生死だけがほんとう

倫理ぜろ

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母性なんてものは幻想で、

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 母性というのは、時に人を正気でなくしてしまうらしい。
天塚由真の母親は正に母性の被害者であり、加害者だった。娘を心から愛した母親というのは彼女側の事実、過干渉の化け物で殺人未遂の前科持ちというのが由真側から見た事実。
由真は自分で選んでいいはずの全てを親に管理されていた。洋服、髪型、友人、恋人、ひいては進路までの全てを。
その中でも一際深刻だったのは進路のことだった。彼女は幼少の頃から「東大に進学しろ」と言われ続けたが、それなりに聡明だったせいでその言葉の非現実性に気が付いていた。父は普通より少しいい国立大学、母は所謂Fランクの短期大学、その間に生まれた自分が現役で東大になど入れるはずがなかった。天地がひっくり返ろうとツチノコが見つかろうと、それだけはあり得なかった。浪人を二、三度すれば確率がないことは無いだろうが、世間的体裁を何よりも気にする彼らが娘を浪人させるなんてことは、これもまたあり得なかった。



 由真の母は重度の学歴コンプレックスを抱えていた。だからこそ、娘を東大という日本最難関の大学に入れることで自己肯定感を手に入れたかったのだ。そんなことをしても何の見栄にもならないのに、娘を東大に入れるということは彼女の人生において純度の高い希望であった。しかし、現在大学一年生の由真は、現役で大学に入ったものの、そこは当然東大ではない。周囲の人達にはすごいねと言われたが、幼いころからずうっと東大以外許さないと言われ続けた彼女は素直に喜ぶことができなかった。そもそも国立大学に入れるほどの容量の良さは持ち合わせていないADHDだし、IQだって114の凡庸だ(東大生は平均で120あるらしい)。
学歴コンプに育てられた娘は、学歴コンプかつIQコンプになった。前代未聞のコンプレックスで産まれなおす他に当てがないから、もうずっとどうしようもなく死にたい。死にたいのだ。死を口に出すことでしか心は晴れやかにならず、それ以外の時分は雨が降っているような精神状態だ。この雨は、母にリビングで出刃包丁をまっすぐ向けられたあの日から降り続けている。希死念慮とかいう世界一いらないおまけ付きで。
普通の10代は、IQとかいうどうにもならないものにコンプレックスを抱かない。ただ莫迦みたいにティックトックを見て、youtubeを倍速視聴して知識を得た気になっている。彼女はそういうお花畑な人種に心からの憧れを抱いていた。学歴とか偏差値みたいな社会の物差しを気にも留めない、ぱっぱらぱーな10代になりたかった。それは決して皮肉や嫌味ではなく、心の底からの羨ましいという気持ちだった。たくさんの強迫観念がタコ足配線のように絡まっている彼女には莫迦のフリすらできなかった。箸が転がったって、クラスメイトが変な動きをしたって、表情筋が緩むことは無かった。ただ空気を読んで「ははっ」と笑い声になり切れない音を発することしかできなかった。彼女の表情筋が本気で緩むのは、M1とキングオブコントの決勝を観ている時だけだった。台本のある、打ち合わせ済みの完成された掛け合いしか彼女を癒してくれるものはなかった。それもこれも歪んだ母親に育てられたせいだと母に言ってやりたかったが、自分を産み育てる間にした苦労を勝手に想像してしまうせいで文句を言う事すらできない。天塚由真のそれは優しさというより弱さだったが、「自分は心優しい」と自己暗示をかけて何とかそのことに気が付かないでいた。



 天塚由真は、自分がいつかきっと自殺すると確信している。それは悪い意味で遣われる方の運命だと諦観している。その「いつか」が今なのか、少し先の未来なのかは分からない。普通ではない親に育てられた異常な価値観の自分、謂わば異常者が普通の社会で普通に生きていくことは到底できないからだ。理由はこれだけで十分だろうが、もう一つあるらしい。
彼女は、【妊娠】という現象をこの世の何よりも恐れている。それは貞子よりも血まみれのピエロよりも、ずっと恐ろしいと感じている。自身が母になるのが堪らなく怖いのだ。怖いを通り越して嫌悪感を覚えるし、母親になるくらいならあの日の出刃包丁で自ら首を掻き切って死ぬだろう。気狂いのように暴れまわった末、自分の細い首に刃渡り15センチほどのあれを突き刺して死ぬ未来が容易に想像できる。母のように母性に狂わされるのは死んでもごめんだ。なんで女なんかに産まれてきてしまったんだという不満もあるのかもしれない。二本しかないくじの外れを引いてしまうなんてとことん付いていない、運も外性器も。人間という劣等種の存続なんて気色悪い使命を背負わされる方の性別はもううんざりだ。彼女は、来世があるなら男か人間以外の何かに生まれ変わりたいと切に願っている。
そして来世の母に言ってやりたい。

「母性なんてものは幻想で、生死だけがほんとうだよ」
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みんなの感想(1件)

vv0maru0vv
2023.03.31 vv0maru0vv

母性なんてものは幻想か(´・ω・`)期待を持ちすぎるのはいけないね。難しいことです。

倫理ぜろ
2023.04.01 倫理ぜろ

難しいですよね。もしかしたら私の知らないどこかでは母性が存在するのかもしれません。
あくまで私の世界で幻想だっただけですから。

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