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第4章
第113話 編制
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200万年前、セネガルのダカールがあるベルデ岬先端から、紅海西岸までの距離は、約6000キロあった。200万年後のいまも、その距離はほとんど変わらない。
その中間地点に南北最大1000キロ、東西最大300キロに達する200万年後のチャド湖があると推測されている。
水面面積は25万平方キロ以上。これは、200万年前のカスピ海の70パーセントに相当する。50万平方キロに達する水面面積があるとする説もあり、この説に従うなら200万年前の黒海を超える巨大湖だ。
チャド湖が予測範囲にあるならば、200万年後の世界において、世界最大の圧倒的水面面積を誇る淡水湖だ。
水深は浅く、最大10メートルから15メートル程度で、貯水量は面積に比して多くはない。淡水なので農耕に使える。
西ユーラシアはもちろん、西アフリカのヒトを含めて、この巨大湖を見たものはいない。
チャド湖の存在を確認するには、地上を進むしかない。しかし、3000キロを走ることは無理があるし、危険すぎる。
冒険でも、探検でもない。
我々が欲しているのは、学術的な調査だ。
第2次深部調査隊の任務は、海岸から1000キロから1500キロ東に中継基地の設営が可能な適地を見つけることにある。
オルカたちが住んでいた村を助けるためでも、救世主を自称する武装集団の正体を知るためでも、白魔族の拠点を探し出すためでもない。
しかし、第2次深部調査隊のメンバーは、そのどれもに首を突っ込む気満々だ。
今回は強力な無線を積んだ通信車が同行する。通信車は、俺たちがこの世界に持ち込んだ4×4ダブルキャブトラックをモデルに、ノイリンで開発製造された。キャブオーバーのパネルトラックのようなスタイルだ。
音声通信以外に、データ通信も可能だ。近距離レーダーと方向探知機も装備している。
通信隊の隊長はシルヴァ。他、通信員は3。
燃料は、トラクターでドラム缶を積んだトレーラーを牽引していく。トラクターは通信車と同型。4トンの牽引力があり、3トン積みトレーラーを牽く。
輸送隊員は4。輸送隊の隊長は、フルギアの天文学者アクムス。ヴルマンの通訳ウーゴも輸送隊員となった。
偵察車はバギー。
隊長車は、バギーと同系だが5ドア。バギーには軽装甲機動車S型、5ドアには軽装甲機動車L型の名が与えられた。なお、S型の量産計画はない。通称は、バギーSとバギーLだ。
護衛車も参加する。6輪の装輪戦車だ。FV601サラディンをベースにいろいろな装甲車輌の“いいところ”を拝借している。車体の形状は陸上自衛隊の87式偵察警戒車に、砲塔はM24チャーフィー軽戦車と同系。主砲は砲身長60口径76.2ミリ砲だ。T-55など第二次世界大戦後第1世代戦車ならば、確実に撃破できる。
この砲の原型は、ルーイカットの主砲。高射砲や艦載砲にも転用している。ノイリンにおいて、最も多用されている中口径砲だ。
6輪戦車の車長は、イロナが務める。
隊長は、西南地区が派遣した幕僚のクスティが務めることになった。冷静な男だが、こういった荒事には向かない。デスクワークの実績は豊富だが、戦場における指揮官としての経験はない。
しかし、これがノイリン中央行政府の決定だ。
そして、俺は1000キロ東には、行けなくなった。俺の代わりが、クスティなのだ。
中央行政府は、俺の“暴走”を恐れたのだ。恐れはしたが、白魔族の動向は知りたい。白魔族の巣をつつきたくないが、巣穴から出てきた白魔族が何をしているのかを観察したい。
俺を送れば巣穴に手を突っ込むだろうが、クスティならば巣から出てくる白魔族を動物写真家のようにジッと見守ると考えたのだ。
俺にとっては、クソ面白くない決定だ。
オルカの村のヒトからは、オルカとムリネが参加を志願する。マルユッカが連れ帰った3人は頑なで、我々に協力するオルカとムリネを“裏切り者”呼ばわりし始めていた。
3人の要求は、グスタフと会うことであった。何人ものグスタフが面会したが、3人は納得しなかった。
オルカとムリネもそうだが、グスタフとは魔法使いか超能力者のようなものだと教えられてきたらしい。また、グスタフを組織名だとは考えていない。
白魔族は各地でヒトを拉致しており、そのなかにクマン出身者かクマンをよく知る人物がいた。グスタフがいた可能性もある。
異種に拉致され、強制労働に就き、自分がどこにいるかもわからず、逃げ出すことが難しい環境下で、グスタフは伝説のようになっていく。
絶望に対するカウンターなのだろう。白魔族とその手下であるヒトを倒してくれる、ヒトならざる能力を持つ解放者として認識されている。
オルカとムリネは現実を受け入れ、他は伝説から出られなかった。
足手まといになることから年少者2人はバンジェル島に残り、年長者3人は“真のグスタフ”を求めて、マルクスの元に向かう。
ムリネがバンジェル島に残って情報の提供を続け、オルカが第2次深部調査隊に参加する。
イロナはバンジェル島に戻ると、彼女とかかわった子供たちが保護されている施設を尋ねた。
イロナは子供たちのために、ノイリンから送られてきた蕨餅を用意した。もちろん、蕨粉など入手できない。デンプン、水、砂糖で作り、蜂蜜をかけて食べる子供に人気の甘くやわらかい菓子だ。
子供たちは自分たちの行く末を心配していた。イロナは、ノイリンが保護したこと、彼女がバンジェル島にいる間は毎日会う約束をした。
姉が問う。
「おばちゃん、どこに行くの?」
イロナは説明に窮した。
「東に。太陽が昇ってくる方向に向かって」
「私たちの村まで行く?」
「行くかもしれないね」
「もし村に行ったら、シャーサちゃんを助けてあげて」
「助ける?」
「うん。
怖いヒトたちに捕まっちゃうの」
イロナはオルカたちの村を脱出した10人の10代前半の子供うち、奇跡的に生き残った2人を抱きしめた。そして、その部屋にいたすべての子を1人ずつ抱きしめた。
イロナはティッシュモックの出身だが、出身地には住まいも家族もない。
放浪の仕事人だ。
マルユッカは、イロナにノイリン移住を勧めている。彼女は、その手続きを行った。移住に必須の条件ではないが、ノイリン街人による推薦欄がある。
その推薦欄には5つの記入欄があるが、城島由加が名を連ねようともうし出たときには、すでに埋まっていた。
イロナのノイリン移住は、ほぼ確定している。
ノイリンが送り込んできた装輪戦車は、6輪だ。車体長6メートル、幅2.8メートル、重量15.5トン。
主砲は砲身長60口径の76.2ミリ砲、同軸に7.62ミリ機関銃、砲塔上にも7.62ミリ機関銃を装備する。主砲弾は48発。
砲塔は、車長、砲手、装填手の3人仕様。これに車体に乗る操縦手が加わり、4人乗車となっている。
最前部中央に操縦席、その直後に戦闘室と砲塔、最後部がエンジンとトランスミッションがある機械室。一般的な戦車と同じ配置だ。
本物の戦車とは正面からの撃ち合いはできないが、待ち伏せやヒットエンドランによる攻撃なら、ほぼすべての装甲車輌と戦える。
イロナの今回の搭乗車は、この装甲戦闘車になる。
バギーSには、7.62ミリ電動ガトリング砲のミニガンが戻された。だが、手動旋回式銃塔の形状と構造が改良され、銃架は対空射撃も可能になった。
ミニガンには、航空攻撃に対する近接防御が期待されている。
バギーLには、後席中央上部にバギーSと同型の手動旋回銃塔が装備されている。武装は、非分離型ベルト給弾式7.62×51ミリMG3機関銃だ。
通信車と輸送車の助手席側ルーフには、7.62ミリMG3機関銃が装備された。
各車にRPG-7が、通信車と輸送車に60ミリ軽迫撃砲が装備される。
第1次深部調査隊の経験から、各車に食料と十分な水を搭載できるようにし、内陸に多い濁った水への対応策として強力な浄水器も用意する。
第2次深部調査隊の編制は、隊員19、車輌5で固まっていた。
だが、突然、フェニックス双発大型輸送機4号機が飛来。機内から特装のバギーLが自走して出てきた。
このバギーLには、ロービジ化(視認性低下化)された小さな赤十字が描かれている。
また、後席ドアが廃止され、後部ハッチが観音開きの大開口タイプに変更されている。
医療班の車輌であることは間違いないのだが、バンジェル島に装甲救急車を空輸するほど差し迫った問題はない。
マーニは、ピスト(防空指揮所)の椅子に座っていた。彼女はスクランブル(警急任務)の要員ではないが、整備員を手伝っての自機のメンテナンスが終わり、休憩を兼ねて立ち寄っていた。
バギーLを改造したらしい装甲救急車から、3人が降りてくる。
1人に見覚えがあるが、咄嗟に思い出せない。よく知っている人物なのだが、なぜか思い出せない。
女性で背が高い。横を向くと胸と尻の凸バランスがいい。後姿は、ウエストが理想的にくびれている。
心のなかで「ああいう女、男は大好きなんだよねぇ」と呟いていた。
大柄ではない男が2人。ヴルマンや北方人は、鍛錬を積み重ねると大柄になる。2人の男は身のこなしからよく訓練されているようだが、小柄にさえ見える。
ヴルマンや北方人ではなく、一部のフルギア系か異教徒だ。
唐突に女性の名を思い出す。
ミルシェだ。西アフリカに来るまで、毎日のように会っていた仲良しのミルシェだ。
なぜ、わからなかったのだろう?
その理由はすぐにわかる。禍々しさがあるのだ。得たいの知れない雰囲気……。
マーニが知っているミルシェは「お医者様になるんだ」といっていた。実際、医療班に志願・配属された。
だが、西アフリカで聞いた噂では、ミルシェは医療班給水部にいるという。
給水部は怪しい組織だといわれている。給水部なのに、給水車がないのだ。水を入れるためのジェリカンさえないとか?
何をやっている組織なのか、よくわからないらしい。
毒ガスや疫病を流行らせる兵器を作っているなんて噂もある。
能美真希や納田愛花など、医療班創設時のメンバーが深くかかわっていて、幹部のほとんどが移住第1世代だ。
秘密めいたことをしているのは、確からしい。
マーニはミルシェを見ていたが、声をかけるきっかけを見つけられなかった。
マーニが半田千早にミルシェがやって来たことを伝えると、彼女は純粋に喜んだ。
マーニが半田千早に「ミルシェは何をしているの?」と尋ねると、半田千早は「遺伝子解析の研究をしているんだ。それができれば、人食いの正体がわかるかもしれないから……」と答える。
マーニが「遺伝子って?」と尋ね、半田千早は返答に困る。概念は知っているが、それを端的に説明できるほどの知識はない。
そういうときは、誤魔化す。
「ミルシェに聞いたほうがいいよ。
だけど、ミルシェが来たということは……」
マーニは、半田千早の言葉の後半に食いつく。
「ミルシェが来ると……」
半田千早には、懸念があった。
「ミルシェが来たということは、遺伝子解析のためのサンプルが目的だと思う。
青服の遺伝子が目的?
それとも……。
青服のミトコンドリアかY染色体のDNAが欲しいのかな。その両方?
それとも……」
マーニは不安だった。
「それとも……、何?」
半田千早は言葉を濁したかったが、彼女自身が不安で、沈黙の維持は耐えられなかった。
「白魔族の支配下にあるヒト、黒羊、白羊、銀羊、金羊を調べに来たのかも……。
ヒトなのか、ヒトじゃないのか……」
マーニは半田千早が気付いていない問題を提起する。
「だとしたら、第2次深部調査隊と一緒に行くことになるよ」
半田千早がマーニを見る。
そして、いった。
「ミルシェはトモダチだよ」
マーニは、怪しいとされる組織に所属するミルシェが恐ろしく感じた。
「トモダチだけど……」
その日の夕方、滑走路から飛行場に呼び名が昇格した管制塔の前で、第2次深部調査隊に同行する医療班給水部の3人が紹介された。
1人は20代の見習い医師。1人は分子生物学を学ぶ学生。1人はこの世界では老人と呼んでいい年齢で遺伝学者。
分子生物学の学生がミルシェで、彼女は遺伝学者の助手兼装甲救急車のガンナーだった。
遺伝学者は小柄な北東アジア系の顔立ち、見習い医師は筋肉が発達した痩身の男で、どう見ても聴診器より自動小銃のほうが似合う。装甲救急車のドライバーを担当する。
半田千早が微笑むと、ミルシェも微笑み返した。
半田千早はミルシェと話したかったが、幕僚がそれを許さない雰囲気で、どこかに連れて行ってしまう。
彼女の不安は増していった。それは無知から来るものであることは承知していたが、自分自身では上手く制御できていなかった。
その後、半田千早は、ミルシェと出発の瞬間まで顔を合わすことはなかった。
第2次深部調査隊の編制は、車輌6、隊員22と決まったが、肝心の出発が遅れる。ノイリン中央行政府の承認が下りないのだ。
その理由が謎の組織“医療班給水部”にあることは明らかで、バンジェル島司令部は派遣されてきた医療班給水部の3人を他者と接触させないよう、半軟禁状態にしている。
バンジェル島にも“優生細胞”がいる可能性を否定できない。医療班給水部隊員の生命を狙う可能性もある。
司令部はそれを警戒しているし、俺は確率の低い心配とは思っていない。優生思想=優生学は科学ではない。純粋に宗教だ。宗教的狂信は、常人には理解不能。対抗するには、あらゆる警戒が必要だ。
最近、朝食と夕食は、家族が集まる。城島由加、健太と翔太、半田千早とマーニ、そして俺。
半田千早は、ミルシェが半軟禁状態にある理由を正確に理解している。
しかし、マーニは違う。そして、マーニはミルシェと仲がいい。親友といっていいだろう。
18時、いつものように夕食が始まる。健太と翔太は、バンジェル島を南北に分ける短い川で目一杯遊んでいるらしく、真っ黒に日焼けしている。
こんな遊び方は、ドラキュロがいる西ユーラシアでは不可能。
食事をしながら、穏やかな時間が流れる。その雰囲気を壊すように、無言でいたマーニが棘を感じさせる声音で問う。
「ママ、何でミルシェは捕まっているの!
悪いこと、何もしていないでしょ!」
城島由加が俺を見る。俺に「答えろ」と無言で命令を発している。
彼女の命令には逆らえない。俺が答える。
「ミルシェの任務は、極秘にする必要はないが、一部に誤解があり、ミルシェたちの安全を考えて保護しているんだ」
マーニは納得しない。
「保護じゃない。
拘束されてる!」
半田千早が発言しようとしたが、俺はそれを手で制した。
「ミルシェの任務は、青服の遺伝子の抽出が可能なサンプルを持ち帰ることだ。
だが、その前に、白魔族の支配下にあるヒトの遺伝子サンプルを入手しようとしている……」
マーニが問う。
「遺伝子、って……」
マーニは遺伝子とは何かを概略は知っているはずだが、実感がないのだ。俺はそこから説明に入る。
「遺伝子とは、ヒト個々の設計図なんだ。父親と母親から、半分ずつ受け継ぐ。
ヒトのような多細胞生物の遺伝子は複雑で、簡単な構造ではない。マーニの姿は、お父さんとお母さん、本当のご両親から受け継いだ。
同時に、遺伝子にはその生物に関する過去の情報も記録されている。
特にミトコンドリアやY染色体を解析すれば、その生物の“歴史”がわかる。その種がどのように進化してきたのか、を知る手がかりが残されている。
つまり、マーニのミトコンドリアDNAを調べれば、マーニの母方の系統がわかるんだ。ミトコンドリアDNAは母系でしか継承されないから……。
ノイリンでは、当面の課題として、セロの赤服と青服の遺伝子サンプルを確保して、彼らが何者なのか、ヒトに近い動物なのか、それともまったくの異種なのか、それを探ろうとしている。
公表されてはいないが、精霊族とヒトの関係はある程度だがわかっている。
精霊族は、約70万年前にヒトから分かれて進化した。
鬼神族についてもわかっている。
鬼神族は、120万年から150万年前にヒトから進化した。精霊族と鬼神族の共通の祖先は、ヒトだ。
そして、この世界のヒトは滅んだ。少なくとも、西ユーラシアでは滅んだ。
黒魔族や白魔族のこともわかっている。ヒト科ではあるけど、ヒト亜科ではないだろう。
ヒト上科、ヒト科、ヒト亜科、ヒト族、ヒト亜族、ヒト属と分類されるけど、我々ホモ・サピエンスはヒト属で、精霊族や鬼神族もヒト属だ。200万年前、アフリカにはゴリラやチンパンジーという動物がいたんだが、白と黒の魔族はアフリカ系類人猿と同じくらいか、さらに遠い、アジア系類人猿のオランウータンよりも遠いかもしれない。
黒と白の魔族、オークとギガスがいつヒトと分枝したのか、分子時計の手法を使って調べている。
分子時計は、生物間の分子的な違いを比較することで、進化の過程でいつ枝分かれしたのか、その年代を推定する手法だ。
セロ、手長族は姿はヒトに似ているけど、ヒト属ではないのではないか、と推測している研究者がいる。
俺もセロはヒト属ではないと考えているし、ヒト科でさえない可能性もあると思っている。
それを確かめるために、ミルシェたちが西アフリカまでやって来た。
赤服の遺伝子サンプルを確保するため、コーカレイに向かったチームもいる」
マーニは納得しない。
「正規の任務なのに、なぜ拘束するの?
絶対、ヘンだよ!」
俺は少し考えてから言葉を発した。
「航空班にブロウス・コーネインという人物がいた。
彼は、俺が殺した。
ブロウス・コーネインは、ノイリンにはなかった考えを持ち込んだんだ。
それが優生思想だ。
ヒトのあらゆる面に“普通”や“標準”を定義する。定義する部分は、何でもいい。
例えば、髪の色、肌の色、瞳の色、背の高さ、体型、知能など。
普通ではないヒト、原理原則だが普通のヒトなんていないが……、病気のヒト、障がいのあるヒト、働けないヒト、同性愛のヒト、どんなことでもいい。普通じゃないと断じる特徴をピックアップする……。
例えば、黒い髪は“普通”で、金髪は“普通ではない”でもいい。
優生思想に取り憑かれたヒトは、普通でなかったり、標準以下だった場合、あるいは異質な部分のあるヒトは排除しようとする。
排除とは、よくて追放、悪ければ殺害を意味する。
そうすれば、均質なヒトの集団になる。優生思想では、異様なほど均質なヒトしかいない状態を“素晴らしい社会”だと考えるんだ。
ノイリンには、ブロウス・コーネインの主張を密かに支持している人々が少なからずいる。
このヒトたちにとっての最大の敵は、生命科学だ。ミルシェが学ぶ遺伝子をテーマとする科学は、論理や事実ではなく、感情を原初とする優生思想と真っ向から対立する。
優生思想は論理的あるいは科学的に見える部分があるが、完全に非科学の世界だ。宗教や哲学に近いが、粗雑で、その粗雑ゆえに他者に危害を与えかねない。
精霊信仰も科学ではないが、精霊の存在を信じていたとしても、誰にも迷惑はかけない。
土の精霊の守護を受けているヒトと、水の精霊の守護を受けているヒトが、守護精霊が違うからといって、殺し合ったり、除け者にしたりしないよね。
しかし、優生思想はそれをするんだ。そうすることが正しいことだと考えるんだ。
200万年前の世界から200万年後の世界にやってきたヒトはそう多くない。推定1万人とされることが多い。
そのうち、最初の1年を生き延びたヒトは、10から30パーセント程度ではないかと推測されている。
わずか1000人から最大3000人のヒトが、1200年かかって50万人まで増えた。
これが西ユーラシアの現状だ。そして、西アフリカには推定30万人のヒトがいて、異種に攻撃されている。
新たにサブサハラ北辺中央付近にもヒトがいるらしいことがわかった。
ノイリンは、多くのヒトの集団と連携・連帯することを望んでいる。
しかし、優生思想を取り入れたヒトたちは、そうは思っていない。
西アフリカを統治し、劣等民族“西アフリカ人”と優等民族“西ユーラシア人”は完全に隔離すべきだと……、暗闇のなかで主張している。
さらに、“西ユーラシア人”にも穢れた血が混じっていると。優良な“西ユーラシア人”の資質を持つ若い男女を選別し、純粋な“西ユーラシア人”の社会を作るべきだとも唱えている。
どの声も、まだ小声だ。しかし、徐々に顕在化している。
一気に叩き潰す武器として、相馬さんは遺伝子をテーマとした科学を使おうとしているんだ。
相馬さんは、優生思想と生命科学の一騎打ちを仕掛けるつもりだ。
優生思想はノイリンからは出ていない。ノイリンの人口は、たったの3万人。まだ、間に合う。
200万年前の世界では、優生思想を否定するまで100年もかかってしまった。その結果、世界に蔓延し、多くの悲劇を生んだ。否定された以後も、亡霊のように現れる。
何としてもこれを防ぎたい。
幸運にも、ブロウス・コーネインがノイリンにやってきた頃、ノイリンで遺伝子解析ができるようになった。
ブルーウルフは恐ろしげな巨獣だが、ワン太郎と同じ種だということがわかっている。
こういった事実の積み重ねがされてきて、ノイリンの街人の多くは遺伝子解析の成果を面白いと感じてくれている。
それを、ヒトに使うんだ。
だけれど、遺伝子解析には誤解もある。
ノイリンは、200万年前からもたらされた機械類をリバースエンジニアリングによって、再設計・再開発している。つまり、実物からの設計図再作成だ。
その際、モデルになる機械をバラバラにする。このことは知っているね。
同じように、遺伝子解析をするには、生きた動物をバラバラにする、と信じているヒトたちが意外と多いんだ。
この噂は、ブロウス・コーネインの賛同者たちが流した。実際、彼らはそうしていると信じているようだ。
ヒトの遺伝子を解析する。
そのことは同時に誰かを殺して、バラバラにしたことになる。
この誤解を解かないと、ヒトの遺伝子解析を表に出せない。
そして、優生思想に取り憑かれた連中は、自分たちの眼前の敵である生命科学者を眼の敵にしている。
潜在的に、だが……、ミルシェの生命も危ないんだ」
マーニが抗議する。
「ミルシェはトモダチだよ。
それなのに……」
俺は反優生思想側の事情を話す。
「誰が優生思想に取り憑かれているのか、わからないんだ。優生思想の連中は、自分たちを“優生細胞”と呼んでいる。
バンジェル島にも“優生細胞”が紛れ込んでいる可能性がある。
彼らの目的は、ヒトの理想郷を作ること。そのためには“優生細胞”のみが存続する必要がある。劣等な血統のヒトは、すべて抹殺しなければならない、と考えている。
こういった考え方は、19世紀後半以降、ヒトの歴史のなかで何度も台頭している。
ヒトの暗黒部分だ。
優生思想を正義と信じる“優生細胞”は、すべて潰さなければならない。
そのために、ミルシェたちを守るんだ。
例え、幼いときからの友だちだろうと、会わせられないんだ。例外を1つ作れば、必ず2つ目ができる」
半田千早がマーニにいう。
「私もミルシェとおしゃべりしたい。
だけど、200万年前に起きたことを、200万年後では起してはいけないんだよ。
200万年前は、何もかもがすばらしい世界じゃなかったんだ」
マーニが半田千早に問う。
「何があったの?」
城島由加が答える。通常、彼女はこういう話をしない。
「民族浄化……。
民族すべてを抹殺する組織的な大量殺戮から、特定の人々を狙った個人的な殺人まで……。
こういった行為は、非常に特殊なの。軍事的に弱体な集団を、軍事的に強大な集団が殲滅してしまう、という行為は歴史上多いけど……。
でも、ある民族や国家が、他の民族や国家を“劣る”という意味不明の理由で“抹殺する”という行為は、かなり珍しいの。
ヒトは戦争という行為をするけど、その理由は経済的な問題。領土を奪う、収穫物を奪う、財宝を奪う、資源を奪う、という純粋な経済行為がほとんど。
ある民族や国家をある集団が根拠なく“劣る”という理由で、殺戮するという行為は、経済行為ではない。
戦争は純粋に経済行為だから、特定集団に対する“劣る”という理由による殺戮行為は戦争ではないわけ。戦争は“儲け”がないとしないの。
だから、優生思想という考えは、疑いようのない“心の病”だと思うの。遺伝性の病じゃない。後天的な不治の疾患ね。
この病に罹患にたヒトは、自分の考え、優生思想が根拠のない愚かな考えだってことさえ気付かず、声高に論じてしまう。
そして、凶者の言葉は伝染する……。
ノイリンはそうなってはいけない」
俺が母親の話を引き継ぐ。
「優生思想の原点は、1883年にフランシス・ゴルトンが提示した優生学にある。科学を装っているが、ある種の宗教だ」
半田千早が引き継ぐ。
「そんな恐ろしい考えが、ノイリンに広まっているの。
誰かが、何とかしなくちゃ。
相馬さん、斉木先生、真希先生(能美医師)、そして養父〈とう〉さん、……たちの戦う武器が必要なの。
それをミルシェが取りに行く……」
マーニには状況が見えてきた。
「ブロウス・コーネインが死んだくらいでは、どうにもならない……。
ミルシェはノイリンの運命を握っている……と?」
半田千早は頷いた。
マーニの疑問は遺伝と進化の関係に移る。
「養父さん。
子供は、お父さんとお母さんの両方の特徴を半分ずつ受け継ぐんだよね。
それが遺伝でしょ?」
遺伝については、俺よりも斉木五郎のほうが解説者としてふさわしい。だが、ここに斉木五郎はいない。
ならば俺が話すしかない。
「子は両親の特徴を受け継ぐ。だけど、両親の特徴が混ざり合うわけではないんだ。白い絵の具と赤い絵の具を、水で解き刷毛で混ぜ合わせて、ピンク色にするような感じじゃない。
簡単にいえば、白い肌と褐色の肌の両親から、淡い褐色の肌の子は産まれない。
遺伝の要素、遺伝子は液体のようなものではなく、マメのような、粒子のようなものなんだ。大豆〈だいず〉と小豆〈あずき〉を混ぜ合わせても、一粒一粒もう一度選別できるよね。それと同じ。交じり合うことはない。
両親の特徴を受け継ぐが、顕在化する遺伝子は1つ。もし、白い肌と褐色の肌の両親から褐色の肌の子が産まれたとしても、白い肌の遺伝子も受け継いでいるんだ。
だから、褐色の肌の両親から白い肌の子が産まれる可能性がある」
マーニが同意と反論をする。
「知ってるよ。移住して世代が浅いヒトたちでは、そういうことが起きている。不思議じゃないよ。
でも、世代を重ねた人々では、そういうことは起こらない。
どうして?」
ここからが進化の話になる。俺は自分の領域に達して微笑む。
「それが進化だ。
子は両親の遺伝子を受け継ぐが、頻繁にコピーミス、写し間違いを起こしている。
これが突然変異。
突然変異の大半は、その個体の生存に関わりがない。だから、自然淘汰の対象にはならないんだ。
そして、突然変異を起こした遺伝子を持つ個体が生き残り、子孫を残していく。
種は、何万年、何十万年、何百万年、何千万年と存続していく。
そのためには環境の変化に適応していかなくてはならない。森林が草原に変わっても、砂漠が湿地に変わっても、大気の酸素濃度が変わっても、平野が山脈になっても……。
この環境の変化に対応する原動力が突然変異なんだ。
いままで、何の影響を示さなかった突然変異を起こして継承されてきた遺伝子が、環境の変化によって突如として意味を持つことがある。
だから、種は多様でなくてはならない」
マーニは納得しない。
「ちょっと、抽象的かな。私にはわかるけど、私では誰かに説明できないかも」
確かに正論だ。
俺は続ける。
「ヒトも哺乳類だが、哺乳類には3つの大きなグループがある。有胎盤類、有袋類、単孔類だ。
ヒトは有胎盤類に属してしている。
哺乳類は産まれるとミルクによって生育する。だが、成体になるとミルクが飲めなくなる。飲んだ場合、消化できず、腸内細菌の餌になる。結果、腸内細菌の排泄物が腸内にたまる。
症状は、おなら、下痢だ」
おならと聞いて翔太が喜ぶ。
マーニが反論する。
「そんなことないよ。ミルクなら皆が飲むじゃない。
たまに、苦手っていう子がいるけど」
俺も同意する。
「その通り、ヒトはミルクが飲める。
なぜか?
200万年前、ヒトがこの世界に来る前、そこからの話になる。
ヒトがミルクを飲めるようになるのは、200万年前のさらに数千年前のことらしい。
3000年前には、ミルクが飲めるようになっていたとされるが、はっきりしない。それよりも、さらに数千年前かもしれない。
どちらにしても、ヒトは他の哺乳類同様、ミルクを飲めなかった。
いつの時期にその突然変異が起きたのかはわからない。
ミルクを消化するにはラクターゼという酵素が必要なんだが、この酵素は成体になると作れなくなる。
しかし、突然変異で、成体になってもラクターゼを生成し続ける遺伝子ができる。
この遺伝子は、成体になるとミルクを飲まない文化では意味をなさない。だから、自然淘汰の対象にはならない。
無意味なんだ。
だけど、ヒトが採集狩猟の生活から、牧畜を営むようになると、家畜の肉だけでなく乳製品も利用しようとする。
いいや、大人でもミルクが飲めるようにならないと、牧畜は成立しない。
ラクターゼが大人になっても作られ続けることは、ラクターゼ活性持続症という病気なんだ。
遺伝性の病気だね。
家畜のミルクを利用する場合、ラクターゼ活性持続症のヒトのほうが断然有利だ。
無意味な遺伝性疾患は、酪農・牧畜の発生によって意味を持ち、このとき自然淘汰の対象になった。
ラクターゼ活性持続症のヒトが子孫をより多く残し、多数がラクターゼ活性持続症になっていく。おそらく数世代で。
200万年前、養父さんや養母〈かあ〉さんが住んでいた国、日本という国は養父さんが生まれる何十年か前にアメリカという国と戦争をしたんだ。
そして、負けた。
国土は占領され、食べ物はなく、人々は飢えていた。
アメリカは、動物の肉をたくさん食べ、ミルクもたくさん飲む国だった。
日本は穀物や野菜食が中心で、動物の肉をあまり食べず、ミルクを飲む習慣はほとんどなかった。実際、戦争に負ける何十年か前までは、まったく飲まなかった。鳥や魚以外の動物の肉もあまり食べなかった。
アメリカは、日本の子供たちの栄養補給のためにミルクが一番いいと考えた。
だから、飲ませた。
しかし、アメリカの人々とは異なり、日本にはラクターゼ活性持続症のヒトが少なかった。
当然だね。この突然変異による遺伝病は、日本では自然淘汰の対象ではなかったのだから。
日本の子供の多くが、ミルクを飲んで腹痛や下痢になってしまうんだ。
ここから進化が始まる。
ミルクが飲めれば成長の役に立つ。そして、ミルクを飲む習慣が伝われば、ミルクが飲める遺伝子を持つヒトが子孫を残すようになる。
自然淘汰が働いたんだ。
数世代経過すると、日本のヒトの多くが乳児じゃなくてもミルクが飲めるようになっていた」
マーニが気付く。
「もし、優生思想のヒトたちが考えるヒトが本当にいて、そのヒトたちだけの集団が生まれたとしたら……。
環境の変化に脆弱になる……の?」
俺が答える。
「そうだ。
ヒトは遺伝子の多様性がもともと低いんだ。さらに、200万年後にやって来たヒトは推定1万人。
遺伝的多様性は危機的に乏しい。
遺伝的多様性とは、個体の遺伝子構成が多様であること、個体群の遺伝子構成が多様であることが必要なんだ。
個体の遺伝子構成、遺伝子型は近親交配を繰り返せば多様性を失う。遺伝子型が似通った個体同士からは、遺伝的多様性のある子供は生まれない。
個体群、ヒトならば社会だが、社会にも多様な遺伝子、豊かな遺伝子プールが必要なんだ。
にもかかわらず、優生思想を信奉する“優生細胞”の連中は、遺伝子の多様性を狭めようとしている。
愚かとしかいいようがない。
突然変異は、今日もどこかで誰かが生まれ、起きている。しかし、ほとんどは意味を持たない。だが、いつ意味をなすのか、それもわからない。一見、不利と思える特徴でも、ある局面では決定的に有利となることもあるだろう。
ヒトは200万年の進化の洗礼を受けていない。それだけでも生存確率が低い種なんだ。
立場を超えて、優生思想信奉者をどうにかしないとヒトが滅ぶ」
マーニが笑った。
「ミルシェ、偉いね」
テーブルに並ぶ皿には、何も残っていなかった。
翔太は、実によく食べる。
その中間地点に南北最大1000キロ、東西最大300キロに達する200万年後のチャド湖があると推測されている。
水面面積は25万平方キロ以上。これは、200万年前のカスピ海の70パーセントに相当する。50万平方キロに達する水面面積があるとする説もあり、この説に従うなら200万年前の黒海を超える巨大湖だ。
チャド湖が予測範囲にあるならば、200万年後の世界において、世界最大の圧倒的水面面積を誇る淡水湖だ。
水深は浅く、最大10メートルから15メートル程度で、貯水量は面積に比して多くはない。淡水なので農耕に使える。
西ユーラシアはもちろん、西アフリカのヒトを含めて、この巨大湖を見たものはいない。
チャド湖の存在を確認するには、地上を進むしかない。しかし、3000キロを走ることは無理があるし、危険すぎる。
冒険でも、探検でもない。
我々が欲しているのは、学術的な調査だ。
第2次深部調査隊の任務は、海岸から1000キロから1500キロ東に中継基地の設営が可能な適地を見つけることにある。
オルカたちが住んでいた村を助けるためでも、救世主を自称する武装集団の正体を知るためでも、白魔族の拠点を探し出すためでもない。
しかし、第2次深部調査隊のメンバーは、そのどれもに首を突っ込む気満々だ。
今回は強力な無線を積んだ通信車が同行する。通信車は、俺たちがこの世界に持ち込んだ4×4ダブルキャブトラックをモデルに、ノイリンで開発製造された。キャブオーバーのパネルトラックのようなスタイルだ。
音声通信以外に、データ通信も可能だ。近距離レーダーと方向探知機も装備している。
通信隊の隊長はシルヴァ。他、通信員は3。
燃料は、トラクターでドラム缶を積んだトレーラーを牽引していく。トラクターは通信車と同型。4トンの牽引力があり、3トン積みトレーラーを牽く。
輸送隊員は4。輸送隊の隊長は、フルギアの天文学者アクムス。ヴルマンの通訳ウーゴも輸送隊員となった。
偵察車はバギー。
隊長車は、バギーと同系だが5ドア。バギーには軽装甲機動車S型、5ドアには軽装甲機動車L型の名が与えられた。なお、S型の量産計画はない。通称は、バギーSとバギーLだ。
護衛車も参加する。6輪の装輪戦車だ。FV601サラディンをベースにいろいろな装甲車輌の“いいところ”を拝借している。車体の形状は陸上自衛隊の87式偵察警戒車に、砲塔はM24チャーフィー軽戦車と同系。主砲は砲身長60口径76.2ミリ砲だ。T-55など第二次世界大戦後第1世代戦車ならば、確実に撃破できる。
この砲の原型は、ルーイカットの主砲。高射砲や艦載砲にも転用している。ノイリンにおいて、最も多用されている中口径砲だ。
6輪戦車の車長は、イロナが務める。
隊長は、西南地区が派遣した幕僚のクスティが務めることになった。冷静な男だが、こういった荒事には向かない。デスクワークの実績は豊富だが、戦場における指揮官としての経験はない。
しかし、これがノイリン中央行政府の決定だ。
そして、俺は1000キロ東には、行けなくなった。俺の代わりが、クスティなのだ。
中央行政府は、俺の“暴走”を恐れたのだ。恐れはしたが、白魔族の動向は知りたい。白魔族の巣をつつきたくないが、巣穴から出てきた白魔族が何をしているのかを観察したい。
俺を送れば巣穴に手を突っ込むだろうが、クスティならば巣から出てくる白魔族を動物写真家のようにジッと見守ると考えたのだ。
俺にとっては、クソ面白くない決定だ。
オルカの村のヒトからは、オルカとムリネが参加を志願する。マルユッカが連れ帰った3人は頑なで、我々に協力するオルカとムリネを“裏切り者”呼ばわりし始めていた。
3人の要求は、グスタフと会うことであった。何人ものグスタフが面会したが、3人は納得しなかった。
オルカとムリネもそうだが、グスタフとは魔法使いか超能力者のようなものだと教えられてきたらしい。また、グスタフを組織名だとは考えていない。
白魔族は各地でヒトを拉致しており、そのなかにクマン出身者かクマンをよく知る人物がいた。グスタフがいた可能性もある。
異種に拉致され、強制労働に就き、自分がどこにいるかもわからず、逃げ出すことが難しい環境下で、グスタフは伝説のようになっていく。
絶望に対するカウンターなのだろう。白魔族とその手下であるヒトを倒してくれる、ヒトならざる能力を持つ解放者として認識されている。
オルカとムリネは現実を受け入れ、他は伝説から出られなかった。
足手まといになることから年少者2人はバンジェル島に残り、年長者3人は“真のグスタフ”を求めて、マルクスの元に向かう。
ムリネがバンジェル島に残って情報の提供を続け、オルカが第2次深部調査隊に参加する。
イロナはバンジェル島に戻ると、彼女とかかわった子供たちが保護されている施設を尋ねた。
イロナは子供たちのために、ノイリンから送られてきた蕨餅を用意した。もちろん、蕨粉など入手できない。デンプン、水、砂糖で作り、蜂蜜をかけて食べる子供に人気の甘くやわらかい菓子だ。
子供たちは自分たちの行く末を心配していた。イロナは、ノイリンが保護したこと、彼女がバンジェル島にいる間は毎日会う約束をした。
姉が問う。
「おばちゃん、どこに行くの?」
イロナは説明に窮した。
「東に。太陽が昇ってくる方向に向かって」
「私たちの村まで行く?」
「行くかもしれないね」
「もし村に行ったら、シャーサちゃんを助けてあげて」
「助ける?」
「うん。
怖いヒトたちに捕まっちゃうの」
イロナはオルカたちの村を脱出した10人の10代前半の子供うち、奇跡的に生き残った2人を抱きしめた。そして、その部屋にいたすべての子を1人ずつ抱きしめた。
イロナはティッシュモックの出身だが、出身地には住まいも家族もない。
放浪の仕事人だ。
マルユッカは、イロナにノイリン移住を勧めている。彼女は、その手続きを行った。移住に必須の条件ではないが、ノイリン街人による推薦欄がある。
その推薦欄には5つの記入欄があるが、城島由加が名を連ねようともうし出たときには、すでに埋まっていた。
イロナのノイリン移住は、ほぼ確定している。
ノイリンが送り込んできた装輪戦車は、6輪だ。車体長6メートル、幅2.8メートル、重量15.5トン。
主砲は砲身長60口径の76.2ミリ砲、同軸に7.62ミリ機関銃、砲塔上にも7.62ミリ機関銃を装備する。主砲弾は48発。
砲塔は、車長、砲手、装填手の3人仕様。これに車体に乗る操縦手が加わり、4人乗車となっている。
最前部中央に操縦席、その直後に戦闘室と砲塔、最後部がエンジンとトランスミッションがある機械室。一般的な戦車と同じ配置だ。
本物の戦車とは正面からの撃ち合いはできないが、待ち伏せやヒットエンドランによる攻撃なら、ほぼすべての装甲車輌と戦える。
イロナの今回の搭乗車は、この装甲戦闘車になる。
バギーSには、7.62ミリ電動ガトリング砲のミニガンが戻された。だが、手動旋回式銃塔の形状と構造が改良され、銃架は対空射撃も可能になった。
ミニガンには、航空攻撃に対する近接防御が期待されている。
バギーLには、後席中央上部にバギーSと同型の手動旋回銃塔が装備されている。武装は、非分離型ベルト給弾式7.62×51ミリMG3機関銃だ。
通信車と輸送車の助手席側ルーフには、7.62ミリMG3機関銃が装備された。
各車にRPG-7が、通信車と輸送車に60ミリ軽迫撃砲が装備される。
第1次深部調査隊の経験から、各車に食料と十分な水を搭載できるようにし、内陸に多い濁った水への対応策として強力な浄水器も用意する。
第2次深部調査隊の編制は、隊員19、車輌5で固まっていた。
だが、突然、フェニックス双発大型輸送機4号機が飛来。機内から特装のバギーLが自走して出てきた。
このバギーLには、ロービジ化(視認性低下化)された小さな赤十字が描かれている。
また、後席ドアが廃止され、後部ハッチが観音開きの大開口タイプに変更されている。
医療班の車輌であることは間違いないのだが、バンジェル島に装甲救急車を空輸するほど差し迫った問題はない。
マーニは、ピスト(防空指揮所)の椅子に座っていた。彼女はスクランブル(警急任務)の要員ではないが、整備員を手伝っての自機のメンテナンスが終わり、休憩を兼ねて立ち寄っていた。
バギーLを改造したらしい装甲救急車から、3人が降りてくる。
1人に見覚えがあるが、咄嗟に思い出せない。よく知っている人物なのだが、なぜか思い出せない。
女性で背が高い。横を向くと胸と尻の凸バランスがいい。後姿は、ウエストが理想的にくびれている。
心のなかで「ああいう女、男は大好きなんだよねぇ」と呟いていた。
大柄ではない男が2人。ヴルマンや北方人は、鍛錬を積み重ねると大柄になる。2人の男は身のこなしからよく訓練されているようだが、小柄にさえ見える。
ヴルマンや北方人ではなく、一部のフルギア系か異教徒だ。
唐突に女性の名を思い出す。
ミルシェだ。西アフリカに来るまで、毎日のように会っていた仲良しのミルシェだ。
なぜ、わからなかったのだろう?
その理由はすぐにわかる。禍々しさがあるのだ。得たいの知れない雰囲気……。
マーニが知っているミルシェは「お医者様になるんだ」といっていた。実際、医療班に志願・配属された。
だが、西アフリカで聞いた噂では、ミルシェは医療班給水部にいるという。
給水部は怪しい組織だといわれている。給水部なのに、給水車がないのだ。水を入れるためのジェリカンさえないとか?
何をやっている組織なのか、よくわからないらしい。
毒ガスや疫病を流行らせる兵器を作っているなんて噂もある。
能美真希や納田愛花など、医療班創設時のメンバーが深くかかわっていて、幹部のほとんどが移住第1世代だ。
秘密めいたことをしているのは、確からしい。
マーニはミルシェを見ていたが、声をかけるきっかけを見つけられなかった。
マーニが半田千早にミルシェがやって来たことを伝えると、彼女は純粋に喜んだ。
マーニが半田千早に「ミルシェは何をしているの?」と尋ねると、半田千早は「遺伝子解析の研究をしているんだ。それができれば、人食いの正体がわかるかもしれないから……」と答える。
マーニが「遺伝子って?」と尋ね、半田千早は返答に困る。概念は知っているが、それを端的に説明できるほどの知識はない。
そういうときは、誤魔化す。
「ミルシェに聞いたほうがいいよ。
だけど、ミルシェが来たということは……」
マーニは、半田千早の言葉の後半に食いつく。
「ミルシェが来ると……」
半田千早には、懸念があった。
「ミルシェが来たということは、遺伝子解析のためのサンプルが目的だと思う。
青服の遺伝子が目的?
それとも……。
青服のミトコンドリアかY染色体のDNAが欲しいのかな。その両方?
それとも……」
マーニは不安だった。
「それとも……、何?」
半田千早は言葉を濁したかったが、彼女自身が不安で、沈黙の維持は耐えられなかった。
「白魔族の支配下にあるヒト、黒羊、白羊、銀羊、金羊を調べに来たのかも……。
ヒトなのか、ヒトじゃないのか……」
マーニは半田千早が気付いていない問題を提起する。
「だとしたら、第2次深部調査隊と一緒に行くことになるよ」
半田千早がマーニを見る。
そして、いった。
「ミルシェはトモダチだよ」
マーニは、怪しいとされる組織に所属するミルシェが恐ろしく感じた。
「トモダチだけど……」
その日の夕方、滑走路から飛行場に呼び名が昇格した管制塔の前で、第2次深部調査隊に同行する医療班給水部の3人が紹介された。
1人は20代の見習い医師。1人は分子生物学を学ぶ学生。1人はこの世界では老人と呼んでいい年齢で遺伝学者。
分子生物学の学生がミルシェで、彼女は遺伝学者の助手兼装甲救急車のガンナーだった。
遺伝学者は小柄な北東アジア系の顔立ち、見習い医師は筋肉が発達した痩身の男で、どう見ても聴診器より自動小銃のほうが似合う。装甲救急車のドライバーを担当する。
半田千早が微笑むと、ミルシェも微笑み返した。
半田千早はミルシェと話したかったが、幕僚がそれを許さない雰囲気で、どこかに連れて行ってしまう。
彼女の不安は増していった。それは無知から来るものであることは承知していたが、自分自身では上手く制御できていなかった。
その後、半田千早は、ミルシェと出発の瞬間まで顔を合わすことはなかった。
第2次深部調査隊の編制は、車輌6、隊員22と決まったが、肝心の出発が遅れる。ノイリン中央行政府の承認が下りないのだ。
その理由が謎の組織“医療班給水部”にあることは明らかで、バンジェル島司令部は派遣されてきた医療班給水部の3人を他者と接触させないよう、半軟禁状態にしている。
バンジェル島にも“優生細胞”がいる可能性を否定できない。医療班給水部隊員の生命を狙う可能性もある。
司令部はそれを警戒しているし、俺は確率の低い心配とは思っていない。優生思想=優生学は科学ではない。純粋に宗教だ。宗教的狂信は、常人には理解不能。対抗するには、あらゆる警戒が必要だ。
最近、朝食と夕食は、家族が集まる。城島由加、健太と翔太、半田千早とマーニ、そして俺。
半田千早は、ミルシェが半軟禁状態にある理由を正確に理解している。
しかし、マーニは違う。そして、マーニはミルシェと仲がいい。親友といっていいだろう。
18時、いつものように夕食が始まる。健太と翔太は、バンジェル島を南北に分ける短い川で目一杯遊んでいるらしく、真っ黒に日焼けしている。
こんな遊び方は、ドラキュロがいる西ユーラシアでは不可能。
食事をしながら、穏やかな時間が流れる。その雰囲気を壊すように、無言でいたマーニが棘を感じさせる声音で問う。
「ママ、何でミルシェは捕まっているの!
悪いこと、何もしていないでしょ!」
城島由加が俺を見る。俺に「答えろ」と無言で命令を発している。
彼女の命令には逆らえない。俺が答える。
「ミルシェの任務は、極秘にする必要はないが、一部に誤解があり、ミルシェたちの安全を考えて保護しているんだ」
マーニは納得しない。
「保護じゃない。
拘束されてる!」
半田千早が発言しようとしたが、俺はそれを手で制した。
「ミルシェの任務は、青服の遺伝子の抽出が可能なサンプルを持ち帰ることだ。
だが、その前に、白魔族の支配下にあるヒトの遺伝子サンプルを入手しようとしている……」
マーニが問う。
「遺伝子、って……」
マーニは遺伝子とは何かを概略は知っているはずだが、実感がないのだ。俺はそこから説明に入る。
「遺伝子とは、ヒト個々の設計図なんだ。父親と母親から、半分ずつ受け継ぐ。
ヒトのような多細胞生物の遺伝子は複雑で、簡単な構造ではない。マーニの姿は、お父さんとお母さん、本当のご両親から受け継いだ。
同時に、遺伝子にはその生物に関する過去の情報も記録されている。
特にミトコンドリアやY染色体を解析すれば、その生物の“歴史”がわかる。その種がどのように進化してきたのか、を知る手がかりが残されている。
つまり、マーニのミトコンドリアDNAを調べれば、マーニの母方の系統がわかるんだ。ミトコンドリアDNAは母系でしか継承されないから……。
ノイリンでは、当面の課題として、セロの赤服と青服の遺伝子サンプルを確保して、彼らが何者なのか、ヒトに近い動物なのか、それともまったくの異種なのか、それを探ろうとしている。
公表されてはいないが、精霊族とヒトの関係はある程度だがわかっている。
精霊族は、約70万年前にヒトから分かれて進化した。
鬼神族についてもわかっている。
鬼神族は、120万年から150万年前にヒトから進化した。精霊族と鬼神族の共通の祖先は、ヒトだ。
そして、この世界のヒトは滅んだ。少なくとも、西ユーラシアでは滅んだ。
黒魔族や白魔族のこともわかっている。ヒト科ではあるけど、ヒト亜科ではないだろう。
ヒト上科、ヒト科、ヒト亜科、ヒト族、ヒト亜族、ヒト属と分類されるけど、我々ホモ・サピエンスはヒト属で、精霊族や鬼神族もヒト属だ。200万年前、アフリカにはゴリラやチンパンジーという動物がいたんだが、白と黒の魔族はアフリカ系類人猿と同じくらいか、さらに遠い、アジア系類人猿のオランウータンよりも遠いかもしれない。
黒と白の魔族、オークとギガスがいつヒトと分枝したのか、分子時計の手法を使って調べている。
分子時計は、生物間の分子的な違いを比較することで、進化の過程でいつ枝分かれしたのか、その年代を推定する手法だ。
セロ、手長族は姿はヒトに似ているけど、ヒト属ではないのではないか、と推測している研究者がいる。
俺もセロはヒト属ではないと考えているし、ヒト科でさえない可能性もあると思っている。
それを確かめるために、ミルシェたちが西アフリカまでやって来た。
赤服の遺伝子サンプルを確保するため、コーカレイに向かったチームもいる」
マーニは納得しない。
「正規の任務なのに、なぜ拘束するの?
絶対、ヘンだよ!」
俺は少し考えてから言葉を発した。
「航空班にブロウス・コーネインという人物がいた。
彼は、俺が殺した。
ブロウス・コーネインは、ノイリンにはなかった考えを持ち込んだんだ。
それが優生思想だ。
ヒトのあらゆる面に“普通”や“標準”を定義する。定義する部分は、何でもいい。
例えば、髪の色、肌の色、瞳の色、背の高さ、体型、知能など。
普通ではないヒト、原理原則だが普通のヒトなんていないが……、病気のヒト、障がいのあるヒト、働けないヒト、同性愛のヒト、どんなことでもいい。普通じゃないと断じる特徴をピックアップする……。
例えば、黒い髪は“普通”で、金髪は“普通ではない”でもいい。
優生思想に取り憑かれたヒトは、普通でなかったり、標準以下だった場合、あるいは異質な部分のあるヒトは排除しようとする。
排除とは、よくて追放、悪ければ殺害を意味する。
そうすれば、均質なヒトの集団になる。優生思想では、異様なほど均質なヒトしかいない状態を“素晴らしい社会”だと考えるんだ。
ノイリンには、ブロウス・コーネインの主張を密かに支持している人々が少なからずいる。
このヒトたちにとっての最大の敵は、生命科学だ。ミルシェが学ぶ遺伝子をテーマとする科学は、論理や事実ではなく、感情を原初とする優生思想と真っ向から対立する。
優生思想は論理的あるいは科学的に見える部分があるが、完全に非科学の世界だ。宗教や哲学に近いが、粗雑で、その粗雑ゆえに他者に危害を与えかねない。
精霊信仰も科学ではないが、精霊の存在を信じていたとしても、誰にも迷惑はかけない。
土の精霊の守護を受けているヒトと、水の精霊の守護を受けているヒトが、守護精霊が違うからといって、殺し合ったり、除け者にしたりしないよね。
しかし、優生思想はそれをするんだ。そうすることが正しいことだと考えるんだ。
200万年前の世界から200万年後の世界にやってきたヒトはそう多くない。推定1万人とされることが多い。
そのうち、最初の1年を生き延びたヒトは、10から30パーセント程度ではないかと推測されている。
わずか1000人から最大3000人のヒトが、1200年かかって50万人まで増えた。
これが西ユーラシアの現状だ。そして、西アフリカには推定30万人のヒトがいて、異種に攻撃されている。
新たにサブサハラ北辺中央付近にもヒトがいるらしいことがわかった。
ノイリンは、多くのヒトの集団と連携・連帯することを望んでいる。
しかし、優生思想を取り入れたヒトたちは、そうは思っていない。
西アフリカを統治し、劣等民族“西アフリカ人”と優等民族“西ユーラシア人”は完全に隔離すべきだと……、暗闇のなかで主張している。
さらに、“西ユーラシア人”にも穢れた血が混じっていると。優良な“西ユーラシア人”の資質を持つ若い男女を選別し、純粋な“西ユーラシア人”の社会を作るべきだとも唱えている。
どの声も、まだ小声だ。しかし、徐々に顕在化している。
一気に叩き潰す武器として、相馬さんは遺伝子をテーマとした科学を使おうとしているんだ。
相馬さんは、優生思想と生命科学の一騎打ちを仕掛けるつもりだ。
優生思想はノイリンからは出ていない。ノイリンの人口は、たったの3万人。まだ、間に合う。
200万年前の世界では、優生思想を否定するまで100年もかかってしまった。その結果、世界に蔓延し、多くの悲劇を生んだ。否定された以後も、亡霊のように現れる。
何としてもこれを防ぎたい。
幸運にも、ブロウス・コーネインがノイリンにやってきた頃、ノイリンで遺伝子解析ができるようになった。
ブルーウルフは恐ろしげな巨獣だが、ワン太郎と同じ種だということがわかっている。
こういった事実の積み重ねがされてきて、ノイリンの街人の多くは遺伝子解析の成果を面白いと感じてくれている。
それを、ヒトに使うんだ。
だけれど、遺伝子解析には誤解もある。
ノイリンは、200万年前からもたらされた機械類をリバースエンジニアリングによって、再設計・再開発している。つまり、実物からの設計図再作成だ。
その際、モデルになる機械をバラバラにする。このことは知っているね。
同じように、遺伝子解析をするには、生きた動物をバラバラにする、と信じているヒトたちが意外と多いんだ。
この噂は、ブロウス・コーネインの賛同者たちが流した。実際、彼らはそうしていると信じているようだ。
ヒトの遺伝子を解析する。
そのことは同時に誰かを殺して、バラバラにしたことになる。
この誤解を解かないと、ヒトの遺伝子解析を表に出せない。
そして、優生思想に取り憑かれた連中は、自分たちの眼前の敵である生命科学者を眼の敵にしている。
潜在的に、だが……、ミルシェの生命も危ないんだ」
マーニが抗議する。
「ミルシェはトモダチだよ。
それなのに……」
俺は反優生思想側の事情を話す。
「誰が優生思想に取り憑かれているのか、わからないんだ。優生思想の連中は、自分たちを“優生細胞”と呼んでいる。
バンジェル島にも“優生細胞”が紛れ込んでいる可能性がある。
彼らの目的は、ヒトの理想郷を作ること。そのためには“優生細胞”のみが存続する必要がある。劣等な血統のヒトは、すべて抹殺しなければならない、と考えている。
こういった考え方は、19世紀後半以降、ヒトの歴史のなかで何度も台頭している。
ヒトの暗黒部分だ。
優生思想を正義と信じる“優生細胞”は、すべて潰さなければならない。
そのために、ミルシェたちを守るんだ。
例え、幼いときからの友だちだろうと、会わせられないんだ。例外を1つ作れば、必ず2つ目ができる」
半田千早がマーニにいう。
「私もミルシェとおしゃべりしたい。
だけど、200万年前に起きたことを、200万年後では起してはいけないんだよ。
200万年前は、何もかもがすばらしい世界じゃなかったんだ」
マーニが半田千早に問う。
「何があったの?」
城島由加が答える。通常、彼女はこういう話をしない。
「民族浄化……。
民族すべてを抹殺する組織的な大量殺戮から、特定の人々を狙った個人的な殺人まで……。
こういった行為は、非常に特殊なの。軍事的に弱体な集団を、軍事的に強大な集団が殲滅してしまう、という行為は歴史上多いけど……。
でも、ある民族や国家が、他の民族や国家を“劣る”という意味不明の理由で“抹殺する”という行為は、かなり珍しいの。
ヒトは戦争という行為をするけど、その理由は経済的な問題。領土を奪う、収穫物を奪う、財宝を奪う、資源を奪う、という純粋な経済行為がほとんど。
ある民族や国家をある集団が根拠なく“劣る”という理由で、殺戮するという行為は、経済行為ではない。
戦争は純粋に経済行為だから、特定集団に対する“劣る”という理由による殺戮行為は戦争ではないわけ。戦争は“儲け”がないとしないの。
だから、優生思想という考えは、疑いようのない“心の病”だと思うの。遺伝性の病じゃない。後天的な不治の疾患ね。
この病に罹患にたヒトは、自分の考え、優生思想が根拠のない愚かな考えだってことさえ気付かず、声高に論じてしまう。
そして、凶者の言葉は伝染する……。
ノイリンはそうなってはいけない」
俺が母親の話を引き継ぐ。
「優生思想の原点は、1883年にフランシス・ゴルトンが提示した優生学にある。科学を装っているが、ある種の宗教だ」
半田千早が引き継ぐ。
「そんな恐ろしい考えが、ノイリンに広まっているの。
誰かが、何とかしなくちゃ。
相馬さん、斉木先生、真希先生(能美医師)、そして養父〈とう〉さん、……たちの戦う武器が必要なの。
それをミルシェが取りに行く……」
マーニには状況が見えてきた。
「ブロウス・コーネインが死んだくらいでは、どうにもならない……。
ミルシェはノイリンの運命を握っている……と?」
半田千早は頷いた。
マーニの疑問は遺伝と進化の関係に移る。
「養父さん。
子供は、お父さんとお母さんの両方の特徴を半分ずつ受け継ぐんだよね。
それが遺伝でしょ?」
遺伝については、俺よりも斉木五郎のほうが解説者としてふさわしい。だが、ここに斉木五郎はいない。
ならば俺が話すしかない。
「子は両親の特徴を受け継ぐ。だけど、両親の特徴が混ざり合うわけではないんだ。白い絵の具と赤い絵の具を、水で解き刷毛で混ぜ合わせて、ピンク色にするような感じじゃない。
簡単にいえば、白い肌と褐色の肌の両親から、淡い褐色の肌の子は産まれない。
遺伝の要素、遺伝子は液体のようなものではなく、マメのような、粒子のようなものなんだ。大豆〈だいず〉と小豆〈あずき〉を混ぜ合わせても、一粒一粒もう一度選別できるよね。それと同じ。交じり合うことはない。
両親の特徴を受け継ぐが、顕在化する遺伝子は1つ。もし、白い肌と褐色の肌の両親から褐色の肌の子が産まれたとしても、白い肌の遺伝子も受け継いでいるんだ。
だから、褐色の肌の両親から白い肌の子が産まれる可能性がある」
マーニが同意と反論をする。
「知ってるよ。移住して世代が浅いヒトたちでは、そういうことが起きている。不思議じゃないよ。
でも、世代を重ねた人々では、そういうことは起こらない。
どうして?」
ここからが進化の話になる。俺は自分の領域に達して微笑む。
「それが進化だ。
子は両親の遺伝子を受け継ぐが、頻繁にコピーミス、写し間違いを起こしている。
これが突然変異。
突然変異の大半は、その個体の生存に関わりがない。だから、自然淘汰の対象にはならないんだ。
そして、突然変異を起こした遺伝子を持つ個体が生き残り、子孫を残していく。
種は、何万年、何十万年、何百万年、何千万年と存続していく。
そのためには環境の変化に適応していかなくてはならない。森林が草原に変わっても、砂漠が湿地に変わっても、大気の酸素濃度が変わっても、平野が山脈になっても……。
この環境の変化に対応する原動力が突然変異なんだ。
いままで、何の影響を示さなかった突然変異を起こして継承されてきた遺伝子が、環境の変化によって突如として意味を持つことがある。
だから、種は多様でなくてはならない」
マーニは納得しない。
「ちょっと、抽象的かな。私にはわかるけど、私では誰かに説明できないかも」
確かに正論だ。
俺は続ける。
「ヒトも哺乳類だが、哺乳類には3つの大きなグループがある。有胎盤類、有袋類、単孔類だ。
ヒトは有胎盤類に属してしている。
哺乳類は産まれるとミルクによって生育する。だが、成体になるとミルクが飲めなくなる。飲んだ場合、消化できず、腸内細菌の餌になる。結果、腸内細菌の排泄物が腸内にたまる。
症状は、おなら、下痢だ」
おならと聞いて翔太が喜ぶ。
マーニが反論する。
「そんなことないよ。ミルクなら皆が飲むじゃない。
たまに、苦手っていう子がいるけど」
俺も同意する。
「その通り、ヒトはミルクが飲める。
なぜか?
200万年前、ヒトがこの世界に来る前、そこからの話になる。
ヒトがミルクを飲めるようになるのは、200万年前のさらに数千年前のことらしい。
3000年前には、ミルクが飲めるようになっていたとされるが、はっきりしない。それよりも、さらに数千年前かもしれない。
どちらにしても、ヒトは他の哺乳類同様、ミルクを飲めなかった。
いつの時期にその突然変異が起きたのかはわからない。
ミルクを消化するにはラクターゼという酵素が必要なんだが、この酵素は成体になると作れなくなる。
しかし、突然変異で、成体になってもラクターゼを生成し続ける遺伝子ができる。
この遺伝子は、成体になるとミルクを飲まない文化では意味をなさない。だから、自然淘汰の対象にはならない。
無意味なんだ。
だけど、ヒトが採集狩猟の生活から、牧畜を営むようになると、家畜の肉だけでなく乳製品も利用しようとする。
いいや、大人でもミルクが飲めるようにならないと、牧畜は成立しない。
ラクターゼが大人になっても作られ続けることは、ラクターゼ活性持続症という病気なんだ。
遺伝性の病気だね。
家畜のミルクを利用する場合、ラクターゼ活性持続症のヒトのほうが断然有利だ。
無意味な遺伝性疾患は、酪農・牧畜の発生によって意味を持ち、このとき自然淘汰の対象になった。
ラクターゼ活性持続症のヒトが子孫をより多く残し、多数がラクターゼ活性持続症になっていく。おそらく数世代で。
200万年前、養父さんや養母〈かあ〉さんが住んでいた国、日本という国は養父さんが生まれる何十年か前にアメリカという国と戦争をしたんだ。
そして、負けた。
国土は占領され、食べ物はなく、人々は飢えていた。
アメリカは、動物の肉をたくさん食べ、ミルクもたくさん飲む国だった。
日本は穀物や野菜食が中心で、動物の肉をあまり食べず、ミルクを飲む習慣はほとんどなかった。実際、戦争に負ける何十年か前までは、まったく飲まなかった。鳥や魚以外の動物の肉もあまり食べなかった。
アメリカは、日本の子供たちの栄養補給のためにミルクが一番いいと考えた。
だから、飲ませた。
しかし、アメリカの人々とは異なり、日本にはラクターゼ活性持続症のヒトが少なかった。
当然だね。この突然変異による遺伝病は、日本では自然淘汰の対象ではなかったのだから。
日本の子供の多くが、ミルクを飲んで腹痛や下痢になってしまうんだ。
ここから進化が始まる。
ミルクが飲めれば成長の役に立つ。そして、ミルクを飲む習慣が伝われば、ミルクが飲める遺伝子を持つヒトが子孫を残すようになる。
自然淘汰が働いたんだ。
数世代経過すると、日本のヒトの多くが乳児じゃなくてもミルクが飲めるようになっていた」
マーニが気付く。
「もし、優生思想のヒトたちが考えるヒトが本当にいて、そのヒトたちだけの集団が生まれたとしたら……。
環境の変化に脆弱になる……の?」
俺が答える。
「そうだ。
ヒトは遺伝子の多様性がもともと低いんだ。さらに、200万年後にやって来たヒトは推定1万人。
遺伝的多様性は危機的に乏しい。
遺伝的多様性とは、個体の遺伝子構成が多様であること、個体群の遺伝子構成が多様であることが必要なんだ。
個体の遺伝子構成、遺伝子型は近親交配を繰り返せば多様性を失う。遺伝子型が似通った個体同士からは、遺伝的多様性のある子供は生まれない。
個体群、ヒトならば社会だが、社会にも多様な遺伝子、豊かな遺伝子プールが必要なんだ。
にもかかわらず、優生思想を信奉する“優生細胞”の連中は、遺伝子の多様性を狭めようとしている。
愚かとしかいいようがない。
突然変異は、今日もどこかで誰かが生まれ、起きている。しかし、ほとんどは意味を持たない。だが、いつ意味をなすのか、それもわからない。一見、不利と思える特徴でも、ある局面では決定的に有利となることもあるだろう。
ヒトは200万年の進化の洗礼を受けていない。それだけでも生存確率が低い種なんだ。
立場を超えて、優生思想信奉者をどうにかしないとヒトが滅ぶ」
マーニが笑った。
「ミルシェ、偉いね」
テーブルに並ぶ皿には、何も残っていなかった。
翔太は、実によく食べる。
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