラーを牽引させれば、4トンは運べる」と答えた。
 耕介は心配だった。
「ゴンハジ、あんたが運ぶのか?」
 長旅をするには、歳をとりすぎている。
 ゴンハジが即答する。
「いや、末の娘が運ぶ。
 あの子は兄2人とは違い、機転が利く。それに悪賢いところがある。実直なだけでは、他所の土地で商いはできない。
 保安官補1人が同行する。
 あの3人は手練れだ。村にとって、大事な客人だ」
 耕介は多くを約束しなかったが、クルナ村に着いたらエトゥを尋ねるように伝えた。

 さらに2日南下して、クウィル川に達する。フラーツ村がある丘陵地帯が最難関だが、それでも荷馬車が通行できない状態ではない。
 盗賊が当面の問題だが、解決の方法はある。
 クリル川に達する南北ルートは、開拓できた。これで、目的の半分を達成していた。

 ヒトの土地に入るには、クウィル川を渡ればいいのだが、現在地で渡ると対岸はヒトが内陸と呼ぶ地域になる。
 暗黒社会だ。土豪が王を名乗り、跳梁跋扈し、迷信と宗教が社会を支配する。
 太志が説明する。
「内陸は独特の社会なんだ。
 絶対的権力は、宗教が握っている。その宗教だが、複数、たぶん5派くらいある。
 国王は宗教指導者が戴冠する。だから、国王は宗教家に金品を送る。場合によっては、女性も。
 ある意味、資金と兵があれば、誰でも王になれるんだ。だけど、宗教指導者に渡す金品がなければ、退位させられる。
 逆に、王が新たな宗派を立ち上げて、宗教指導者をでっち上げることもある。
 この宗教が厄介で、気に入らない相手、葬りたい相手が現れると、魔女や魔導士にされる。宗教家の夜伽を断った人妻が魔女にされるなんてことは、よくありすぎて記録にも残されない。
 この地域のヒトも迷信深く、無知で、無学だ。宗教家の託宣を妄信し、国王の方針に逆らうことなど滅多にない。
 内陸の厄介ごとを嫌う海岸と西辺のヒトは、どうやって往来するかなのだけど、3本の道が設定されている。
 北がクウィル公路、南がハトマ公路、2つの公路のほぼ中間に東西公路がある。
 俺は、東西公路から外れてしまい、結果、妻を失った。
 俺たちは、クウィル公路を西に進む。厄介ごとに巻き込まれないよう、誰とも接触しない。宿にも泊まらないし、市場にも行かない。もし、関わってしまったら、逃げるしかない。
 2日走れば、西辺の国に入れる。
 そうしたら、宿にも泊まれるし、市場で食い物を買える。
 それまでは、用心に我慢だ。
 公路上は誰からも誰何されないが、道から外れたら、どんな言いがかりを付けられるかわからない。ヒトの王は、エルフの無頼と変わらない。いや、無頼のほうがマシだ。悪事を働いている自覚があるからね」

 クウィル公路の大半はクウィル川の土手で、土手から離れてやや南にそれると、一気に危険が増す。
 各国の王は旅人を城に招き入れるが、城から出ことはいない。
 公路の一部は、わざとそれるように普請されている。だから、意地でもクウィル川から離れてはいけない。
 中州や河原を走ってでも、川沿いを進む。

 河岸段丘上から街並みが見える地点があった。公路上にクルマを止め、街を見渡す。
 ヒトの街を何となく眺めていると、小川に架かる石橋から何かが下がっている。
 高倍率双眼鏡で覗くと、ヒトだった。3人の女性が橋の欄干にくくり付けたロープからぶら下がっている。
 耕介がゾッとして、太志に尋ねる。
「ヒトが橋からぶら下がってるけど……」
 太志は事もなげに答える。
「魔女だ。魔女狩りに引っかかったんだろう。
 魔女は絞首刑にしても死なない。だが、清らかな水が流れる川の上なら死ぬんだ。
 ヒトだった場合は、神が守るから死なないはず。死ねば魔女、死ななければヒト。だけど首を吊られて死なないヒトはいない」
 耕介は言葉が出ない。
「魔女狩りは頻繁にあるの?」
「あるよ。定期的に魔女を捕まえないと、宗教の存在意義が問われるからね」
「魔女か、魔女じゃないか、どうやって見分けるの?」
「坊主(僧侶)が魔女だと指差せば魔女だ」
「そんな無茶苦茶な」
「それが、ヒトの世界の半分だよ」

 山脈東麓、ヒトの土地の西辺には、多くの国があった。ただ、領主や王はおらず、高度な住民自治が発達している。
 首長は公選制で、民主的な一院制議会もある。分裂しているようで、政権には地域としての一体性もある。
 西部連合連絡会議という、ある種の連合政府もある。
 各国共通の奇妙な法がある。信教の自由は認められるが、布教の自由はない。
 つまり、何を信じようと自由だが、公然と信者を増やしてはいけないのだ。
 それでも、内陸から宗教が忍び込んでくる。布教を取り締まる専門の法執行機関があるので、彼らの危機感は非常に強い。

 耕介は、運んできた油を食用油として販売するつもりだったが、この方針は完全に正解だった。
 なんと、西辺には水力発電所が多数あり、不安定ながらも電力が供給されていた。
 この付近の山脈東麓には水源が多く、流れの速い川や滝の落差を利用してタービンを回転させる水力発電所が設置されていた。

 電気が文明を持続させている。
 耕介は、そう感じた。

 最初の国の油商はすぐに見つかった。灯明用や燃料油は扱っておらず、食用油が専門。
 商品を見せると「品質に不安がある」と告げられ、価格を叩かれた。
 耕介は交渉せず「それでは、これで」と辞去しようとすると、価格を上げてきた。
 耕介は「価格交渉はしない主義なんで、商談は終わりだ」と告げる。
 油商は「そんなバカな!」と語気を強めるが、交渉の余地があるものと思い込んでいる。
 耕介が店外に出ても、店主はこれも交渉のうちと思い込んでいた。
 だが、耕介がクルマに乗り、走り去ると、ようやく気付く。
「本当に価格交渉しないのか?」

 次の国の油商には「盗品じゃないのか?」と疑われ、先方から交渉を打ち切られた。
「これほどの品。
 どこで手に入れた。
 出所が曖昧な品は扱わない」

 3カ国目は、かなりの面積がある。東京23区と同じ600平方キロほど。これで、西辺では大国になる。
 耕介が希望価格を伝えると、店主は「その価格でいただきましょう」と即答。
 さらに「次はいつになりますか?」と継続した商談を希望してくれた。
 耕介は、ここで全品を売りたくなかったが、店主が「ぜひ」と譲らないので、全品荷下ろしする。

 これで、南下の理由を失った。
 それと、関わった数人のヒトからの忠告。
「内陸にエルフが立ち入ると、エルフは神を信じないから、無神者として処刑されてしまう。
 気を付けないと。
 狂信者は、恐ろしいよ。
 ドワーフも同じ。だから、ドワーフの商人は、海岸から離れないんだ」
 同時に、西辺に張り付いて移動すれば、比較的安全でもある。

 目的が定まらず、全員で集まり、打ち合わせをする。 
  アカハイとスカランは、愕然としている。「役場を訪れたのだけど、とにかく心配されてしまって……。
 交易の交渉どころではなくて……。
 公路も安全じゃないって。
 馬車を路肩に止めていたドワーフの商人が、無神の罪で捕らえられた例もあるから……。
 最近のことではないそうだけど……」
 太志は首をかしげている。
「俺は内陸を含めて旅をしていた。
 俺自身、宗教は信じていないし、現実的な問題として神の存在を感じたことはない。
 そんな俺でも、咎められたことなんてない。実際、不信心者はたくさんいる。街の噂レベルだけど、宗派を越えた指導者がいるように感じる。
 全宗派を代表するような人物がいるみたいだ。その人物が、神を信じないヒトを目の敵にしていて、取り締まりを王という名の手下たちに命じているようなんだ。
 海岸や西辺のヒトたちも、内陸の狂信化を恐れているように感じる。
 ヒトの土地は、状況が悪化しているように感じるんだけど……」
 耕介はトロールの動向に興味があった。
「俺も、街の噂なんだが、トロールについて調べてみた。
 一時期ほどではないけど、圧迫を受けている。バッキーズの長城で防衛にあたっているのは、西辺各国。海岸の国は資金や武器を援助しているけど、兵は出していない。
 内陸の国は、財政の多くを宗教家に貢いでいる関係で、戦費とかは負担できていないようだ。
 兵を出した内陸の国もあるようだけど、兵たちは迷信深くて、西辺社会に悪い影響を及ぼしてしまうらしい。それが理由で、お引き取り願ったと聞いたよ」
 亜子が全員に問う。
「西辺の特産って何かな?」
 市場には、豊富な農産物が並んでいる。リンゴは目立っている。リンゴが特産だ。
 耕介が「リンゴ」と。太志は「金、銀、銅かな」と応じ、シルカは「水晶細工」が目についていた。
 耕介が「西辺は鉱物資源には恵まれているようだけど、穀物の生産量は需要を満たせないようだ」と推測すると、太志が「内陸の国から輸入している。それは、海岸の国々も同じで、穀物や豆の生産は内陸に依存している。だから、内陸を怒らせたくないんだ」と補足する。
 亜子が反論する。
「ヒトの商人はエルフから大量のコムギを買っている。
 ホルテレンから積み出しているじゃない。
 それで、足りないとは思えないんだけど」
 耕介が説明する。
「ヒトの商人はエルフからコムギを買い、ドワーフに転売するんだ。
 その差益は相当にでかいらしい。ドワーフもコムギを栽培しているけど、量的には足りていない。
 ヒトのコムギを見たけど、品質はよくはない。すべてを見たわけじゃないから、判断はできねぇけど」
 亜子が方針を出す。
「スカラン、役所に行ってコムギの交易は可能か聞いて。反応が見たい。
 耕介、有力な穀物商を探して。エルフとコムギの取り引きをする気があるか確認して。
 太志はスカランの護衛。ヒトが一緒のほうがいいでしょ。
 私とシルカ、アカハイは市場に行ってみる。コムギの加工品、パンやクッキーとかを調べる。
 ついでに、お土産も探しといてあげる」

 食用油の輸出は、確実に利益になる。この点、耕介は確信している。
 だが、安全保障上、西辺はコムギの不足に関心がある。ならば、コムギの陸送輸出は西辺各国政権にはインパクトがある。

 スカランと太志は、日没後にクタクタの状態で戻ってきた。
 交渉役のスカランは当然だが、太志にも矢継ぎ早で膨大な質問が浴びせられた。
「本当に陸送で輸出が可能なのか?
 エルフの騒乱はどうするのか?」
 その他、覚えきれないほどの質問をされたという。
 耕介が想像していた通りだ。
「穀物商の反応だが、商人らしく現物を見せろと言われた。
 俺でもそう答える。
 だが、持ち込めば売れるぞ。
 ただし、内陸産のコムギは質があまりよくない。その分、安い。価格勝負になる。
 同等品を作るエルフがいないか、調べないと……」
 亜子が市場で買ったコムギを見せる。
「クルナ村の品質じゃない。
 ずっと悪い。だけど、これが一番いいコムギとして市場で売られていた。品質がいいからといって、高額にはできないよ。
 現実的な価格でないと……」
 耕介は、開発中のエンジンの完成は待てないと感じた。
「もうすぐ収穫だ。
 それにあわせて輸出したいが、トラックがない。ウニモグとビッグフットはひまわり油の輸送で使っているし……。
 兼用は無理だ」
 太志が考えている。
「トロールがいなければ……、可能だが……。
 イズラン峠の西側にあると思う。
 大型トラックは、イズラン峠を越えられない。捨てるしかないんだ。
 誰もができることではないけれど、クルマの修理ができれば、能力と道具があれば、捨ててある小型車に乗り換えることもできる。
 イズラン峠に入れば水はないけれど、峠の入口には小川や池がある。食料があれば、長期の滞在ができる。
 トロールは森にいるらしい。土が剥き出しのイズラン峠ルートには、普段は出てこない。
 峠越えには1週間かかる。
 やってみるか?
 俺はイヤだが……」

 亜子はこの魅力的な計画に飛びつく。
「おもしろそう。
 私は賛成」
 シルカは別な心配をする。
「私は自分の身は守れるが、アカハイとスカランは違う。複数が相手では敵わない。
 西辺のヒトは我らと変わらないが、内陸のヒトはずいぶんと違う感じがする。内陸のヒトはたくさん西辺に入り込んでいるようなので、このままとどまることは危険だと思う。
 早く離れたほうがいい」
 シルカの意見は耕介も同意だった。
「確かにな。
 俺たちだけでは抗いようがない状況に陥る可能性がある。内陸のヒトは相当に厄介で、狂信的だ。西辺のヒトは嫌っているが、食料の調達のためには内陸と交易しなければならない。
 結果、徐々に内陸の影響が西辺に及び始めてしまっているんだ。
 これには、かなりの危機感を抱いている。
 内陸の商人が問題を起こしても、不問にされることもあるらしい。被害者は泣き寝入りだよ」
 亜子が太志に「イズラン峠は、ここから遠いの?」と尋ねると、太志は「100キロくらいかな。バッキーズの長城に沿って南に進む。城門を出て、さらに南へ。わかりにくいが、イズラン峠への入口がある」と。
 亜子が「よし、行こう!」と告げ、方針が決まった。

 総走行距離2000キロとなると、最低でも1台あたり200リットルは必要になる。倍の軽油800リットルを用意するには、食用油の売買代金で十分なのだが、軽油が入手できるかが問題だった。
 この国は近隣では大国で、物資を入手するには都合がいい場所。この国の都で入手できないならば、南北200キロ圏内では手に入らない。

 スカランが「都の外れ、湖の畔でドワーフがキャンプしていると聞いた。ドワーフが油商なら、軽油を買えるかもしれない」と提案する。
 亜子がスカランの案を受ける。
「1時間で日没だから、今日はやめよう。
 危険だから……。夜明けとともに、私とスカランで行ってみる」

 湖の畔にはいくつかのキャンプサイトがあり、ヒトの内陸商人、ヒトの海岸商人、ドワーフの商人などに別れている。
 亜子とスカランは、道々場所を尋ねながらドワーフのキャンプに向かう。

 ドワーフのキャンプでは騒ぎが起きていた。
 10歳くらいの男の子と6歳くらいの女の子が、ヒトの壮年女性に引き立てられようとしていた。
「そんな乱暴はするな!」
 体格がいいドワーフの壮年の男性が、ヒトの壮年の女性に詰め寄る。
 ヒトの女性は怯まない。
「ヒトの孤児〈みなしご〉をどうしようが、ヒトの問題さ。
 ドワーフが指図できることじゃない」
「その子たちは、我々が保護している。
 勝手はさせない!」
「じゃぁ、どうするんだ?
 この子たちは奴隷商に売る。孤児は奴隷にできる決まりが、東に行けばあるんだ。
 この子たちを見つけたのは私だ。あんたらドワーフじゃない。ドワーフにはヒトの孤児をどうこうできる権利はない!」
「かわいそうじゃないか!
 まだ、幼い子だぞ!」
「娘は2年もすれば言い値で女衒〈ぜげん〉に売れる。男のほうは死ぬまでこき使ってやる」

 女の子が泣きわめく。
「お兄ちゃん、怖いよ!
 おじちゃん、助けて!」
「俺はどうなってもいい!
 妹は助けて!」
 男の子の声はか細い。

 ヒトの壮年の女性が言い放つ。
「おまえよりも、妹のほうが価値があるんだよ!
 バカだね!」

 亜子が武装したドワーフにエルフの言葉で声をかける。
「男の子と女の子は、どうしたの?」
 武装したドワーフの男は、ヒトがエルフの言葉を使うことに驚く。
「ヒトなのに、エルフの言葉を話すのか?」
「うん、エルフの土地に住んでいるからね」
「いや、あの兄妹なんだが、食べ物を求めて我らのキャンプに来たんだ。
 で、保護した。
 テントから出ないように言い聞かせていたんだが、妹のほうが……」
「で、ヒトに見つかった」
「あぁ、内陸のヒトは同族を売り買いするし、同族を家畜のように扱う。
 我らが保護し、信頼できるヒトを探そうと思っていたんだが……。
 ドワーフには内陸のヒトをどうこうできない。
 我らと一緒にいた時点で、内陸のヒトに見つかれば、連れて行かれても我らに止める術はない」
「ヒトなら?」
「もちろん、ヒトなら止められるが……。
 一戦交えることになるぞ。
 獲物の取り合い、ということになってしまうのだから……。
 おぞましいことだが……」

 亜子がヒトの壮年の女性に近付く。女性の使用人らしい屈強な男が女の子を抱え上げ、別の使用人が男の子を縄で縛ろうとしている。

 亜子の右ストレートが、ヒトの壮年の女性の顔面にめり込む。
 スカランはどうしていいかわからず、オロオロしている。
 その場にいたドワーフは唖然としている。

 ヒトの壮年の女性は吹き飛ばず、その場で膝を折り、地面に俯せで倒れる。
 亜子は容赦ない。
 その女性の腹を蹴り上げる。
 今度は、ボールのように吹っ飛んだ。

 亜子は身長が180センチ以上ある。ヒトの女性としては大きい。しかし、エルフの女性では平均的な背丈。
 シルカと比べると、少し低い程度。
 だからか、使用人の1人が怒鳴った。
「エルフはすっこんでろ!」
 亜子の声は落ち着いている。
「エルフじゃないよ。
 れっきとしたヒトだ。
 その2人を離せ。
 ここは西辺。内陸じゃない。内陸の決まり事は通用しない」
 頬に傷がある使用人が凄む。
「女、舐めてんじゃねぇぞ」
「やる気なら、相手になる。
 ただし、怪我じゃすまないよ。それでもいいなら、どうぞ」
 亜子が上着を脱ぎ、それをスカランが受け取る。スカランは震えている。
 頬傷の男が、亜子の左腰を見る。
「刃が上を向いているぞ。
 剣の佩き方も知らないのか?」
 ヒトの壮年の女性が使用人の手を借りて、立ち上がる。
「その女を殺しておしまい!」
 亜子が刀をひねり、左手の親指で鯉口を切る。
 使用人2人が剣を抜く。2人は顔を見合い、少し笑いながら突きかかる。
 一瞬の早業だった。
 刀身のきらめきが見えた直後、刀は鞘に納まっていた。
 1人は左太股を斬られ、もう1人は右の小手を斬られている。そして、ヒトの壮年の女性は頬からの出血に気付いて、悲鳴を上げる。
「ひやぁ~」
「おばさん、私よりも先に、あんたが死ぬよ。
 2人を離せと命じな。
 さもないと、ババァ、あんたの首が飛ぶよ!」

 2人が解放されると、ドワーフの壮年の男性に向かって走り、彼は膝を折って2人を抱きしめた。
「クソババァ、さっさと消えろ!
 モタモタしてると殺すぞ!」
 今度はゆっくりと刀を抜く。
「それと、私は西辺のヒトじゃない。
 エルフの領域から来た。今度来るときは、あんたの家を焼き討ちしてやる。その準備を整えてから、ヒトの土地に来るからな」
 もちろん、ただの脅しだ。

 ヒトの壮年の女性は、使用人に抱きかかえられて、湖畔を東に向かっていく。

 その場にいた、ヒトとドワーフが拍手をする。西辺のヒトは総じて、人権の概念さえない内陸のヒトを嫌っていた。
 しかし、コムギを手に入れるには、内陸諸国との交易は欠かせない。内陸諸国のヒトが、西辺で無法を働いても、見て見ぬふりをする傾向が強まっていた。

 体格のいい老いを感じさせるドワーフの男性は、亜子を見詰めていた。
「本当にエルフの土地から来たのか?」
「あぁ、エルフの土地の最北から来た。
 海岸からは離れたクルナという村に住んでいる」
「クルナ……?
 確か、食用油の有名な産地だ」
「そうなのか?
 我らは、食用のひまわり油を運んできた」
「おう、それは幸運。
 全部売ってくれ」
「すまない。
 昨日、地元の油商に全部売ってしまった」
「何と!
 不運な!」
 ドワーフの老商人は愕然としている。
 だが、すぐに気を取り戻す。
「次はいつ来る?」
「約束はできないが、3カ月後には来るつもりだ」
 そんな計画はないが、亜子はこの瞬間にそうすると決めた。方法は耕介が考えればいいことで、いつもの通りに亜子は方針を決めるだけ。
「わかった。
 きっかり3カ月後のこの日に、ここで会おう。
 約定違えるな」
「承知した」

 兄妹は怯えている。
 ドワーフの老商人は、決断を迫られている。存在が知られた以上、兄妹を保護し続けることはできない。
 ヒトに預けるしかない。
 だが、ヒトは信用できない。誰であっても。
 エルフはどうか。
 エルフなら……、と考えた。
 アカハイに声をかける。
「そなたは、使用人か?」
「いいえ、私はクルナ村の職員です。
 交易を担当しています」
「エルフとドワーフは、約定を違えない」
「その通りです」
「この2人を保護してもらえぬか?
 ヒトが一緒なら、何とかなろう」
「お引き受けいたします。
 責任をもって預かります。
 私ではなく、クルナ村が……」
「優しい育て親を探してやってくれ」
「承知しました」

 不安な顔をして寄り添っている兄妹。
 3カ月後に食用油を運んでくると約束した亜子。
 耕介は頭を抱えた。
 ようやく、健吾の苦労を理解した。
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