絹色物語〜和の色が紡ぐ記憶の記録

辻堂安古市

文字の大きさ
12 / 20
第三幕

第一帖「藤紫の残り香」




新しい物語は、紅藤よりも少し青みが強く、高貴さと神秘性を湛えた「藤紫ふじむらさき」から始まります。





 



 藍さんが今回たどり着いたのは、古びた石畳が続き、幾筋もの水路が町を縫うように流れる、歴史の香りが残る城下町。水路に沿って柳が揺れ、夕刻にはどこからか三味線の音が聞こえてくるような、しっとりとした空気が流れる町です。

 藍さんは、古い蔵を改装した小さな店に、山藍摺の暖簾を掲げました。









 ある雨上がりの夕暮れ時、一人の若い女性が飛び込むように店へやってきました。

 彼女は地元の伝統芸能を継承する家に生まれた舞踊家でしたが、その表情は、今にも消えてしまいそうなほど頼りなげでした。

「あの……。私、舞台に立つのが怖くなってしまったんです。完璧に踊ろうとすればするほど、自分という形がバラバラに崩れていくようで」

 彼女が手に持っていたのは、かつての名優であった祖母が愛用していたという、古い扇。その骨に微かに残っていた色が、高貴でいて、どこかこの世ならぬ妖艶さを秘めた藤紫でした。

「祖母はこの色を『自分の魂の色』だと言っていました。でも、私にはこの色が、あまりに遠くて、重たすぎるんです」

 藍さんは、その扇を広げ、静かに扇ぎました。
 ふわりと、何十年も前の舞台の白粉おしろいの匂いと、春の終わりの藤棚の香りが混ざり合って漂います。

「藤紫は、天と地をつなぐ色。気高くあろうとする意志と、移ろいゆく儚さが同居する色です。お祖母様は、完璧であろうとしたのではなく、その『揺らぎ』さえも慈しんで踊っていらしたのでしょう」

 藍さんは、彼女のために、藤紫色の薄い絹の襟を染め上げました。それは、深い紫の中に、雨上がりの空のような澄んだ青みが差した、不思議な透明感を持つ色でした。

「これを着物に合わせてみてください。形を作るのではなく、この色に、あなたの心をそっと委ねるだけでいいのです」

 彼女がその襟を首元に添えた瞬間、鏡の中に映る彼女の姿が、ふっと柔らかく滲みました。

「あ………」

 頑なだった肩の力が抜け、指先がしなやかに、まるで風に揺れる藤の花のように動き始めます。

「私、踊るってこういうことだったんだと思い出しました。自分を消すのではなく、この色と一緒に、ただ流れていればよかったのですね」

 彼女の瞳に、藤紫色の火が灯ります。それは、誰かの真似ではない、彼女自身の情熱の色でした。









 彼女が店を出たあと、水路の向こう側に広がる空が、見事な藤紫色に暮れていました。

 「この町には、古い記憶がまだたくさん眠っているようですね……。さて、次はどんな色が目を覚ますかしら」

 藍さんは、新しい町の空気を深く吸い込み、微笑みました。







────────────────────

藤紫(ふじむらさき)

特徴: 藤の花のような、少し青みを帯びたあざやかな紫色。平安時代から女性の最高の憧れの色とされました。

象徴: 高貴、感性、癒やし、神秘、伝統。

感想 1

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

義姉と押し入れに隠れたら、止まれなくなった

くろがねや
恋愛
父の再婚で、義姉ができた。 血は繋がっていない。でも——家族だ。そう言い聞かせながら、涼介はずっと沙耶から距離を取ってきた。 夏休み。田舎への帰省。甥っ子にせがまれて始まったかくれんぼ。急いで飛び込んだ押し入れの中に、先客がいた。 「……涼介くん」 薄い水色の浴衣。下ろした髪。橙色の光に染まった、沙耶の顔。 逃げ場のない暗闇の中で、二人分の体温が混ざり合う。 夜、来て。 その一言が——涼介の、全部を壊した。 甘くて、苦しくて、止まれない。 これは、ある夏の、秘密の話。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

(完)百合短編集 

南條 綾
ライト文芸
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。