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9.過去編
41一触即発と青い新人 後編
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***
執行部の出動もない平穏な約三十分、細かな備品まで在庫チェックをする間、二人は一言も交わすことがなかった。チャミィは話しかけてこないし、その態度がまだ宮希への愚痴を根に持っているように見えて、霞冴も口を開けなかった。
ようやく総司令部室に立ち現れた声は、だるそうな甘い声だった。
「はぁー、疲れた……」
着物の袖がずり下がるのも気にせず、チャミィは思い切り伸びをした。黙々と左手を動かし続ける霞冴を振り返り、初めて「ねえ」と声をかける。
「あんた、これ半分やってよ」
「え?」
霞冴は耳を疑った。宮希は、二人に均等な枚数を課しているのだ。慣れているほうが多くこなすならまだしも、後輩に押し付けるのはいかがなものか。しかも、疲労という双方に等しく訪れるはずの理由で。
「でも、それは生成さんのノルマじゃ……」
「先輩に口答えしないの。最司官様に対する態度といい、ホントにいけ好かないわね。新人はきびきび動く!」
バラ色の瞳を不愉快そうに細めると、チャミィはふいに大机へ向かった。そして、小さく手を掲げて、源子化していた一枚の紙を実体化させる。その付箋の色と紙面のレイアウトに、霞冴はと胸をつかれた。
「そ、それ!」
指さす手が震える。その一枚は、霞冴が昨日、宮希から剣突を食らう羽目になった原因だ。
「わ、私がなくしたやつ、なんで生成さんが持って……」
チャミィはつんと鼻を天に向けて流し目をくれると、メモとペンを拝借し、さらさらと文字をつづって、失せ物だった書類と一緒に机上に置いた。霞冴がメモをのぞき込むと、「あたしが見つけました 生成」とある。
「う、嘘だよ! だって、朝は何も言わなかったし、仕事が始まってからずっと一緒にいたけど、見つけた素振りなんてなかったじゃない! 昨日見当たらなかったのは、生成さんが……!?」
「そんなことはどうでもいいの。それより、ほら、やってよ、こんだけ」
チャミィが差し出した管理簿は、どう見ても彼女の手元に残る分より多い。あまりの処遇に、さすがの霞冴も声を荒らげた。
「どうしてそんなことするんですか! 私はちゃんと真面目に仕事してるでしょ!? 生成さんも自分の分は自分でこなしてくださいよ!」
「うるさいわね、たてつかないでよ! 最司官様に馴れ馴れしいし、それが許されてるのも気に食わないのよ! あたしが連絡しなかったら、時間厳守もできないくせに!」
当時のチャミィの謝罪の空虚さと、今あらわになった彼女の本心がかちりと噛み合う。とても信じ難かった。
「まさか、あの時の、わざと……!?」
「ふん、証拠でもあるの? 告げ口したいなら、すれば? どっちを信じてもらえるかしらね」
彼女の色白な顔には、絶対の自信が浮かんでいた。一年間、宮希のそばで働き続けて、仕事も板についたチャミィと、青さゆえに叱咤される新人の霞冴。比べるべくもない。劣勢に立たされた彼女は、歯噛みした。
「もしかして、去年はつかさにもこんなこと……?」
「しないわよ、あの子怖いもん。妙に堂々としてて、何かしたら仕返しされそう。あんたはそんなことしそうにないからね」
菖蒲のツリ目を思い出したのか、苦手な野菜でも前にした子供のように顔をしかめると、彼女は霞冴の襟元に管理簿を押し付けた。今、この場には、幼い頃いつも守ってくれていたつかさはおろか、たまに出入りしてくる執行部員すら一人もいない。完全に孤立無援の窮地だ。
震えるように首を振る霞冴に、チャミィは追い打ちをかけた。
「さ、早くやってよ、備品チェック。二人とも帰ってきちゃうじゃない」
「い、嫌です! そんな不条理な理由で!」
「やりなさいってば」
「嫌っ!」
「あたしの言うことが聞けないの!?」
「嫌、嫌、嫌!」
「――何をしているんだ?」
中性的な少年の声が、二人の間を割って駆け抜けた。
扉が開く音は、二人の耳には届いていなかった。同時に振り向いた時には、白い制服が別格の最高司令官が、小さなともびとを肩に乗せて悠然と立っていた。
「みや、き……」
「聞いてください、最司官様ぁ!」
とたん、チャミィは表情の棘をぱっとしまい込んで、猫なで声を出した。
「この子ってば、自分に割り当てられた分を、あたしに押し付けてきたんですよぅ!」
「なっ……!」
あまりのいけ図々しさに、霞冴は声すら出せなかった。ここまで息をするように嘘をつく人物を、彼女は見たことがない。
チャミィは、霞冴の手の中の管理簿を無遠慮に奪い取ると、恭しく宮希に差し出した。
「これ、ほとんどあたしがやったんです。でも、それじゃいけないって思って、同じ分量、あたしの分をかわりにやらせようとしたら、嫌だってわがまま言って」
「……ほう」
「自分の仕事を押し付けるなんて、ふてぶてしいですよね!」
宮希は紙面に目を落としている。猫姿のつかさも、彼に倣ってのぞき込む。霞冴は、せめてつかさにだけでも届けと声を上げた。
「ぎゃ、逆だよ! 生成さんが私に押し付けようとしたんだって!」
「こんなことまで言うんですよ? 最司官様、どう思いますか?」
「……確かに、お前の言うとおりだ。自分の仕事を他人に押し付けるなんて、ふてぶてしくて、けしからんことだな」
胸を殴られたような衝撃に立ちすくむ霞冴を、チャミィはしたり顔で振り返った。
いつものように抗議する気にはなれなかった。怒りよりも先に、悲しみがわいてきて、霞冴の胸を満たしていく。
霞冴に対して事実確認をすることもなかった。彼はただ、一年多くともにいた部下の言葉を鵜呑みにして、顔も上げることなく断言した。これまでの失敗続きがあだになったのだろうか。宮希にとって自分は、ひとかけらも信じる価値のない存在なのかと思うと、自然と涙声になった。
「違うの、宮希、私……」
「お前は黙ってろ、時尼」
発言権さえも拒否された。突き刺すような胸の痛みに、うつむく。
視界の外で、乱暴な、それでいて不思議と品のある嘆息が聞こえて、
「さっきのは、時尼に言ったんじゃない。――返事をしろ、生成」
床を見つめるシアンの瞳が、丸く見開かれた。時を同じくして、バラ色の双眸も大きく見張られる。
「最司官様……?」
「ナメられたものだな。筆跡も判別できないほどオレの目は節穴じゃない。いいか、生成。お前のつけるチェックマークは、ハネの部分が微妙に曲がっていて、しいて言うなら、アルファベットの『r』の形に似ている。ところが」
宮希が、チャミィから受け取った管理簿を彼女に突き付けた。クリーム色の髪が揺れて、一歩後ずさる音。
「お前が、自分がやったと主張するこの管理簿のチェックマークは、比較的まっすぐにハネる、カタカナの『レ』に似た筆跡。これは時尼のものだ。ちなみに、つかさのチェックマークはもっと乱暴にハネる。性格が投影されているな」
「悪かったわね」
宮希の肩口で、つかさの爪がすぐそばの髪をひっかいた。軽く手を挙げてそれをなだめると、宮希はひらひらと紙束を揺らしながら、
「お前、もっと前からこんなことしてたろ。時間になったら時尼を呼ぶと言っておいて、自分の時計がずれていたから呼べなかったといっていたな。知っているんだぞ、お前の時計が電波時計だってこと。毎日、窓際に置いて寝て、朝日でしっかり充電するのが日課だって口走っていたことも覚えている。ずれるわけないだろう」
「ぁ……」
「あと、前に献立が玉子丼だった日、時尼が腹空かせてたぞ。オレの器に大盛入れやがって。そこまでして部下を飢えさせたいかね」
「あら? 宮希、机の上。なんか置いてあるわよ」
「本当だな。……ほう、この書類、お前が見つけたのか。どこにあったのか聞こうか、生成」
「そ、それは……そこの段ボール箱の下に……」
「嘘だな。お前ら全員が退勤した後、オレも探したが、そこにはなかったぞ」
蒼白になって口を開閉させるチャミィ。目を閉じた宮希は再度、大きく息を吐いて、カーキ色の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「悪いな、最初からわかっていたんだよ。だが、動かぬ証拠がつかめなかったものでな。ようやくしっぽ出したか」
まぶたを上げ、ちらっと視線をよこす宮希。その瞬間、霞冴はぞくりと背筋が粟立つのを覚えた。
恐怖に似た震駭を引き起こしたのは、彼の言葉の内容ではなく、含みのある声色でもなく、泰然自若とした態度でもなかった。
目だ。一見、どこを見ているのかわからないようなブロンズ色の瞳は、その実、全体をぼんやり見ながら、対象の分子一つ一つに注意を払い、その真髄を見抜いているかのようだった。一挙手一投足、呼吸の継ぎ目、心臓の脈動、その全てを見透かすような不思議な視線。言葉による嘘など、彼の前では児戯に等しい。
同じものを感じ取ったのだろう。チャミィは緊張のあまりか、硬直して細かく震えている。
そこに畳みかけるように、宮希は一歩前に出た。
「嘘つきはクロの始まり。そう習わなかったのか。罪を犯した者はクロになる。ここは希兵隊だぞ。お前がクロに転じた場合、オレたちがとる行動は……わかるな?」
いつも通りの口調で、むしろ視線で脅す宮希に、チャミィは涙目になってこくこくとうなずいた。
しばらくその様子を見つめていた宮希は、やがて目を閉じると、何度目とも知れぬ嘆息とともに肩をすくめた。
そして、幼い外見に似合わぬ、妙に大人びた口調で言う。
「オレをたばかろうなんて、二度と思わないことだ。あいにくとオレは、きちんと部下のことを見るタチでね」
その、瞬間。
霞冴の胸の中心で、これまで感じたことのない大きな鼓動が聞こえた。体を突き破るのではないかと思うほどの激しい動悸。先ほどの戦慄とは違う。むしろ対極にある、じわじわと温かみが広がっていくような、ふわふわと心が浮くような、興奮じみた感覚だった。
この一瞬で、世界が変貌したなど、そんなはずはなかった。なのに、なぜだかわからないまま、視界は鮮やかに輝きだし、カーキ色の少年をその中心から外すことができなくなっていた。
紙面のチェックマークの群れを、ただの記号ではなく霞冴の手が生み出したものとして見ていた。
霞冴が勤務から解放されて休んでいる間、彼女がなくした書類を、たった一人で探し回っていた。
言葉には出さずとも、霞冴が陥れられている事実を白日の下にさらす機をうかがっていた。
霞冴の見ていないところで彼女を見守り、霞冴の知らないところで彼女のことを考えていた。
そんな彼が、立ちすくむ霞冴に視線を移す。その目は、無感動に見えた。怒りも、呆れも、軽蔑も、何も映っていない純粋な瞳。
「時尼」
「は、はい」
「オレが一方的にしゃべってしまったが、何か言いたいことはあるか?」
「な、ないです……」
たどたどしく否定する。
宮希は軽くうなずくと、パッと切り替えて、次の仕事の指示を飛ばし始めた。つかさにはメールのチェックを頼み、チャミィには今度こそ自身のノルマをこなすようにと。
「時尼は、自分の分は全部終わったのか?」
「ううん、まだちょっと残ってる……」
「じゃあ、それを」
彼はそう言い置いて、デスクに向かった。その後ろ姿を、霞冴はしばらく、口を開いたり閉じたりしながら見つめていた。
――何か言いたいことはあるか?
そう聞かれて、反射的にないと答えてしまったが、心の中には、機を逃した言葉がたった一つだけあった。
相変わらず、横柄でかさ高。けれど、チャミィが評したのが今ならわかる一面を初めて見せた彼に、伝えたかった一言。
(……ありがとう、宮希……)
その一秒ほどの言葉すら、わめく鼓動にかき消された。
執行部の出動もない平穏な約三十分、細かな備品まで在庫チェックをする間、二人は一言も交わすことがなかった。チャミィは話しかけてこないし、その態度がまだ宮希への愚痴を根に持っているように見えて、霞冴も口を開けなかった。
ようやく総司令部室に立ち現れた声は、だるそうな甘い声だった。
「はぁー、疲れた……」
着物の袖がずり下がるのも気にせず、チャミィは思い切り伸びをした。黙々と左手を動かし続ける霞冴を振り返り、初めて「ねえ」と声をかける。
「あんた、これ半分やってよ」
「え?」
霞冴は耳を疑った。宮希は、二人に均等な枚数を課しているのだ。慣れているほうが多くこなすならまだしも、後輩に押し付けるのはいかがなものか。しかも、疲労という双方に等しく訪れるはずの理由で。
「でも、それは生成さんのノルマじゃ……」
「先輩に口答えしないの。最司官様に対する態度といい、ホントにいけ好かないわね。新人はきびきび動く!」
バラ色の瞳を不愉快そうに細めると、チャミィはふいに大机へ向かった。そして、小さく手を掲げて、源子化していた一枚の紙を実体化させる。その付箋の色と紙面のレイアウトに、霞冴はと胸をつかれた。
「そ、それ!」
指さす手が震える。その一枚は、霞冴が昨日、宮希から剣突を食らう羽目になった原因だ。
「わ、私がなくしたやつ、なんで生成さんが持って……」
チャミィはつんと鼻を天に向けて流し目をくれると、メモとペンを拝借し、さらさらと文字をつづって、失せ物だった書類と一緒に机上に置いた。霞冴がメモをのぞき込むと、「あたしが見つけました 生成」とある。
「う、嘘だよ! だって、朝は何も言わなかったし、仕事が始まってからずっと一緒にいたけど、見つけた素振りなんてなかったじゃない! 昨日見当たらなかったのは、生成さんが……!?」
「そんなことはどうでもいいの。それより、ほら、やってよ、こんだけ」
チャミィが差し出した管理簿は、どう見ても彼女の手元に残る分より多い。あまりの処遇に、さすがの霞冴も声を荒らげた。
「どうしてそんなことするんですか! 私はちゃんと真面目に仕事してるでしょ!? 生成さんも自分の分は自分でこなしてくださいよ!」
「うるさいわね、たてつかないでよ! 最司官様に馴れ馴れしいし、それが許されてるのも気に食わないのよ! あたしが連絡しなかったら、時間厳守もできないくせに!」
当時のチャミィの謝罪の空虚さと、今あらわになった彼女の本心がかちりと噛み合う。とても信じ難かった。
「まさか、あの時の、わざと……!?」
「ふん、証拠でもあるの? 告げ口したいなら、すれば? どっちを信じてもらえるかしらね」
彼女の色白な顔には、絶対の自信が浮かんでいた。一年間、宮希のそばで働き続けて、仕事も板についたチャミィと、青さゆえに叱咤される新人の霞冴。比べるべくもない。劣勢に立たされた彼女は、歯噛みした。
「もしかして、去年はつかさにもこんなこと……?」
「しないわよ、あの子怖いもん。妙に堂々としてて、何かしたら仕返しされそう。あんたはそんなことしそうにないからね」
菖蒲のツリ目を思い出したのか、苦手な野菜でも前にした子供のように顔をしかめると、彼女は霞冴の襟元に管理簿を押し付けた。今、この場には、幼い頃いつも守ってくれていたつかさはおろか、たまに出入りしてくる執行部員すら一人もいない。完全に孤立無援の窮地だ。
震えるように首を振る霞冴に、チャミィは追い打ちをかけた。
「さ、早くやってよ、備品チェック。二人とも帰ってきちゃうじゃない」
「い、嫌です! そんな不条理な理由で!」
「やりなさいってば」
「嫌っ!」
「あたしの言うことが聞けないの!?」
「嫌、嫌、嫌!」
「――何をしているんだ?」
中性的な少年の声が、二人の間を割って駆け抜けた。
扉が開く音は、二人の耳には届いていなかった。同時に振り向いた時には、白い制服が別格の最高司令官が、小さなともびとを肩に乗せて悠然と立っていた。
「みや、き……」
「聞いてください、最司官様ぁ!」
とたん、チャミィは表情の棘をぱっとしまい込んで、猫なで声を出した。
「この子ってば、自分に割り当てられた分を、あたしに押し付けてきたんですよぅ!」
「なっ……!」
あまりのいけ図々しさに、霞冴は声すら出せなかった。ここまで息をするように嘘をつく人物を、彼女は見たことがない。
チャミィは、霞冴の手の中の管理簿を無遠慮に奪い取ると、恭しく宮希に差し出した。
「これ、ほとんどあたしがやったんです。でも、それじゃいけないって思って、同じ分量、あたしの分をかわりにやらせようとしたら、嫌だってわがまま言って」
「……ほう」
「自分の仕事を押し付けるなんて、ふてぶてしいですよね!」
宮希は紙面に目を落としている。猫姿のつかさも、彼に倣ってのぞき込む。霞冴は、せめてつかさにだけでも届けと声を上げた。
「ぎゃ、逆だよ! 生成さんが私に押し付けようとしたんだって!」
「こんなことまで言うんですよ? 最司官様、どう思いますか?」
「……確かに、お前の言うとおりだ。自分の仕事を他人に押し付けるなんて、ふてぶてしくて、けしからんことだな」
胸を殴られたような衝撃に立ちすくむ霞冴を、チャミィはしたり顔で振り返った。
いつものように抗議する気にはなれなかった。怒りよりも先に、悲しみがわいてきて、霞冴の胸を満たしていく。
霞冴に対して事実確認をすることもなかった。彼はただ、一年多くともにいた部下の言葉を鵜呑みにして、顔も上げることなく断言した。これまでの失敗続きがあだになったのだろうか。宮希にとって自分は、ひとかけらも信じる価値のない存在なのかと思うと、自然と涙声になった。
「違うの、宮希、私……」
「お前は黙ってろ、時尼」
発言権さえも拒否された。突き刺すような胸の痛みに、うつむく。
視界の外で、乱暴な、それでいて不思議と品のある嘆息が聞こえて、
「さっきのは、時尼に言ったんじゃない。――返事をしろ、生成」
床を見つめるシアンの瞳が、丸く見開かれた。時を同じくして、バラ色の双眸も大きく見張られる。
「最司官様……?」
「ナメられたものだな。筆跡も判別できないほどオレの目は節穴じゃない。いいか、生成。お前のつけるチェックマークは、ハネの部分が微妙に曲がっていて、しいて言うなら、アルファベットの『r』の形に似ている。ところが」
宮希が、チャミィから受け取った管理簿を彼女に突き付けた。クリーム色の髪が揺れて、一歩後ずさる音。
「お前が、自分がやったと主張するこの管理簿のチェックマークは、比較的まっすぐにハネる、カタカナの『レ』に似た筆跡。これは時尼のものだ。ちなみに、つかさのチェックマークはもっと乱暴にハネる。性格が投影されているな」
「悪かったわね」
宮希の肩口で、つかさの爪がすぐそばの髪をひっかいた。軽く手を挙げてそれをなだめると、宮希はひらひらと紙束を揺らしながら、
「お前、もっと前からこんなことしてたろ。時間になったら時尼を呼ぶと言っておいて、自分の時計がずれていたから呼べなかったといっていたな。知っているんだぞ、お前の時計が電波時計だってこと。毎日、窓際に置いて寝て、朝日でしっかり充電するのが日課だって口走っていたことも覚えている。ずれるわけないだろう」
「ぁ……」
「あと、前に献立が玉子丼だった日、時尼が腹空かせてたぞ。オレの器に大盛入れやがって。そこまでして部下を飢えさせたいかね」
「あら? 宮希、机の上。なんか置いてあるわよ」
「本当だな。……ほう、この書類、お前が見つけたのか。どこにあったのか聞こうか、生成」
「そ、それは……そこの段ボール箱の下に……」
「嘘だな。お前ら全員が退勤した後、オレも探したが、そこにはなかったぞ」
蒼白になって口を開閉させるチャミィ。目を閉じた宮希は再度、大きく息を吐いて、カーキ色の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「悪いな、最初からわかっていたんだよ。だが、動かぬ証拠がつかめなかったものでな。ようやくしっぽ出したか」
まぶたを上げ、ちらっと視線をよこす宮希。その瞬間、霞冴はぞくりと背筋が粟立つのを覚えた。
恐怖に似た震駭を引き起こしたのは、彼の言葉の内容ではなく、含みのある声色でもなく、泰然自若とした態度でもなかった。
目だ。一見、どこを見ているのかわからないようなブロンズ色の瞳は、その実、全体をぼんやり見ながら、対象の分子一つ一つに注意を払い、その真髄を見抜いているかのようだった。一挙手一投足、呼吸の継ぎ目、心臓の脈動、その全てを見透かすような不思議な視線。言葉による嘘など、彼の前では児戯に等しい。
同じものを感じ取ったのだろう。チャミィは緊張のあまりか、硬直して細かく震えている。
そこに畳みかけるように、宮希は一歩前に出た。
「嘘つきはクロの始まり。そう習わなかったのか。罪を犯した者はクロになる。ここは希兵隊だぞ。お前がクロに転じた場合、オレたちがとる行動は……わかるな?」
いつも通りの口調で、むしろ視線で脅す宮希に、チャミィは涙目になってこくこくとうなずいた。
しばらくその様子を見つめていた宮希は、やがて目を閉じると、何度目とも知れぬ嘆息とともに肩をすくめた。
そして、幼い外見に似合わぬ、妙に大人びた口調で言う。
「オレをたばかろうなんて、二度と思わないことだ。あいにくとオレは、きちんと部下のことを見るタチでね」
その、瞬間。
霞冴の胸の中心で、これまで感じたことのない大きな鼓動が聞こえた。体を突き破るのではないかと思うほどの激しい動悸。先ほどの戦慄とは違う。むしろ対極にある、じわじわと温かみが広がっていくような、ふわふわと心が浮くような、興奮じみた感覚だった。
この一瞬で、世界が変貌したなど、そんなはずはなかった。なのに、なぜだかわからないまま、視界は鮮やかに輝きだし、カーキ色の少年をその中心から外すことができなくなっていた。
紙面のチェックマークの群れを、ただの記号ではなく霞冴の手が生み出したものとして見ていた。
霞冴が勤務から解放されて休んでいる間、彼女がなくした書類を、たった一人で探し回っていた。
言葉には出さずとも、霞冴が陥れられている事実を白日の下にさらす機をうかがっていた。
霞冴の見ていないところで彼女を見守り、霞冴の知らないところで彼女のことを考えていた。
そんな彼が、立ちすくむ霞冴に視線を移す。その目は、無感動に見えた。怒りも、呆れも、軽蔑も、何も映っていない純粋な瞳。
「時尼」
「は、はい」
「オレが一方的にしゃべってしまったが、何か言いたいことはあるか?」
「な、ないです……」
たどたどしく否定する。
宮希は軽くうなずくと、パッと切り替えて、次の仕事の指示を飛ばし始めた。つかさにはメールのチェックを頼み、チャミィには今度こそ自身のノルマをこなすようにと。
「時尼は、自分の分は全部終わったのか?」
「ううん、まだちょっと残ってる……」
「じゃあ、それを」
彼はそう言い置いて、デスクに向かった。その後ろ姿を、霞冴はしばらく、口を開いたり閉じたりしながら見つめていた。
――何か言いたいことはあるか?
そう聞かれて、反射的にないと答えてしまったが、心の中には、機を逃した言葉がたった一つだけあった。
相変わらず、横柄でかさ高。けれど、チャミィが評したのが今ならわかる一面を初めて見せた彼に、伝えたかった一言。
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