フィライン・エデン Ⅰ

夜市彼乃

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4.因縁編

17デジャヴは霧に消ゆ 前編

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 その光景を、茫然と見るしかなかった。
 おとなしく、優しい友人だった。淑やかで、女の子らしくて、大声をあげたり腕白をしたりなどしない彼女。親友といっていい仲で、お互いがお互いを尊敬しあい、好いていた。
 今、言葉ですらない声で喚き散らし、四肢を振り回して暴れ、何も瞳に映さない彼女のどこに、その面影を見ればよいのだろうか。
 看護師が数人がかりで押さえこむ。切り傷だらけになった両腕に拘束具がつけられる。もはや言葉は通じない。
 彼女の名を呼ぶ。すぐに叫びにかき消された。
 もう一度呼ぶ。こちらを一瞥もしない。
「すみません、今日はお引き取りください!」
 看護師に引っ張られて、部屋の外に出されようとする。たまらず、彼女に向かって手を伸ばした。
「ねえっ、私のこと、分かって! こっち見て! お願い……!」
 ふと、自分が誰に呼び掛けているのか分からなくなった。足場がなくなるような、つかんでいたものが消えたような、そんな感覚。
 自分の声に反応しない。自分を覚えているのかすら定かでない。彼女が彼女自身をまだもっているのかも怪しい。そんな「あの人間」は、もはや彼女であるといえるのか。
「いや……いやああああっ!」
 部屋から出され、ドアが閉められた後、耳をつんざいたのは、自分の悲鳴だった。

***

「……!」
 目を見開き、勢いよく体を起こす。視界に入ったのは見慣れた和室。部屋主の嗜好で木目調のタンスや鏡台が置かれた、神社の宿坊の一つだ。
 雷奈は何度か肩で息をしているうちに、落ち着きを取り戻していった。それと同時に、胸を悲しみが侵食する。まだ、耳に彼女と自分の絶叫が残っていた。熱っぽいため息をついて、膝を抱える。
「……なして……」
 もう一度横になる気にもなれず、体を丸めたままの雷奈を、やがて朝日が照らした。

***

「おはよー」
「おはよう」
 先に来ていた氷架璃たちに、手を振りながら芽華実が駆け寄る。そばで地面をつついていた数羽の雀が、足音に驚いたか、瞬く間に飛び立っていった。
 二学期が始まり、神社前に集まる日々が再開した。一学期と変わらず、アワとフーは主体、ルシルは双体だが、荷物は三人とも源子化している。そこへ時間より少し遅れて、最後の一人、雷奈が出てきた。
「おーっす……ん? なんか元気ない?」
 氷架璃は手を挙げて挨拶しかけたところで、雷奈の表情の微妙な異変に気付いた。雷奈は苦く笑いながら、緩く首を振った。
「悪夢にうなされただけばい」
「それは災難だったな」
 飛び起きたのが午前四時半。それから数時間の経過は、深い負の感情を和らげてくれた。叫び声は遠く、凄惨な光景は白くかすんでよく思い出せない。
 ――それがただの夢だったなら、どんなによかっただろうか。
「じゃ、行こっか。ほら、ルシルもスマホは終わり!」
「あ……悪い」
 スケジュール確認を中断し、スマホをポケットにしまうと、ルシルは軽く嘆息した。彼女のまとう空気は、わずかに張りつめていた。
「あんたも変な夢見たの?」
「いや、前の寄合で議題に上がったことを考えていた。クロやダークが人間界で生まれている……。もしそうだとすれば、異常事態だ。夢ならよかったんだがな」
 すでにルシルから雷奈たちにも伝わっている話だ。おかげで人間界に駐在する二番隊の隊長たる彼女は荷が重いらしい。
「まあ、考えても仕方ないだろ。出てきたやつを倒せばいいんだよ」
「他人事みたいに……」
「私だって少しは光術使えるようになったんだから、頼りにしろよ」
「笑止、希兵隊の隊長が戦闘面で人間に頼るなど、プライドを刻んで踏みつぶしてドブに捨てるような愚行だ」
「かわいくねぇっ!」
 氷架璃がすねたことを皮切りに、少しずつ笑い声を増やしながら登校した一同。二十分ほどして教室につくと、クラスメイトの女子が数人駆け寄ってきた。
「おはよう、雷ちゃんたち! ねえ、昨日の九時ドラマ見た!?」
 今話題の恋愛ドラマの話だ。主人公の男性が、幼馴染の女性と、仕事のパートナーである先輩女性との間で揺れる物語。ファンの間では、最終的にどちらと結ばれるのかが大いに議論されている。
「今、みんなにアンケートとってるのよ! どっちとくっついてほしいと思う!?」
 ご丁寧にメモを取っているようだ。ピンクのボールペンで書かれた正の字の数は、幼馴染と先輩の接戦を物語っている。
「んー、途中からしか見てないけど、私は先輩の方とくっついてほしいかなー」
 氷架璃が答えると、先輩の方に一本線が引かれた。
「私はあらすじしか知らんけど、聞いてる限りでは、幼馴染の方がよか! ずっと想い続けとるっちゃろ?」
 幼馴染の方に、一本線。
「流清君と風中さんは?」
「ごめん、ボクそれ見てないんだ」
「私もなの」
「えー、河道さんは?」
「私も見ていないんです」
「めーちゃんは?」
「私は見てるよ」
 微笑んだ芽華実に、女子たちは沸き立つ。
「どっちがいいと思う!? やっぱ幼馴染!?」
「いいと思う。幼馴染同士の恋って、素敵よね」
「いやいや、先輩でしょ!」
「それもそれで憧れるわね」
「どっちよ!?」
 幼馴染派と先輩派の双方に同意した芽華実は、三人目に突っ込まれた。
「うーん……どっちだろ? どっちもいいと思うけど」
「美楓さんってさ、優柔不断だよね」
 突っ込んだ女子が、少し目つきを尖らせて言った。
「どっちって聞いてるのに、なんで自分の意見言わないの?」
「え、うーん……」
「前も国語の授業の時に曖昧な回答してたし。なんていうか……自分ってものがないんじゃないの?」
「ストップストーップ」
 そこへ、氷架璃が割って入った。
「喧嘩の兆し見つけたり。ちょーっと言いすぎだよ?」
「いいよね、困ったときは水晶さんがいるんだもん」
 そう言い残して、彼女はふいっとどこかへ去ってしまった。芽華実は申し訳なさそうにうつむいている。
「め、めーちゃん、気を落とさないで」
「どっちもいいと思うことだって、あるよね」
「うん……」
 幼馴染派と先輩派の二人が慰めてくれたが、芽華実の返事は細い。
 フーも、肩を落とした芽華実を心配そうに見ていて。
 その隣で、自分の両腕を抱くようにさする雷奈がいた。

***

 日が短くなりつつある夕方。一度帰宅したのち、スーパーに出向いていた二人は、家に戻ると二手に分かれた。一人は玄関へ、一人は裏手へ。
「ただいまー」
「おかえり、氷架璃。欲しかったお菓子はあったかい?」
「うん!」
 元気よく返事して、氷架璃は二階に上がる。自室のドアを開けると、すでに裏の窓から入ってきていたルシルが不遜に腕組みして立っていた。
「なんでうちの居候はこんなに偉そうなんだよ、怖がりのくせに」
「家財保険には入っているか?」
「待て待て、ここで洪瀧はやめろ!」
 浸水被害をもたらそうとするルシルを必死になだめる氷架璃。二人とも、スーパーの袋をそれぞれ下げていた。
「あんたもそんな米と野菜だけの夕食じゃなくて、たまにはこういうの食べたら?」
 ジャーキーを取り出して差し出す氷架璃に、ルシルは顔をしかめて首を振った。
「だいたい、なぜ氷架璃の好きなものを買ってきているんだ。芽華実にあげる和菓子を買ったのではなかったのか?」
「いや、ついね。……まだ引きずってるかな、芽華実……」
 芽華実は、確かに優柔不断かもしれない。あまりはっきりノーと言わない質なのだ。だが、見方を変えればそれも長所だ。誰の気持ちもわかってあげられる柔軟な思考の持ち主と考えれば、あんな言い方をされるものでもない。
 それきり物思いにふける氷架璃に、ルシルが口を開きかけた時だ。
「氷架璃っ!」
 突然、窓から主体姿のアワが顔を出した。二人とも、思わず肩を震わせてそちらを振り返る。
「な、なんだ、アワ!? びっくりした、帰ったんじゃなかったのか!?」
「もっかい来たんだよ! フーから連絡があって……。大変なんだ、芽華実が、芽華実が……!」
 尋常でないアワの様子に、家を飛び出した二人は、彼とともに来ていた雷奈とフーに合流した。フーは取り乱しながらも、事の経緯を三人に伝えた。
 気を落とした芽華実を励まそうと、フーは放課後、フィライン・エデンに戻った後、再度芽華実を訪ねる約束をしていた。時間になり、打ち合わせ通り開け放たれた芽華実の部屋の窓から入ったフーは、愕然とした。机の上は散乱し、棚のものが床に転がり落ちている。ベッドのシーツもぐちゃぐちゃ。荒れに荒れた部屋の中に、芽華実の姿はなかったという。慌てて連絡を取ろうとしたが、電話をかけても、机の下に落ちていた芽華実のスマホが空しく鳴るだけ。異様な形の行方不明だという。
「どうしよう、何があったのかしら……」
「まさか誘拐か? 空き巣と鉢合わせたか?」
「クロが人間を誘拐できるとは考えにくいな。ダークだとしたら、どうやって部屋に入ったんだ? ……人間の仕業か?」
 口々に可能性を語る中、一人うつむいて無言を貫く者がいた。
「……どうした、雷奈?」
 ルシルがのぞき込む。そして、蒼白になった顔を見てぎょっとした。
「雷奈……!?」
「……探そう」
 顔を上げた雷奈の目は、焦点も定まらないほどに焦燥に染まりきっていた。
「探そう、早く、見つけんと、手遅れになる前に……!」
「ちょ、落ち着け、雷奈!」
 氷架璃ががっしと肩をつかむ。
「何、なんか心当たりあんの!? 手遅れになるって……」
「それは……」
 揺れる瞳が、氷架璃から地面へ視線を滑らせる。
「……なんでも、なか」
「……いずれにせよ、何かあったのは間違いない。早く見つけるに越したことはないだろう」
 ルシルの言葉に、皆うなずき合い、手分けして捜索することにした。氷架璃は学校方面を、雷奈は駅の付近を、ルシルは住宅街近辺を走り回った。アワとフーは屋根伝いに飛んで広範囲を探す。だが、一向に探し人の姿は見つからなかった。
 駅から住宅街へと戻ってきた雷奈は、疾走のせいだけではない息切れに喘いだ。胸を押しつぶすような不安がせりあがる。夢の内容がフラッシュバックした。
 もし、芽華実が、分別もつかない、自傷と絶叫と狂乱にまみれた「誰か」になったら――。
「どげん……したら……」
 視界がにじむ。遠目に見える神社の杜も霞んで見えた。だが、すぐに目をぬぐって気を奮い立たせる。まだ懸念する事態に至ったとは限らない。こうしている間に、刻々とそれに近づいていくなら。動くことで、阻止できるなら。
 立ち止まるわけにはいかない――そう言い聞かせて、前を見据え、ふと雷奈は眉をひそめた。
 もう一度目をこする。前を見る。次は首をかしげた。
 涙はぬぐったはずなのに、まだ霞んで見える。目がおかしくなったのか、と思ったが、近くははっきりと見える。神社の杜のほうだけ霞んで見えるのに気づくと、雷奈はすぐさまスマホを取り出した。
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