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12.文武抗争編
58開戦の狼火 ②
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***
ざわざわと、木の葉がざわめく。
日差しの中ではあんなにも爽やかな木立のささやきは、世界が暗がりに沈んだ途端に不気味なさざめきになる。きっと、月明かりを隠す曇天のせいだろう。宵闇の中では、鮮やかな緑の葉も褐色の幹も、無彩色の瓦屋根や石塀と変わらない、ただの影だ。
風が吹くたび形を変える樹葉の下、シルエットと化した幹に背中を預けるのも、やはり黒い影。
小柄な影が、アルトで小さくつぶやいた。
「どうする」
「どうもこうも」
幹を挟んで背中合わせになった長身の影が答えた。
「いつかこうなること、予測してなかったわけじゃねえ。オレたちはただ長いものに巻かれる。それだけだろ」
「長いものか」
自嘲気味に鼻を鳴らす音。
「お前の言う長いものとは、どちらだろうな」
「……」
少女の問いに、彼は沈黙を返した。彼自身、その答えを知らない。
沈黙に対する応えは、ため息一つ。
「……まあ、迷える程度には、私たちも執行着が板についてきたということか」
小さな背中が幹から離れ、そのまま土を踏む音とともに遠ざかっていく。
残されたもう一人も、しばらく木と見まがうほどに微動だにしなかったが、やがて人の動きで歩き出した。ゆっくりと、ためらうように小さな歩幅で。
けれど、何歩か歩いたところで、ふと足の動かし方を忘れたように立ち止まった。そのまま、再び木へと化してしまったように立ちすくむ。
そこに、突如として高い声が降りかかった。
「こーちゃんっ!」
しなやかな動きで瓦屋根から飛び降りた猫が、空中でふわりの人間の形をとる。柔らかいボブヘアーが軽やかになびき、水縹《みはなだ》色の瞳が暗闇でも輝きを見せた。
ルームウェアの半袖トレーナーとズボンに身を包んだ波音が、いたずらっぽい笑顔を浮かべて、立ちすくむ長身の影へと歩み寄る。
「こーちゃんったら、こんな時間にかみっちゃんと密会~? 何のお話してたの~?」
冷やかすように口元に手を当てて、影――相棒の大和鋼に話しかける波音。暗闇のせいではなく、うつむき加減のためによく見えない表情を覗き込もうとして、近寄っていく。
重い動きで顔が上がった。
目が合った。
直後、波音の笑顔が凍りついた。
後ずさる。スキップまじりに近寄ったその足で、たどたどしく後退する。三歩、四歩目あたりで背中が壁についた。後がない波音の頭上で、ダンッ、と大きな手のひらが壁を打つのが聞こえた。
頭一つ上の高みから、夜闇の中でも光を反射する灰色の目が、ギラギラと波音を見下ろす。
波音は汗ばむ両手で胸を押さえた。胸を突き破りそうなほど、心臓が激しく暴れていた。
彼のはずなのに。いつも無愛想ながら優しい、先輩でありパートナーである一番隊隊長のはずなのに。波音の体は、震えをこらえきれない。
爛々と見下ろしてくる獰猛な瞳に、わななく唇で呼びかける。
「こーちゃん……っ」
「……お前」
怒気はない。
ただ、いつもの彼は、こんな低い声は出さない。
射るような鋭い眼光など向けてこない。
圧迫感を与えるような、こんな威圧的な行動はとらない。
それらが、静かに恐怖を与えてくる。
「ご、ごめんなさい……冗談……」
大きな瞳が潤みだす。コウは、小動物を見下ろす肉食獣のような眼差しで、それをじっと見つめていた。
やがて、視線の尖りが緩やかに溶けていった。彼の中で、ようやく初めて、状況が内省された。
波音は、今、「何のお話してたの?」と言ったのだ。
「……悪い」
壁から手を離し、コウは数歩距離をとった。その目は、普段の静かなもので――むしろ、普段より力を失ったもので。
詰め寄られた姿勢から脱した波音は、安堵する間もなく、先程とは違う方向に心を揺さぶられた。恐怖がもたらす斥力とは逆の力をもった不安が、彼女の足を一歩進ませる。
「こーちゃん? ……どうしたの?」
コウはうつむいて黙っている。いつもきりりと引き結ばれる口元が、今は力なく小さく開いたまま、時折迷うようにわずかに震える。
「大丈夫? 具合悪い?」
「……いや、平気だ」
そうは言うが、少し顔色が悪い……ように見える。いくら暗視を得意としていても、暗いところでは色の区別は難しいが、波音にはそう感じ取れた。
懸念が高じて、もう一歩踏み込む。
「ほんと? お休みしなくていい? しんどかったら、明日の遠征、外してもら……」
「ダメだ!」
至近距離からの怒号に、波音の体が跳ねた。その両肩を、大きな手ががっしりとつかむ。
動揺する波音に詰め寄るようにして、コウは叫んだ。
「外さなくていい、遠征には行く! お前、余計なこと言うんじゃねえぞ。時尼にも、時尼さんにも!」
「う……うん、わかった」
釘を刺した上からハンマーで叩いて叩いて埋没させるような執拗な念押しに、波音は戸惑いながら頷いた。戸惑ったし、大声には驚いたが、不思議と今度は恐怖を感じなかった。
それは、彼の形相が、あまりにも必死なものだったからかもしれない。
波音の素直な返事を受け取ったコウは、しばらくその真贋を見極めるようにじっと体をこわばらせたままでいたが、やがて、大きな吐息とともに眉間のしわを解いた。波音の肩を離し、左手をぽふりと波音の頭に置く。
「……ごめんな」
「ううん、大丈夫。……こーちゃんこそ、大丈夫……?」
「……すまん、ちょっと考え事してて、気が立ってたんだ。忘れてくれ。……明日、よろしくな」
「……うん」
コウは、うつむき加減に返事をした波音の頭を、もう一度だけ優しくぽふんと叩くと、短く一言だけ言い残して去っていった。
波音の耳には、「おやすみ」と言ったように聞こえた。
ただ、あまりにもかすれた声は、静かな夜に余韻さえ残さなかった。
***
水守の森は、飛壇から真南一〇〇キロメートルに位置するが、そこへ至るまでの道が全て直線というわけではない。ゆえに、普通に歩けば、一〇〇キロメートル以上の移動距離になるのだが、フィライン・エデンの猫たちは、必ずしも道なりに行く必要はない。彼らには、弾趾という特殊な手段がある。
純猫術の一つである弾趾は、高速での直線移動を可能にする技術だ。どれくらい高速かといえば、最大瞬間時速が二〇〇キロメートルを超える。この速度は新幹線並みである。
原理としては、目標地点を先に定め、そこにちょうど着地する力で源子に突き飛ばしてもらうような形だ。ただし、距離が遠ければ遠いほど、そこを目標地点と定めにくくなる。遠いところにあるごみ箱ほど、そこにくずを投げ入れるのが難しいのと同じだ。しかも、高速道路のようにずっと先まで直線の道ということも稀だ。そういうわけで、基本的に弾趾の使い方というのは、人間界における乗り物のように継続して一定の速度で走り続けるようなものではなく、短い距離の超高速移動を繰り返すというものになる。
さらに言うなら、原理的には「源子に突き飛ばしてもらう」のであって、格好としては極端な立ち幅跳びの要領だ。よって、時速二〇〇キロメートルの最高瞬間速度は、すなわち初速度のことである。
要するに、弾趾で長距離を移動するというのは、時速二〇〇キロメートル越えで打ち出されては着地、打ち出されては着地という激しいGのかかり方をする運動なのだ。
で。
自身は純猫術を使えない雷奈は、水守の森に到着するまでの間、弾趾を使うコウの背中の上で二時間にわたって揺られていたのだった。
「ああああ怖かった……頭がぐわんぐわんする……」
「あたしの弾趾で三枝岬から東京に帰ってきた時も、ついた直後はこうだったな」
「そりゃそうったい……電車とかと違って加速減速が激しすぎるんやもん……」
「オレからしたら電車のほうが苦痛だよ」
舌を出して嫌悪を露わにするコウは、弾趾で気分を悪くしたようでもない。車も運転者は酔わない原理と同じである。
目が回っているわけでもなく、乗り物酔いとも違う、激しい加減速による本能的な恐怖で「ぴゃ~」と棒立ちになっている雷奈に、ルシルが「さて」と話しかけた。
「恐慌状態中すまない、雷奈。木雪部長がもたせてくれた『チエアリ検出センサー、但し試作品につき動作性未検証』の反応はどうだ?」
「い、い、い、異常なしったいったい」
「そうか。……お前は異常ありのようだな」
立ったまま震撼する雷奈を慰めるように、ぽんぽんと肩を叩いて、ルシルは仲間たちを見回す。
ほとんど同じ高さの高木がうっそうと茂る水守の森。密集した木々の葉に空が覆い隠されて月明かりさえ通さない暗がりもあれば、明るく開けている場所もある。ここはその中間あたりで、この人数でも円になって集まることができる程度には広く、人間の目でも仲間の顔を視認できる程度には明るい。
「とはいえ、九番隊が遭遇したのが確かにチエアリで、今はこの場にいないだけかもしれない。油断するには早そうだな」
「ああ、だけどあくまでもそのセンサーは試運転だ。チエアリと遭遇していない以上、まだ反応しているところを見たことがない。言っちゃ悪いが、性能を過信するのは危険だ。この場にいないとも言い切れないよ」
「違いねえ。……ああ、そうだ。忘れるところだった」
コウがふいに、両手を宙に伸ばした。そこへ、きらめくポリゴンが現れ、集まって一つの物体を形作っていく。
いつ見ても幻想的な、源子からの再構成。最後のひとかけらが欠けた部分に収まると、コウはそれを雷奈に渡した。
「安心材料になるかはわからねえが、ないよりはマシだろ。特にお前には」
それは、一振りの木刀だった。雷奈がクローゼットにしまってあるものと同じ、赤樫でできたものだ。
「真剣でもよかったとよ」
「アホ言え、帯刀は希兵隊の特権だ。それで我慢しろ」
「はーい」
会話が小休止したところで、タイミングよく声がした。インカムのスピーカーからだ。
『那由他です。通信良好であれば、今回の作戦の確認をさせてください、どうぞ』
「問題ない。頼む」
コウがインカムに手をやりながら、一同を代表して言った。
通常、このような明確な任務を伴っての遠征には、最高司令官の司令に基づきながらも現場で臨機応変に詳細な指示を出す平隊員が一人つく。総司令部員の服装が戦闘服である執行着であるのは、このように戦場に出る可能性を前提としているからだ。
ただ、この体制はかなり久しいものだった。なにせ、三枝岬への遠征は隠密のため、そして北海道遠征は機動性のため人数の制約があったし、ガオン出現後に雷奈が行方不明になったときも、ガオンがあまりにも脅威であったことと、フィライン・エデンに隊員を残しておく必要があったことから、総司令部員を伴ってこなかったのだ。
今回は、チエアリ出現の可能性があり比較的危険度が高いため、現場ではなく、九番隊も駐在していた駐在所にこもり、そこから連絡を取ってきている。水守の森が一望できる安全な場所があるのは偶然の幸いだ。
この遠征隊の中では最も新米の隊員である那由他は、少し緊張した声色ながら、はきはきと作戦の概要をさらった。
水守の森は広い。今、一同がいる北側――飛壇に近い方角――から、ルシルとメルはまっすぐ南へ、コウと波音は東側へ、霊那と撫恋は西側へ向かって進みながら探索する。なお、雷奈は最も戦闘に信頼を置けるコウのそばにいることが美雷によって指示されていた。
もし、その道すがらでチエアリに出くわした場合、二名で立ち向かうのは危険だ。よって、その場合はすぐさま上空に向かって信号弾を上げることになっている。
そうして、最終打ち合わせを終えた時だ。
森の中、西側から、木の葉と土を踏む音が聞こえた。
「誰だ」
ルシルと霊那が鯉口を切った。コウも雷奈を後ろ手にかばって身構える。副隊長たちも、主体のまま音のする方を見据えた。
猫の鋭い聴力がとらえた音は、少し距離のあるところからだったようで、ざっ、ざっと近づいてくるのをしばらく注意深く聞いていた。
そして、誰からともなく気づいた。足音は、一人のものではない。
ざわざわと、木の葉がざわめく。
日差しの中ではあんなにも爽やかな木立のささやきは、世界が暗がりに沈んだ途端に不気味なさざめきになる。きっと、月明かりを隠す曇天のせいだろう。宵闇の中では、鮮やかな緑の葉も褐色の幹も、無彩色の瓦屋根や石塀と変わらない、ただの影だ。
風が吹くたび形を変える樹葉の下、シルエットと化した幹に背中を預けるのも、やはり黒い影。
小柄な影が、アルトで小さくつぶやいた。
「どうする」
「どうもこうも」
幹を挟んで背中合わせになった長身の影が答えた。
「いつかこうなること、予測してなかったわけじゃねえ。オレたちはただ長いものに巻かれる。それだけだろ」
「長いものか」
自嘲気味に鼻を鳴らす音。
「お前の言う長いものとは、どちらだろうな」
「……」
少女の問いに、彼は沈黙を返した。彼自身、その答えを知らない。
沈黙に対する応えは、ため息一つ。
「……まあ、迷える程度には、私たちも執行着が板についてきたということか」
小さな背中が幹から離れ、そのまま土を踏む音とともに遠ざかっていく。
残されたもう一人も、しばらく木と見まがうほどに微動だにしなかったが、やがて人の動きで歩き出した。ゆっくりと、ためらうように小さな歩幅で。
けれど、何歩か歩いたところで、ふと足の動かし方を忘れたように立ち止まった。そのまま、再び木へと化してしまったように立ちすくむ。
そこに、突如として高い声が降りかかった。
「こーちゃんっ!」
しなやかな動きで瓦屋根から飛び降りた猫が、空中でふわりの人間の形をとる。柔らかいボブヘアーが軽やかになびき、水縹《みはなだ》色の瞳が暗闇でも輝きを見せた。
ルームウェアの半袖トレーナーとズボンに身を包んだ波音が、いたずらっぽい笑顔を浮かべて、立ちすくむ長身の影へと歩み寄る。
「こーちゃんったら、こんな時間にかみっちゃんと密会~? 何のお話してたの~?」
冷やかすように口元に手を当てて、影――相棒の大和鋼に話しかける波音。暗闇のせいではなく、うつむき加減のためによく見えない表情を覗き込もうとして、近寄っていく。
重い動きで顔が上がった。
目が合った。
直後、波音の笑顔が凍りついた。
後ずさる。スキップまじりに近寄ったその足で、たどたどしく後退する。三歩、四歩目あたりで背中が壁についた。後がない波音の頭上で、ダンッ、と大きな手のひらが壁を打つのが聞こえた。
頭一つ上の高みから、夜闇の中でも光を反射する灰色の目が、ギラギラと波音を見下ろす。
波音は汗ばむ両手で胸を押さえた。胸を突き破りそうなほど、心臓が激しく暴れていた。
彼のはずなのに。いつも無愛想ながら優しい、先輩でありパートナーである一番隊隊長のはずなのに。波音の体は、震えをこらえきれない。
爛々と見下ろしてくる獰猛な瞳に、わななく唇で呼びかける。
「こーちゃん……っ」
「……お前」
怒気はない。
ただ、いつもの彼は、こんな低い声は出さない。
射るような鋭い眼光など向けてこない。
圧迫感を与えるような、こんな威圧的な行動はとらない。
それらが、静かに恐怖を与えてくる。
「ご、ごめんなさい……冗談……」
大きな瞳が潤みだす。コウは、小動物を見下ろす肉食獣のような眼差しで、それをじっと見つめていた。
やがて、視線の尖りが緩やかに溶けていった。彼の中で、ようやく初めて、状況が内省された。
波音は、今、「何のお話してたの?」と言ったのだ。
「……悪い」
壁から手を離し、コウは数歩距離をとった。その目は、普段の静かなもので――むしろ、普段より力を失ったもので。
詰め寄られた姿勢から脱した波音は、安堵する間もなく、先程とは違う方向に心を揺さぶられた。恐怖がもたらす斥力とは逆の力をもった不安が、彼女の足を一歩進ませる。
「こーちゃん? ……どうしたの?」
コウはうつむいて黙っている。いつもきりりと引き結ばれる口元が、今は力なく小さく開いたまま、時折迷うようにわずかに震える。
「大丈夫? 具合悪い?」
「……いや、平気だ」
そうは言うが、少し顔色が悪い……ように見える。いくら暗視を得意としていても、暗いところでは色の区別は難しいが、波音にはそう感じ取れた。
懸念が高じて、もう一歩踏み込む。
「ほんと? お休みしなくていい? しんどかったら、明日の遠征、外してもら……」
「ダメだ!」
至近距離からの怒号に、波音の体が跳ねた。その両肩を、大きな手ががっしりとつかむ。
動揺する波音に詰め寄るようにして、コウは叫んだ。
「外さなくていい、遠征には行く! お前、余計なこと言うんじゃねえぞ。時尼にも、時尼さんにも!」
「う……うん、わかった」
釘を刺した上からハンマーで叩いて叩いて埋没させるような執拗な念押しに、波音は戸惑いながら頷いた。戸惑ったし、大声には驚いたが、不思議と今度は恐怖を感じなかった。
それは、彼の形相が、あまりにも必死なものだったからかもしれない。
波音の素直な返事を受け取ったコウは、しばらくその真贋を見極めるようにじっと体をこわばらせたままでいたが、やがて、大きな吐息とともに眉間のしわを解いた。波音の肩を離し、左手をぽふりと波音の頭に置く。
「……ごめんな」
「ううん、大丈夫。……こーちゃんこそ、大丈夫……?」
「……すまん、ちょっと考え事してて、気が立ってたんだ。忘れてくれ。……明日、よろしくな」
「……うん」
コウは、うつむき加減に返事をした波音の頭を、もう一度だけ優しくぽふんと叩くと、短く一言だけ言い残して去っていった。
波音の耳には、「おやすみ」と言ったように聞こえた。
ただ、あまりにもかすれた声は、静かな夜に余韻さえ残さなかった。
***
水守の森は、飛壇から真南一〇〇キロメートルに位置するが、そこへ至るまでの道が全て直線というわけではない。ゆえに、普通に歩けば、一〇〇キロメートル以上の移動距離になるのだが、フィライン・エデンの猫たちは、必ずしも道なりに行く必要はない。彼らには、弾趾という特殊な手段がある。
純猫術の一つである弾趾は、高速での直線移動を可能にする技術だ。どれくらい高速かといえば、最大瞬間時速が二〇〇キロメートルを超える。この速度は新幹線並みである。
原理としては、目標地点を先に定め、そこにちょうど着地する力で源子に突き飛ばしてもらうような形だ。ただし、距離が遠ければ遠いほど、そこを目標地点と定めにくくなる。遠いところにあるごみ箱ほど、そこにくずを投げ入れるのが難しいのと同じだ。しかも、高速道路のようにずっと先まで直線の道ということも稀だ。そういうわけで、基本的に弾趾の使い方というのは、人間界における乗り物のように継続して一定の速度で走り続けるようなものではなく、短い距離の超高速移動を繰り返すというものになる。
さらに言うなら、原理的には「源子に突き飛ばしてもらう」のであって、格好としては極端な立ち幅跳びの要領だ。よって、時速二〇〇キロメートルの最高瞬間速度は、すなわち初速度のことである。
要するに、弾趾で長距離を移動するというのは、時速二〇〇キロメートル越えで打ち出されては着地、打ち出されては着地という激しいGのかかり方をする運動なのだ。
で。
自身は純猫術を使えない雷奈は、水守の森に到着するまでの間、弾趾を使うコウの背中の上で二時間にわたって揺られていたのだった。
「ああああ怖かった……頭がぐわんぐわんする……」
「あたしの弾趾で三枝岬から東京に帰ってきた時も、ついた直後はこうだったな」
「そりゃそうったい……電車とかと違って加速減速が激しすぎるんやもん……」
「オレからしたら電車のほうが苦痛だよ」
舌を出して嫌悪を露わにするコウは、弾趾で気分を悪くしたようでもない。車も運転者は酔わない原理と同じである。
目が回っているわけでもなく、乗り物酔いとも違う、激しい加減速による本能的な恐怖で「ぴゃ~」と棒立ちになっている雷奈に、ルシルが「さて」と話しかけた。
「恐慌状態中すまない、雷奈。木雪部長がもたせてくれた『チエアリ検出センサー、但し試作品につき動作性未検証』の反応はどうだ?」
「い、い、い、異常なしったいったい」
「そうか。……お前は異常ありのようだな」
立ったまま震撼する雷奈を慰めるように、ぽんぽんと肩を叩いて、ルシルは仲間たちを見回す。
ほとんど同じ高さの高木がうっそうと茂る水守の森。密集した木々の葉に空が覆い隠されて月明かりさえ通さない暗がりもあれば、明るく開けている場所もある。ここはその中間あたりで、この人数でも円になって集まることができる程度には広く、人間の目でも仲間の顔を視認できる程度には明るい。
「とはいえ、九番隊が遭遇したのが確かにチエアリで、今はこの場にいないだけかもしれない。油断するには早そうだな」
「ああ、だけどあくまでもそのセンサーは試運転だ。チエアリと遭遇していない以上、まだ反応しているところを見たことがない。言っちゃ悪いが、性能を過信するのは危険だ。この場にいないとも言い切れないよ」
「違いねえ。……ああ、そうだ。忘れるところだった」
コウがふいに、両手を宙に伸ばした。そこへ、きらめくポリゴンが現れ、集まって一つの物体を形作っていく。
いつ見ても幻想的な、源子からの再構成。最後のひとかけらが欠けた部分に収まると、コウはそれを雷奈に渡した。
「安心材料になるかはわからねえが、ないよりはマシだろ。特にお前には」
それは、一振りの木刀だった。雷奈がクローゼットにしまってあるものと同じ、赤樫でできたものだ。
「真剣でもよかったとよ」
「アホ言え、帯刀は希兵隊の特権だ。それで我慢しろ」
「はーい」
会話が小休止したところで、タイミングよく声がした。インカムのスピーカーからだ。
『那由他です。通信良好であれば、今回の作戦の確認をさせてください、どうぞ』
「問題ない。頼む」
コウがインカムに手をやりながら、一同を代表して言った。
通常、このような明確な任務を伴っての遠征には、最高司令官の司令に基づきながらも現場で臨機応変に詳細な指示を出す平隊員が一人つく。総司令部員の服装が戦闘服である執行着であるのは、このように戦場に出る可能性を前提としているからだ。
ただ、この体制はかなり久しいものだった。なにせ、三枝岬への遠征は隠密のため、そして北海道遠征は機動性のため人数の制約があったし、ガオン出現後に雷奈が行方不明になったときも、ガオンがあまりにも脅威であったことと、フィライン・エデンに隊員を残しておく必要があったことから、総司令部員を伴ってこなかったのだ。
今回は、チエアリ出現の可能性があり比較的危険度が高いため、現場ではなく、九番隊も駐在していた駐在所にこもり、そこから連絡を取ってきている。水守の森が一望できる安全な場所があるのは偶然の幸いだ。
この遠征隊の中では最も新米の隊員である那由他は、少し緊張した声色ながら、はきはきと作戦の概要をさらった。
水守の森は広い。今、一同がいる北側――飛壇に近い方角――から、ルシルとメルはまっすぐ南へ、コウと波音は東側へ、霊那と撫恋は西側へ向かって進みながら探索する。なお、雷奈は最も戦闘に信頼を置けるコウのそばにいることが美雷によって指示されていた。
もし、その道すがらでチエアリに出くわした場合、二名で立ち向かうのは危険だ。よって、その場合はすぐさま上空に向かって信号弾を上げることになっている。
そうして、最終打ち合わせを終えた時だ。
森の中、西側から、木の葉と土を踏む音が聞こえた。
「誰だ」
ルシルと霊那が鯉口を切った。コウも雷奈を後ろ手にかばって身構える。副隊長たちも、主体のまま音のする方を見据えた。
猫の鋭い聴力がとらえた音は、少し距離のあるところからだったようで、ざっ、ざっと近づいてくるのをしばらく注意深く聞いていた。
そして、誰からともなく気づいた。足音は、一人のものではない。
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