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忘れていた頃にやって来る春子さん。
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年末のCDリリースライブが終わって、数日が過ぎ、世間では正月を迎えましたが、ご承知の通り、我が家の空気は初日の出の暖かさとは無縁なものでした。毎年恒例だったおばあちゃんの松前漬け。余り好きでは無かったけれど、もう二度と味わえ味と知ると、人は無償に恋しくなり、どうしてもっと食べておかなかったと、今はとても後悔するものです。
悲哀は癒えておりませんが、冬休みを明けると学期末試験が待っています。私には猶予がありません。冬休みは休学していた分の補習授業が待っています。
三が日が終わると私は高校に戻り、本来学生がするべき勉学に取り組む生活が戻りました。もともと成績が……いえ、休んでいた分の成績。それと出席日数を取り戻す為、雄二君の手助けにも救われながら、私は教科書や参考書と向き合い、勉学に励む日々を送っています。
春風セブンティーンは……もういいです。私はあれから練習にも参加していません。週末の定期ライブにも出ないつもりです。SNSの誹謗中傷を見ると、メンタルが病む為、極力ネットは見ないようにしています。
心機一転。まるで受験生のように勉強に明け暮れる日々。これから雄二君に勉強のお世話になる事をお母さんにどう説明すればいいか、迷いましたが、実は私の知らない間に、お母さんと雄二君である契約が結ばれていました。
それは雄二君が私に勉強を教える代わりに、夕飯は我が古賀家で一緒に食べるという契約。
私もお母さんも「そんな事でいいの?」っと思ったのですが、雄二君はご両親が海外に転勤している為、食生活はデリバリー系のジャンクフードばかり食べているのは知っていました。
きっと雄二君は家庭料理に憧れたのでしょう。ですが、お母さんの料理はおばあちゃん譲りの筑前煮など素朴な味ばかり。家庭料理といっても毎日食べている私とって、この味に恋焦がれる気持ちが理解出来ません。なんなら私が代わりにジャンクフードを食べてあげてもいいくらいです。ポテト好きです。山盛りポテトにチーズバーガーセットは悪魔的に好きです。
と話しが逸れてしまいましが、そんなこんなで、雄二君と距離が近くなった日々を送っておりました。
毎晩一緒にご飯を食べて気付いたのですが、雄二君はご飯を食べてる時、今日一番の幸せそうな顔をするのです。そして相変わらず私にチャチャを入れて来るのです。
「こら玲奈。側を残すな、こんなに美味しい肉詰めピーマン。残すなんて罰が当たるぞ」
「そうだぞ、玲奈! もっと言ってやって雄二君」
「……」
説教する人員が増えてしまいました。私の私生活は更に肩身が狭くなったのです。
〇
本日も放課後、補修授業を受けて帰り、夕飯が出来るまでの間、私は雄二のお家にお厄介になりました。
私は雄二君に指定された問題を解き、雄二君に採点のチェックを入れてもらうのが日課です。
赤ペンを走らせる音が曲線ではなく、跳ねる音が連発すると、雄二は親指で黒縁メガネを上げ、溜息越しに呟きました。
「玲奈……因数分解は中学生レベルの問題なんだよ。アシベンだってお手を覚えれるんだ。どうして君は公式の一つも覚えられないんだい?」
相変わらず毒舌がキツイです。雄二塾と言う名の拷問は、私に学力以上のストレスを与えて下さるようです。
必死にシャーペンと脳みそを働かせる事一時間。すると、天の救いのようにブルブルブル……っと机の隅に置いてあった私のスマホが光りました。
「あ、お母さんからかな? 夕飯出来たのかな?」
やっと今日の地獄から開放されると安堵し、軽はずみな気持ちでスマホを手に取ると、「着信中、広口マネージャー」の文字が目に留まり。私は硬直しました。
「………」
もう春風に未練はありません。私は無視するようにスマホを再び置くと、雄二君が拾ってスマホの画面を見ました。
「マネージャーさんからだよ」
「いいんです。でなくて……」
「駄目だ、出なさい」ピッ
雄二君は何の抵抗もなく通話ボタンを押すと私にスマホを向けました。
「え? え?」
「春子デース! 玲奈ちゃん元気ー?」
春子さんの大きな声。気さくでフレンドリー過ぎる春子さんだったから、喋れたのかもしれません。もしメンバーだったら喋る勇気なんてありませんでした。
「お疲れ様です……。なんですか? ……言っておきますが春風には戻りませんよ」
「違うから安心して。ほら! この前言ってた映画のオーディションの件! 明日よ明日!」
「あ……」
色んな事件が起こり過ぎて心の底から忘れていました。あまりに突然の出来事に精神的にも、今からオーディションを受ける気など、無くなっていました。
「すいません。今更ですけど……キャンセルとか出来ないですよね?」
「もう申し込みしたんだから、駄目に決まってるじゃない! 事務所通して申し込みしてるから、無断で断ると信頼を落しちゃうのよ。落ちても良いからオーディションに行ってよね!」
落ちてもいいって……期待されなさすぎて。もう嫌になります。
「はぁ……」
ですが一度受けると言ったからには、受ける責任は私にあります。もともと自信なんて端から無いのですから、悩んでいても関係ありません。ただ、トラウマを抱えた今の私には、芸能界と言うステージが恐くて恐くて仕方ありませんでした。
「明日! 午後二時に博多駅の筑紫口に来てね。あの時渡したチラシに詳細載ってるから!」
「え……あ、ちょっと」
「ん? 何か分からない事ある?」
私はどうやって断ろうか言葉を濁していると、雄二君は通話中スマホを勝手に取り、私の声真似をして、春子さんに返事をしてしまいました。
「問題ありませーん! 明日よろしくお願いしまーす」
「じゃあ明日よろしくね~!」
「え?」
「了解しました!」ピッ
雄二君は勝手に了承し、通話を終わらせてしまいました。雄二君がする声真似にも無理があったと思うのですが、春子さん……どうして気付かないの?
「ちょっと! いったい何するんですか!」
「こうでもしないと、玲奈はオーディションを受けないだろ? 最近は勉強の根詰めだったし。いいじゃないか、気分転換にでも受けてきな」
「でも……」
「……安心したよ。どんな形でも、まだ輝く事を諦めてない玲奈だって」
「え?」
「僕の分析によると、玲奈のキャラクターは明るく、可愛く、そして嫌味が少ないし好感度もある。君はステージの上、いやレンズの向こう側に立っているべき人間なんだ。必ず評価される時がくるよ」
今までに無いぐらい、ベタ褒め好評価です。千回中一回もない、雄二君が私を褒めるという行為。ドギツイ毒舌を毎日浴びるように繰り広げてきた雄二君から褒められ、私の中にある照れと恥ずかしさのボルテージは、いきなりゲージを振り切れてしまいました。
「もうなんなんですか! 冗談は寝言で言ってください!」
恥ずかしさの余り、体が勝手に動いていたと言った方がいいのでしょうか。私は照れを隠す為、雄二君の黒縁メガネを奪い取り、彼の両目をチョキで潰し、雄二君の眼鏡を自身に掛け、目元を隠し、勉強に打ち込むフリをしました。
「はう!」
牛乳瓶の底くらい分厚い雄二君の眼鏡。レンズ越しの世界は西日が差して、まるでアイスティーの中にいるように温かい色で溢れていました。
ですが、そんなトキメキも一瞬で覚めます。次第に参考書の数字の二が三に見えるし、視点が合わず、三半規管がブレたように、なんだか気分が悪くなります。
すると眉間に手をやり、目の痛み耐えてる雄二が、近づいてくる映像が微かに見えました。
「眼鏡を返せ……」
雄二君はド近眼。眼鏡が無いと、目を引っ付けるくらい近づけないと物が認識できないレベルなのです。
彼が手を伸ばし、黒縁眼鏡を取り返されると、何年ぶりでしょうか、雄二君の素顔が見えました。
綺麗なウイスキーの様な深みのあるアンバーの瞳。お酒も嗜めないおこちゃまの私にはその美しさが理解出来ませんでしたが、それ以上に近すぎる雄二君の顔面。お互いの鼻息がふわりと頬を掠めて、私は赤面してしまいました。
「ぎぇ!」
私は恥ずかしさの余り、とっさに手より先に頭突きが飛び出します。
「ぐへ!」
雄二君は石頭なんですかね? あまりの痛さにお互いお凸を抑え、悶絶します。そして床に倒れ込む裸眼の雄二の瞳を、今度は距離を置いて冷静に観察しました。
なんででしょうか? 彼を見ていると少し胸の内がソワソワしている事に気が付きました。
雄二君は直ぐ眼鏡を掛け、親指で整え。眉間にシワと眼鏡を光らせ、私を見ました。
「おい。玲奈……幼稚園は十年以上前に卒業しただろ? 黙ってないで何か言う事があるんじゃないか……?」
「ゴメンなさい」
「よし、僕はやられたらやり返す主義でね。目潰しをお返しされるのと、明日オーディションに行くの、どっちがいい?」
「ひと思いにやって下さい!」
私は目を瞑って雄二君の攻撃に備えました。
べし! っと雄二の不意打ち兼、遠慮ないチョップが前頭部にクリーンヒット。
舌を噛んでしまいそうな威力のお掛けで、胸の内にあったソワソワが取れました。
ある意味ありがとうございます。私は睨み付けて無言の返事をしました。
「なんだいその目は。ボランティアで付き合っている僕に対して、君は反抗できる資格があるのかい? 足りない脳ミソでしっかり考えたまえ」
見て下さい。この私を人して見ていないこの眼鏡野郎を! 結局、雄二君の強制力によって映画のオーディションにはいく羽目になったです。
〇
次の日の午後二時。オーディションって一体どんな格好をすればよいのでしょうか?
とりあえず私は派手でもない、ダサくもない、万人受けする白を基調とした冬の装いで博多駅の筑紫口で春子さんを待っていました。
「寒い~」
個人的な意見ですが、冬は年が明けてからが本番。駅の入り口にある、郵便ポストに寄りかかり、待っていると春子さんが少し遅れてやって来ました。春子さんは何故だか私を見るなり頭を抱えていました。
「あちゃ……やっぱりか。玲奈ちゃん。どうして制服じゃないの?」
「え? どういう事ですか?」
「……この前渡したチラシの資料に制服って来てって書いてたでしょ?」
完全に見落としていました。ていうかオーディション事体見落としていましたし。
「あ……すいません。見てませんでした」
「もー! 頼むわよ~。受けるからには全力で取り組まないと、受かるもんも受からないわよ」
昨日落ちてもいいからって言ってませんでした?
「いい、これは戦略なのよ。今回のように原作がある作品は役に対して情報が原作の中にあるの、それを事前に読んでおいて。監督やプロデューサーの役のイメージにオーディションを受ける段階から作っておくのよ。この段階からオーディションは始まってるのよ」
フットワークが軽そうに見える春子さん。なんだかんだ言っても彼女自身も真剣に取り組んで考えてくれる優秀なマネージャーさんのようです。私は少し見直しました。
「なるほど……勉強になります」
「もう遅いけどね。でも、できる限りの事はするからね! よし! 取り敢えず会場に向かうわよ!」
「はい!」
私は冷える手先を温めながらオーディション会場に向いました。
〇
「おはようございます」
大きな高層ビルの一階。催事場で行われるオーディション会場に着いた私と春子さん。
受付を済ませると、ナンバープレートを渡され、胸に付け、控室に向かいました。
ナンバーは、よりによって三百十七番です。それはとても嫌いな数字でした。雄二君と最近、素数を勉強をしたからではありません。セブンティーンがあるからです。
こう言ってはなんですが、私、もう十七と言う数字を目にしただけで、トラウマが蘇ってしまう病に掛かってしまったのかもしれません。
大広間の控室に着いた私と春子さん。中には四百人程度のオーディションを受ける役者志望の方々がいらっしゃいました。
発声練習する人。メイクの直しをする人。鏡で全身をチェックする人。皆真剣な表情でオーディションに向け準備をしていました。あまりの人数の多さと皆さんの気迫に私は圧倒されてしまいました。
こんなに沢山のライバルがいるです。ペーペーの私が役を勝ち取れるなんて、今から東大を受かるくらい難しそうです。
私が怖気づいていると、春子さんは私の背中を叩きました。
「びびっちゃ駄目。この中でも生徒役は五人。役ごとに審査は振り分けられるだろうから、多分玲奈のライバルは七十人くらいよ」
「それでも多いですよ」
「気持ちで負けちゃだめ。とりあえずメイクを役に合わせて作るわよ! 鏡の席に座って!」
私と春子さんはメイク用の椅子に座り、メイクの準備を取り掛かりました。
「原作のがんばるクイナ。その中でも柚希って言う女子高校役を玲奈は受けるの。若い割には気が強くて、濃いめのメイクをするって原作には書いてあったわ」
「ちなみに……なんで柚希役なんですか? 他にも女子高校生役、あるんでよね?」
「マネージャーの感よカン、最年少の玲奈ちゃんが、気の強い役をやったら売れそうって思っただけ」
「そんな安易に売れますかね?」
春子さんは役のイメージを忠実に再現する為、お手持ちのメイク道具を駆使し、私のメイクを進めていく。
「しまった。リップが自然色しかない……。原作には気の強いリップが特徴って書いてたの。何か色の濃いリップ持ってない?」
私は持っていたバックの中からメイク道具を広げました。
「えっと……これなんかどうでしょう?」
「あ、その色良いわね! 貸して!」
春子さんは私から古びた口紅を受け取って自身の腕に試しに付けました。
「ちょっと色が深いけど、印象は出せそうね、これにしましょう!」
「はい」
そんなやり取りをする途中。スタッフの方が控室をノックし入って来ました。
「柚希役の志望の三百十五番から三百二十番の方。通路に順に待機してください」
「はい!」
緊張の余り、声が裏返ります。
「時間がないわ! 手鏡を渡すから通路で口紅塗って!」
「は、はい!」
私はポケットに入る手鏡と口紅を持って、控室を後にし、通路前に並ぶ椅子に腰かけました。
〇
オーディション会場を背に通路の椅子に腰かけて待機する三百十五番から三百二十番の役者の卵の方々。
三百十六番の子は自身の手の平に人と言う字を書いて呑んで緊張をほぐしていました。
三百十八番の女性は自己ピーアールの言葉を念仏のように小声で何度も復習していました。皆さんとても緊張しています。そして本気で役を取りに来ています。私はこのやる気に満ちた空気感に、どこか懐かしさを感じていました。
それは毎日全力で練習し、初めて立った春風セブンティーンのライブ。今にも逃げ出したくなる緊張感。でもそれを打ち消す為に頑張った練習。このピリピリしていた空気があの日とそっくりでした。
立場は違えど、皆何かと戦っています。私も年末までは人生を掛けて戦っていました。 そして演じた最高のステージ。もっともっと私は味わいたかった。思い出すと、どうしても嫉妬する気持ちが芽生えてしまいます。私はきっと止まる事が出来ない鰹や鮪と一緒なのでしょう。何故だか両隣の彼女達に負けたくないと言う気持ちが込み上げてきました。
ですが、それを考えると同時に浮かんでくるのは、憧れだった和葉ちゃんの不気味な笑顔。衝動的に逃げたい気分に襲われます。気付けば鏡を持つ手が震え、口紅を落っことしてしまいました。
しまった。私はすかさず口紅を拾いました。
手に拾った、独特な色をした口紅。これは、合宿前に、おばぁちゃんから渡された口紅でした。
あの時は全く必要と感じなかった口紅。今ではおばあちゃんが私に託してくれた形見です。私は口紅をおばあちゃんと思って祈りました。
「おばぁちゃん……私に少しだけ勇気をください」
私は自分に暗示をかけ、紅を引きました。
紅を引いた瞬間。まるで体と心が切り離されるような感覚を覚え、気付けば目の前が真っ暗になっていました。そして突然モニターが一つ現れ、映像を映し出しました。
「あれ? どうゆうこと?」
そのモニターの画面に映っているのは、たった今、見ていた私の視界です。
まるで金縛りにあったような錯覚です。ですが映像の映る私の視界は私の意図と違い、勝手に動き出しました。
「あれ? あれ? あれ?」
多重人格者というのはこういう感じなのでしょうか? 私は体の自由を失ったと同時に私じゃない誰かに体の主導権を奪われてしまったようです。
〇
「それではエントリナンバー三百十七番、古賀玲奈さん。入室してください」
スタップの呼びかけに全く動かない私ではない私。
「三百十七番の古賀玲奈さん! どうぞお入りください!」
再度念を押すスタッフの方。ですが、私ではない私は微動だにしませんでした。
「……玲奈! 何してるの? 早く入って!」
心配し、控え室の隙間から覗いていた春子さん。動かない私にしびれを切らせ、突撃すると無理やり私を立たせ、オーディションが行われている部屋に入室させました。
「……なんじゃ? なんじゃ?」
視線の先には大型のカメラが添えられ、審査員席に座る沢山の人たち。
「えっと……三百十七番の古賀玲奈さん。そちらに座って下さい。自己紹介をお願いします」
「?」
「?」
私ではない私は指示に従わず、その場で不思議そうに審査員の方々を見ていました。審査員も不思議に私を見つめていました。
「……古賀、玲奈さんですよね?」
「ああ? なんか知らんばってん! わしゃ梅って名前があるったい! 玲奈はワシの孫じゃ! お前さんの様ないけ好かん男が孫の名を気安く呼ぶな!」
私ではない私は眉間にシワを寄せ、啖呵を切って審査員の方を怒鳴ってしまいました。
開いた口が塞がりません。私は驚き過ぎて冷静ではいられませんでした。
私を玲奈と名指し、孫と呼ぶ人はこの世にただ一人しかいません。いえ、正確にはもう、この世には居ないはずです。
「嘘でしょ?」
「久しぶりにヤバイ子来ましたね」
驚く審査員席に座る方達。その中で後方部で笑っている方がいらっしゃいました。
「やめて! お願い! 私の体を返して!」
私はモニター越しに、私の体を操る人に必死に呼びかけました。ですが、私でないその方は、孫を名指しで呼ぶ、目の前の男たちを警戒していて、それどころではなかったようです。
桑の実色のルージュが際立つ私の唇は博多弁全開で監督達にガンを飛ばします。
私の体に憑依した私でないこの方。
それは口紅の力によって現れた、先月亡くなったはずの梅おばあちゃんだったのです。
悲哀は癒えておりませんが、冬休みを明けると学期末試験が待っています。私には猶予がありません。冬休みは休学していた分の補習授業が待っています。
三が日が終わると私は高校に戻り、本来学生がするべき勉学に取り組む生活が戻りました。もともと成績が……いえ、休んでいた分の成績。それと出席日数を取り戻す為、雄二君の手助けにも救われながら、私は教科書や参考書と向き合い、勉学に励む日々を送っています。
春風セブンティーンは……もういいです。私はあれから練習にも参加していません。週末の定期ライブにも出ないつもりです。SNSの誹謗中傷を見ると、メンタルが病む為、極力ネットは見ないようにしています。
心機一転。まるで受験生のように勉強に明け暮れる日々。これから雄二君に勉強のお世話になる事をお母さんにどう説明すればいいか、迷いましたが、実は私の知らない間に、お母さんと雄二君である契約が結ばれていました。
それは雄二君が私に勉強を教える代わりに、夕飯は我が古賀家で一緒に食べるという契約。
私もお母さんも「そんな事でいいの?」っと思ったのですが、雄二君はご両親が海外に転勤している為、食生活はデリバリー系のジャンクフードばかり食べているのは知っていました。
きっと雄二君は家庭料理に憧れたのでしょう。ですが、お母さんの料理はおばあちゃん譲りの筑前煮など素朴な味ばかり。家庭料理といっても毎日食べている私とって、この味に恋焦がれる気持ちが理解出来ません。なんなら私が代わりにジャンクフードを食べてあげてもいいくらいです。ポテト好きです。山盛りポテトにチーズバーガーセットは悪魔的に好きです。
と話しが逸れてしまいましが、そんなこんなで、雄二君と距離が近くなった日々を送っておりました。
毎晩一緒にご飯を食べて気付いたのですが、雄二君はご飯を食べてる時、今日一番の幸せそうな顔をするのです。そして相変わらず私にチャチャを入れて来るのです。
「こら玲奈。側を残すな、こんなに美味しい肉詰めピーマン。残すなんて罰が当たるぞ」
「そうだぞ、玲奈! もっと言ってやって雄二君」
「……」
説教する人員が増えてしまいました。私の私生活は更に肩身が狭くなったのです。
〇
本日も放課後、補修授業を受けて帰り、夕飯が出来るまでの間、私は雄二のお家にお厄介になりました。
私は雄二君に指定された問題を解き、雄二君に採点のチェックを入れてもらうのが日課です。
赤ペンを走らせる音が曲線ではなく、跳ねる音が連発すると、雄二は親指で黒縁メガネを上げ、溜息越しに呟きました。
「玲奈……因数分解は中学生レベルの問題なんだよ。アシベンだってお手を覚えれるんだ。どうして君は公式の一つも覚えられないんだい?」
相変わらず毒舌がキツイです。雄二塾と言う名の拷問は、私に学力以上のストレスを与えて下さるようです。
必死にシャーペンと脳みそを働かせる事一時間。すると、天の救いのようにブルブルブル……っと机の隅に置いてあった私のスマホが光りました。
「あ、お母さんからかな? 夕飯出来たのかな?」
やっと今日の地獄から開放されると安堵し、軽はずみな気持ちでスマホを手に取ると、「着信中、広口マネージャー」の文字が目に留まり。私は硬直しました。
「………」
もう春風に未練はありません。私は無視するようにスマホを再び置くと、雄二君が拾ってスマホの画面を見ました。
「マネージャーさんからだよ」
「いいんです。でなくて……」
「駄目だ、出なさい」ピッ
雄二君は何の抵抗もなく通話ボタンを押すと私にスマホを向けました。
「え? え?」
「春子デース! 玲奈ちゃん元気ー?」
春子さんの大きな声。気さくでフレンドリー過ぎる春子さんだったから、喋れたのかもしれません。もしメンバーだったら喋る勇気なんてありませんでした。
「お疲れ様です……。なんですか? ……言っておきますが春風には戻りませんよ」
「違うから安心して。ほら! この前言ってた映画のオーディションの件! 明日よ明日!」
「あ……」
色んな事件が起こり過ぎて心の底から忘れていました。あまりに突然の出来事に精神的にも、今からオーディションを受ける気など、無くなっていました。
「すいません。今更ですけど……キャンセルとか出来ないですよね?」
「もう申し込みしたんだから、駄目に決まってるじゃない! 事務所通して申し込みしてるから、無断で断ると信頼を落しちゃうのよ。落ちても良いからオーディションに行ってよね!」
落ちてもいいって……期待されなさすぎて。もう嫌になります。
「はぁ……」
ですが一度受けると言ったからには、受ける責任は私にあります。もともと自信なんて端から無いのですから、悩んでいても関係ありません。ただ、トラウマを抱えた今の私には、芸能界と言うステージが恐くて恐くて仕方ありませんでした。
「明日! 午後二時に博多駅の筑紫口に来てね。あの時渡したチラシに詳細載ってるから!」
「え……あ、ちょっと」
「ん? 何か分からない事ある?」
私はどうやって断ろうか言葉を濁していると、雄二君は通話中スマホを勝手に取り、私の声真似をして、春子さんに返事をしてしまいました。
「問題ありませーん! 明日よろしくお願いしまーす」
「じゃあ明日よろしくね~!」
「え?」
「了解しました!」ピッ
雄二君は勝手に了承し、通話を終わらせてしまいました。雄二君がする声真似にも無理があったと思うのですが、春子さん……どうして気付かないの?
「ちょっと! いったい何するんですか!」
「こうでもしないと、玲奈はオーディションを受けないだろ? 最近は勉強の根詰めだったし。いいじゃないか、気分転換にでも受けてきな」
「でも……」
「……安心したよ。どんな形でも、まだ輝く事を諦めてない玲奈だって」
「え?」
「僕の分析によると、玲奈のキャラクターは明るく、可愛く、そして嫌味が少ないし好感度もある。君はステージの上、いやレンズの向こう側に立っているべき人間なんだ。必ず評価される時がくるよ」
今までに無いぐらい、ベタ褒め好評価です。千回中一回もない、雄二君が私を褒めるという行為。ドギツイ毒舌を毎日浴びるように繰り広げてきた雄二君から褒められ、私の中にある照れと恥ずかしさのボルテージは、いきなりゲージを振り切れてしまいました。
「もうなんなんですか! 冗談は寝言で言ってください!」
恥ずかしさの余り、体が勝手に動いていたと言った方がいいのでしょうか。私は照れを隠す為、雄二君の黒縁メガネを奪い取り、彼の両目をチョキで潰し、雄二君の眼鏡を自身に掛け、目元を隠し、勉強に打ち込むフリをしました。
「はう!」
牛乳瓶の底くらい分厚い雄二君の眼鏡。レンズ越しの世界は西日が差して、まるでアイスティーの中にいるように温かい色で溢れていました。
ですが、そんなトキメキも一瞬で覚めます。次第に参考書の数字の二が三に見えるし、視点が合わず、三半規管がブレたように、なんだか気分が悪くなります。
すると眉間に手をやり、目の痛み耐えてる雄二が、近づいてくる映像が微かに見えました。
「眼鏡を返せ……」
雄二君はド近眼。眼鏡が無いと、目を引っ付けるくらい近づけないと物が認識できないレベルなのです。
彼が手を伸ばし、黒縁眼鏡を取り返されると、何年ぶりでしょうか、雄二君の素顔が見えました。
綺麗なウイスキーの様な深みのあるアンバーの瞳。お酒も嗜めないおこちゃまの私にはその美しさが理解出来ませんでしたが、それ以上に近すぎる雄二君の顔面。お互いの鼻息がふわりと頬を掠めて、私は赤面してしまいました。
「ぎぇ!」
私は恥ずかしさの余り、とっさに手より先に頭突きが飛び出します。
「ぐへ!」
雄二君は石頭なんですかね? あまりの痛さにお互いお凸を抑え、悶絶します。そして床に倒れ込む裸眼の雄二の瞳を、今度は距離を置いて冷静に観察しました。
なんででしょうか? 彼を見ていると少し胸の内がソワソワしている事に気が付きました。
雄二君は直ぐ眼鏡を掛け、親指で整え。眉間にシワと眼鏡を光らせ、私を見ました。
「おい。玲奈……幼稚園は十年以上前に卒業しただろ? 黙ってないで何か言う事があるんじゃないか……?」
「ゴメンなさい」
「よし、僕はやられたらやり返す主義でね。目潰しをお返しされるのと、明日オーディションに行くの、どっちがいい?」
「ひと思いにやって下さい!」
私は目を瞑って雄二君の攻撃に備えました。
べし! っと雄二の不意打ち兼、遠慮ないチョップが前頭部にクリーンヒット。
舌を噛んでしまいそうな威力のお掛けで、胸の内にあったソワソワが取れました。
ある意味ありがとうございます。私は睨み付けて無言の返事をしました。
「なんだいその目は。ボランティアで付き合っている僕に対して、君は反抗できる資格があるのかい? 足りない脳ミソでしっかり考えたまえ」
見て下さい。この私を人して見ていないこの眼鏡野郎を! 結局、雄二君の強制力によって映画のオーディションにはいく羽目になったです。
〇
次の日の午後二時。オーディションって一体どんな格好をすればよいのでしょうか?
とりあえず私は派手でもない、ダサくもない、万人受けする白を基調とした冬の装いで博多駅の筑紫口で春子さんを待っていました。
「寒い~」
個人的な意見ですが、冬は年が明けてからが本番。駅の入り口にある、郵便ポストに寄りかかり、待っていると春子さんが少し遅れてやって来ました。春子さんは何故だか私を見るなり頭を抱えていました。
「あちゃ……やっぱりか。玲奈ちゃん。どうして制服じゃないの?」
「え? どういう事ですか?」
「……この前渡したチラシの資料に制服って来てって書いてたでしょ?」
完全に見落としていました。ていうかオーディション事体見落としていましたし。
「あ……すいません。見てませんでした」
「もー! 頼むわよ~。受けるからには全力で取り組まないと、受かるもんも受からないわよ」
昨日落ちてもいいからって言ってませんでした?
「いい、これは戦略なのよ。今回のように原作がある作品は役に対して情報が原作の中にあるの、それを事前に読んでおいて。監督やプロデューサーの役のイメージにオーディションを受ける段階から作っておくのよ。この段階からオーディションは始まってるのよ」
フットワークが軽そうに見える春子さん。なんだかんだ言っても彼女自身も真剣に取り組んで考えてくれる優秀なマネージャーさんのようです。私は少し見直しました。
「なるほど……勉強になります」
「もう遅いけどね。でも、できる限りの事はするからね! よし! 取り敢えず会場に向かうわよ!」
「はい!」
私は冷える手先を温めながらオーディション会場に向いました。
〇
「おはようございます」
大きな高層ビルの一階。催事場で行われるオーディション会場に着いた私と春子さん。
受付を済ませると、ナンバープレートを渡され、胸に付け、控室に向かいました。
ナンバーは、よりによって三百十七番です。それはとても嫌いな数字でした。雄二君と最近、素数を勉強をしたからではありません。セブンティーンがあるからです。
こう言ってはなんですが、私、もう十七と言う数字を目にしただけで、トラウマが蘇ってしまう病に掛かってしまったのかもしれません。
大広間の控室に着いた私と春子さん。中には四百人程度のオーディションを受ける役者志望の方々がいらっしゃいました。
発声練習する人。メイクの直しをする人。鏡で全身をチェックする人。皆真剣な表情でオーディションに向け準備をしていました。あまりの人数の多さと皆さんの気迫に私は圧倒されてしまいました。
こんなに沢山のライバルがいるです。ペーペーの私が役を勝ち取れるなんて、今から東大を受かるくらい難しそうです。
私が怖気づいていると、春子さんは私の背中を叩きました。
「びびっちゃ駄目。この中でも生徒役は五人。役ごとに審査は振り分けられるだろうから、多分玲奈のライバルは七十人くらいよ」
「それでも多いですよ」
「気持ちで負けちゃだめ。とりあえずメイクを役に合わせて作るわよ! 鏡の席に座って!」
私と春子さんはメイク用の椅子に座り、メイクの準備を取り掛かりました。
「原作のがんばるクイナ。その中でも柚希って言う女子高校役を玲奈は受けるの。若い割には気が強くて、濃いめのメイクをするって原作には書いてあったわ」
「ちなみに……なんで柚希役なんですか? 他にも女子高校生役、あるんでよね?」
「マネージャーの感よカン、最年少の玲奈ちゃんが、気の強い役をやったら売れそうって思っただけ」
「そんな安易に売れますかね?」
春子さんは役のイメージを忠実に再現する為、お手持ちのメイク道具を駆使し、私のメイクを進めていく。
「しまった。リップが自然色しかない……。原作には気の強いリップが特徴って書いてたの。何か色の濃いリップ持ってない?」
私は持っていたバックの中からメイク道具を広げました。
「えっと……これなんかどうでしょう?」
「あ、その色良いわね! 貸して!」
春子さんは私から古びた口紅を受け取って自身の腕に試しに付けました。
「ちょっと色が深いけど、印象は出せそうね、これにしましょう!」
「はい」
そんなやり取りをする途中。スタッフの方が控室をノックし入って来ました。
「柚希役の志望の三百十五番から三百二十番の方。通路に順に待機してください」
「はい!」
緊張の余り、声が裏返ります。
「時間がないわ! 手鏡を渡すから通路で口紅塗って!」
「は、はい!」
私はポケットに入る手鏡と口紅を持って、控室を後にし、通路前に並ぶ椅子に腰かけました。
〇
オーディション会場を背に通路の椅子に腰かけて待機する三百十五番から三百二十番の役者の卵の方々。
三百十六番の子は自身の手の平に人と言う字を書いて呑んで緊張をほぐしていました。
三百十八番の女性は自己ピーアールの言葉を念仏のように小声で何度も復習していました。皆さんとても緊張しています。そして本気で役を取りに来ています。私はこのやる気に満ちた空気感に、どこか懐かしさを感じていました。
それは毎日全力で練習し、初めて立った春風セブンティーンのライブ。今にも逃げ出したくなる緊張感。でもそれを打ち消す為に頑張った練習。このピリピリしていた空気があの日とそっくりでした。
立場は違えど、皆何かと戦っています。私も年末までは人生を掛けて戦っていました。 そして演じた最高のステージ。もっともっと私は味わいたかった。思い出すと、どうしても嫉妬する気持ちが芽生えてしまいます。私はきっと止まる事が出来ない鰹や鮪と一緒なのでしょう。何故だか両隣の彼女達に負けたくないと言う気持ちが込み上げてきました。
ですが、それを考えると同時に浮かんでくるのは、憧れだった和葉ちゃんの不気味な笑顔。衝動的に逃げたい気分に襲われます。気付けば鏡を持つ手が震え、口紅を落っことしてしまいました。
しまった。私はすかさず口紅を拾いました。
手に拾った、独特な色をした口紅。これは、合宿前に、おばぁちゃんから渡された口紅でした。
あの時は全く必要と感じなかった口紅。今ではおばあちゃんが私に託してくれた形見です。私は口紅をおばあちゃんと思って祈りました。
「おばぁちゃん……私に少しだけ勇気をください」
私は自分に暗示をかけ、紅を引きました。
紅を引いた瞬間。まるで体と心が切り離されるような感覚を覚え、気付けば目の前が真っ暗になっていました。そして突然モニターが一つ現れ、映像を映し出しました。
「あれ? どうゆうこと?」
そのモニターの画面に映っているのは、たった今、見ていた私の視界です。
まるで金縛りにあったような錯覚です。ですが映像の映る私の視界は私の意図と違い、勝手に動き出しました。
「あれ? あれ? あれ?」
多重人格者というのはこういう感じなのでしょうか? 私は体の自由を失ったと同時に私じゃない誰かに体の主導権を奪われてしまったようです。
〇
「それではエントリナンバー三百十七番、古賀玲奈さん。入室してください」
スタップの呼びかけに全く動かない私ではない私。
「三百十七番の古賀玲奈さん! どうぞお入りください!」
再度念を押すスタッフの方。ですが、私ではない私は微動だにしませんでした。
「……玲奈! 何してるの? 早く入って!」
心配し、控え室の隙間から覗いていた春子さん。動かない私にしびれを切らせ、突撃すると無理やり私を立たせ、オーディションが行われている部屋に入室させました。
「……なんじゃ? なんじゃ?」
視線の先には大型のカメラが添えられ、審査員席に座る沢山の人たち。
「えっと……三百十七番の古賀玲奈さん。そちらに座って下さい。自己紹介をお願いします」
「?」
「?」
私ではない私は指示に従わず、その場で不思議そうに審査員の方々を見ていました。審査員も不思議に私を見つめていました。
「……古賀、玲奈さんですよね?」
「ああ? なんか知らんばってん! わしゃ梅って名前があるったい! 玲奈はワシの孫じゃ! お前さんの様ないけ好かん男が孫の名を気安く呼ぶな!」
私ではない私は眉間にシワを寄せ、啖呵を切って審査員の方を怒鳴ってしまいました。
開いた口が塞がりません。私は驚き過ぎて冷静ではいられませんでした。
私を玲奈と名指し、孫と呼ぶ人はこの世にただ一人しかいません。いえ、正確にはもう、この世には居ないはずです。
「嘘でしょ?」
「久しぶりにヤバイ子来ましたね」
驚く審査員席に座る方達。その中で後方部で笑っている方がいらっしゃいました。
「やめて! お願い! 私の体を返して!」
私はモニター越しに、私の体を操る人に必死に呼びかけました。ですが、私でないその方は、孫を名指しで呼ぶ、目の前の男たちを警戒していて、それどころではなかったようです。
桑の実色のルージュが際立つ私の唇は博多弁全開で監督達にガンを飛ばします。
私の体に憑依した私でないこの方。
それは口紅の力によって現れた、先月亡くなったはずの梅おばあちゃんだったのです。
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