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異世界編
02-020 伯爵の館
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西の隣国は、ヴァロワ中部と接する国境地帯に大軍を配置する。ロイバス男爵の越境撤退を阻止するためだ。
アネルマ隊の主力は、ヒルマが指揮して一切の抵抗なく、ルクワ川とアリエ川の合流部に達する。
麗林梓と彼女の仲間は、進路を遮る木々を切り倒し、川には仮設架橋して前進し、後退を急ぐ南部の派遣部隊である南攻軍を蹴散らした。逃げ遅れた南攻軍将兵の多くは、鋼の巨獣を恐れて森に隠れる。
ヒルマ隊よりは遅れたが、ルクワ川源流部やや下流に達し、進撃をやめる。
ロレーヌ準男爵とフラン曹長の隊は、各地でロイバス男爵の残兵と遭遇。激しい戦闘を繰り返しながら、ルクワ川東岸に達する。
館から離れた大木に、無線のアンテナをくくり付ける作業をしている。大木は枝振りのいい一本木だ。
その作業を、アネルマが見ている。
アネルマの横にエイミス伯爵が立つ。
「隊長殿……」
アネルマには、伯爵の気持ちがわかっていた。
「伯爵、我らは通信隊1個班で、戦闘部隊ではない。奥方や姫に危害は加えぬ」
伯爵の不安は消えない。
「隊長殿は女性だが……」
アネルマが微笑む。
「女でも、女を犯すことはある。
ご存じであろう?」
伯爵の顔はさえない。
「知っておる。
それほど昔のことではない。
この館がロイバス男爵に接収されたのだ。
それで、2番目の娘の縁談が消えた」
アネルマは答えるべき言葉を探したが、見つからなかった。
「気の毒とは思うが、被害はなかったのであろう?
よしとせねば。
ご貴殿は、男爵派ではないのか?」
エイミス伯爵が吐き捨てるように言葉を発する。
「はっ!
あの時代錯誤男の仲間などではない!
当家は貴族だが、それ以上に自由を尊ぶ商人だ。まぁ、商売には失敗したけどね」
「何を商われていたのだ?」
「穀物商だ。
小麦に大麦。豆も扱う。南部は耕作地が狭いので、他国から食料を買っているんだ。
私は中部で買い付けた穀物を南部に売る商売をしていた。だが、数年前の嵐で道が崩れ、荷を送れなくなった。買い付けていた穀物が売れなくなり、焦って売り急いでしまった。
買い手は付いたが、ダルリアダのタチの悪い商人で、商品に難癖を付けられて、代金を踏み倒された。
あとから知ったのだが、ヴァロワ貴族を没落させるための策に私ははまったのだ」
アネルマは、それでも不審だった。
「ロイバス男爵とは?」
伯爵が遠くを見る。
「隊長殿……。
民は支配するものではない。
民は自立しているのだ。暴力で抑えつけても、時が経てば激しい反発に遭う。あの男には、それがわからぬのだ。
尋ねてよいか?」
アネルマは、少し緊張する。
「どのようなことか?」
伯爵がアネルマを見る。
「一領具足とは、何なのだ?
隊長殿は、その一領具足なのであろう?」
アネルマは、この質問が苦手だった。
「一領具足は、半農半武の集団だ。普段は農民として生活するが、国王が求めれば戦場〈いくさば〉で武人として働く。
武人として働きはするが報酬はない。国王の家臣のように恩賞もない。その代わり、領地を持ち、誰にも税を納めない。
貴族からは、しばしば似非貴族と呼ばれる。だが、貴族は国王に税を納めるが、我らは納税を免除されている。
だから、貴族でも民でもないのだ」
伯爵が微笑む。
「面白い!
当家は南部の出で、中部のことは詳しくない。だが、この地にやって来て、すぐに一領具足の名を聞いた。
だが、取り引きの機会がなくてね。
国王の臣下でなく、傭兵でもなく、身分という忌まわしい制度から外れた農民であり武人の集団がいるとはな。
驚きだ」
アネルマは世間話を切り上げて、任務について説明したかった。
「伯爵、できるだけ迷惑はかけぬゆえ、1週間ほどいさせていただけないか?
我らの任務は、前線と司令部の連絡をつなぐための設備を設営することだ」
伯爵は気付いていた。
「あの遠話の道具か?」
アネルマが肯定する。
「えぇ、あの遠話の機械は、場合によっては通じないことがある。また、前線で使われている機械は小さくて力が弱いのだ。
そこで、ここで中継したい」
伯爵は、アネルマたちの駐留には利があると感じていた。
「かまわないが、妻と娘には危害を加えないでくれ」
アネルマにもその気はない。
「母屋には立ち入らぬ。
庭師の家や納屋を使わせてもらう」
「お頭、どうします?」
「追い出すわけにはいかない。
行く場所がないんだから」
イェスパー・ルセンは、得体の知れない液体を瓶に詰めながら、手下の問いに答える。 だが、このままでは早晩追い詰められることは確かだ。
「3カ村の生き残りだ。
120人もいる。収穫物はロイバスのクソ野郎に、奪われるか、焼かれてしまった。
だけど、ここにも食い物はない。
食い物を手に入れるか、食い物のある場所に移動するか、だ。
どこに行けばいい?
名案はないか?」
彼には手下が3人いる。物知りな老人、驚異的に身軽な女の子、冷静沈着な若者。
イェスパーも若い。
女の子が案を出す。
「エイミス伯爵邸なら、穀物がある。
穀物商だからね。
売れ残りがあるはずだよ。量はわかんないけど」
老人も賛成する。
「エイミス伯爵邸には使用人がいないし、戦えるとしたら伯爵だけ。
我らでもどうにかなる。
食い物を奪おう。どうせ、貴族の持ち物だ。心がとがめることはない」
ルセン家は子爵であったが、イェスパーの祖父の代に没落していた。武人であった父は傭兵を生業としていたが、子のイェスパーは森で密造酒を造っている。
老人は父の副官兼参謀だった。
戦火を逃れた120人の農民は、イェスパーに率いられて森の中を15キロ進む。
エイミス伯爵邸はアリエ川の近くにあり、広い敷地を有することは知っていた。
館は芝に囲まれ、北に三日月形の池がある。館の車寄せは北側にあり、南側には各部屋ごとにバルコニーがある。
接近するなら、東か西からだ。
「ミルカ、偵察だ。
伯爵邸の様子を見てこい」
イェスパーは、軽業師出身の女の子に偵察を命じる。
ミルカは、伯爵邸に奇妙な柄の服を着た何人かを認める。ロイバス男爵の兵ではないので、噂に聞く後家の兵であることを案じる。
ミルカはもう少し近付き、正体を確かめることにした。
アネルマは自分で設置したばかりの人感センサーが、突然作動したことに驚く。
ミルカは、強い光と大きなチャイムの電子音に驚き、身体が固まった。
アネルマとミルカの視線が合う。
ミルカが腰の背側に帯びる刃渡り30センチほどの片刃の刀を抜く。
作業中であったアネルマは弾帯を着けていなかった。慌てて左腕に付けている両刃のナイフを抜く。
アネルマは、少女のトリッキーな動きに追従できなかった。アネルマよりも一回り小柄で、たぶん年齢も下。だが、動きに惑わされていなくても、かなり強い。
騒ぎを聞きつけた通信班員が集まってきた。味方がいなければ、アネルマは倒されていた。当然だが、班員は銃を突き付けている。複数の銃口が向けられて、少女は諦めかけてはいたが、それでも戦う意思を示す。
アネルマが叫ぶ。
「男爵の兵ではないのに、なぜ戦う!
戦う必要なんてない!
剣を収めろ!」
ミルカも叫ぶ。
「おまえたち!
後家の兵だろ!
おまえたちが攻めてきたせいで、ロイバスの兵が暴れているんだ!
村が襲われ、家が焼かれた!
おまえたちのせいだ!」
アネルマは、半歩少女に近付く。
「それは、すまなかった。
気付かなかった。この地方の人たちは、男爵を支持していると思っていたんだ」
ミルカが唖然とする。
「そんなヤツはいないよ。
ロイバスの兵は乱暴なんだ。
男爵だって私たちを見下している!」
エイミス伯爵が走ってきた。
「そのお嬢さんを許してやってくれ!
頼むから!
無益な血は流さないでくれ!」
そして、ミルカに向き直る。
「お嬢さん、なぜここに来た!
用もないのに貴族の館をうかがったりはしないだろう?」
ミルカは躊躇ったが、事情を話すことにする。
「ロイバスの兵が暴れているんだ。
森に3カ村120人が隠れている。ロイバスの兵に襲われて逃げてきた人たち。赤ん坊もいるし、おじいさんもいる。
食べ物がない。
丸2日食べていない。
伯爵の穀物庫なら何か残っているんじゃないかって……」
エイミス伯爵は、少女の予想を裏切る。
「ここには穀物庫はないんだ。
買い付けた穀物は、売り先に直接運んでいるからね。
だけど、少しなら食べ物がある。
この先はどうなるかわからないけど、村人たちをここに連れてきなさい」
120人の避難民は、かなり疲れていた。怪我をしている人も多い。
エイミス伯爵が慌て、アネルマは当惑した。
伯爵は食料庫からありったけの保存食を運び出し、アネルマたちも持参している糧秣のすべてを出した。
アネルマは無線で支援を求めた。
「120人の避難民を保護。食糧の支援を至急求める」
応答はすぐにあった。
「オリバ準男爵がアリエ川を下って、食料を運んでくれる。
明日には届く」
嶺林翔太は、蕎麦の出荷準備に追われていた。出荷先は元世界だ。
この夏、元世界は干ばつと蝗害で悲惨な状況だった。日本は蝗害からは免れていたが、西日本は空前の干ばつで農作物はほぼ全滅。水道は1日2時間だけ給水される制限が行われた。
西日本から東日本への移動を規制するため、新幹線と航空機の運行が止められる。
日常は完全に崩壊する。
東日本は、梅雨がなくなり、台風が頻繁に上陸するが、ゲリラ豪雨は減っている。5月から10月までが水害のシーズンで、河川の氾濫は珍しくなくなっていた。
主要幹線以外の鉄道は、鉄橋が流されたり、大規模な土砂崩れがあれば、そのまま放棄される。復旧工事を行っても、翌年には同じような被害が起こるからだ。
道路も一部は復旧を諦めている。
それでも、東日本は通常の生活を維持していた。
ただ、食糧不足は現実の問題になっていた。出所不明の米も出回り始めている。まもなく、異世界から小麦を持ち込んでも、出所を問われることはなくなるだろう。
春頃からは、蕎麦の出所を尋ねられることはない。残留農薬や放射能の心配はあるが、それを気にしたら食べるものはない。状況は日々悪化して、細かい条件を付けたえり好みはできない。
食べてもすぐに死なないなら、それはいい食料だ。
幸いにも、日本はいまのところ無政府状態ではない。司法、行政、立法はどうにか機能している。
だが、治安は確実に悪化している。一部の地方政治家と結びついた反社会的勢力の暗躍は、深刻さを増している。
世紀末的世界の中で薬物が蔓延していて、密売組織のボスが地方政治家であることが全国的に増えている。
翔太が住む地域も同じだ。保守系有力市議会議員が違法薬物密売の元締めだと噂されている。
異世界から食料を運び、元世界で販売することは可能だが、派手にやり過ぎると、反社的政治家に目を付けられる可能性がある。
そうなると、厄介だ。
用心しなくてはならない。
翔太が畑から村に戻ると、ロレーヌ準男爵の次男が弟妹と数人の子供を馬車に乗せてやって来ていた。
「総当主様こんにちわぁー」
一番下の妹がカフェに向かって走って行く。
「ちゃんとご挨拶して!」
兄の叱責に「したぁ~」と残響を残して、カフェに飛び込む。
彼女の目当ては、シュークリームとチョコレート。今日は、彼女がまだ食べたことがないエクレアがある。
元世界のコンビニでは、まだスイーツが売られている。日本だけかもしれないが……。
妹ちゃんの歓声が聞こえる。
「シュークリームにチョコレートがかけてあるぅ~!」
家族が戦場にいるというのに、子供たちは安心しきっている。
翔太が畑に戻ろうとすると、レベッカが司令部にしている会所から飛び出してきた。
「ショウ様!
アネルマたちが120人もの避難民を保護したと!
男爵軍の兵が自領であるのに暴れているらしいのです!
至急、食べ物が必要だと!」
翔太は、かなり驚いた。自領の民衆を攻撃する領主など、普通は存在しない。反乱でないなら、必要がないし、不利益であることが明らかだからだ。
貴族の権利と優位性をことさら強調する、ロイバス男爵の異常性がわかる。
あるいは、占領された領地の奪還を完全に諦めた可能性もある。
「食料は、俺が運ぶよ。
トラックを用意して」
レベッカが手順を説明する。
「アリエ川で運びます。
そのほうが速いので。
オリバ準男爵が船を用意して待っています」
「わかった。
準備が整い次第、すぐに出発する」
エイミス伯爵は、避難民に対してフレンドリーだ。だが、奥方や娘たちは違う。
露骨にイヤな顔をしている。
伯爵が奥方と娘を怒鳴った。
「おまえたちは何を考えているんだ!
農民が作物を育てなければ、当家は売るものがないのだぞ!
売るものがなければ、おまえたちは飢えるしかないのだ!
愚か者め!」
この怒声は、アネルマたちを驚かせた。このような言葉を発する貴族は、多くはない。しかも伯爵が……。
アネルマたちは、エイミス伯爵に好感を抱く。
コルマール村では、居住地域、耕作地域、工業地域を明確に分けていた。
工業地域では、車輌の修理や改造が行われている。また、銃器の製造工場もある。
製造できる銃器には制限がある。
44口径(11.18ミリ)、30口径(7.62ミリ)、50口径(12.7ミリ)、7.92ミリの4種類の銃身のみ。
このうち、44口径が拳銃弾で、44口径は異世界で組み立てた装置で作れるようにした。それ以外は、元世界から移入した工作機械で銃身を製造する。
翔太の高祖父が残していた.44-40ウィンチェスター弾の薬莢を製造する装置があることから、この弾は比較的早くから製造された。
多くは、レミントンM1858パーカッションロック式6連発リボルバーをカートリッジコンバージョンとした拳銃に使われている。
それ以外は、スミス&ウェッソンNo.3スコフィールドとコルト・ニューサービスで使用する。
この拳銃の製造中止後は、スコフィールドのコピー生産が行われている。この拳銃は中折れ式6連発リボルバーだ。一瞬で排莢でき、素早く装填できる。
原型は高祖父が残した実銃。
このタイプが一時期の主力拳銃だ。現在はニューサービスに生産が移っている。
小銃はモーゼルkar98kのコピー、軽機関銃はブルーノZB26の改良型を製造している。
だが、数は多くない。主力は相変わらず、トラップドアの後送式単発ライフルだ。弾薬は、ストレートの真鍮製で作りやすい.577スナイドル弾が主力のまま残っている。
だが、発射薬はシングルベースの無煙火薬に変更されている。
アネルマたちは戦闘部隊ではなく、通信隊なので、最新の銃は装備していない。それでも、全長1.1メートルのトラップドアを装備している。
アネルマはレミントンM1858パーカッションリボルバーを、通信班長はスコフィールドを装備していた。
館から出てきたエイミス伯爵を、アネルマが呼び止める。
「伯爵、避難民が来たのだから、男爵の兵が彼らを追っている可能性があると思う」
エイミス伯爵が驚く。
「では、ここに?」
「警戒はしたほうがいい。
食料がほしくて、農家を襲っているのなら、ここには来ない。だけど、別な目的があるとしたら……」
「別な目的?」
「えぇ、男爵にはルクワ川より東を奪還する力はない。そんな力は残っていない。
今回の攻勢だって、南部が手を貸さなければ男爵は動かなかっただろう。
もし、ルクワ川東岸の土地を失うならば、住民の皆殺しを考えても不思議じゃない。
男爵は、支配下にある土地は自分の領地だと考えているし、領地や領民は私物だと信じている。
とすると、自分の財産を奪われるくらいなら、壊してしまおうとするんじゃないかな」
「ふむ、あの男ならやりかねないな。
で、どうしたらいい?」
「貴族の館なのだから、武器庫があるでしょ。
銃はどれくらい?」
「確かに武器庫はあるが、この館の前の持ち主のものが残っているだけ。相当に古いものばかりだし、使えるかどうか。
私は貴族でも、実質は穀物商人だからね。
戦道具には興味がないのだよ」
「それでも、役に立つものがあるかも。
武器庫を見せてほしい」
通信班長が呆れる。
「それ、使うつもりか?」
そう問われて、アネルマが躊躇う。
「これしかないんだよ」
だが、非難民の長は違った。
「農民の猟銃は、そんなものだよ。
十分に使える」
避難民は武器を持っていなかった。ロイバス男爵は、農村や街で鉄砲狩りと刀狩りを何度も徹底して行っている。
住民の反乱を恐れたからだ。結果、農民はオオカミから身を守れなくなり、商人は盗賊を追い払うことができなくなった。
幸いにもエイミス伯爵は貴族であり、さすがに貴族邸へ押し入って、武器を徴発することはしなかった。
伯爵邸の以前の持ち主は、武門の家系であった。それだけに、武具は揃っていたが、骨董品ばかりだ。
火薬樽もあったそうだが、さすがに物騒なので、エイミス伯爵が処分していた。だが、骨董品の武具と武器は手つかずで残っていた。
避難民たちは銃を清掃し、可動部には油を差し、銃身内部の錆を落とした。
午後の早い時間には、30挺のマッチロック式マスケットが使えるようになっていた。ただし、肩付け型緩発式の一斉射撃用だ。
同じマッチロック式でも、一領具足が使う頬付け型瞬発式とは銃床の形状と機能が異なる。
運用方法を考えなくてはならない。
銃を用意したが、ロイバス男爵の残兵が襲撃してくる可能性については、アネルマ自身が確信しているわけではなかった。
むしろ、ここ数日の食料をどうするか、そちらの方が問題だ。エイミス伯爵の食料庫は、一瞬で空になったし、通信班員の食料をすべて出しても食事1回分にもならない。
今夜の食事にさえ困る。
食料の他にも不安がある。避難民は、女性、老人、子供、乳幼児ばかりなのだ。ロイバス男爵が行った根こそぎ動員は、農村から労働年齢の男性を奪っていた。この強制徴兵から逃れたのは、たまたま村にいなかった男性だけだ。
その数はたったの5人ほど。強制徴兵された人々は、ルクワ川以東にいると思われるが、多くは隠れている。
ロイバス男爵の兵と中部東側の部隊を避けながら、それぞれの家族のもとに向かっている。
畑を荒らす小動物を追い払うために銃を撃ったことがあるかないかの農家の主婦が、戦い慣れした野盗同然の兵に銃口を向けられるとは思えない。
息子と夫を連れ去られた農家の主婦が「ど根性で戦います」と、アネルマに誓ったが、そんなものでは戦えない。
戦闘とは、恐怖そのものなのだから。
それもあって、アネルマは正常性バイアスに陥っていた。
ロイバス男爵のゲリラ兵は、戦略的に意味がない伯爵邸を襲いはしない、と考えた。
当然、真剣に防衛体制を整えようとは考えなかった。
そして、館の正面にあたる北側、アリエ川方面に2騎の兵が現れる。
1騎が伸縮式の単眼望遠鏡で、伯爵邸を観察している。屋敷の敷地内にいる避難民を見られたし、アネルマたちに気付いた可能性もある。
しかし、それでもアネルマは「襲っては来ないさ」と言葉にしていた。
同じ希望を通信班長とエイミス伯爵も抱いていたが、2人はアネルマほど楽観していなかった。
「アネルマ、どうやって守るんだ?」
通信班長の問いに、アネルマは答えたくなかった。
エイミス伯爵邸の庭は、ヴァロワ貴族の館としては特異だった。ヴァロワ貴族は庭園を植栽で飾ることを好む。季節の花を植えるのだが、花壇や花の色で描く模様に趣向を凝らす。
だが、伯爵邸の庭は実にシンプルだ。アリエ川から分離した三日月形の大きな池を取り囲む散歩道、その散歩道の一部でもある三日月形の池を避けるようなY字形の車道、Y字の末端は館まで延びて車寄せに至る。
経済的な問題から伯爵邸の庭は手入れをされていないが、本来は短く刈られた芝に覆われている。エントランスがある北側と部屋に日光と風を導く南側も芝だけ。東西は森。このシンプルな庭園にあって、人工物は2つ。
館正面にある2つの噴水だけ。その噴水自体、自然に溶け込んでいる。真円にレンガを積んだ目立たない造形だ。
弛緩していたアネルマの防衛本能が少しだけ刺激される。
「班長、有刺鉄線はある?」
「あるよ。
館を取り囲めるほどの長さはないが、正面はどうにかなる」
「騎馬突撃は防げるか……」
「アネルマ、それは重要だぞ」
「だね、班長。
左右の噴水の間に有刺鉄線を配せば、騎兵は左右に回り込むしかない。
南側はどうだろう?
伯爵に聞いてくるよ!」
「あぁ、そうしてくれ」
アネルマは、本人は気付いていないが精神を覚醒させ始めていた。
アネルマは開いている観音開きの大きなドアから館内を覗く。
「伯爵!」
大声で伯爵を呼ぶ。
現れたのは次女だ。
「何か用?」
次女の表情と態度は硬い。目が腫れている。泣いていたのだ。破談になったことを知らず、破談の理由が彼女の貞操にあるのだ。
破談になっただけでなく、今後は縁談もない。
「森の中にウマが通れる道はあるか?」
「なぜそんなことを聞くの?
隊長さん?」
アネルマは「隊長さん?」に若干の侮蔑の声音を感じる。暗に「似非貴族のくせに」とでも言いたげな韻がある。
「男爵の兵が襲ってくる。
伯爵もそう思っている。
森の中に道があれば、迂回攻撃を仕掛けられるかもしれない。ウマが通れるなら、騎兵の攻撃がある。ウマが通れなくても、人が徒歩で攻撃してくるだろう。
騎兵か、歩兵か、それを知りたい」
次女には根源的な心配があった。
「もし、負けたら……」
アネルマは、彼女の愚問にどう答えるか思案する。
「皆殺しだろうな。
でも、楽には殺さないだろう」
次女は期待した通りの答えに反発する。
「あなたたちはそうかもしれないけど、私たちは貴族。尊い血を受け継ぐ家系のものは、貴族同士で殺し合いはしない」
アネルマは、こういった考えになれていた。
「エルレラ子爵のことを知らないのか?
子爵はロイバス男爵が要求した戦費の額を交渉して、奥方と3人の子ともども殺された。奥方は身重で、一番小さいお子は2歳だったと聞く。
男爵は貴族だとしても容赦しない。
彼は自分の利益になるなら、何でもする」
次女は怯まなかった。
「ならば、男爵に忠誠を誓う!」
アネルマが驚く。
「それは、やめたほうがいい」
次女が憤慨する。
「なぜ!
どうして!」
アネルマは、適当な説明が見つからず、思いつきを口にする。
「我が叔父上はいま、蕎麦の出荷で忙しい。
だが、叔父上がブチ切れたら、ロイバス男爵の首がちぎれ飛ぶ。叔父上はいまのところ、蕎麦の出荷にかこつけて戦場に赴かれない。
だけど、このままだと叔父上の怒りに火が着く。そうしたら、男爵の生命はない。
負けるほうに味方するなど、計算高い貴族がする選択ではない」
次女は、納得できなかった。
「似非貴族に何ができると言うの?」
2人の会話に同年代の男性が割り込む。
「叔父上?
もしや、後家の愛人のこと?」
アネルマが男性をにらむ。男性が少し慌てる。
「すまない、俺はイェスパー・ルセン。
森で密造酒を造っている。
これでも爺さんの代までは貴族だった。
ヴァロワの後家が蜂起できた理由は、愛人の手助けがあったからだと聞いた。その人物が一領具足総当主、ショウ・レイリンだ。
俺のダチにルパート・ケッセルというクソ貴族がいるんだが、ヤツの話だと貴族たちはこう言ってるらしい。
今後、ダルリアダ国王の胸に剣を突き刺す勇者は現れないだろう。
だが、ダルリアダ国王のケツの穴に指を突っ込む変態ならいる。
ってね。
その変態野郎がショウ・レイリン。
で、あんたは?」
「私は、アネルマ・リンレイ。
レイリン家の当主だ!」
イェスパーが大笑いする。
「こいつは驚いた!
本当にレイリンっているんだ!」
アネルマ隊の主力は、ヒルマが指揮して一切の抵抗なく、ルクワ川とアリエ川の合流部に達する。
麗林梓と彼女の仲間は、進路を遮る木々を切り倒し、川には仮設架橋して前進し、後退を急ぐ南部の派遣部隊である南攻軍を蹴散らした。逃げ遅れた南攻軍将兵の多くは、鋼の巨獣を恐れて森に隠れる。
ヒルマ隊よりは遅れたが、ルクワ川源流部やや下流に達し、進撃をやめる。
ロレーヌ準男爵とフラン曹長の隊は、各地でロイバス男爵の残兵と遭遇。激しい戦闘を繰り返しながら、ルクワ川東岸に達する。
館から離れた大木に、無線のアンテナをくくり付ける作業をしている。大木は枝振りのいい一本木だ。
その作業を、アネルマが見ている。
アネルマの横にエイミス伯爵が立つ。
「隊長殿……」
アネルマには、伯爵の気持ちがわかっていた。
「伯爵、我らは通信隊1個班で、戦闘部隊ではない。奥方や姫に危害は加えぬ」
伯爵の不安は消えない。
「隊長殿は女性だが……」
アネルマが微笑む。
「女でも、女を犯すことはある。
ご存じであろう?」
伯爵の顔はさえない。
「知っておる。
それほど昔のことではない。
この館がロイバス男爵に接収されたのだ。
それで、2番目の娘の縁談が消えた」
アネルマは答えるべき言葉を探したが、見つからなかった。
「気の毒とは思うが、被害はなかったのであろう?
よしとせねば。
ご貴殿は、男爵派ではないのか?」
エイミス伯爵が吐き捨てるように言葉を発する。
「はっ!
あの時代錯誤男の仲間などではない!
当家は貴族だが、それ以上に自由を尊ぶ商人だ。まぁ、商売には失敗したけどね」
「何を商われていたのだ?」
「穀物商だ。
小麦に大麦。豆も扱う。南部は耕作地が狭いので、他国から食料を買っているんだ。
私は中部で買い付けた穀物を南部に売る商売をしていた。だが、数年前の嵐で道が崩れ、荷を送れなくなった。買い付けていた穀物が売れなくなり、焦って売り急いでしまった。
買い手は付いたが、ダルリアダのタチの悪い商人で、商品に難癖を付けられて、代金を踏み倒された。
あとから知ったのだが、ヴァロワ貴族を没落させるための策に私ははまったのだ」
アネルマは、それでも不審だった。
「ロイバス男爵とは?」
伯爵が遠くを見る。
「隊長殿……。
民は支配するものではない。
民は自立しているのだ。暴力で抑えつけても、時が経てば激しい反発に遭う。あの男には、それがわからぬのだ。
尋ねてよいか?」
アネルマは、少し緊張する。
「どのようなことか?」
伯爵がアネルマを見る。
「一領具足とは、何なのだ?
隊長殿は、その一領具足なのであろう?」
アネルマは、この質問が苦手だった。
「一領具足は、半農半武の集団だ。普段は農民として生活するが、国王が求めれば戦場〈いくさば〉で武人として働く。
武人として働きはするが報酬はない。国王の家臣のように恩賞もない。その代わり、領地を持ち、誰にも税を納めない。
貴族からは、しばしば似非貴族と呼ばれる。だが、貴族は国王に税を納めるが、我らは納税を免除されている。
だから、貴族でも民でもないのだ」
伯爵が微笑む。
「面白い!
当家は南部の出で、中部のことは詳しくない。だが、この地にやって来て、すぐに一領具足の名を聞いた。
だが、取り引きの機会がなくてね。
国王の臣下でなく、傭兵でもなく、身分という忌まわしい制度から外れた農民であり武人の集団がいるとはな。
驚きだ」
アネルマは世間話を切り上げて、任務について説明したかった。
「伯爵、できるだけ迷惑はかけぬゆえ、1週間ほどいさせていただけないか?
我らの任務は、前線と司令部の連絡をつなぐための設備を設営することだ」
伯爵は気付いていた。
「あの遠話の道具か?」
アネルマが肯定する。
「えぇ、あの遠話の機械は、場合によっては通じないことがある。また、前線で使われている機械は小さくて力が弱いのだ。
そこで、ここで中継したい」
伯爵は、アネルマたちの駐留には利があると感じていた。
「かまわないが、妻と娘には危害を加えないでくれ」
アネルマにもその気はない。
「母屋には立ち入らぬ。
庭師の家や納屋を使わせてもらう」
「お頭、どうします?」
「追い出すわけにはいかない。
行く場所がないんだから」
イェスパー・ルセンは、得体の知れない液体を瓶に詰めながら、手下の問いに答える。 だが、このままでは早晩追い詰められることは確かだ。
「3カ村の生き残りだ。
120人もいる。収穫物はロイバスのクソ野郎に、奪われるか、焼かれてしまった。
だけど、ここにも食い物はない。
食い物を手に入れるか、食い物のある場所に移動するか、だ。
どこに行けばいい?
名案はないか?」
彼には手下が3人いる。物知りな老人、驚異的に身軽な女の子、冷静沈着な若者。
イェスパーも若い。
女の子が案を出す。
「エイミス伯爵邸なら、穀物がある。
穀物商だからね。
売れ残りがあるはずだよ。量はわかんないけど」
老人も賛成する。
「エイミス伯爵邸には使用人がいないし、戦えるとしたら伯爵だけ。
我らでもどうにかなる。
食い物を奪おう。どうせ、貴族の持ち物だ。心がとがめることはない」
ルセン家は子爵であったが、イェスパーの祖父の代に没落していた。武人であった父は傭兵を生業としていたが、子のイェスパーは森で密造酒を造っている。
老人は父の副官兼参謀だった。
戦火を逃れた120人の農民は、イェスパーに率いられて森の中を15キロ進む。
エイミス伯爵邸はアリエ川の近くにあり、広い敷地を有することは知っていた。
館は芝に囲まれ、北に三日月形の池がある。館の車寄せは北側にあり、南側には各部屋ごとにバルコニーがある。
接近するなら、東か西からだ。
「ミルカ、偵察だ。
伯爵邸の様子を見てこい」
イェスパーは、軽業師出身の女の子に偵察を命じる。
ミルカは、伯爵邸に奇妙な柄の服を着た何人かを認める。ロイバス男爵の兵ではないので、噂に聞く後家の兵であることを案じる。
ミルカはもう少し近付き、正体を確かめることにした。
アネルマは自分で設置したばかりの人感センサーが、突然作動したことに驚く。
ミルカは、強い光と大きなチャイムの電子音に驚き、身体が固まった。
アネルマとミルカの視線が合う。
ミルカが腰の背側に帯びる刃渡り30センチほどの片刃の刀を抜く。
作業中であったアネルマは弾帯を着けていなかった。慌てて左腕に付けている両刃のナイフを抜く。
アネルマは、少女のトリッキーな動きに追従できなかった。アネルマよりも一回り小柄で、たぶん年齢も下。だが、動きに惑わされていなくても、かなり強い。
騒ぎを聞きつけた通信班員が集まってきた。味方がいなければ、アネルマは倒されていた。当然だが、班員は銃を突き付けている。複数の銃口が向けられて、少女は諦めかけてはいたが、それでも戦う意思を示す。
アネルマが叫ぶ。
「男爵の兵ではないのに、なぜ戦う!
戦う必要なんてない!
剣を収めろ!」
ミルカも叫ぶ。
「おまえたち!
後家の兵だろ!
おまえたちが攻めてきたせいで、ロイバスの兵が暴れているんだ!
村が襲われ、家が焼かれた!
おまえたちのせいだ!」
アネルマは、半歩少女に近付く。
「それは、すまなかった。
気付かなかった。この地方の人たちは、男爵を支持していると思っていたんだ」
ミルカが唖然とする。
「そんなヤツはいないよ。
ロイバスの兵は乱暴なんだ。
男爵だって私たちを見下している!」
エイミス伯爵が走ってきた。
「そのお嬢さんを許してやってくれ!
頼むから!
無益な血は流さないでくれ!」
そして、ミルカに向き直る。
「お嬢さん、なぜここに来た!
用もないのに貴族の館をうかがったりはしないだろう?」
ミルカは躊躇ったが、事情を話すことにする。
「ロイバスの兵が暴れているんだ。
森に3カ村120人が隠れている。ロイバスの兵に襲われて逃げてきた人たち。赤ん坊もいるし、おじいさんもいる。
食べ物がない。
丸2日食べていない。
伯爵の穀物庫なら何か残っているんじゃないかって……」
エイミス伯爵は、少女の予想を裏切る。
「ここには穀物庫はないんだ。
買い付けた穀物は、売り先に直接運んでいるからね。
だけど、少しなら食べ物がある。
この先はどうなるかわからないけど、村人たちをここに連れてきなさい」
120人の避難民は、かなり疲れていた。怪我をしている人も多い。
エイミス伯爵が慌て、アネルマは当惑した。
伯爵は食料庫からありったけの保存食を運び出し、アネルマたちも持参している糧秣のすべてを出した。
アネルマは無線で支援を求めた。
「120人の避難民を保護。食糧の支援を至急求める」
応答はすぐにあった。
「オリバ準男爵がアリエ川を下って、食料を運んでくれる。
明日には届く」
嶺林翔太は、蕎麦の出荷準備に追われていた。出荷先は元世界だ。
この夏、元世界は干ばつと蝗害で悲惨な状況だった。日本は蝗害からは免れていたが、西日本は空前の干ばつで農作物はほぼ全滅。水道は1日2時間だけ給水される制限が行われた。
西日本から東日本への移動を規制するため、新幹線と航空機の運行が止められる。
日常は完全に崩壊する。
東日本は、梅雨がなくなり、台風が頻繁に上陸するが、ゲリラ豪雨は減っている。5月から10月までが水害のシーズンで、河川の氾濫は珍しくなくなっていた。
主要幹線以外の鉄道は、鉄橋が流されたり、大規模な土砂崩れがあれば、そのまま放棄される。復旧工事を行っても、翌年には同じような被害が起こるからだ。
道路も一部は復旧を諦めている。
それでも、東日本は通常の生活を維持していた。
ただ、食糧不足は現実の問題になっていた。出所不明の米も出回り始めている。まもなく、異世界から小麦を持ち込んでも、出所を問われることはなくなるだろう。
春頃からは、蕎麦の出所を尋ねられることはない。残留農薬や放射能の心配はあるが、それを気にしたら食べるものはない。状況は日々悪化して、細かい条件を付けたえり好みはできない。
食べてもすぐに死なないなら、それはいい食料だ。
幸いにも、日本はいまのところ無政府状態ではない。司法、行政、立法はどうにか機能している。
だが、治安は確実に悪化している。一部の地方政治家と結びついた反社会的勢力の暗躍は、深刻さを増している。
世紀末的世界の中で薬物が蔓延していて、密売組織のボスが地方政治家であることが全国的に増えている。
翔太が住む地域も同じだ。保守系有力市議会議員が違法薬物密売の元締めだと噂されている。
異世界から食料を運び、元世界で販売することは可能だが、派手にやり過ぎると、反社的政治家に目を付けられる可能性がある。
そうなると、厄介だ。
用心しなくてはならない。
翔太が畑から村に戻ると、ロレーヌ準男爵の次男が弟妹と数人の子供を馬車に乗せてやって来ていた。
「総当主様こんにちわぁー」
一番下の妹がカフェに向かって走って行く。
「ちゃんとご挨拶して!」
兄の叱責に「したぁ~」と残響を残して、カフェに飛び込む。
彼女の目当ては、シュークリームとチョコレート。今日は、彼女がまだ食べたことがないエクレアがある。
元世界のコンビニでは、まだスイーツが売られている。日本だけかもしれないが……。
妹ちゃんの歓声が聞こえる。
「シュークリームにチョコレートがかけてあるぅ~!」
家族が戦場にいるというのに、子供たちは安心しきっている。
翔太が畑に戻ろうとすると、レベッカが司令部にしている会所から飛び出してきた。
「ショウ様!
アネルマたちが120人もの避難民を保護したと!
男爵軍の兵が自領であるのに暴れているらしいのです!
至急、食べ物が必要だと!」
翔太は、かなり驚いた。自領の民衆を攻撃する領主など、普通は存在しない。反乱でないなら、必要がないし、不利益であることが明らかだからだ。
貴族の権利と優位性をことさら強調する、ロイバス男爵の異常性がわかる。
あるいは、占領された領地の奪還を完全に諦めた可能性もある。
「食料は、俺が運ぶよ。
トラックを用意して」
レベッカが手順を説明する。
「アリエ川で運びます。
そのほうが速いので。
オリバ準男爵が船を用意して待っています」
「わかった。
準備が整い次第、すぐに出発する」
エイミス伯爵は、避難民に対してフレンドリーだ。だが、奥方や娘たちは違う。
露骨にイヤな顔をしている。
伯爵が奥方と娘を怒鳴った。
「おまえたちは何を考えているんだ!
農民が作物を育てなければ、当家は売るものがないのだぞ!
売るものがなければ、おまえたちは飢えるしかないのだ!
愚か者め!」
この怒声は、アネルマたちを驚かせた。このような言葉を発する貴族は、多くはない。しかも伯爵が……。
アネルマたちは、エイミス伯爵に好感を抱く。
コルマール村では、居住地域、耕作地域、工業地域を明確に分けていた。
工業地域では、車輌の修理や改造が行われている。また、銃器の製造工場もある。
製造できる銃器には制限がある。
44口径(11.18ミリ)、30口径(7.62ミリ)、50口径(12.7ミリ)、7.92ミリの4種類の銃身のみ。
このうち、44口径が拳銃弾で、44口径は異世界で組み立てた装置で作れるようにした。それ以外は、元世界から移入した工作機械で銃身を製造する。
翔太の高祖父が残していた.44-40ウィンチェスター弾の薬莢を製造する装置があることから、この弾は比較的早くから製造された。
多くは、レミントンM1858パーカッションロック式6連発リボルバーをカートリッジコンバージョンとした拳銃に使われている。
それ以外は、スミス&ウェッソンNo.3スコフィールドとコルト・ニューサービスで使用する。
この拳銃の製造中止後は、スコフィールドのコピー生産が行われている。この拳銃は中折れ式6連発リボルバーだ。一瞬で排莢でき、素早く装填できる。
原型は高祖父が残した実銃。
このタイプが一時期の主力拳銃だ。現在はニューサービスに生産が移っている。
小銃はモーゼルkar98kのコピー、軽機関銃はブルーノZB26の改良型を製造している。
だが、数は多くない。主力は相変わらず、トラップドアの後送式単発ライフルだ。弾薬は、ストレートの真鍮製で作りやすい.577スナイドル弾が主力のまま残っている。
だが、発射薬はシングルベースの無煙火薬に変更されている。
アネルマたちは戦闘部隊ではなく、通信隊なので、最新の銃は装備していない。それでも、全長1.1メートルのトラップドアを装備している。
アネルマはレミントンM1858パーカッションリボルバーを、通信班長はスコフィールドを装備していた。
館から出てきたエイミス伯爵を、アネルマが呼び止める。
「伯爵、避難民が来たのだから、男爵の兵が彼らを追っている可能性があると思う」
エイミス伯爵が驚く。
「では、ここに?」
「警戒はしたほうがいい。
食料がほしくて、農家を襲っているのなら、ここには来ない。だけど、別な目的があるとしたら……」
「別な目的?」
「えぇ、男爵にはルクワ川より東を奪還する力はない。そんな力は残っていない。
今回の攻勢だって、南部が手を貸さなければ男爵は動かなかっただろう。
もし、ルクワ川東岸の土地を失うならば、住民の皆殺しを考えても不思議じゃない。
男爵は、支配下にある土地は自分の領地だと考えているし、領地や領民は私物だと信じている。
とすると、自分の財産を奪われるくらいなら、壊してしまおうとするんじゃないかな」
「ふむ、あの男ならやりかねないな。
で、どうしたらいい?」
「貴族の館なのだから、武器庫があるでしょ。
銃はどれくらい?」
「確かに武器庫はあるが、この館の前の持ち主のものが残っているだけ。相当に古いものばかりだし、使えるかどうか。
私は貴族でも、実質は穀物商人だからね。
戦道具には興味がないのだよ」
「それでも、役に立つものがあるかも。
武器庫を見せてほしい」
通信班長が呆れる。
「それ、使うつもりか?」
そう問われて、アネルマが躊躇う。
「これしかないんだよ」
だが、非難民の長は違った。
「農民の猟銃は、そんなものだよ。
十分に使える」
避難民は武器を持っていなかった。ロイバス男爵は、農村や街で鉄砲狩りと刀狩りを何度も徹底して行っている。
住民の反乱を恐れたからだ。結果、農民はオオカミから身を守れなくなり、商人は盗賊を追い払うことができなくなった。
幸いにもエイミス伯爵は貴族であり、さすがに貴族邸へ押し入って、武器を徴発することはしなかった。
伯爵邸の以前の持ち主は、武門の家系であった。それだけに、武具は揃っていたが、骨董品ばかりだ。
火薬樽もあったそうだが、さすがに物騒なので、エイミス伯爵が処分していた。だが、骨董品の武具と武器は手つかずで残っていた。
避難民たちは銃を清掃し、可動部には油を差し、銃身内部の錆を落とした。
午後の早い時間には、30挺のマッチロック式マスケットが使えるようになっていた。ただし、肩付け型緩発式の一斉射撃用だ。
同じマッチロック式でも、一領具足が使う頬付け型瞬発式とは銃床の形状と機能が異なる。
運用方法を考えなくてはならない。
銃を用意したが、ロイバス男爵の残兵が襲撃してくる可能性については、アネルマ自身が確信しているわけではなかった。
むしろ、ここ数日の食料をどうするか、そちらの方が問題だ。エイミス伯爵の食料庫は、一瞬で空になったし、通信班員の食料をすべて出しても食事1回分にもならない。
今夜の食事にさえ困る。
食料の他にも不安がある。避難民は、女性、老人、子供、乳幼児ばかりなのだ。ロイバス男爵が行った根こそぎ動員は、農村から労働年齢の男性を奪っていた。この強制徴兵から逃れたのは、たまたま村にいなかった男性だけだ。
その数はたったの5人ほど。強制徴兵された人々は、ルクワ川以東にいると思われるが、多くは隠れている。
ロイバス男爵の兵と中部東側の部隊を避けながら、それぞれの家族のもとに向かっている。
畑を荒らす小動物を追い払うために銃を撃ったことがあるかないかの農家の主婦が、戦い慣れした野盗同然の兵に銃口を向けられるとは思えない。
息子と夫を連れ去られた農家の主婦が「ど根性で戦います」と、アネルマに誓ったが、そんなものでは戦えない。
戦闘とは、恐怖そのものなのだから。
それもあって、アネルマは正常性バイアスに陥っていた。
ロイバス男爵のゲリラ兵は、戦略的に意味がない伯爵邸を襲いはしない、と考えた。
当然、真剣に防衛体制を整えようとは考えなかった。
そして、館の正面にあたる北側、アリエ川方面に2騎の兵が現れる。
1騎が伸縮式の単眼望遠鏡で、伯爵邸を観察している。屋敷の敷地内にいる避難民を見られたし、アネルマたちに気付いた可能性もある。
しかし、それでもアネルマは「襲っては来ないさ」と言葉にしていた。
同じ希望を通信班長とエイミス伯爵も抱いていたが、2人はアネルマほど楽観していなかった。
「アネルマ、どうやって守るんだ?」
通信班長の問いに、アネルマは答えたくなかった。
エイミス伯爵邸の庭は、ヴァロワ貴族の館としては特異だった。ヴァロワ貴族は庭園を植栽で飾ることを好む。季節の花を植えるのだが、花壇や花の色で描く模様に趣向を凝らす。
だが、伯爵邸の庭は実にシンプルだ。アリエ川から分離した三日月形の大きな池を取り囲む散歩道、その散歩道の一部でもある三日月形の池を避けるようなY字形の車道、Y字の末端は館まで延びて車寄せに至る。
経済的な問題から伯爵邸の庭は手入れをされていないが、本来は短く刈られた芝に覆われている。エントランスがある北側と部屋に日光と風を導く南側も芝だけ。東西は森。このシンプルな庭園にあって、人工物は2つ。
館正面にある2つの噴水だけ。その噴水自体、自然に溶け込んでいる。真円にレンガを積んだ目立たない造形だ。
弛緩していたアネルマの防衛本能が少しだけ刺激される。
「班長、有刺鉄線はある?」
「あるよ。
館を取り囲めるほどの長さはないが、正面はどうにかなる」
「騎馬突撃は防げるか……」
「アネルマ、それは重要だぞ」
「だね、班長。
左右の噴水の間に有刺鉄線を配せば、騎兵は左右に回り込むしかない。
南側はどうだろう?
伯爵に聞いてくるよ!」
「あぁ、そうしてくれ」
アネルマは、本人は気付いていないが精神を覚醒させ始めていた。
アネルマは開いている観音開きの大きなドアから館内を覗く。
「伯爵!」
大声で伯爵を呼ぶ。
現れたのは次女だ。
「何か用?」
次女の表情と態度は硬い。目が腫れている。泣いていたのだ。破談になったことを知らず、破談の理由が彼女の貞操にあるのだ。
破談になっただけでなく、今後は縁談もない。
「森の中にウマが通れる道はあるか?」
「なぜそんなことを聞くの?
隊長さん?」
アネルマは「隊長さん?」に若干の侮蔑の声音を感じる。暗に「似非貴族のくせに」とでも言いたげな韻がある。
「男爵の兵が襲ってくる。
伯爵もそう思っている。
森の中に道があれば、迂回攻撃を仕掛けられるかもしれない。ウマが通れるなら、騎兵の攻撃がある。ウマが通れなくても、人が徒歩で攻撃してくるだろう。
騎兵か、歩兵か、それを知りたい」
次女には根源的な心配があった。
「もし、負けたら……」
アネルマは、彼女の愚問にどう答えるか思案する。
「皆殺しだろうな。
でも、楽には殺さないだろう」
次女は期待した通りの答えに反発する。
「あなたたちはそうかもしれないけど、私たちは貴族。尊い血を受け継ぐ家系のものは、貴族同士で殺し合いはしない」
アネルマは、こういった考えになれていた。
「エルレラ子爵のことを知らないのか?
子爵はロイバス男爵が要求した戦費の額を交渉して、奥方と3人の子ともども殺された。奥方は身重で、一番小さいお子は2歳だったと聞く。
男爵は貴族だとしても容赦しない。
彼は自分の利益になるなら、何でもする」
次女は怯まなかった。
「ならば、男爵に忠誠を誓う!」
アネルマが驚く。
「それは、やめたほうがいい」
次女が憤慨する。
「なぜ!
どうして!」
アネルマは、適当な説明が見つからず、思いつきを口にする。
「我が叔父上はいま、蕎麦の出荷で忙しい。
だが、叔父上がブチ切れたら、ロイバス男爵の首がちぎれ飛ぶ。叔父上はいまのところ、蕎麦の出荷にかこつけて戦場に赴かれない。
だけど、このままだと叔父上の怒りに火が着く。そうしたら、男爵の生命はない。
負けるほうに味方するなど、計算高い貴族がする選択ではない」
次女は、納得できなかった。
「似非貴族に何ができると言うの?」
2人の会話に同年代の男性が割り込む。
「叔父上?
もしや、後家の愛人のこと?」
アネルマが男性をにらむ。男性が少し慌てる。
「すまない、俺はイェスパー・ルセン。
森で密造酒を造っている。
これでも爺さんの代までは貴族だった。
ヴァロワの後家が蜂起できた理由は、愛人の手助けがあったからだと聞いた。その人物が一領具足総当主、ショウ・レイリンだ。
俺のダチにルパート・ケッセルというクソ貴族がいるんだが、ヤツの話だと貴族たちはこう言ってるらしい。
今後、ダルリアダ国王の胸に剣を突き刺す勇者は現れないだろう。
だが、ダルリアダ国王のケツの穴に指を突っ込む変態ならいる。
ってね。
その変態野郎がショウ・レイリン。
で、あんたは?」
「私は、アネルマ・リンレイ。
レイリン家の当主だ!」
イェスパーが大笑いする。
「こいつは驚いた!
本当にレイリンっているんだ!」
応援ありがとうございます!
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