十歳でさらって

夜市彼乃

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十歳でさらって

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「……だから僕は、二十歳になったらトラックの運転手になりたいです」
 一拍置いて、さざ波のような拍手が木造の小さな教室を満たした。小夜の前の席の男子は、照れたように周りを見まわし、席につく。
 波がおさまると、先生が口を開いた。
「はい、ありがとう。トラックの運転手、かっこいいね。いつか先生も助手席に乗せて欲しいな」
 六時間目、道徳。黒板には、大きく「二分の一成人式」と書かれている。奇しくもこの日は、小夜の誕生日の二日前だった。
「では次、主村さん、発表してください」
「はい」
 小夜は細い声で答えると、原稿用紙を手に立ち上がった。切りそろえられた黒い前髪が、色白の顔に影を落としている。
「『私の夢』、主村小夜。私は、二十歳になったら――」

***

 この小学校は、東西南北に位置する四つの村の中心にある。小夜の住む東の村、古地村は、その中でも唯一、小学校とは山一つ隔てていた。そのため、古地村と学校を結んでくれるバスに乗って、山を越えて登下校する。
「小夜って好きな人いるのか?」
 薊の花咲くバス乗り場までの道のりで、クラスメイトの匠にそう訊かれて、小夜は訊き返した。
「なんで?」
 匠は黒目がちな瞳で、並んで歩く小夜を見つめながら、答えた。
「今日の発表。二十歳になったら、小夜、お嫁さんになるんだろ?」
「……なりたいなーって思っただけだよ」
 小夜は匠から視線をそらして、前を向いた。こころもち、うつむき加減だ。
「そうか」
 匠も前を向いた。
「でも、小夜は優しいし、かわいいから、いいお嫁さんになると思う」
 ぱっと匠の方を見る。匠は前を向いたまま、少し赤くなっていた。
「……ありがと」
 答える小夜の青白かった頬にも、ほんのり赤みがさしていた。
 匠は古地村の子供ではない。西の村、奈良井村に住んでいる。
 しかし、小学一年生のころから仲のよかった小夜を、バス乗り場まで送っていくのがいつのまにか日課になっていた。
 運動神経が良く活発、しかしやんちゃすぎず親切な心を持つ匠のそばにいることに、小夜は心地よさを覚えていた。一緒にいると、安心する。ずっとそばにいたいと思うほどだった。
 バス乗り場につくと、すでにバスは到着していた。車両の前に立っていた若い運転手が歩み寄って迎えてくれる。
「おかえり、小夜ちゃん。匠君も、いつもありがとう」
「おう! 高也、安全運転しろよ!」
「まかせてよ。匠君こそ、気を付けて帰ってね」
 運転手の青年、高也は笑って言った。彼は自身の出身地である古地村の子供達はもちろん、匠の顔と名前もすでに覚えていた。
「さあ、小夜ちゃん、君で最後だよ。もう出発の時間だ。行こうか」
「はい」
 匠と別れ、小夜はバスに乗り込む。一番前の席だけ空いていたので、そこに座った。
「……小夜ちゃん」
「はい」
「足、どうしたの?」
 運転席につこうとした高也に見とがめられ、小夜は慌ててずりおちかけていたハイソックスをひざ下まであげた。せっかくあざを隠すためにハイソックスにしたのに。
「またお母さんにやられたの?」
「……はい」
 小夜の母親・幸は厳しい人格の人間だった。昨日、食事の時に足を伸ばしていたら、思い切りはたかれたのだ。
 高也は目を伏せたが、「そっか」とだけ言って、席について、車を発進させた。
 車を走らせながら、高也は後ろの小夜に話しかけた。
「六時間目は何の授業だったの?」
「道徳です。……二分の一成人式でした。二十歳になった時の夢を発表しました」
「……二分の一成人式、か」
 高也はそれきり黙り込んでしまった。小夜もそれ以上何も言わなかった。
 成人の半分である十歳になったことを祝う二分の一成人式。学校では、二十歳になった時の夢を語ったり、二十歳の自分への手紙を書いたりする。
 でも、うちは少し違う。
 古地村へ向かうバスの中、そう思いながら小夜は黙ってうつむき、ランドセルを抱きしめていた。
***
 山に囲まれた古地村は、物理的にだけではなく、文化的にも隔絶されていた。特に特徴的なのが、とある古い伝承が残っていることと、この村特有の儀式が存在していること。
「今日は二分の一成人式だったのね」
 夕飯の時、幸がそう切り出した。小夜は箸を止め、小さく答えた。
「……はい」
「ちゃんと『金宮さんのお嫁さんになる』と言ったでしょうね」
「……『金宮さんの』とは言わなかったけど、お嫁さんになるって言いました」
 それを聞いた幸は小さく嘆息して。
「名前はまあいいけど、あんたは金宮さんのお嫁さんになる。違えてはいけないよ」
「……はい」
 小夜は再び箸を動かし、白米を口に運んだ。のどに詰まりそうな感覚がした。
 古地村特有の儀式。それが「半ら(なから)成人の儀」だ。女は嫁ぎ先、男は職業が親に決められており、十歳の誕生日を迎えた日、本人がそれを神様の前で誓うのだ。
 二日後、十歳の誕生日を迎える小夜もまた、巫女や神主の前で誓うことになる。金宮という、都会の富豪と十年後に結ばれることを。
 小夜は複雑な思いでうつむいていた。それを見た幸が目をすがめる。
「あんた、まさか、他の子を好きになったりしてないでしょうね」
「……」
「わかってるでしょうね。悪い子は、薊天狗様にさらわれるからね」
 薊天狗。これがもう一つの古地村の特徴にして「とある古い伝承」だった。小夜も小さいころ、絵で見たことがある。白い犬のような顔の両目に、紫の刺々しい花――薊がついた面をかぶった、妖のような存在だ。まるでその薊が、巨大で異質な目のように見えて、怖かったのを覚えていた。
 古地村では妄信されているこの薊天狗だが、一方で他の村から来た級友に話しても誰にも信じてもらえない。
 しかし、小さいころから教えられ続けている古地村の子にとっては、薊天狗は恐ろしい存在に他ならなかった。テストで悪い点を取ったり、失敗したりした小夜を、厳しい幸は「薊天狗様にさらってもらおう」と言って、広大な主村の敷地にある林の納屋に閉じ込めたことが何度もあった。
 きっと今回も、逆らえばそうされるに違いない。
 だから、口に運んだご飯と一緒に、言いたいことも気持ちも全て飲み込んだ。
***

 誕生日を、そして半ら成人の儀を明日に控えた次の日。
「俺、小夜のこと好きなんだ」
 いつもの帰り道で、匠に突然そう言われた。
「本気なんだ。小夜はがんばりやさんで、誰より優しい。俺、小夜のこと幸せにするから。だから……」
 匠は小夜の手を取ると、自分が握っていたものを彼女の手の上に乗せた。赤いハートのバッヂだった。
「小夜は、俺のこと……好き?」
 小夜は目を見開いて匠を見つめた。幼さの残る匠の瞳は、まっすぐ真剣に彼女をとらえていた。その匠の顔が、だんだんぼやけていく。
「……ごめんなさい」
 ぼろり、と小夜の目から涙が落ちた。止まることなく、次から次へと頬を伝っていく。匠が驚きの表情を浮かべた。
「好きだよ、私、匠君のこと好き。でも、だめなの。私のお婿さんは金宮さんって人に決まってるの」
 小夜は話した。古地村の伝統儀式のこと。明日、神の御前で金宮との縁を誓うこと。
 それを聞いた匠は「おかしいよ!」と叫んだ。
「だってまだ十才だろ!? 大人までまだあと半分あるんだぞ!? なのに親が勝手に決めた結婚相手や仕事があるのか!? 小夜はそれでいいのか!?」
「……いいよ」
「嘘だ!」
「嘘じゃないよ」
「だって小夜、泣いてるじゃないか」
 匠の言葉を、秋風がなでていく。揺れるススキの中、静かに沈黙が訪れた。
「……」
「小夜、そんなの、守らなくていい。小夜が嫌なら、金宮って人と結婚しなくていいよ」
「だめだよ」
「なんで」
「そんなことしたら、悪い子になっちゃう。悪い子は薊天狗様にさらわれるから」
「そんなのいないよ!」
「いるの! 古地村にはいるの。匠君、ごめんなさい……!」
 これ以上、大好きな匠を見ていられなかった。小夜は匠を置いて、バス乗り場まで走り出した。小夜を呼ぶ声が後ろから追ってくるが、彼女は振り向かなかった。

***
 主村邸に帰ると、幸は開口一番明日の段取りについてまくしたてた。
「儀式の手順はわかってるわね。前から教えてきたんだもの。主村の一人娘として、恥ずかしくない振る舞いをしなさいよ。金宮さんの息子さんに失礼のないようにね。明日はわざわざ村の外から来てくれるんだもの。式の後はうちでおもてなしすることになってるから。将来のお婿さんとして来てもらうんだからうちの家にも慣れていただく必要が――」
 次から次へと流れてくる言葉を、小夜は茫然と聞いていた。まだ下ろしていないランドセルの重みが、これが夢ではないことを伝えてくる。本当に、明日、自分の結婚相手が決定する。これまでまだ先だと考えてきたそれが、もう次の日に迫っていた。
 まだ十歳。大人まであと半分。なのに、夢見る余地もなく未来は決まっている。
 小夜は知らず知らずのうちに拳を握りしめた。
 と、その時、右手の中に固いものを握ったような痛みが走った。そっと手を開いて見ると、ハートのバッヂがのぞいた。ずっと握っていたのだ。
 ――おかしいよ!
 匠の声がよみがえる。
 ――大人までまだあと半分あるんだぞ!? なのに親が勝手に決めた結婚相手や仕事があるのか!?
 そうだ。
 自分が好きなのは。
「……おかしいよ」
 小夜はつぶやいた。幸がのべつ幕なしに並べていた言葉を止める。
「なんて?」
「こんなのおかしい。なんで勝手に決められなきゃいけないの?」
 幸の目がつり上がっていく。しかし、小夜は幸をにらみ返して叫んだ。
「私は奈良井村の匠君が大好きなの! お母さんとお父さんが勝手に決めた、顔も知らない、好きでもない金宮さんとなんて結婚したくない! 十歳で未来を奪うような、そんな儀式、大嫌い!」
 パアン。
 乾いた音が、部屋に響いた。
 頬を押さえた小夜の腕を、幸が乱暴につかむ。
「ここまであんたが悪い子だなんて思わなかったわ! 金宮さんに失礼な上、古地村の神聖な伝統まで侮辱するなんて! また閉じ込められたいようね、来なさい! 薊天狗様が、今度こそあんたのことをさらいにくるわ!」

***
「もしもし、柿原です」
「どうも、主村ですけれども」
「ああ、お世話になっております、高也です。いかがなさいましたか? 今からまた学校へバスを折り返すつもりなので、あまり時間は取れませんが」
「あなたもご存知の通り、うちの小夜が明日、半らの儀式をあげるの」
「ああ……先方は村の外から来られるのでしたね。この度はおめでたいことで……」
「でもね、あの子ったら、奈良井村の匠という小僧にうつつを抜かしているそうなの」
「……」
「その小僧のせいで、小夜は先方との結婚を拒んでいるわ。ねえ、そいつが邪魔なの。主村の今後の繁栄に支障が出るわ。だから、そいつを――殺して」
「……えっ……」
「あんた、匠ってやつと面識あるんでしょう。前に小夜が話していたわ。匠というやつがバス乗り場まで送ってくれているって。バスの運転手をしているあんたなら、怪しまれずに近づけるわ。ねえ、殺してちょうだい」
「そんな……」
「私の言うことが聞けないの? あんたが都会の学校へ行くのに、うちがどれだけ資金援助してあげたか、忘れたわけじゃないわよね」
「……!」
「従わないなら、親御さんにも伝えて、全て返済してもらってもいいのよ。もちろん、私が命じたことを他言した場合も……わかっているわね?」
「……」
「返事をなさい」




「……はい」

***
 月明かりが、高い場所にある小窓から差し込んでいた。
 暗い納屋の中で、小夜は膝を抱えて泣きはらしていた。夜も八時を回っていた。
 ふいに、ギイ……と音がして、小夜は顔をあげた。納屋の扉が開き、幸が姿を現した。いつもなら夜通し閉じ込められるところ、今日は迎えが早い。立ち上がった小夜に、母は言った。
「柿原高也さんから電話があったの。匠という子が川に落ちて亡くなっていたそうよ」
「……え?」
 小夜は耳を疑った。確かに、学校と古地村の間には大きな川がある。もしかしたら、匠がバスを追ってきたのかもしれない。しかし、運動神経のいい匠に限って、溺れて亡くなるなんてことがあるはずないと思った。
 発見者は高也。バスは一度古地村で子供達を下ろした後、まだ学校に残っている子供達のためにもう一度学校へ戻る。その途中で見つけたのだろうか……。
 様々な憶測が頭の中を飛び交っていた。そこに一太刀の闇を突き刺したのは、幸の次の言葉だった。
「だから、匠という子のことは諦めて、金宮さんと結婚しなさい」
 小夜は目を見開いた。その目にみるみる涙がたまっていく。
「嘘だ……お母さん、金宮さんと結婚させたいからそんな嘘つくんだ。明日になればわかるもん」
「そうね、明日になればわかるわ。先生からお知らせがあるでしょうね。匠という子が亡くなりました、って」
 悲痛な面持ちの担任、泣きじゃくる旧友、一つ空いた席、添えられた花――。匠がいなくなった全てが容易に想像できた。
「匠君は……本当に死んじゃったの?」
「ええ、事故でね、かわいそうに」
 諦念と憐憫を含んだ幸の声。しかしもうすぐ十歳の子供と言えど、母親の声色の嘘を見抜くなど、造作もなかった。
「嘘! わかった、お母さんが殺したんだ! 私が匠君のこと好きって言ったから、邪魔だと思って!」
 涙が怒りの色を帯びる。かつてないほど強く母をにらみ、小夜はわめいた。
「ひどい! お母さんの人殺し!」
「聞き分けのない子。もうしばらくここにいる必要がありそうね。ああ、でも、ここにいられるかしら。だってお母さんを人殺し呼ばわりする、あんたみたいな悪い子は――」


 薊天狗様に、さらわれるわ。

***
 月がさらに昇っても、小夜が納屋から出してもらえることはなかった。
 頭の中で、言い聞かされてきた一節がこだまする。
 悪い子は、薊天狗様にさらわれちゃうよ。
 自分は、悪い子だ。この上なく悪い子だ。村の伝統を否定し、肉親を人殺しと呼んだ。きっと、薊天狗様がさらいにくる。さらわれたらどうなるのか、小夜は知らない。しかし、戻ってこられないことは確かだとわかっていた。あの紫のとげのあるぎょろりとした薊の目を思い出すたび、腹が底冷えする。
 けれども、小夜の頭にあったのはそれだけではなかった。
 匠が死んだ。大好きな匠が、いなくなってしまった。薊天狗なんていないと言ってくれた匠は、もうこの世にはいないのだ。体ががたがたと震えるのは、秋の肌寒さからか、二つの絶望からか。あるいは、その両方に蝕まれているのかもしれなかった。
 もしかしたら、今夜が最期かもしれない。今までこんなに親に反発したことなどなかった。この上なく悪い子だ。きっと薊天狗様が――。
 その時。
 ふいに、月明かりがかげった。
「……!」
 光がさしこんでいた小窓を見上げ、小夜は絶句した。
 ガラス戸の向こうで、月光を遮り、白い顔がこちらをのぞいていたのだ。
 とがった鼻。頭の上についた三角の耳。そして、異様に大きな紫の目、否、薊の花――。
「薊天狗様……!?」
 小夜は体を硬直させた。絵で見るのとはわけが違った。この世のものとは思えない容貌なのに、確かにそこにいるという現実味。感じる視線。なにより、あの高い窓から顔を覗かせるなんて、人間では考えられない。
 本当にさらいに来た。薊天狗は、実在したんだ。
 次の瞬間、小夜が発したのは、悲鳴でも助けを求める声でもなかった。
「さらって!」
 窓の向こうの薊天狗に叫んだ。
「私は悪い子。お母さんに背いた悪い子なの。だからさらって。私は金宮さんとなんて結婚したくない。匠君が好きなの。でも、匠君は死んじゃった。なら、もういっそ、遠いところへさらって! お母さんの手の届かないところまで!」
 声を裏返して、かすれさせて。少女は異形にそう懇願した。
「さらって」
 薊天狗がそっとガラス戸に手をかける。
「さらって」
 ゆっくりと、戸を開く。
「さらって! 十歳になる前に!」
「さらうよ。だから泣かないで、小夜」
 声がした。薊天狗の面の下から。それを聞いた小夜は、瞠目した。
「匠……君……!?」
 それは、一年生のころから聞き続けた、幼馴染の声。
「……どうして……」
「話はあとだ。ロープを垂らすから、つかまって」
 言葉とともに、小窓から長いロープが下りてきた。小夜は言われた通りロープにつかまり、壁に足をついて窓までのぼった。四肢で自分の体重を浮かせるのはかなり労苦を強いられたが、必死に上を目指した。
 窓から顔を覗かせると、下へ続くはしごが見えた。そのはしごを支えている人物を見て、小夜はまたしても驚嘆した。
「高也さん……!?」
「しっ、小夜ちゃん、静かに。さあ、はしごを下りておいで。少し離れたところに車を止めてあるから、そこで話そう」
 小夜は、宵闇の中、高也と面をつけた少年に連れられて、敷地外にとめられた車に乗り込んだ。高也はロープと折り畳み式はしごを車に積み込むと、運転席に座った。
 助手席に座った少年が、面を外す。薊天狗の面の下に、死んだと聞かされた匠の顔があった。
「匠君……生きてたの……!?」
「当たり前だろ」
「でも、お母さんが……」
「僕が嘘を伝えたんだよ」
 高也が口を開いた。
「僕が古地村から学校へ戻る前ね、幸さんから携帯に電話があったんだ。匠君が邪魔だから殺せって。その後学校へ戻ってきて匠君に会った時、小夜ちゃんの事情を聞いた。今日あったことも、たびたび納屋に閉じ込められることも。これらを知って、僕は確信した。主村家に小夜ちゃんを置いておくわけにはいかない。すでにあざがつくほど暴力も振るわれている。虐待だ。実は幸さんから電話があった後、それを匠君のご両親に伝えたんだけど、そしたら二人は『息子が危ない目にあうくらいなら、都会へ出る』と言ってね。匠君にもそれを伝えたら、小夜も連れて行くって言いだしたんだ」
 匠の言葉を聞いた高也は、その場で携帯電話を匠に貸した。匠は直接両親に小夜の境遇を伝え、一緒に連れて行きたいと訴えた。かねてから小夜と匠の絆を知っていた匠の両親は、快諾した。そして、匠は高也と共に小夜を迎えに行った。生きているところを誰かに見られないよう、祭りで買った狐面をつけて。
「でもね、小夜ちゃん。僕がこのまま君を連れて行ったら、ただの誘拐になりかねない。いくら虐待から君を助けるためだといっても。だから自分の意思で主村家を出ていくことを、表明してほしいんだ」
 高也はそう言って、メモとペンを取り出した。
「もし決心したなら、手紙を書くといい。僕が郵便受けに入れておくよ。行きたくないなら、戻ってもいいんだ。小夜ちゃんの自由だよ」
 小夜は高也の顔を見た。続いて匠を見る。匠は小夜の答えを待つように彼女を見つめていた。
「……私は」
 小夜は高也からメモとペンを受け取った。そして、つづった。
 お母さん。私は、自分であざみてんぐ様の所へ行きます。さようなら。
 メモをちぎり、高也に渡した。高也は微笑んで、メモを受け取ると、「先に送っていくよ」と車を発進させた。
「奈良井村から都会に出る地下鉄が走っているのは知ってるね? その地下鉄に乗って街へ出るんだ。駅で匠君のご両親が待ってるから、そこまで送るね」
 そう言って、高也は慣れた手つきでハンドルを切った。
 小夜は後部座席から村を振り返った。もう戻ってくることはないであろう故郷。
「小夜」
 匠に呼ばれ、前を向く。もう振り返ることはなかった。
「俺のおじさんが街にいるんだ。そこを当てに行くからね」
「……うん」
 車が山に差し掛かる。蛇行する道を上りながら、高也が口を開いた。
「なぜ薊天狗様に連れて行かれるという伝承があるか、知っているかい?」
 小夜が首を振ったのをルームミラー越しに見て、高也は続けた。
「昔からある神隠しというのは、一説によると天狗の仕業だというんだけどね。古地村の天狗が"薊"天狗であるのは、理由があるんだ」
「この辺に薊が咲いてるからじゃないのか? 高也」
「それもある。でもそれだけじゃない。薊の花言葉は『独立』なんだよ。かつて、村から都会に出る人のことを祝って『薊に導かれる』と言ったんだ。でも、だんだん少子化が進んで、村が過疎化するにつれて、若者が外に出ることは悪いことになってしまった。だから、女の子が外に嫁ぐことを防ぐために、婿に来てくれる結婚相手を親が決め、男の子が外に働きに出ることを防ぐために職業を親が決めた。そして、それを守れなかった悪い子を戒めるために、『薊天狗様』というものが生まれたんだ。天狗に連れて行かれたくなかったらいうことを聞きなさい、ってね」
「物知りだな、高也」
「本の虫だからね」
 峠を越え、下山に差し掛かる。
「僕も半ら成人の儀に縛られた一人だ。十歳の時、親にバスの運転手になることを決められた。勉強のために都会の学校へ行くことこそ許されたが、卒業後に帰ってこなかったら仕送りの分を全て返済しろと言われていた。まあ、お金はほとんど主村家に援助してもらっていたんだけどね。そうして、僕は一度外へ行ったはいいが、戻ってこざるを得なかったわけさ」
 学校を通り過ぎ、古地村と対極にある奈良井村へ向かう。
「だけど、小夜ちゃんはもう戻る必要はないよ。匠君のご家族と暮らして、外の世界で自由に生きるんだ」
「高也さんとは……」
「もう会えないかもしれないね。……さあ、見えてきたよ。あれが駅だ」
 小夜は窓の外を見た。初めて来る奈良井村。匠の故郷。そして、自分の出発点。
 駅につくと、匠の両親が待っていた。高也は小夜と匠を二人に預け、自分は小夜の手紙を投函してくると言って古地村へ戻っていった。
「行こうか、小夜ちゃん」
「……はい」
 見知らぬ二人は、優しいまなざしで小夜を迎えてくれた。けれども、慣れない環境で、初めての"両親"と暮らす生活への不安はぬぐいきれなかった。
 ガタン、ゴトン……。

 真っ暗な地下を、電車が走って行く。小夜は窓を見つめていた。窓に映った自分の青白い顔が見つめ返してくる。
「地下鉄、初めてか?」
「……うん」
 匠の言葉に、うなずく。
「俺は何度も乗ったことあるけど、地下って怖いよな。真っ暗で、何も見えない」
「……うん」
「でも、大丈夫だ。世界が暗いわけじゃない。ただ、今は暗い場所にいるってだけだ。外に出れば……まあ、夜だから今は暗いけど、地下よりは明るいよ」
 匠が小夜の手を握る。
「だから大丈夫。俺もついてる」
 列車が地下を抜けた。窓からの景色に、小夜は目を見開いた。村では考えられなかったほど、夜なのに明るい。建物にあかりがたくさんついていた。
「蛍みたい」
 小夜は、そう言って少しだけ笑った。
「やっと笑った」
 匠の方を振り向くと、彼も安心したように笑っていた。その顔に、薊天狗の顔が重なる。
「そういえば、どうして匠君、狐のお面に薊の花をつけていたの?」
「それは……」
 ふいに匠がくちごもった。小さく、「薊天狗に見えるかと」と言う。
「二年生の時、小夜が言ってたのを思い出したんだ。薊天狗の特徴。白い狐のお面に薊をつけたら、薊天狗に見えるかと思ったから。俺が薊天狗になれば、絶対に小夜をさらえると思ったから」
「……私をさらえると?」
「小さいころやっただろ? レンジャーのお面つけたら強くなった気分になったり……」
「そっか。……さらってくれてありがとう。私の薊天狗様」
 小夜がそう言うと、匠は照れくさそうに頷いて、話題を変えた。
「なあ、小夜。おじさんの家についたら、十年後の夢を聞かせてくれよ」
「え? でも、学校でもう……」
「あれは親に決められた夢だろ? 違う、小夜の夢を聞きたいんだ」
 自分の夢。考えてもいなかった。未来は他人に決められるものだと思っていたから。
 でも、もう自由だ。なりたい自分に、なれる。
「今でもいいよ」
「えっ?」
「私ね、お嫁さんになりたいの」
「いや、それじゃなくて……」
「金宮さんの、じゃないよ。私は――」
 その言葉が二人にしか聞こえないように、電車の音が大きく鳴って声を隠した。
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