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二章 天界と下界

三、天界での生活【2】

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天界での生活は、毎日が穏やかだった。


今のところ、凜花を狙う者がいそうな雰囲気はなく、聖が話していたような危険性はなさそうである。
もっとも、そう思うのは凜花が屋敷から一歩も出ていないからだろうけれど。


街に行った日からひとつ変わったことがある。それは、庭に出ると空を飛んでいく龍が見えるようになったことだった。


あの日、凜花の反応を見た彼が、龍の姿を見せても大丈夫だと判断したのだろう。
空高く舞うように行き交う龍は、相変わらず蝶々のようにも見えるし、鳥のように見えることもある。


ただ、間違いなく言えるのは、色とりどりの龍たちは美しいということ。
凜花は、ファンタジーの中にしか存在しない絵空事だと思っていた生物を見るたびに不思議な気持ちになったが、やっぱり怖くはなかった。


きっと、屋敷にいる臣下たちが親切だからに違いない。
ここには、凜花を疎ましがる者はいない。いじめる者も、邪険にする者も。


本心ではみんながどう思っているのかはわからないが、少なくとも桜火や蘭丸と菊丸からはそういった感情は伝わってこないし、とても大切にしてくれる。
それが聖の力のおかげだとしても、凜花にとって温かい環境に置いてもらえるというのは夢のようでもあった。


(でも、このままなにもしないでいるわけにはいかないよね……)


うっかり、ため息が漏れてしまう。


「お待ちください、紅蘭こうらん様!」


そんなとき、廊下の方から大きな声が聞こえてきた。


「許可を得た臣下以外の者が凜花様の部屋に近づくことは、固く禁じられております!」


自分の名前が出たことによって、凜花は何事かと身構えてしまう。
昼寝をしていた蘭丸と菊丸が目を覚まし、寝ぼけ眼で凜花を見る。
足音が近づいてきたが、傍にいた桜火が「大丈夫です」と優しい笑みで安心させてくれた。


「入るわよ」


ふすまが勝手に開く。
その向こうに立っていたのは、美しい女性だった。


少し吊り目がちだが、長いまつ毛に縁取られるような大きな二重瞼の目。しゃんと伸びた背筋に似合う、すらりと長い手足。
中でもひと際目を引いたのは、ウェーブがかかった金色の髪である。毛先まで艶があり、思わず見惚れるほどに綺麗だった。


「紅蘭様、お戻りくださいませ。いくらあなた様と言えども、ここへの入室は……」

「だから、まだ入ってないでしょ」


若い臣下が困ったように諭すが、紅蘭と呼ばれた女性は強気な態度を崩さない。


「紅蘭様、聖様は不在です。どうかお引き取りを」


桜火が笑顔を見せると、紅蘭はつんけんした表情で「知ってるわ」と返す。


「私は聖のつがいとやらを見に来ただけだもの。聖が会わせてくれないから、わざわざ会いに来てやったんじゃない」


ふすまを開けてからずっと、紅蘭の瞳は凜花を見つめたままだった。


「あなたが凜花?」

「は、はい……」


圧倒されるような美しさを前に、凜花はたじろぎながらも頷く。すると、彼女が眉をひそめた。


「本当にこんなみすぼらしい女が凜の生まれ変わりだっていうの?」

「紅蘭様」

「冗談でしょう? あの子とは似ても似つかないじゃない」


凜花を隠すように立ち上がった桜火が、紅蘭の前に立つ。
けれど、紅蘭は桜火の肩を押し、身を乗り出すようにして部屋に足を踏み入れた。


「あなたが凜の生まれ変わりだと聖は言うけど、私は認めない」


紅蘭の双眸からは、燃えるような怒りが滲み出ている。


「あなたは顔が少し似てるだけ。それ以外はまったく似てないわ」


まるで憎むように睨まれ、凜花の中に恐怖心が芽生えた。


「おやめください、紅蘭様」

「凜は本当に聖のことを愛してた。聖だってそう……。千年経っても忘れてないくらい、凜を愛してた。……いいえ、きっと今も愛してるわ」

「紅蘭様!」


制止する桜火の言葉は入っていないとばかりに、紅蘭は冷たく言い放っていく。


「ふたりは魂で求め合ってたの。あの子だからこそ、私は諦めたのよ」


その言葉に、呆然としているだけだった凜花が目を大きく見開く。
グッと眉を寄せた紅蘭からは、聖への思慕が見え隠れしていた。


彼女はきっと、彼に恋情を抱いているに違いない。色恋沙汰に疎い凜花でもわかるくらいには、表情から伝わってきた。


天界に来て初めて向けられた、敵意。
凜花は、ただ紅蘭を見上げたままでいることしかできなかった。


「紅蘭」


ふと、厳しくも優しい声音がこの場にいる者たちの鼓膜を突いた。


「聖……」


横を向いた彼女の唇から零れた名前に、凜花は自然と安堵する。


「……玄信の仕業ね。余計なことを」

「そう言ってやるな。玄信は俺の命に従っただけだ」


程なくして現れた聖は、凜花に柔和な眼差しを向けた。


「ただいま、凜花」

「おかえりなさい……」


凜花も笑顔を返すつもりだったが、上げたはずの口角が引き攣ってしまう。
彼は眉を下げ、紅蘭に向き直った。


「紅蘭、この部屋へは決まった者しか入室を許可していない。今日は大目に見るが、いくらお前でも次はないぞ」

「……悪かったわ」


彼女は謝罪したが、凜花への不躾な態度については謝る気はないようだった。


「今日のところは帰ってくれ。玄信、紅蘭を頼む」

「御意」


いつの間にか廊下にいたらしい玄信が、「紅蘭様」と静かに促す。紅蘭は不服そうにしつつも、彼の言う通りに踵を返した。


「紅蘭」


直後、聖の冷たい声が静かに響いた。


「お前がどう思おうと、凜花が俺のつがいであるという事実は変わらない。こんなことは二度とするな。凜花を傷つけるのならば、いくら紅蘭であっても許さない」


ピリついた空気が周囲を包む。何者にも異論を唱えさせないような雰囲気は、龍神である彼の器がもたらしたものだったのかもしれない。


決して怖いわけではない。
しかし、聖の振る舞いは、畏怖の念のようなものを感じさせた。


「凜花、怖い思いをさせたか? すまなかった」

「いえ……」


紅蘭が立ち去ってすぐ、彼は凜花の傍に寄り、頭をそっと撫でてくれた。優しい手つきに、心が癒されていく。
けれど、凜花の脳裏にこびりついてしまった光景は消えない。


隣に並んだ聖と紅蘭は、とてもお似合いだった。
龍というのはみんな美しいのか、桜火も玄信も外見が整っている。ふたりの龍の姿は見たことがないが、蘭丸と菊丸も目鼻立ちがくっきりとしていて可愛い。


ただ、紅蘭の美しさは別格で、美麗な聖と並んでいても見劣りしないどころか、まるで恋人や夫婦のように見えた。
凜花なんかよりもずっと、ふたりの方がつがいらしいのではないのだろうか。
そう感じて、胸が軋むようにズキリと痛んだ。


「凜花?」

「え? あ、はい……。なんでしょうか?」


ハッとしたように顔を上げた凜花が落ち込んでいることを、彼はとっくに見抜いていたのだろう。
優しい面差しに困ったような笑みが浮かぶ。


「明日はまた街に行こうか」

「え?」

「あれから二週間も閉じこめたままにしてしまったからな」


聖は申し訳なさそうにしていたが、凜花は彼の真意をわかっている。
だからこそ、大丈夫と伝えるように首を横に振った。
大きな手が凜花の頭を二度撫で、聖が瞳をたわませる。


「それに、この間は街を回り切る前に戻ってきてしまっただろう。そのせいで茶屋くらいしか連れてやれなかったが、もっと奥の方には着物やかんざしを売っている店があるんだ。きっと、凜花に楽しんでもらえると思う」

「でも……」


凜花は戸惑った。
彼の気持ちは嬉しかったが、誘いを素直に受けていいのかわからなかったのだ。


聖が毎日ここに帰ってくるのは、凜花がいるから。そう知ったことにより、彼に余計な手間を掛けさせているのではないか……と不安だった。


「凜花に断られると、明日のために仕事を頑張っていた俺の努力が無駄になる。だから、俺に付き合ってくれないか?」


しかし、聖には凜花の懸念なんてお見通しのようで、笑顔を向けられてしまった。


「はい。ありがとうございます」


凜花はふっと笑みを零し、小さく頷いた。

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