7 / 20
第二幕
第三帖「灰青の雨宿り」
「灰青(はいあお)」は、青の鮮やかさを灰色のベールでそっと覆い隠したような、思慮深くも寂寥感のある色。それは、晴れ渡った空の色ではなく、雨が降り出す直前や、深い霧が立ち込める水際のような、どこか曖昧で優しい色です。
湖畔の町に、しとしとと長い雨が降り続く季節がやってきました。
藍さんの店の軒先では、雨粒が浅緑の暖簾を濃く染め、湖の境界線が霧の中に消えています。
「今日はお客様、いらっしゃるかしら……」
そんな雨が振り続いていた午後、一人の年配の女性が店を訪れました。
彼女は丁寧に畳んだ古い写真を持っていました。そこに映っていたのは、かつて彼女が暮らしていた、北の海の街の風景。
「藍さん。私、最近どうしてか、この曇り空の下の海ばかり思い出してしまうの。若かった頃は、ぱっとしないで、あんなにも退屈だと思っていた景色なのに」
彼女は故郷を離れ、長く華やかな場所で働いてきました。けれど、人生の夕暮れ時に差し掛かった今、心に浮かぶのは、鮮やかな色彩ではなく、あの低く垂れ込めた雲と、静かな波の灰青色なのだと言います。
「そうなのですね。もしかしたら、本当は、とても大事にしていた故郷の風景を忘れてしまっていた御自分を、許せないとお思いなのではないでしょうか?」
藍さんは、雨の音に耳を澄ませながら、銀色に近い青色の染料を調合しました。それは、悲しみというよりは「諦念ていねん」に似た、けれど温かい、不思議な色でした。
藍さんが染め上げたのは、ふんわりとした大判のショール。
その灰青は、一見すると地味に見えますが、光の加減で深い知性を感じさせる青が覗き、まるで持ち主の長い人生を全肯定しているかのような奥行きがありました。
女性がそのショールを肩に羽織ると、不思議な感覚に包まれました。
雨の音が、誰かを追い立てるような音ではなく、自分を包み込む子守唄のように聞こえ始めたのです。
「ああ、この色……。冷たいと思っていた故郷の海は、本当はこんなに穏やかに私を待っていてくれたのね」
彼女の目から、一滴の涙が零れ、灰青の布に吸い込まれました。
すると、布の表面に記憶の中の海鳥が羽ばたくような、白銀の光が微かに走りました。
女性はその光をそっと指で撫でると、ゆっくりと顔をあげました。
「派手な幸せではなく、この静かな寂しさと共に生きていく。それが今の私が望んでいる『色』なのだと、今やっと分かりました」
彼女が店を出る時、雨はまだ止んでいませんでした。
けれど、灰青のショールを纏った彼女の背中は、雨に濡れる湖の景色に驚くほど美しく溶け込み、まるで最初からそこにあるべき風景の一部のように見えました。
藍さんは、店内に残った残り香のような「静けさ」を感じながら、今日の事を日記にしたためました。
「鮮やかさだけが、人生の答えではないのですね。灰を混ぜることで、初めて見える色がある……」
窓の外では、灰青色の空から、慈しみの雨が降り続いていました。
灰青はいあお
特徴: 青色に灰色が混ざった、落ち着いた中間色。江戸時代には「四十八茶百鼠」の一つとして、粋な色として好まれました。
象徴: 謙虚、思慮深さ、過去との和解、静かな安らぎ。
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
義姉と押し入れに隠れたら、止まれなくなった
くろがねや
恋愛
父の再婚で、義姉ができた。
血は繋がっていない。でも——家族だ。そう言い聞かせながら、涼介はずっと沙耶から距離を取ってきた。
夏休み。田舎への帰省。甥っ子にせがまれて始まったかくれんぼ。急いで飛び込んだ押し入れの中に、先客がいた。
「……涼介くん」
薄い水色の浴衣。下ろした髪。橙色の光に染まった、沙耶の顔。
逃げ場のない暗闇の中で、二人分の体温が混ざり合う。
夜、来て。
その一言が——涼介の、全部を壊した。
甘くて、苦しくて、止まれない。
これは、ある夏の、秘密の話。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。