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己消しゴム、鈴木哲郎編

鶏源郷

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「八元の旦那! 砂肝二人前追加で! あとビールもおかわり!」 

「へい毎度! てっちゃん、いつもおおきに!」 

 側は紫色、文字は黄色、テカテカと輝く立て看板、スナックヘベレケを背に、格子状に張り巡らす道を左、右、左、右、右と抜けると辿り着く、桑茶色の提灯が目印の焼き鳥屋。 

 名を鶏源郷《とりげんきょう》と言う。知る人ぞ知る名店だ。美味い焼き鳥屋を探し求め、全国を旅したものだけがたどり着く事が出来る。路地裏のユートピアだ。 

 厨房から威勢の良い関西弁で返事を交わすのは、店の大将、八元《はちげん》の旦那。 

 スキンヘッドにねじり鉢巻き。気さくな関西弁。指先で捻っているのは串ではなく、タコ焼きと見間違えてしまうほど、道頓堀のキャラ臭がする漢気大将だ。 

 だが、俺、鈴木哲郎は知っている。 

 八元の旦那のラグビーでもやっていたかと思わせる屈強な体格。カモメが飛んでしまった太い眉毛は墨色に輝く焼き鳥を体現していると言っても過言ではない。 

 真っ黒に焙られた焼き鳥の数々が豪快に盛り付けられるのは縄文土器を思わせる歪な形状のお皿。いつ見てもセンスが斜め上過ぎる。 

 開店当初は眩さ溢れる純白だったと語られる店内も今では長年の煙で燻され続け、見るも無残に全面濃茶色。 

 例え俺がCカップをDカップに鯖読みするグラビアアイドルを心無し許せる大きな器を持った男であっても、この店を綺麗な店内と嘘を付かれれば多分キレてると思う。 

 そう、一言で言えばメッチャ汚い。 

 SNSが流行っているご時世、女子ウケなど虚無であり皆無だ。手をカウンターテーブルに添えるだけで得体の知れない粘着質な油のような物が張り付いてくるこの店に、口説きたい女性を連れこよう物ならそれは死亡フラグ確定。席に着いてお尻に貼り付く違和感を彼女が感じた途端、天の声もきっと宣告するであろう。 

 お前はもう死んでいる。 

 しかし、だがしかし! 飲食店で汚いと言う致命的な欠点があってもそれを補う以上の味が鶏源郷にはあるのだ。 

 そう、味だけは当代随一の美味さなのだ。 

 三十年と言う短い俺の人生だが、ここよりうまい店を俺はまだ知らない。辛さと甘さが絶妙な安定感を生むタレ。その極上のタレを焼く前と焼いた後に二度付けし、炭火の豪火力で肉に焼き付け、深い味が出るように徹底されている。勿論、炭火の香りは食欲とヨダレをそそる。そして、一口噛めば表面は高温で揚げたようにパリッと弾ける食感を楽しめ、続け様に不意打ちを喰らう柔らかい食感と溢れ出すアツアツの鶏肉の旨味。 

 うんめー! 

 いつ食べても喉が子猫のように唸ってしまう。 

 目を瞑って噛めば噛む程、極楽浄土が垣間見え、幸せってこんな路地裏にあったのかと思う程、幸福というものが口の中いっぱいに広がるのだ。 

 ――この味を知らない方が良かったと思うのは些か言い過ぎかもしれないが、コンビニで売っている焼き鳥では満足できない舌にされたのは紛れもない事実。もう一層の事、焼き鳥と結婚でもしたい気分だ。もし、俺がJK女子で彼氏が焼き鳥ならきっとこう言うだろう。 

 どうしてくれるの! 責任とってよ! 

 一時はスマホで天気予報を確認する程の頻度で通っていた焼き鳥屋。その甲斐があって久しぶりに訪れた今夜でも大将に鉄っちゃんと呼ばれ、俺は八ちゃんと呼ぶ。 

 好感度を上げ続けた間柄は健在で、このまま行けばギャルゲー攻略のように告白最終イベントも遠くはないだろう。 

 くくく、このままでは本当に焼き鳥と結婚してしまうのかな?(すいません。大分酔ってます) 

 目の前のパリパリ鳥皮を嚙みしめ、生ビールを体内にチャージすると、酔いは更に深い回想へと迷い込む。 

 

〇 

 

 今でも運命の出会いが瞼に映る。初来店は仕事帰り、終電を逃し仕方なし徒歩で帰宅しようと、繫華街を歩き。空腹に誘われふらりと入ったのが切っ掛けだった。今では釣られて良かったとつくづく思うこの頃。 

 強面大将の第一印象はマジ怖くて、焼き鳥屋より八九三の方が似合いそうと思っていた。(今でも思う) 

 口が災いを招くとは良く言うが、案の定この減らず口が仇となり。酔いに任せ、「ハゲヤクザ!」と口を滑らせた時は、八ちゃんの太い腕に首を絞められ、殺され掛けたのも良い思い出だ。 

 それからと言う物。八ちゃんの味と人柄に惚れ、足繫く通い詰めた。 

 だが、未だに分からない謎が一つある。 

 それは営業時間が四時間と極端に短く、尚且つ、午後十時から深夜二時までと言う謎の深夜枠で営業している事。人通りが落ち着いた時間帯でしか提灯は灯っていないのだ。 

 味はチート級。売り方次第では天下を取れる一品だ。素人の俺が見ても、書入れ時の時間帯から営業した方が儲けられるは一目瞭然。 

 何度もアドバイスしたが、八ちゃんは頑なに拘っていた。理由を聞いても教えてくれない。 

 だから、常連客の間では謎が謎を呼び、色んな噂が飛び交っていた。仕込みの時間が物凄く掛かるのでは? とか、実は他店で働いており、コッソリ副業で独立をしたのでは? とか、はたまたシングルファーザーで子供達が寝静まってから営業している。だとか、憶測が憶測を呼ぶ。だが、どれも信憑性の低い噂話に留まっている。 

 まあ、そんなゴシップで盛り上がってしまう程、ファンが多い鶏源郷。今日も八ちゃんは慣れた手つきで次々にタコ焼きではなく焼き鳥の串をひっくり返しては、涎滴るいい匂いと甘辛い秘伝のタレで無類の味を提供する。 

 この八年で俺が得した事と言えば、エンジニアとしての身に付いたスキルを除けばこの鶏源郷を知れた事と答えるだろう。 

「何やってんだろ……俺」  

 順調に進んでいた出世道。……のはずだった。だが、営業部に移動してチーフマネージャーになった途端。たった一度の取引先との喧嘩で降ろされ、今は黙々と平エンジニアとして仕事に明け暮れている。――そして気付けば入社してからの八年、もう出世の道は完全に閉ざされたのかな。 

 虚しさを補う為に俺は次々に串を銜えては噛み締める。 

 美味い。美味すぎる。涙が零れ落ちそうになる程美味すぎる。 

 ただ今日は……。そう、今日だけに限って言わせて貰えれば、来るんじゃなかった。 

 鶏源郷の味は無類で悪魔的旨さだからこそ、病み付きになり、中毒性があって危険なのだ。知恵の木の実を口にしてしまったアダムとイブのように、この味は人類には早すぎたのだ。喫煙所を探して一本の煙草を吸いに行く感覚で入ってしまったが最後、もう帰れない。 

 現在、焼き鳥の盛り合わせ串十五本は気付けば三皿目になっており。注がれたビールジョッキは瞬く間に三杯目に突入していた。 

 まじデブ活っす。 

 まぁ、俺の回想とお店の自己紹介はこれくらいにして伝えておくべき内容を要約すると、店の中央にある黒檀で出来た大黒柱。その柱の上部、額縁に入れ飾ってある大将の格言。「美味い物こそが正義」がこの店の法律である。 

 さて、とてつもない脱線をしたが北村君との本題に戻ろう。 

 

〇 

 

「てか俺のとっておきの店に連れて来てあげたんだ、納品開けのご褒美の話は無しだからな」 

「えー! 一度聞いちゃったんだから期待するじゃないですか! もう! これじゃ納品までモチベーション維持できないっすよ!」 

 北村君が言い放った、上司である俺を部下に誘うと言う、まるで言葉の綾取りのように意味が分からない口説き文句。その真相が気になった俺は会議室にと、鶏源郷を選んだ。 

 元はと言えば、この場を乗り切る為に提案した打ち上げ飲み会の話。切り札に使った交渉材料も使い処を間違えれば仇となる。結果、北村君の方が一枚上手だったと言う事だろう。やはり俺は営業には向いていない。このまま行けば、納期明けのご褒美は飯屋はさしずめ、回らない寿司屋か美味い焼肉に決定だ。それは腑に落ちないが、まあいい。もう開き直りだ。自宅で彼女を待たせてる現在。今すぐにでも電車に飛び乗って帰りたいのだが、俺は焼き鳥に囚われていた。 

 うんめー! 美味すぎる! 

 もはや危ない薬となんら変わりない。何度も言うが、この味は人類には早すぎる。北村君が俺を部下に誘う真相もだが、とりあえず、八ちゃんが串を捻って焙っている砂肝を食べるまでは帰れません。 

 そして話は進んだ。 

「僕の会社には先輩が必要なんです!」 

 俺は驚いた。北村君の話を串を銜えて聞けば聞くほど驚天動地の回答の数々。正直串を何本か落とし驚いた。こんなに驚いたのは久しぶりだ。どれくらいかと言うと、二年前にスナックヘベレケで口説き落とそうと通い詰めていたアスカさんが、実は元男性だったとカミングアウトされた時以来の衝撃だった。 

「最初は会社を買収しようか考えていたんですけど、内部状況を見た限り、先輩を引き抜いた方がお安いと思ったんですよ」 

「はい?」 
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