フィライン・エデン Ⅲ

夜市彼乃

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11.七不思議編

51降臨コーリング ⑤

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***

 雨雲が空にのさばる六月の最中。
 ガオンは、突如として雷志の前から姿を消した。
 連絡手段を持たず、約束は前の回の別れ際に交わす言葉のみで結ばれているため、雷志に急用が入った時などは会えずじまいのこともある。そのような場合は、もし別の時間、別の場所での待ち合わせだったとしても、一旦仕切り直して午後三時半の歩道橋の上で落ち合うよう取り決めていた。そのため、ガオンが何らかの理由で会いに来られなかったとしても、その後もすれ違い続けるということはないはずなのだ。
 にもかかわらず。
 ここ一週間、午後三時半の歩道橋に彼が姿を現すことはなかった。
 最後に会った日に気まずい出来事があったなどということはない。むしろ、雷志が作ったゴーヤのおひたしを、無表情ながら「うまい」と食べてくれていたくらいだ。
 それとも、体調を崩してしまったのだろうか。雷志の差し入れがあるとはいえ、訳あって身一つで人間界に滞在している彼がまともな食事をとっているとは思えない。それに、季節は梅雨。寒暖差に低気圧に大雨と、体への負担要素のオンパレードだ。
 放課後になり、朝から続いていた雨は激しさを増していた。いつも通りコンピュータ研究部の活動に向かう耀は、「今日はかなりの大雨になるから、外出は控えるように」と雷志に念入りに忠告して行った。
 子供ではあるまいに、雨くらいどうということはない。
 雷志はお茶目に肩をすくめると、傘を手に教室を後にした。
 そういえば、彼は傘を持っていないのではないだろうか。念のため、コンビニで買ってもう一本持って行っておこうか――。
「――嘘、それって裏切りじゃん!」
 すれ違いざまの話し声が鋭く耳について、雷志は思わず立ち止まって振り返った。別のクラスの女子生徒達だ。集まって立ち話をしている三人は、雷志に気づかずに話し続ける。
「待ち合わせに来なくて、連日電話もつながらないって! 無視されてるってことでしょ!?」
「で、でも、体調崩してるとか、そういう理由かも……」
「電話くらい出るでしょ! こんないい子を弄ぶなんて、ろくでなしね!」
「男子校に行った子って言ってたよね? どこの学校? 殴り込んでやる!」
「こんなに慕ってるのに、カノジョを何だと思ってるんだか!」
 その後も、泣きじゃくる女子生徒を慰めながらもヒートアップしていく友人らしき二人。急ぎ足で曲がり角に身を隠した雷志は、震える息を押し殺すように、傘を握る手を口元に当てた。
 待ち合わせに来ない。約束の歩道橋にも一向に現れない。
 ――無視されている?
(……私は……)
 心に冷や水を浴びせられたような心地がした。あんなに先を急いでいた足が、今は階段のそばの壁際から動こうとしない。
 考えてみれば、なぜ当然のように彼と会えると思っていたのだろう。立ち話をするのも、お弁当を持って行くのも、雷志がそうしたかっただけだ。エゴにだけはなるまいと思っていたのに。彼が心を開いてくれつつあると思ったのも全て、独りよがりだったのかもしれない。
 押し付けがましかっただろうか。恩着せがましかっただろうか。自分との日々に嫌気が差してしまったのだろうか。そう考えると胸が痛くなるくらいには、彼との時間が楽しくなっていて。
(――もう、会えないのかもしれない)
 浮かんだその一言が、胸の底にずしんと沈んだ。
 しばらく立ちすくんでいた雷志は、やがて浅く重い一歩を踏み出すと、同じ足取りでその場を離れた。存外に、諦念は体を動かしてくれるらしい。
 すっかりうつむきながら、とぼとぼと昇降口までやってきた雷志は、漂ってくる独特な匂いとノイズに顔を上げた。外は、いつの間にかスコールもかくやの猛烈な豪雨となっていた。
 しばらく雨宿りした方がいいかもしれない。厚い雲すら霞んで見える空を見上げ、雷志がぼんやりと思った時だった。
「雨ヤバくない!?」
「さっき友達から写メ来てさ、土手のとこの川が氾濫しそうになってんのよ!」
「え、あそこ柵も何もないじゃん! 危なっ!」
「近づくとか、もってのほかよ! 自殺行為よ!」
 後ろでそんな話し声が聞こえた。
 直後、雷志は走り出していた。
 傘をさしていても顔に叩きつける雨粒。頬に張り付く髪。濡れそぼる足元。不快な感覚の何もかもを上塗りするように、焦燥と動悸が胸を焼く。
 自分の心象などどうでもいい。縮まった距離が蜃気楼であったとしてもいい。
 ただ、もし邂逅の時から心境に変わりがなかったのだとすれば。揺らいでいた天秤が傾き、存在を否定したくなるほどの何かに屈して姿を消したのであれば。泡沫の絆を手放し、本来の目的地を目指してしまったのだとすれば――。
 もう、会えないのかもしれない。
 同じ言葉が、今は針玉が胸の内側を転がるような痛みを生んだ。
「はぁ、はぁっ、はぁ……!」
 走った。がむしゃらに走った。普段は暢気なリズムを刻む足を雨水で汚して。いつもきれいに流している髪を振り乱して。
 住宅街を抜け、銀行やスーパーマーケットが並ぶ大通りを越えると、晴れた日は散歩道ともなる土手が見えてきた。耳にまとわりつく雨音に混じるのは、増水した川の雄たけびだ。
 茶色く濁った水が荒々しく駆け抜けていく。平常時は斜面を降りた下に見える水面が、今はあふれんばかりに迫っている。いつもの穏やかな表情を豹変させる様は、まさしく和魂(にぎみたま)に対する荒魂(あらみたま)。
 晴れていれば犬の散歩やランニングで訪れる人も多いこの場所だが、この天気ではそのはずもなく。
 だから、人影は一つしかなかった。
 傘もささず、土手の際から激しい濁流を見つめる黒い男の姿に、雷志は裂けるような声で叫んだ。
「ガオンさんっ!」
 風で煽られて後方に飛んでいった傘には目もくれず、雷志は、触れようものなら何者をも飲み込む急流を見つめ続ける男に駆け寄った。いつからこうしているのだろうか、黒い髪は水の中に浸かったかのように濡れそぼち、頬や額を雨水が滝のように流れていく。
 すぐそばにやってきた雷志にも、彼は目を向けない。まつ毛にしずくを絡めたまま、伏せた目で荒れ狂う川を見つめる。光を映さない瞳に、雷志はすがるように再度呼び掛けた。
「……ガオンさん……」
「なぜだ」
 ほとんど唇を動かさないまま、彼の口から小さな疑問符がこぼれた。
「俺に帰る場所などないのに。生きる資格などないのに……」
「そんな」
 雷志はぐっしょりと濡れた服の袖をつかもうとして、ためらった。手を宙で泳がせながら、細い声で訴える。
「未来に帰れないのですか? だとしても、この時代のフィライン・エデンで生きたっていいじゃないですか。それに、この世に生きる資格がないひとなんて、誰一人……」
「ないんだ」
 小さな声なのに、差し込む希望の光を問答無用で断ち切るような絶望に満ちていた。
「ないんだ。生きる資格など」
「どうして……」
「俺は」
 そして、彼の最後の秘密が明かされた。降りしきる雨の騒音と、留まることを知らない奔流の咆哮の中で、それでも聞き間違いではなく、彼はこう言った。
「俺は、未来世界で……フィライン・エデンを滅ぼしたから。君臨者を殺して、世界を壊したから」
 雷志は、呆然とガオンの横顔を見つめた。にわかには理解が追い付かなかった。
 神たる君臨者を殺して、茫漠たる世界を壊した――あまりにもスケールが大きすぎて、言葉の響きを追うばかりにしか至らない。
 だが、想像に難い理由はそれだけではない。
 滅ぼした。殺した。壊した。そのどれもが、雷志の知る彼からは程遠い言葉だったからだ。
 だが、彼の苦い言葉を何とか飲み下して、雷志は彼に寄り添う言葉を選んだ。
「……本意ではなかったのでしょう」
 もしそうだとすれば、生きる資格などないと、そんな否定的な言葉が出てくるには十分過ぎる重荷だ。
 案の定、ガオンは雷志の言葉を肯定した。
「ああ。だから、俺は過去へ飛んだ。過去の自分を殺せば、世界を滅ぼす俺という存在が消えてくれると思った。だが、強大すぎる俺の力が時空を捻じ曲げたんだろう、過去は書き換わってしまった。この世界線のフィライン・エデンで、俺は……死産だったそうだ」
 雷志は、今度は驚愕ではなく、時空学に明るくないがゆえに理解を遅らせた。強大すぎる力とは何なのか、時空を捻じ曲げるとはどんなことなのか、よくわからない。
 ただ、「帰る場所などない」と言った彼の見ている景色が、ようやく見えた気がした。
 壊してしまった未来には帰れず、過去の自分を殺すという目標も頓挫した。前も後ろも崩れ落ちた道の、最後に残った足場の上でただ立ちすくむしかない。
 どこにも行けず、何もできず、罪と虚無の狭間で懊悩するくらいならば。
 そうして、彼は終焉を望んだのだ。
「世界線が違うんだ、何をしたところであの未来はもう変えられない。俺が生きようと死のうと、あの世界線での破滅の未来は確定したんだ。どちらを選んでも同じだとしても、俺にはこれ以上永らえる理由などない。……もう、あいつにさえ……」
 まぶたが震え、まつ毛に絡んでいたしずくがしたたる。震える肩も、こぼれる声さえ濡らして。
「あいつにさえ、会えない……あいつを殺したのだって俺だ……あいつのことも、世界ごと、俺が……俺が……!」
 うつむいたガオンの横顔を、重くなった長めの前髪が隠した。雷志は、袖をつかみかけた手を再び伸ばすことも、引くこともできないまま、張り裂けそうな胸の痛みをこらえた。
 いつか話してくれたことがあった。未来世界に大切な人がいたこと。時空学という異分野の専門でありながら、ガオンの唯一の理解者として寄り添っていたこと。
 その人物の名前を口にするとき、優しいところを挙げるとき、無表情なガオンの横顔には、切なさとともに、それとは別の温かい感情が確かに浮かんでいた。
 その話をする機会はそう多かったわけではないが、雷志には伝わっていた。彼がどれだけその人物を大切にしていたか。どれだけ愛していたか。
「……だから」
 ガオンは再び声に平坦さを取り戻し、わずかに顔を上げた。
「だから、終わらせようと思った。歩道橋から見下ろした道路、あそこに飛び降りるのに抵抗はなかった。お前を待っている間だって、約束を反故にして柵を越えようかと何度も思った。猛スピードの鉄の塊も、高所から見下ろした景色も、全て至るべき終着点にしか見えなかった。……なのに、なぜだ」
 黒い視線を濁流に注ぎながら、力なくつぶやく。
「あんなにも死を望んだ俺は、今、この川を見て……恐怖しか感じない」
 かすれた声が、はっきりと聞こえた。いつの間にか、雨音は柔らかくなっていた。
「ガオンさん」
 なおもしとしとと降りしきる雨粒を顔に受けながら、雷志はほのかに微笑んだ。
 なぜだ、とガオンは言った。あの怜悧な彼が、答えを見つけられないでいる。
 けれど、雷志にはわかる。簡単なことだ。
「それはきっと、生きたいのよ」
「生きたい……」
 うわごとのように繰り返してから、ガオンはゆっくりと振り向いた。一週間ぶりに交わされる視線。漆黒の瞳に、雷志の姿が映る。
「生きて、いいのか。俺は世界を壊したんだぞ」
「今もフィライン・エデンを壊したいと思っているなら、さすがにバブルとウィンディ……正統後継者の二人に相談するわ。でも、そうであったとしても、なかったとしても、少なくとも生きたいと思うのは自由じゃないかしら」
 世界を壊すなど、クロやダークよりも凶暴な所業だ。希兵隊が出動するどころの騒ぎではなくなる。けれど、彼にまだその気があるとは思えなかった。彼を信じたいという気持ちもさることながら、増水した川にも恐怖感を感じるような人物が世界を壊すなど、滑稽な話だ。
 雷志の言葉を聞いたガオンは、しばらく彼女を見つめていた。そして、ふっと息をもらして視線を斜め下に投じた。ため息でも嗚咽でもない。苦みを含んだまま、それでも確かに、淡く淡く笑っていた。
「生きたいと、思ったなら……それはきっと、お前に出会ったからだ。生をあきらめた咎人に再び光を見せるなど、お前は天使か? それとも悪魔か?」
「天使でも悪魔でもないわ」
 細雨の中、雷志はほほ笑む。
「私は人間。人間界の人間よ」
「……そう、だったな」
 笑いを含んだ声でそう言って、ガオンは川に向き直った。増水していた川は、ピークを越えたのか、それ以上荒ぶる気配はなかった。とはいえ、まだ流れは衰えない。
 それを眺める雷志の耳に、ガオンの声が届く。
「ここは人間界。人間が生きる世界だ。フィライン・エデンに居場所を失った俺は、もはやこの世界で生きていくしかないのだろう」
 ちらとガオンをうかがえば、彼は目を細めて遠くに視線を投じていた。繁華街、そしてその向こうに、高層の建物が霞んで立ち並ぶ。それは、フィライン・エデン一つとしてない景色だ。
 諦念に似た響きで言葉を紡ぐガオンの目に映るのは、鼻面を突き合わせるように密集し、競うように背伸びをするビルの群れ。灰にまみれた人間たちがうごめく雑多な世界。
 ――違った。
 彼が見つめる先にあったのは、灰色の世界を覆う雲の切れ間。そこから差し込む、幽かな日の光。晴れゆく空の兆しだ。
「雷志」
 呼ばれて、振り向く。同時、目が合うよりも先に、両肩に重みを感じた。
 驚いて目をしばたたかせる雷志の肩を両手で引き寄せ、ガオンは雷志の左肩に置いた手に額をうずめた。
「ガオン、さん……?」
「頼みがある」
 くぐもった声で、彼は少女に乞うた。
「俺に、人間を教えてくれ」
 意をくみ取りかねて、雷志はぱちりとまばたきする。聞き間違いかと思ったが、彼は確かにそう言った。
 そして、重ねて紡がれた言葉で、その真意を悟った。
「俺を……人間にしてくれ」
 それは、何かをつかみ取るかわりに、何かを捨てた男の声だった。
 雷志の胸の中で、何かが一瞬、張り裂けそうになるほど膨れ上がった。あふれだしそうになる熱いものをそっと抑えて、静かに答える。 
「……はい」
 優しく微笑んで、すがりつく腕に触れた。震える息を漏らす男の勇断を称えるように、その肩を何度も、何度も撫でた。
「生きてくれるなら……人間としてでも、この世界で生きてくれるなら」
 それだけでいい。それだけで、十分だ。
 糸雨のカーテンに包まれた二人きりの空間を、声にはならない想いが温かく満たした。
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