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四章 龍神のつがい
二、奪われる穏やかな時間【1】
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火焔が姿を現してから、一か月以上が経った。
あの日以降、彼は一度も姿を見せていない。
玄信たちが行方を捜しているが、また姿をくらましたようだ。
火焔本人どころか手掛かりすら見つからず、屋敷内には彼のことは箝口令が敷かれたとはいえ、事情を知っている臣下たちは動揺しているようだった。
それには火焔が現れたこともだが、聖が城から戻らない日が増えたことが大きく関係しているだろう。
凜花が天界に来てから火焔が屋敷にやってくるまでは、聖がここに戻ってこないことなど一度もなかった。
凜花に対する気遣いと、聖自身の想いでそうしていたのだと思う。
ところが、この一か月の間に彼が屋敷に戻ってこない日が増え始め、この三日間においては一度も帰ってきていない。
本来なら、聖は城に住む身。
つがいの契りを交わしていない凜花が城に入れないから屋敷に戻ってきているだけで、凜花が来るまでは彼は屋敷に帰ってくる方が稀だったと聞いている。
けれど、凜花にとっては聖に会えない方が珍しいことだった。
屋敷にいる臣下たちは、凜花と違って今の状況に慣れているはず。
それなのに、どことなく不安そうな雰囲気が漂っているのは、凜花と同様に彼が屋敷にいることに慣れ始めていたせいかもしれない。
さらには、火焔がいつ姿を現すかわからないことが、みんなの不安をより大きくさせているようだった。
「姫様、お夕食の支度が始まるまでまだ時間がありますし、少しお庭へ出ませんか? ずっと屋敷の中にいるのは息が詰まるでしょうから」
そんな中でも、桜火や風子はいつも通りに接してくれた。
蘭丸と菊丸は聖がいないと寂しそうにすることもあるが、いつだって凜花を元気づけようとしてくれる。
明るいふたりの笑顔は、常に凜花の心を癒してくれた。
「そうですね。今日はいい天気ですし」
冬が深まった天界は、下界同様に寒い日が続いていた。
しかし、今日は朝から暖かく、昼前の今はぽかぽかとした陽気が降り注いでいる。
凜花は桜火の気遣いに感謝しつつ、彼女とともに庭に出た。
「あれ? そういえば、蘭ちゃんと菊ちゃんは?」
少し前から姿が見えないふたりのことが気になった凜花に、桜火が柔らかい笑みを浮かべる。
「ふたりなら屋敷の近くの丘へ行っています。もうすぐ戻ってくると思いますが」
「丘って街に行くときに通るところですか? そんなところにどうして?」
「姫様にお花を贈りたいようですよ」
「え?」
「聖様がお帰りにならない日が増えて姫様の笑顔が減っているので、ふたりなりに姫様を元気づけたいようです」
彼女から聞かされた蘭丸と菊丸の優しさに、凜花の胸の奥がじんと熱くなる。
「嬉しい……」
凜花は、聖のことを大切に思っている。
そして彼と同様に、桜火も玄信も風子も、蘭丸と菊丸も、凜花にとっては大切な人たちだった。
聖以外の者は、彼のつがいである凜花を義務感で大切にしてくれているだけかもしれない。
そんな風に思うこともあったが、今は違うと感じる。
桜火は、監視こそ厳しいものの、心遣いが行き届いている。凜花の些細な変化にも気づき、いつだって凜花が過ごしやすいように配慮してくれる。
玄信は、厳格で言葉のひとつひとつが重いが、それは天界を思ってのこと。それに、厳しさのせいでわかりにくくとも、心根の優しい人だと気づいている。
風子は、凜花に居場所をくれるとともに、料理係たちとのコミュニケーションの場を設けてくれ、そこから少しずつ他の臣下たちとも話せるようになった。
蘭丸と菊丸は、まだ龍としては幼いながらも優しく、いつも凜花を元気づけようとしてくれている。聖が帰ってこない日は、特に明るく振る舞ってくれる。
そういった思いやりが、ただ主人のつがいだから……という理由で与えられているとは思えない。
上っ面ではない優しさが伝わってくるからである。
たとえ自惚れであっても、周囲の人間関係に恵まれなかった凜花にとっては本当に嬉しいことだった。
だからこそ、凜花も、聖を、そしてみんなを大切にしたいと思う。
「私……幼い頃に両親を亡くして、身寄りも兄弟もいないんです。だから、もし弟がいたら蘭ちゃんや菊ちゃんみたいだったのかなって思うことがあるんです」
赤い着物を纏う凜花の肩に、龍のたてがみであつらえたという羽織がかけられる。
「あの子たちが戻ったら、そう伝えてあげてくださいませ。きっと喜びます」
「はい」
もっと、大切にしたい。
みんなのことも、こうして過ごす時間も、なによりも聖を……。
(次に聖さんが帰ってきたら、自分の気持ちを言おう。きっと、私じゃ釣り合わないだろうけど、私は聖さんと一緒にいたい。だから、あなたと――)
「どうした!」
凜花が思いを馳せるように空を見上げたとき、玄関の方から声が上がった。
「なにがあったんだ!?」
なにやら騒がしくなり始め、凜花は桜火を見た。
「凜花様はお部屋へ」
「え? でも……」
「どうか言う通りに」
彼女の真っ直ぐな目に、凜花は頷くことしかできない。
桜火に部屋まで送り届けられると、「ここにいてください」と言い置かれて彼女が廊下に出ていった。
なにがあったのか。
もしかして、また火焔が来たのではないだろうか。
不吉な予感ばかりが頭の中を駆け巡り、凜花の中に不安が芽生える。
「しっかりしろ!」
そのさなか、廊下がバタバタと慌ただしくなった。
「今、医者を呼んだ! すぐに手当てしてやるからな!」
「うぅ……菊が……」
「心配するな! すぐに助けに行く!」
「でも、ぅ……火焔……が……」
臣下の声に混じって、蘭丸の声がする。
凜花は咄嗟にふすまを開け、廊下に飛び出した。
「っ……蘭ちゃん!」
視界に入ってきたのは、傷だらけの蘭丸の姿。
一見しただけで転んだような怪我ではないのがわかり、まるで火で焼かれたように肌が真っ赤だった。
「ひめ、さま……?」
「蘭ちゃん、どうしてこんな……!」
凜花の声が震え、瞳には涙が浮かぶ。
ひどい怪我をしている蘭丸の姿が、あっという間に滲んでいった。
「だいじょうぶ、です……。ちょっと、稽古、がんばり、すぎたです……」
それが嘘だと気づけないわけがない。
それでも、蘭丸はなんでもないようにヘへっと笑う。
息をするのも苦しそうなのに、凜花に心配かけまいとする様子にますます視界が歪んでいった。
「菊ちゃんは……?」
「姫様はお部屋に。菊丸もすぐに戻りますから」
臣下のひとりが、凜花を部屋に促す。
しかし、さきほどふすま越しに聞こえてきた会話から、火焔が関係していることは安易に想像できた。
「蘭ちゃん……火焔にやられたのね? 菊ちゃんも……? 菊ちゃんはどこ?」
「あとで、かえってくる、です……」
「嘘!」
凜花の目から涙がボロボロと零れていく。
「菊ちゃんは火焔のところね? どこなの!?」
懸命に平静を装うとする蘭丸の痛々しい姿が、なにもかもを物語っている。
火焔がふたりの前に現れ、攻撃したに違いない。
けれど、本当に狙われているのは蘭丸たちではなく自分自身だと、凜花は知っている。
「ごめんね、蘭ちゃん……」
その言葉を残し、凜花が踵を返して一目散に庭へと飛び出した。
「姫様!」
背後から聞こえてくる声を振り切るように、持てる限りの力で走る。
玄関の方には行かずに大きな木々が並ぶ道を抜け、塀に造られた一メートルほどの扉から外に出た。
この扉は隠し扉である。表からは塀に見えるように精巧に造られ、庭の方からは生い茂った草の中に綺麗に隠されている。
凜花がこの扉の存在を知ったのは、火焔が現れた翌日だった。
聖の命令で、桜火が教えてくれたのだ。
いざというとき、凜花が蘭丸たちと逃げられるように。
幸か不幸か、この扉から丘までは、凜花の部屋からなら門を通るよりも近い。
走ればきっと五分もかからない。
着物と草履が全力疾走の邪魔をしたが、凜花は美しい着物が乱れるのも厭わずに走り続けた。
途中、じれったくなって草履を脱げば、冷たい地面が足の裏を刺すようだった。
あの日以降、彼は一度も姿を見せていない。
玄信たちが行方を捜しているが、また姿をくらましたようだ。
火焔本人どころか手掛かりすら見つからず、屋敷内には彼のことは箝口令が敷かれたとはいえ、事情を知っている臣下たちは動揺しているようだった。
それには火焔が現れたこともだが、聖が城から戻らない日が増えたことが大きく関係しているだろう。
凜花が天界に来てから火焔が屋敷にやってくるまでは、聖がここに戻ってこないことなど一度もなかった。
凜花に対する気遣いと、聖自身の想いでそうしていたのだと思う。
ところが、この一か月の間に彼が屋敷に戻ってこない日が増え始め、この三日間においては一度も帰ってきていない。
本来なら、聖は城に住む身。
つがいの契りを交わしていない凜花が城に入れないから屋敷に戻ってきているだけで、凜花が来るまでは彼は屋敷に帰ってくる方が稀だったと聞いている。
けれど、凜花にとっては聖に会えない方が珍しいことだった。
屋敷にいる臣下たちは、凜花と違って今の状況に慣れているはず。
それなのに、どことなく不安そうな雰囲気が漂っているのは、凜花と同様に彼が屋敷にいることに慣れ始めていたせいかもしれない。
さらには、火焔がいつ姿を現すかわからないことが、みんなの不安をより大きくさせているようだった。
「姫様、お夕食の支度が始まるまでまだ時間がありますし、少しお庭へ出ませんか? ずっと屋敷の中にいるのは息が詰まるでしょうから」
そんな中でも、桜火や風子はいつも通りに接してくれた。
蘭丸と菊丸は聖がいないと寂しそうにすることもあるが、いつだって凜花を元気づけようとしてくれる。
明るいふたりの笑顔は、常に凜花の心を癒してくれた。
「そうですね。今日はいい天気ですし」
冬が深まった天界は、下界同様に寒い日が続いていた。
しかし、今日は朝から暖かく、昼前の今はぽかぽかとした陽気が降り注いでいる。
凜花は桜火の気遣いに感謝しつつ、彼女とともに庭に出た。
「あれ? そういえば、蘭ちゃんと菊ちゃんは?」
少し前から姿が見えないふたりのことが気になった凜花に、桜火が柔らかい笑みを浮かべる。
「ふたりなら屋敷の近くの丘へ行っています。もうすぐ戻ってくると思いますが」
「丘って街に行くときに通るところですか? そんなところにどうして?」
「姫様にお花を贈りたいようですよ」
「え?」
「聖様がお帰りにならない日が増えて姫様の笑顔が減っているので、ふたりなりに姫様を元気づけたいようです」
彼女から聞かされた蘭丸と菊丸の優しさに、凜花の胸の奥がじんと熱くなる。
「嬉しい……」
凜花は、聖のことを大切に思っている。
そして彼と同様に、桜火も玄信も風子も、蘭丸と菊丸も、凜花にとっては大切な人たちだった。
聖以外の者は、彼のつがいである凜花を義務感で大切にしてくれているだけかもしれない。
そんな風に思うこともあったが、今は違うと感じる。
桜火は、監視こそ厳しいものの、心遣いが行き届いている。凜花の些細な変化にも気づき、いつだって凜花が過ごしやすいように配慮してくれる。
玄信は、厳格で言葉のひとつひとつが重いが、それは天界を思ってのこと。それに、厳しさのせいでわかりにくくとも、心根の優しい人だと気づいている。
風子は、凜花に居場所をくれるとともに、料理係たちとのコミュニケーションの場を設けてくれ、そこから少しずつ他の臣下たちとも話せるようになった。
蘭丸と菊丸は、まだ龍としては幼いながらも優しく、いつも凜花を元気づけようとしてくれている。聖が帰ってこない日は、特に明るく振る舞ってくれる。
そういった思いやりが、ただ主人のつがいだから……という理由で与えられているとは思えない。
上っ面ではない優しさが伝わってくるからである。
たとえ自惚れであっても、周囲の人間関係に恵まれなかった凜花にとっては本当に嬉しいことだった。
だからこそ、凜花も、聖を、そしてみんなを大切にしたいと思う。
「私……幼い頃に両親を亡くして、身寄りも兄弟もいないんです。だから、もし弟がいたら蘭ちゃんや菊ちゃんみたいだったのかなって思うことがあるんです」
赤い着物を纏う凜花の肩に、龍のたてがみであつらえたという羽織がかけられる。
「あの子たちが戻ったら、そう伝えてあげてくださいませ。きっと喜びます」
「はい」
もっと、大切にしたい。
みんなのことも、こうして過ごす時間も、なによりも聖を……。
(次に聖さんが帰ってきたら、自分の気持ちを言おう。きっと、私じゃ釣り合わないだろうけど、私は聖さんと一緒にいたい。だから、あなたと――)
「どうした!」
凜花が思いを馳せるように空を見上げたとき、玄関の方から声が上がった。
「なにがあったんだ!?」
なにやら騒がしくなり始め、凜花は桜火を見た。
「凜花様はお部屋へ」
「え? でも……」
「どうか言う通りに」
彼女の真っ直ぐな目に、凜花は頷くことしかできない。
桜火に部屋まで送り届けられると、「ここにいてください」と言い置かれて彼女が廊下に出ていった。
なにがあったのか。
もしかして、また火焔が来たのではないだろうか。
不吉な予感ばかりが頭の中を駆け巡り、凜花の中に不安が芽生える。
「しっかりしろ!」
そのさなか、廊下がバタバタと慌ただしくなった。
「今、医者を呼んだ! すぐに手当てしてやるからな!」
「うぅ……菊が……」
「心配するな! すぐに助けに行く!」
「でも、ぅ……火焔……が……」
臣下の声に混じって、蘭丸の声がする。
凜花は咄嗟にふすまを開け、廊下に飛び出した。
「っ……蘭ちゃん!」
視界に入ってきたのは、傷だらけの蘭丸の姿。
一見しただけで転んだような怪我ではないのがわかり、まるで火で焼かれたように肌が真っ赤だった。
「ひめ、さま……?」
「蘭ちゃん、どうしてこんな……!」
凜花の声が震え、瞳には涙が浮かぶ。
ひどい怪我をしている蘭丸の姿が、あっという間に滲んでいった。
「だいじょうぶ、です……。ちょっと、稽古、がんばり、すぎたです……」
それが嘘だと気づけないわけがない。
それでも、蘭丸はなんでもないようにヘへっと笑う。
息をするのも苦しそうなのに、凜花に心配かけまいとする様子にますます視界が歪んでいった。
「菊ちゃんは……?」
「姫様はお部屋に。菊丸もすぐに戻りますから」
臣下のひとりが、凜花を部屋に促す。
しかし、さきほどふすま越しに聞こえてきた会話から、火焔が関係していることは安易に想像できた。
「蘭ちゃん……火焔にやられたのね? 菊ちゃんも……? 菊ちゃんはどこ?」
「あとで、かえってくる、です……」
「嘘!」
凜花の目から涙がボロボロと零れていく。
「菊ちゃんは火焔のところね? どこなの!?」
懸命に平静を装うとする蘭丸の痛々しい姿が、なにもかもを物語っている。
火焔がふたりの前に現れ、攻撃したに違いない。
けれど、本当に狙われているのは蘭丸たちではなく自分自身だと、凜花は知っている。
「ごめんね、蘭ちゃん……」
その言葉を残し、凜花が踵を返して一目散に庭へと飛び出した。
「姫様!」
背後から聞こえてくる声を振り切るように、持てる限りの力で走る。
玄関の方には行かずに大きな木々が並ぶ道を抜け、塀に造られた一メートルほどの扉から外に出た。
この扉は隠し扉である。表からは塀に見えるように精巧に造られ、庭の方からは生い茂った草の中に綺麗に隠されている。
凜花がこの扉の存在を知ったのは、火焔が現れた翌日だった。
聖の命令で、桜火が教えてくれたのだ。
いざというとき、凜花が蘭丸たちと逃げられるように。
幸か不幸か、この扉から丘までは、凜花の部屋からなら門を通るよりも近い。
走ればきっと五分もかからない。
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