フィライン・エデン Ⅰ

夜市彼乃

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3.雷奈逃亡編

14老婆心は涙の味 後編

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***

 五分ほど走って着いたファミレスの店内は、今の時刻が嘘のように、煌々と光で満たされていた。夕飯の時間には遅いからか、客はまばらだ。ここが居酒屋なら繁盛している時間帯だろうが。
 向かい合ってソファに座った二人。女性はうつむく雷奈に、メニューを差し出した。
「好きなもん頼みな」
「……」
「何も企んじゃいないからさ。金の心配もするな。ついてきたってことは、私のこと、少しは信じてくれてるんだろ?」
 こくんと頷いたのを見て、女性は近くを通りかかった店員を呼び止めた。雷奈が指さすメニューを、女性が声に出して伝える。
「オムライス一つ」
「オリジナルソースのオムライスがおひとつ」
「このスパゲッティが一つ」
「たらこと青じそのスパゲッティがおひとつ」
「チーズインハンバーグが一つ……まだ食うんかい」
「四種のチーズのチーズインハンバーグがおひとつ」
「カツ丼が一つ……おいおい」
「ふわとろ卵のカツ丼がおひとつ」
「ミートチーズドリアが……いや、やっぱドクターストップ。以上で」
「かしこまりました」
 顔色一つ変えない店員はさすがのビジネスライク加減であった。
 店員が去った後、女性は両肘をテーブルにつき、組んだ手の上にあごを乗せて言った。
「私は上山手かみやまて耀あきらっていうんだ。あんたは?」
「……私は」
「おっと、やっぱ言わなくていい。当ててやろう」
「え?」
「三日月雷奈。違うかい?」
 ガタン、とテーブルに手をついて雷奈は立ち上がった。
「……なして」
「落ち着きな。まずは座りなさい。怪しい者じゃない。もう一言、私が自己紹介すれば納得するとも」
 いまだ警戒を解かない雷奈は、腰を下ろそうとしない。耀は肩をすくめて苦笑すると、追加の自己紹介を口にした。
「私はね、東京にいたころの三日月雷志らいし――あんたの母さんの同級生なんだよ」
「母さんの……!?」
「あんた、上に雷夢らいむ、下に雷帆って姉妹がいるだろ。どっちも知ってるよ。あんたがその二人ではなく雷奈だと分かったのは、年齢だ。あんたくらいの年の頃って言ったら、真ん中の子だろう、ってね。一応、雷志の……まあ、葬儀にも行ったんだけど、私のことなんて覚えてないよね」
 立ちすくむ雷奈に、手のひらを向けて、耀は着席を促した。雷奈はゆっくりと腰を下ろした。
「雷志……懐かしいな。東京にいたころはよく一緒に遊びに出かけて、いろんな秘密を共有する仲だった。大人になって、あの子は一人の男と一緒になった。その男のために都会を出て、種子島に移って……。それからも関係は続いたけど……あんなことになるなんて、思いもしなかった」
 耀は、特段悲しそうな顔はしなかった。ただ、悼むように目を伏せていた。
「けど、あんたたち娘がいるだけで、あの子はちゃんと生きたんだって思える。誇りに思いなよ」
「……はい」
 雷奈は、静かにうなずいた。
 そこへ、一品目が届いた。いただきます、とつぶやいて、雷奈はハンバーグをほおばった。久しぶりに口にするまともな食事に、思わず安堵の息をもらす。
「あんた、どのへんに住んでるんだ?」
「……東京です。光丘ってとこ……」
「奇遇だね。私と雷志が昔住んでたところだ」
「そうなんですか?」
「ああ。……にしても、一人で東京から静岡まで?」
「はい……」
 ハンバーグを食べ終わったころ、スパゲッティが運ばれてきた。それが終盤に差し掛かるころには、カツ丼が。
「見ていて気持ちのいい食べっぷりだな。よほど腹が減っていたのか」
「いえ、いっつもこれくらいは……」
「マジか」
 言葉を交わしつつ、運ばれてくる料理を次々と平らげていく。
 最後に運ばれてきたのは、茶色いソースの海に浮かぶ卵の島。オムライスだ。
 スプーンを手にして一さじすくい、口に運んだ雷奈に、耀はまっすぐな目を向けて問うた。
「なあ。……何があったんだ」
 雷奈の手が止まる。数秒固まった後、ゆっくりと咀嚼して、飲み込んでから、小さく答えた。
「……ごめんなさい、言えません」
「わかった、じゃあ聞き方を変えよう。今、話したいことは何だ。誰かに聞いてほしいことは、何だ」
 何かを話したいなど、聞いてほしいことがあるなど、言っていない。だから、そんなものはないと言って話を終わらせることもできた。
 だが、雷奈はそれをしなかった。――言っていないだけで、心の奥底には、外へ出たがって暴れる思いを閉じ込めたままだったから。
「……なして、こんなことになったと……」
 吐息交じりにこぼした言葉は、震えていた。
「そりゃ、私が気づけんかったのも悪かよ。あいつもつらい思いしてきたんやろうけど、ばってん……こんなやり方……!」
 みるみるうちに、うす茶の瞳に涙がたまる。不覚にも、オムライスのソースの上に零れ落としてしまった。
「それに、もう、誰にも助けば求められずに逃げるのは、嫌ばい……独りで向き合うことが、こんなに苦しいなんて……。ばってん、私の問題やけん、私が解決せんといかん……わかっとるけど……!」
 それ以上は言葉にならず、雷奈は肩を震わせて嗚咽を漏らした。
 独りで抱え込むには限界だった。独りで逃げて、独りでおびえて――口には出さなかったが、独りで死ぬことが、怖かった。逃亡に失敗すれば、雷奈は雷帆に殺される。助けてくれる人もいなければ、骨を拾ってくれる人もいない。ただ独りで地に転がって、ややもすれば誰にも見つかることなく朽ちるのかもしれない。そんな未来を思い浮かべるだけで、泣き叫びたくなるほどの絶望に襲われる。
 しばらく静かに泣いていた雷奈は、衝動の波が収まると、テーブルの上の紙ナプキンで顔を拭いた。
 まだ表情の晴れない彼女に、耀は穏やかな声で語りかけた。
「詳しいことはわからないが、それは私には協力できないことなんだな」
 雷奈はあごを引いてうなずいた。
「それで独りで何とかしようと思っていたんだな。だが……その孤独感には耐えられなかった」
 もう一度、首を縦に振る。耀は一拍おいて続けた。
「確かに、人間独りで立ち向かわなきゃいけないこともあるだろうさ。けど、それで孤独感まで感じる必要はない。なぜなら、人はその場には独りしかいなくても、見えないところに仲間がいるからだ」
「……見えない、ところに……」
「遠いところであんたを応援している仲間がいる。近くで、手を貸せなくても見守って成功や勝利を願っている人がいる。それだけで、あんたは孤立無援なんかじゃない。大丈夫、最初から独りじゃなかったあんたは、これからも孤独になることはない」
 雷奈の脳裏に、氷架璃と芽華実の顔がよぎった。逃避行のメールを受け取り、心配そうにしている。おそらくアワとフーにも伝わっているだろう。みんな、雷奈の安否を案じないような冷たいひとたちではない。きっと、雷奈の帰りを願っている。見えない遠いところで、願っている――。
「ありがとう、耀さん、私……」
 耀の黒い目を見つめる雷奈。耀はふっと笑った。
「顔つきが変わったな。本来ならあんたみたいなのはどこかに届け出ないといけないんだろうが、どうやらのっぴきならない事情がありそうだ。……食べたら行きな。連絡先は……おっと、スマホを家に忘れてるな」
「いえ、大丈夫です。……その、ご飯、ありがとうございます」
 オムライスの皿も空にすると、雷奈はすぐに立ち上がった。あまり長居して、雷帆に見つかったら、耀にまで危害を加えられてしまう。
 ぺこりとお辞儀すると、雷奈は足早にファミレスを出て行った。その後ろ姿を見送った耀は、せっかくだから自分も何か飲んで帰るか、とメニューを広げた。あの旺盛すぎる食欲は、とは正反対だ。
「けど、そっくりなんだよな……。ま、当たり前か」
 ふと、窓の外を見る。雨は、すっかり上がっていた。

***

 時刻は十一時。運命の時まで、残り一時間だ。
 久々にきちんと食事をとり、人と話し、感情を露わにした雷奈の頭は、霧が取り払われたように冴えていた。眠気はまだ残るが、気力は十分だ。ひとけのない道に入ると、猫力を発動させ、人間離れした速度で走り出した。GPSで確認したところ、あとはこの道を突っ切り、木々に囲まれた山道を登り切れば三枝岬だ。
 疾走する間、雷奈の中で、逃亡中の感じたこと、考えたことが思い返された。出発時の意気込み、油断からの恐慌、孤独、焦り。知らない町をおびえながら進み、休まらない休憩を経て、ここまで来た。
「……生きてやる」
 雷奈は力強くつぶやいた。自分自身に言い聞かせるように。
「絶対、雷帆から逃げ延びる。そんで、生きて帰るとよ……!」
 雷帆の猫力の件をフィライン・エデンはどうするのだろう。そんな考えもよぎったが、それは帰ってからだと首を振り、雷奈は夜の山道を駆け上がった。人の気配はない。車も一台もない。ここにいるのは、雷奈一人。だが、独りではない。そう強く思いながら。
 走って、走って、走り抜けて――たどり着いた、開けた場所。
「……ここが……」
 息を弾ませながら、雷奈はあたりを見回した。黒い木々は、雷奈の左右にはいくつもたたずんでいるものの、前方にはまったく見受けられない。それもそのはずだ。このまま進めば断崖絶壁、地の果てなのだから。
 柵もない崖へと恐る恐る近づいていくと、徐々に水平線が見え始める。雨がやんで顔を出した月の明かりに照らされた海は、暗く、まるで墨汁がたまっているようだった。下から、波が打つ音が聞こえてくる。
 念のためGPSで確認する。間違いなく、この何もない殺風景な場所こそが三枝岬だった。午後十一時三十分、雷奈は長い旅の果て、指定の場所に到着したのだ。
 風が木々を揺らす音と、波が押し寄せる音だけが支配する岬。ここからどうしたらいいものかと考えていると――。
「よく来たね、姉ちゃん」
 反射的に身を引いた。右手の木の陰から、一人の少女が姿を現したのだ。
 雷奈と同じ、淡い色の長い髪と白い肌。くりくりした勝ち気な瞳。性格どおりの活発そうな服装。背中には、何やら長いものを背負っている。
「……雷帆」
 雷奈は赤い目で妹をにらみつけた。雷帆もまた、姉を見つめ、不敵に笑う。
「長旅お疲れさん。さて、感想でも聞こうかな。三日間一人で逃げ回った孤独はどう?」
 挑発的な雷帆から一寸も目を離さないようにして、雷奈は黙っている。雷帆は一歩、一歩と近づきながら、なおも問う。
「眠れなかった疲弊感はどう? いつ殺されるかわからない恐怖はどう? 妹が豹変した困惑はどう? ――見つかった絶望はどう?」
 追い詰められたうさぎを嬲る蛇のような笑みを浮かべる雷帆に、雷奈は口を開いた。
「孤独なんて、感じとらん」
 雷帆が片眉をあげた。
「私の帰りを待つみんながいるけん、孤独は感じとらん。疲弊感もどうってことなか。さっき寝たし」
 強く声を張り、堂々と言い放つ。
「恐怖なんてなか。私は殺されないから。困惑なんてしとらん。私はあんたのすべてを受け入れる。絶望もしとらん。だって」
 風がやんだ。波の音もなりを潜める。にじみ出した気迫に、自然すらも気圧されたように。
「――見つかったなら、やっとけりをつけられる」
 雷帆はわずかに驚いたように目を見張った。が、すぐににやりと笑う。
「言うね。――じゃあ、決着ば着けようか。まだゲームは終わっとらん。ここにたどり着いたことで、チャンスはできた。あと三十分……その間生き延びれば、あんたの勝ちったい。ここから出ず、あたしの攻撃をかわし続けられれば、ね」
 雷奈は深紅の瞳を険しくした。雷帆は、手刀で身を切る猫術をもっている。それだけでなく、鋼の猫術の範疇なら、ほかの攻撃手段も持ち合わせているのだろう。それに加えて、背中に背負っている
「…………」
 一瞬、体が震えた。ぎゅっと拳を握り、無理やり押さえつける。
 臆している場合ではない。もう、あとには引けない。
 意を決すると、雷奈は一歩、足を踏み出した。
 踏み入ったそこは、戦場。
 正念場という、戦場だ。
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