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13.水鏡編
63スワンプマンの実証実験 ①
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水守の森の一件は、杞憂だった。
けれど、その結末に安堵していたのも、つかの間だった。
今度こそ、紛れもなく、チエアリだ。
身構える雷奈達の前に、やはり躊躇いなくアワとフーが立ちはだかった。
アワが一瞬たりとも振り返らずに指示を飛ばす。
「希兵隊に連絡を」
「その必要はありません」
横槍を入れるチエアリの声は、天女のように透き通って美しく、話し方さえ言葉尻を柔らかくぼかす品の高いものだった。その姿が、過去の数多の暴挙と結びつく黒猫のものでなければ、背を正して聞き入ってしまっていたことだろう。
アワが面差しに険をにじませる。
「そんな言葉を信じると思うかい」
「もしあなたたちに危害を加えるつもりだったなら、今、背後から奇襲を仕掛けたとは思いませんか」
確かに、その指摘はもっともだ。だが、だからといって警戒を解く理由にはならない。
しかし、チエアリはさらなる牽制をかけてきた。
「私は今は争うつもりはありません。ですが、そちらが手出ししてくるようであれば、こちらも迎え撃つ所存ではあります。……その結果、困るのはあなた方ではないですか?」
く、とアワが歯噛みした。慇懃な口調ではあるが、要は脅しだ。
アワの指示でこっそりスマホを手にしていた氷架璃は、そろそろとその手をポケットに戻した。
フーがアワの隣で加勢する。
「じゃあ、あなたの目的は何なの」
チエアリはその問いを十分に予想出来ていたように、ゆっくりと頷いて答えた。
「私、シズクの目的。それは、実験です」
「実験……?」
予期せず宣言された高次な営みに、雷奈たちは戸惑った。だが、チエアリが目論む実験など、ろくなものではないに決まっている。
「何ば企んどるか知らんけど……好きにはさせんよ」
雷奈が抗う姿勢を見せた。
しかし、チエアリ・シズクはゆるりとかぶりを振って、事実を告げた。
「いいえ。もうさせていただいております」
「……え」
肩透かしを食らって、呆然と言葉を失う雷奈。それは、あまりにも恐ろしい言葉だ。
後手に回った。もう、すでに、邪悪な企みは走り出している。
「例えば」
シズクの態度は鷹揚なもので、ゆっくりと、大学の講義でもするように話し始めた。
「あなたが山に出かけたとしましょう。だんだん雲行きが怪しくなる中、それでも山中を歩いていたあなたは、開けたところにある池の近くに差し掛かったところで、偶然にも雷に打たれて死んでしまいます」
さっそく不穏なワードが紡がれるが、シズクはトーン一つ変えず続ける。
「そしてさらに偶然なことに、同時にもう一つ、別の雷が池にも落ちます。この落雷により、死んで源子レベルにばらばらになったあなたと、落雷を受けた池の水が術式的反応を起こした結果、あるものが出現しました」
「……あるもの」
耳を傾けてはならない凶悪な敵の言葉と分かっていても、皆聞き入ってしまっていた。雷奈が復唱したその代名詞に、重要な何かがあるような気がして。
「ええ」
シズクは、その答えを淡々と告げた。
「源子から再構成され、性格、記憶、知識に至るまで完全な……あなたのコピーです」
――線がつながった。
代名詞が指したものに、全員に激震が走る。
「まさか、鏡像はあんたの……!」
「話を続けます」
授業を遮る子供をいなすように、シズクは講話を再開した。
「このコピーが山を下り、死んだあなたの家族や友人に会い、死んだあなたの教室で授業を受け、死んだあなたの家でこれから生活していったとしましょう。……さて」
シズクの黒曜石のような目が、試すように五人を見渡す。
「源子から再構成されたあなたのコピーは、あなたとどう違うのでしょうか。世界から見て、あなたの死の前後で何が変わったのでしょうか」
その問いに――厳密には、その問いに対する自身の答えに愕然とするあまり、雷奈ははりつけにされたように動けなくなった。
誰かが死んで、源子レベルにばらばらになったものが再構成されて、内外共に死んだ誰かと同じコピーが作られる。その過程を知っていれば、かつての雷奈なら即答しただろう。
別人だ。同じなわけがない。
そう叫んだに違いない。
だが、今の雷奈の答えは違う。もう、過去の自分の無邪気な答えを口にすることはできない。雷奈自身に、その資格はない。
なぜなら、源子で形作られたあの女性を、その正体を知ってなお、これからも「母さん」と呼び続けるのだから。
同じ胸中に至り、雷奈を見つめる氷架璃と芽華実。彼女らの事情など知らないシズクは、雷奈の絶句の理由などつゆ知らず、話を続ける。
「人間は意見を異にするかもしれませんが、この世界の住人の答えは『同一人物』に大きく傾くでしょう。この現象はすでに日常生活に根付いているがゆえに」
理解が追い付かず、シズクを見つめ返した雷奈たちの耳に、アワの苦々しげな答えが届く。
「持ち物の源子化と再構成だね」
「ご名答です」
フィライン・エデンの猫は主体で鞄を持てなくても困ることはない。なぜなら、持参物は源子レベルに分解してそばに侍らせておき、必要な時に源子から再構成すればよいからだ。
この一連の行為が成り立つのは、源子化する前の物体と源子から再構成した物体が同一であるという前提があるからだ。ゆえに、これが日常と化している彼らにとって、シズクの呈した問いに対する回答のマジョリティは決まっている。シズクは、そう言っているのだ。
それに対し、フーが珍しく気分を害したような顔をした。
「モノとひとを一緒にしないでちょうだい。私達は友達を源子化したりはしない。死んでしまった友達が、たとえ源子から再構成されたとしても、素直に再会を喜ぶことは難しいわ」
「それは心外な答えですね。ですが、いずれにせよ」
フーの言葉を心外ととらえるあたりチエアリらしい彼女は、しかし大した問題ではないかのように話を進めた。
「私の興味は、源子化と再構成という概念を持たない人間が考えたこの思考実験を実証するところにはありません。私が知りたいのは、この思考実験を少しずらした場合です」
「ずらした……」
雷奈のオウム返しに、シズクはうなずいた。
そして、新たな問いを呈する。
「本物と全く同じ者が、本物ととってかわった場合の話はわかりました。では、本物と基本的に同じ容姿、同じ内面的性質を持ちながら、それぞれどこかが少しだけ違う者だった場合は?」
それが、シズクの目的。この現象の核心。
シズクは長い尾を揺らしながら、歌うように問い続ける。
「髪や目の色が変わったら別人なのでしょうか。物の捉え方が変わったら別人なのでしょうか。猫力の封印と解放で髪や目の色が変わるのと何が違うのでしょうか。記憶喪失や思考の成熟と何が違うのでしょうか。何が同じならば受容できて、何が違えば拒絶するのでしょうか。あなた達は、何をもって、その者をその者と認識し、その者でないと識別するのでしょうか。私は、それが知りたい」
テセウスの船という話がある。船の部品を入れ替えていって、完全に別の部品で構成されてしまったなら、それは元の船と同じものといえるのかという哲学的な問題だ。
シズクの問いはそれに似ている。すなわち、その者をその者たらしめている要素は何なのか。その答えを知るための実験が、この鏡像騒ぎなのだ。
わずかな相違点をもつ偽者が、本物に成り代わる、そのために偽者は、ああも好戦的に本物を消そうとしているというわけである。
自身の知的欲求のためなら他者を傷つけ合わせることもいとわない精神は、あっぱれチエアリのものだ。
「私は今日、その途中経過を知りたくて、こうして姿を現しました。偵察の途中、あなたたち人間をお見かけしたものですから。とりわけ、人間と猫の両方の血を引く三日月雷奈……あなたの答えに興味があります。池から生まれた『限りなくよく似た友人』を見ていかがでしたか?」
「…………」
雷奈は唾棄したくなるほどの嫌悪感を喉のあたりで押さえ込んで、負けじと機知に富んだ返しを試みる。
「池から生まれた誰かなんて、会っとらんね。私達が会ったのは鏡から出てきたひとたちったい」
悔しまぎれの屁理屈だ。が、シズクは恬然として答える。
「いえ、元は池から。水が溜まっている様を池と言うならば、ですが」
「……どういうことね」
「この能力は、私が生み出した水を介してしか使えません。私が生み出した水で作られた水たまり、あるいは私の水が多く混ざった池。そういったものの水面に……水鏡に映ること。それが、偽者を生じる条件です。そう考えると、池から生まれたと言っても過言ではないでしょう?」
噛んで含めるように、シズクは自らの所業を紐解いていく。
「そのためには広範囲に私の水をいきわたらせる必要がありました。とはいえ、水まきの旅に出て、その場その場に水たまりを作って回っていては、私がたまりません」
確かに、飛壇全域水まき行脚は少しばかり非現実的だ。
だが、シズクがその代わりにとった行動は、より常軌を逸したものだった。
「だから、一気にまくことにしました」
より一層実現困難な行為のはずなのに、強烈な心当たりに胸を撃たれ、雷奈たちの顔がこわばった。つい先日、ここら一帯に、一気に水がまかれたばかりだ。
あれが始まりだったのかと、アワが歯噛みした。
「あの大雨……!」
「ええ。降り注いだ雨が作り出した水たまり、あるいは雨が降り注いだ池やプール……その水鏡に映った者が私の実験対象。水鏡は誰かが映ると、具現化に向けて、より多くのデータを集めます。そのために、本物の鏡となって、三日間、映った者を追いかけます」
雷奈たちは一斉に互いに顔を見合わせた。確かに、あれは追いかけるように何度も彼女らのそばに姿を現した。
その反応を眺めながら、シズクは淡々と続ける。
「対象のもとに現れ、その姿を映すたび、鏡は成長します。初めは小さな反射鏡。次に手鏡、そして卓上鏡。三度映せばデータ十分、水鏡は等身大にまで成長し、姿見となって、対象本人、あるいは対象にゆかりのある者の前に現れます。そして鏡の繭を破って、コピーが出てくる。――こんなふうに」
シズクの最後の言葉を聞いて、そして彼女の両脇に現れた大きな姿見を目にして、雷奈たちは己が愚かさを呪った。
チエアリを前にして、聞き手に回るべきではなかった。この生き物が紳士淑女協定など結ぶはずがなかったのだ。確かに争うつもりはないようだが、危害を加える気は満々だ。鏡を用いた残酷な実験準備を、今ここで始めようとしている。
鏡が二つ、同時に砕け散った。中から、それぞれ少年と少女が歩み出てくる。二人とも、やはり雷奈たちの見慣れないフィライン・エデンの民族衣装を着ているが、青みがかった灰色をしたおとなしめな髪に濃紺の目をした少年と、薄グレーのセミロングヘアに黄金色の目をした少女は、どう見ても――。
「……アワと、フーの鏡像……!」
雷奈のうめきに、シズクは微笑んだ。侮蔑の色も残虐性も含まれていない、純粋な享楽の微笑が、逆に身の毛もよだつ異様さを感じさせる。
「私の実験はまだ途中。今は答えが出ないというのなら、存分に体験してから、改めて意見を聞かせてくださいませ」
大層楽しみそうな声色を残し、シズクは素早く身をひるがえした。同時、二人の鏡像が動く。
走り去っていくシズクと対照的に向かってきた二人に、身構える氷架璃と芽華実、そしてそのパートナー。
激突寸前の両者の間に、薄茶の髪が翻った。
「雷奈!?」
二人の眼前に躍り出た雷奈は、怖じることなく走り出した。フーの鏡像が走りながらかまいたちを飛ばしたのを俊敏な動きでかわし、逃げる先を読んでアワの鏡像が伸ばしてきた手も、地面を転がるようにしてかいくぐる。速度を緩めないまま二人を突破した雷奈は、迷うことなく黒猫の姿を追った。
「戻るんだ、雷奈! 危ない!」
「アワ、こっちも言ってられないぞ!」
雷奈をあっさり諦めた二人の鏡像は、それぞれのオリジナルとそのパートナーを狙って動いた。アワの鏡像が水の刃を放ってきたのを、氷架璃とアワは二手に分かれて避ける。水と侮るなかれ、彼女らがいた芝生の地面は切り裂かれ、くっきりと溝が走っている。
足一本触れたら終わりだ。ぞっとする氷架璃の頬を、突如、強風が叩いた。
「!」
「フー、芽華実!」
アワが叫ぶ。少し離れたところでフーの鏡像と相対していた二人が、天に上る突風に巻き上げられていた。竜巻はその鎌首をもたげるように上方でぐいと曲がっており、中でされるがままの二人は、広大な公園の奥地へと押し流されていった。
雷奈に続いて、フーと芽華実とも分断された。ここまで距離を置いては、助けに行く行かないの話ではなくなる。まず片付けるべき案件は、目の前の敵だ。
アワと氷架璃は、改めて敵に向き合った。
彼はいかにも人畜無害そうな、純朴な顔立ちで、ふっと不敵に笑った。
けれど、その結末に安堵していたのも、つかの間だった。
今度こそ、紛れもなく、チエアリだ。
身構える雷奈達の前に、やはり躊躇いなくアワとフーが立ちはだかった。
アワが一瞬たりとも振り返らずに指示を飛ばす。
「希兵隊に連絡を」
「その必要はありません」
横槍を入れるチエアリの声は、天女のように透き通って美しく、話し方さえ言葉尻を柔らかくぼかす品の高いものだった。その姿が、過去の数多の暴挙と結びつく黒猫のものでなければ、背を正して聞き入ってしまっていたことだろう。
アワが面差しに険をにじませる。
「そんな言葉を信じると思うかい」
「もしあなたたちに危害を加えるつもりだったなら、今、背後から奇襲を仕掛けたとは思いませんか」
確かに、その指摘はもっともだ。だが、だからといって警戒を解く理由にはならない。
しかし、チエアリはさらなる牽制をかけてきた。
「私は今は争うつもりはありません。ですが、そちらが手出ししてくるようであれば、こちらも迎え撃つ所存ではあります。……その結果、困るのはあなた方ではないですか?」
く、とアワが歯噛みした。慇懃な口調ではあるが、要は脅しだ。
アワの指示でこっそりスマホを手にしていた氷架璃は、そろそろとその手をポケットに戻した。
フーがアワの隣で加勢する。
「じゃあ、あなたの目的は何なの」
チエアリはその問いを十分に予想出来ていたように、ゆっくりと頷いて答えた。
「私、シズクの目的。それは、実験です」
「実験……?」
予期せず宣言された高次な営みに、雷奈たちは戸惑った。だが、チエアリが目論む実験など、ろくなものではないに決まっている。
「何ば企んどるか知らんけど……好きにはさせんよ」
雷奈が抗う姿勢を見せた。
しかし、チエアリ・シズクはゆるりとかぶりを振って、事実を告げた。
「いいえ。もうさせていただいております」
「……え」
肩透かしを食らって、呆然と言葉を失う雷奈。それは、あまりにも恐ろしい言葉だ。
後手に回った。もう、すでに、邪悪な企みは走り出している。
「例えば」
シズクの態度は鷹揚なもので、ゆっくりと、大学の講義でもするように話し始めた。
「あなたが山に出かけたとしましょう。だんだん雲行きが怪しくなる中、それでも山中を歩いていたあなたは、開けたところにある池の近くに差し掛かったところで、偶然にも雷に打たれて死んでしまいます」
さっそく不穏なワードが紡がれるが、シズクはトーン一つ変えず続ける。
「そしてさらに偶然なことに、同時にもう一つ、別の雷が池にも落ちます。この落雷により、死んで源子レベルにばらばらになったあなたと、落雷を受けた池の水が術式的反応を起こした結果、あるものが出現しました」
「……あるもの」
耳を傾けてはならない凶悪な敵の言葉と分かっていても、皆聞き入ってしまっていた。雷奈が復唱したその代名詞に、重要な何かがあるような気がして。
「ええ」
シズクは、その答えを淡々と告げた。
「源子から再構成され、性格、記憶、知識に至るまで完全な……あなたのコピーです」
――線がつながった。
代名詞が指したものに、全員に激震が走る。
「まさか、鏡像はあんたの……!」
「話を続けます」
授業を遮る子供をいなすように、シズクは講話を再開した。
「このコピーが山を下り、死んだあなたの家族や友人に会い、死んだあなたの教室で授業を受け、死んだあなたの家でこれから生活していったとしましょう。……さて」
シズクの黒曜石のような目が、試すように五人を見渡す。
「源子から再構成されたあなたのコピーは、あなたとどう違うのでしょうか。世界から見て、あなたの死の前後で何が変わったのでしょうか」
その問いに――厳密には、その問いに対する自身の答えに愕然とするあまり、雷奈ははりつけにされたように動けなくなった。
誰かが死んで、源子レベルにばらばらになったものが再構成されて、内外共に死んだ誰かと同じコピーが作られる。その過程を知っていれば、かつての雷奈なら即答しただろう。
別人だ。同じなわけがない。
そう叫んだに違いない。
だが、今の雷奈の答えは違う。もう、過去の自分の無邪気な答えを口にすることはできない。雷奈自身に、その資格はない。
なぜなら、源子で形作られたあの女性を、その正体を知ってなお、これからも「母さん」と呼び続けるのだから。
同じ胸中に至り、雷奈を見つめる氷架璃と芽華実。彼女らの事情など知らないシズクは、雷奈の絶句の理由などつゆ知らず、話を続ける。
「人間は意見を異にするかもしれませんが、この世界の住人の答えは『同一人物』に大きく傾くでしょう。この現象はすでに日常生活に根付いているがゆえに」
理解が追い付かず、シズクを見つめ返した雷奈たちの耳に、アワの苦々しげな答えが届く。
「持ち物の源子化と再構成だね」
「ご名答です」
フィライン・エデンの猫は主体で鞄を持てなくても困ることはない。なぜなら、持参物は源子レベルに分解してそばに侍らせておき、必要な時に源子から再構成すればよいからだ。
この一連の行為が成り立つのは、源子化する前の物体と源子から再構成した物体が同一であるという前提があるからだ。ゆえに、これが日常と化している彼らにとって、シズクの呈した問いに対する回答のマジョリティは決まっている。シズクは、そう言っているのだ。
それに対し、フーが珍しく気分を害したような顔をした。
「モノとひとを一緒にしないでちょうだい。私達は友達を源子化したりはしない。死んでしまった友達が、たとえ源子から再構成されたとしても、素直に再会を喜ぶことは難しいわ」
「それは心外な答えですね。ですが、いずれにせよ」
フーの言葉を心外ととらえるあたりチエアリらしい彼女は、しかし大した問題ではないかのように話を進めた。
「私の興味は、源子化と再構成という概念を持たない人間が考えたこの思考実験を実証するところにはありません。私が知りたいのは、この思考実験を少しずらした場合です」
「ずらした……」
雷奈のオウム返しに、シズクはうなずいた。
そして、新たな問いを呈する。
「本物と全く同じ者が、本物ととってかわった場合の話はわかりました。では、本物と基本的に同じ容姿、同じ内面的性質を持ちながら、それぞれどこかが少しだけ違う者だった場合は?」
それが、シズクの目的。この現象の核心。
シズクは長い尾を揺らしながら、歌うように問い続ける。
「髪や目の色が変わったら別人なのでしょうか。物の捉え方が変わったら別人なのでしょうか。猫力の封印と解放で髪や目の色が変わるのと何が違うのでしょうか。記憶喪失や思考の成熟と何が違うのでしょうか。何が同じならば受容できて、何が違えば拒絶するのでしょうか。あなた達は、何をもって、その者をその者と認識し、その者でないと識別するのでしょうか。私は、それが知りたい」
テセウスの船という話がある。船の部品を入れ替えていって、完全に別の部品で構成されてしまったなら、それは元の船と同じものといえるのかという哲学的な問題だ。
シズクの問いはそれに似ている。すなわち、その者をその者たらしめている要素は何なのか。その答えを知るための実験が、この鏡像騒ぎなのだ。
わずかな相違点をもつ偽者が、本物に成り代わる、そのために偽者は、ああも好戦的に本物を消そうとしているというわけである。
自身の知的欲求のためなら他者を傷つけ合わせることもいとわない精神は、あっぱれチエアリのものだ。
「私は今日、その途中経過を知りたくて、こうして姿を現しました。偵察の途中、あなたたち人間をお見かけしたものですから。とりわけ、人間と猫の両方の血を引く三日月雷奈……あなたの答えに興味があります。池から生まれた『限りなくよく似た友人』を見ていかがでしたか?」
「…………」
雷奈は唾棄したくなるほどの嫌悪感を喉のあたりで押さえ込んで、負けじと機知に富んだ返しを試みる。
「池から生まれた誰かなんて、会っとらんね。私達が会ったのは鏡から出てきたひとたちったい」
悔しまぎれの屁理屈だ。が、シズクは恬然として答える。
「いえ、元は池から。水が溜まっている様を池と言うならば、ですが」
「……どういうことね」
「この能力は、私が生み出した水を介してしか使えません。私が生み出した水で作られた水たまり、あるいは私の水が多く混ざった池。そういったものの水面に……水鏡に映ること。それが、偽者を生じる条件です。そう考えると、池から生まれたと言っても過言ではないでしょう?」
噛んで含めるように、シズクは自らの所業を紐解いていく。
「そのためには広範囲に私の水をいきわたらせる必要がありました。とはいえ、水まきの旅に出て、その場その場に水たまりを作って回っていては、私がたまりません」
確かに、飛壇全域水まき行脚は少しばかり非現実的だ。
だが、シズクがその代わりにとった行動は、より常軌を逸したものだった。
「だから、一気にまくことにしました」
より一層実現困難な行為のはずなのに、強烈な心当たりに胸を撃たれ、雷奈たちの顔がこわばった。つい先日、ここら一帯に、一気に水がまかれたばかりだ。
あれが始まりだったのかと、アワが歯噛みした。
「あの大雨……!」
「ええ。降り注いだ雨が作り出した水たまり、あるいは雨が降り注いだ池やプール……その水鏡に映った者が私の実験対象。水鏡は誰かが映ると、具現化に向けて、より多くのデータを集めます。そのために、本物の鏡となって、三日間、映った者を追いかけます」
雷奈たちは一斉に互いに顔を見合わせた。確かに、あれは追いかけるように何度も彼女らのそばに姿を現した。
その反応を眺めながら、シズクは淡々と続ける。
「対象のもとに現れ、その姿を映すたび、鏡は成長します。初めは小さな反射鏡。次に手鏡、そして卓上鏡。三度映せばデータ十分、水鏡は等身大にまで成長し、姿見となって、対象本人、あるいは対象にゆかりのある者の前に現れます。そして鏡の繭を破って、コピーが出てくる。――こんなふうに」
シズクの最後の言葉を聞いて、そして彼女の両脇に現れた大きな姿見を目にして、雷奈たちは己が愚かさを呪った。
チエアリを前にして、聞き手に回るべきではなかった。この生き物が紳士淑女協定など結ぶはずがなかったのだ。確かに争うつもりはないようだが、危害を加える気は満々だ。鏡を用いた残酷な実験準備を、今ここで始めようとしている。
鏡が二つ、同時に砕け散った。中から、それぞれ少年と少女が歩み出てくる。二人とも、やはり雷奈たちの見慣れないフィライン・エデンの民族衣装を着ているが、青みがかった灰色をしたおとなしめな髪に濃紺の目をした少年と、薄グレーのセミロングヘアに黄金色の目をした少女は、どう見ても――。
「……アワと、フーの鏡像……!」
雷奈のうめきに、シズクは微笑んだ。侮蔑の色も残虐性も含まれていない、純粋な享楽の微笑が、逆に身の毛もよだつ異様さを感じさせる。
「私の実験はまだ途中。今は答えが出ないというのなら、存分に体験してから、改めて意見を聞かせてくださいませ」
大層楽しみそうな声色を残し、シズクは素早く身をひるがえした。同時、二人の鏡像が動く。
走り去っていくシズクと対照的に向かってきた二人に、身構える氷架璃と芽華実、そしてそのパートナー。
激突寸前の両者の間に、薄茶の髪が翻った。
「雷奈!?」
二人の眼前に躍り出た雷奈は、怖じることなく走り出した。フーの鏡像が走りながらかまいたちを飛ばしたのを俊敏な動きでかわし、逃げる先を読んでアワの鏡像が伸ばしてきた手も、地面を転がるようにしてかいくぐる。速度を緩めないまま二人を突破した雷奈は、迷うことなく黒猫の姿を追った。
「戻るんだ、雷奈! 危ない!」
「アワ、こっちも言ってられないぞ!」
雷奈をあっさり諦めた二人の鏡像は、それぞれのオリジナルとそのパートナーを狙って動いた。アワの鏡像が水の刃を放ってきたのを、氷架璃とアワは二手に分かれて避ける。水と侮るなかれ、彼女らがいた芝生の地面は切り裂かれ、くっきりと溝が走っている。
足一本触れたら終わりだ。ぞっとする氷架璃の頬を、突如、強風が叩いた。
「!」
「フー、芽華実!」
アワが叫ぶ。少し離れたところでフーの鏡像と相対していた二人が、天に上る突風に巻き上げられていた。竜巻はその鎌首をもたげるように上方でぐいと曲がっており、中でされるがままの二人は、広大な公園の奥地へと押し流されていった。
雷奈に続いて、フーと芽華実とも分断された。ここまで距離を置いては、助けに行く行かないの話ではなくなる。まず片付けるべき案件は、目の前の敵だ。
アワと氷架璃は、改めて敵に向き合った。
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支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
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つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
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公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
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