【完結】観察者、愛されて壊される。

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【最終章】だいすきなひと

後日談1

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(孝視点)




「はい、口開けて」
「……ん」

抵抗はしなかった。
澪がスプーンを差し出せば、それを素直に咀嚼する。
朝も、昼も、夜も。気がつけばごはんを食べさせてもらうことに慣れていた。

食後には、俺の髪を整え、服の皺を手で撫でて直す澪。
飼い主と、それに従う犬。
今の俺たちは、どう見てもそういう構図だろう。

だけど俺は、何ひとつ逆らわない。
いや——逆らえない、という方が近いのかもしれない。



(……愛されるって、こういうことなのかな)

ふと、そんなことを思う。
俺がこんなに丁寧に扱われるなんて、いつぶりだろう。






***



物心ついた頃には、弟がいた。
忠(ただし)は俺より二つ年下で、病弱だった分、親の注目はすべてそっちに向いていた。

俺は、いい兄だったと思う。
少なくとも“演じる”のは得意だった。

人間を観察するのが好きだったから。
誰が何を求めてるのか、見れば分かった。
だから俺は、いい兄でいられた。
怒らせず、困らせず、褒められる“理想の兄貴”だった。

我儘は言わなかった。
我儘なんて、言わなければいつの間にか湧いてこなくなるもんだ。


(……器用に生きるのって、案外、楽なんだよ)

中学に上がる時、俺はこの学園に入った。
寮暮らしになったことで、親の顔色も、家族の空気も考えなくてよくなった。

最初は開放感だった。
自由を謳歌するうちに、いつの間にか“悪童”と呼ばれるようになっていた。

そんなとき——忠が、同じ学園に入学してきた。

2年ぶりに再会した弟は、俺を見るなり、言葉を詰まらせた。
その顔には、軽蔑と失望が混ざっていた。

(……憧れてた、って言ってたっけ。)

忠は真面目だった。正しくて、素直で、俺とは逆の性質を持っていた。それでも俺の後を追ってきたのは、憧れがあったからなのだろう。

だからこそ、俺が“いい兄”を脱ぎ捨てて、好き勝手に振る舞っている姿は
弟にとって、裏切りだった。


でも、俺はそのとき——咄嗟に“演じる”ことを選ばなかった。


笑ってしまった。



忠の顔がぐちゃぐちゃに歪んで、目の奥に怒りと困惑が同時に走るのを見て、口をついて出た言葉は。

「……まだ、お前には分からないかもしれないけど、」
「人間を“観る”のって、最高に楽しいんだよ」

それを聞いた弟の瞳が、にじんで淀んでいった。
あの瞬間、決定的に俺たちは決裂した。







(あいつは、俺とは違ったんだ)

同じように“観察する目”を持っていても、忠は傷つけることを望まなかった。
俺だけが、“反応”に取り憑かれた。

なのに俺は、追いかけもしなかった。
ただ、観察していた。弟の反応すら、俺にとっては“面白かった”だけだった。


(……澪のことも、弟のことも、俺が誠実だったら傷つけずに済んだのに)

そう思うようになったのは、
澪に“甘え”を許されてからだった。


「澪ちゃん……これ、苦手かも」
「いいよ。残して」

わがままを言って、許される。
頼って、世話されて、怒られない。
いつの間にか、俺は“子ども”に戻っていた気がした。

だけど、戻ったところで終わらせるわけにはいかない。

俺は、俺の責任を果たさなきゃいけない。

人の感情を弄んで、目を濁らせて、壊れていくのをただ眺めていた。


(ねぇ、澪ちゃん。澪が幸せなら俺はいくらでもこの恋人ごっこを続けるよ)

(身体も心も全部あげる。)

(———でもね、)


そうして築かれているはずの今の関係が、
澪にとって苦しそうに見えるのは、どうしてだろう。







***
(澪視点)





「孝」

声をかけると、パッとこちらを向いた孝が、まるで子犬みたいな顔をして笑う。

「澪ちゃん!」

教室の前で待っていた俺に気づくと、孝は囲んでいたクラスメイトたちに軽く手を振り、机の上の鞄を抱えて小走りに出てきた。自然に、なんの疑いもなく、俺の隣に並ぶ。


「何の話してたんだ?」

「ん? なんか、澪ちゃんと俺のこと知りたいんだって。
 もう一年以上経ってんのに今更?って感じだけど」

そう言う孝の目は、甘く蕩けていた。
俺に向けられるまなざしはいつも優しくて、従順で、すっかり“恋人”の顔をしている。


クラスの連中と談笑しているときの、孝の表情は違った。

目の奥までしっかり笑っていて、会話の主導権を握るでもなく、流されるでもなく、軽やかにその場を泳いでいた。
あの顔は——あの頃の孝に、そっくりだった。

俺がまだ、“擬装カップル”の殻を被っていた時。
心の距離を測りかねて、踏み込むのを恐れていた頃。
垣根孝が、時々見せていた、性悪で、悪辣で、傲慢なあの顔。


(……思い出すな)

俺が最初に惹かれたのは、あの危うさだった。

人の感情を弄びながらも、自分の傷には無頓着で、
観察のためなら殴られようが何をされようが平気な顔をして受け入れているその異常性に、目が覚め離せなくなった。

孤独なことに気づいていない——いや、気づいていても笑って誤魔化すような、ひどく矛盾した奴。
俺は、その矛盾ごと、欲しかった。

あの時のこいつに恋心なんてバレたくなかった。
この気持ちさえ観察対象として消費されたらと思うと、友人としてコイツの望む距離で生きてやろうと思っていた。


(……それなのに)

俺に見せない“観察者”の顔を見て、胸が痛むなんて。
俺は、何を求めてるんだ。

(こいつが欲しいから、俺は“不正解”を選んだくせに)

ずっと一緒にいるために。
俺だけのものにするために。
孝を壊して閉じ込めた。
その結果どうなるかなんて、とっくに分かってた。

それでも腕を縛り抵抗を奪い、身体を躾けた。
飯を食べさせて、風呂の世話をして、
拒否することが以下に無駄か教え込んで″慣れ″させた。


支配は、愛とは違う。
従順さの先にあるのは、服従であって幸福じゃない。
でも、手放せなかった。

(——今更、何を惜しんでるんだよ)

欲しかったはずの“孝”は手に入った。
絶対に手離さない。何があっても幸せにする。

それなのに心のどこかで、もう一度だけ“あの孝”に触れたいと思ってしまう。






今の孝が、
まるで俺のためだけに微笑んでくれることが、
苦しくて、
嬉しくて、
でもそれでも、
辛い。





(虫が良すぎる……)



誰にも、俺の浅ましさは見せられない。

だから俺は、いつも通り、何気ないふりをして歩き出した。

隣に、忠実な恋人を連れて。

「……晩飯、何食いたい?」
「え? なんでもいいよ。澪ちゃんの作るものなら」

また笑う。
あどけない声で、全幅の信頼を乗せて。

それが、俺をまたひとつ、壊していく。




(なあ孝。お前、今幸せか?)





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