【完結】観察者、愛されて壊される。

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【第四章】管理編

4-3

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(孝視点)





——朝の空気が、肌に冷たかった。

まだ夏の名残があるというのに、俺の手足だけが季節を先取りしているみたいだ。
袖の下、手首に擦れた細かな傷痕が火照って、制服の生地に触れるたび、鈍い痛みが走る。

昨日、澪に縛られていたネクタイの痕。

 

「……ほら、行くぞ」

耳元に落ちてきた声は、やけに穏やかだった。
その穏やかさが、今は、いちばん怖い。

俺は返事をせず、ただ足を引きずるように歩き出した。
腕に拘束はもうない。澪の指も、俺を掴んではいない。
けれど、逃げるという選択肢は最初から存在しなかった。

どこにも逃げ道はなくて——
それは俺の足が、俺の意思じゃ動かせないってだけじゃない。
心が、先に縛られているからだ。

 

昇降口から伸びる登校路。
風に揺れる植え込みの向こうに、見慣れた金髪の後ろ姿が見えた。

——天瀬晴人。そして、その隣には……根津美咲。

 

一瞬だけ、視界が滲んだ。
涙じゃない、と思う。
でも、それが何だったのかは、わからなかった。

美咲は晴人と肩を並べて笑っていた。
あの柔らかい笑顔。あの自然な距離感。

俺と似たような環境にいたはずの、美咲くん。
“あの人”に選ばれて、今も監視されて、きっと管理されてるはずの存在。

それでも、笑っていた。

それでも、楽しそうだった。

 

そんな俺の視線を察したように、隣の澪がふと顔を向ける。

無言のまま、俺の手首を指先で撫でた。
スッと引っかかるようなその動きに、反射的に身が強張る。


「おとなしくしとけ」

——囁くような声だった。
澪の唇が、耳のすぐそばで動いた。


「でなきゃ、今度は“委員長”が出る」

その言葉を聞いた瞬間、頭の奥が痺れた。

 

——昨日の夜の出来事が、脳裏をよぎる。

背中で縛られた手首。口に差し出されたスプーン。脱がされた服。足元のバスタブ。首に触れていた、細い紐の感触。

……自分の意思で食べることも、風呂に入ることも、もうできなかった。
全部、澪の手がなければどうにもならない。

けれど——

もし、“委員長”が来たら。
あの天瀬晴人なら、そんな手間もかけず、もっと無機質に、もっと効率的に——俺を壊してくるだろう。

 

思考が、喉の奥で途切れた。
誰かに首を掴まれたわけでもないのに、呼吸が浅くなる。

俺は俯いたまま、ただ歩いた。

美咲くんの笑顔を見ないように。
天瀬晴人の姿から目を逸らすように。

そして、澪から——逃げられないことを、自分自身に言い聞かせるように。

 

少し先で、天瀬晴人が美咲くんの髪に手を伸ばしていた。
校舎の影に二人の姿が重なり合い、朝陽に照らされて、まるで青春を切り取った絵みたいに見えた。

……俺たちとは、違う。

けれど、違わない。

それがいちばん、怖かった。

 


***



 


ガラリ、と教室のドアを開けた瞬間、いつもの雑音が耳を打った。
 

「おーい垣根、やっと来たじゃん!」
「なんか、恋人と喧嘩したとか?」
「てか見なかった間、アイツんちに閉じ込められてた説ない?」
「やっば。マジで? それホラーじゃね?」

——騒がしい。ほんと、変わらないな。
Cクラスは、教師の目が届きづらい場所にある。
そしてここの生徒は、どこか他人の地雷を踏み抜くのが得意な奴ばかりだ。

からかうような視線、無責任な好奇心、憶測まじりの質問。
そんな空気に囲まれていると、皮膚がざらつくような感覚になる。
 

「……煩い。目障りだから話しかけないでよ」

口にした声は、自分でも思ったより冷たかった。

いつもの、カラカラと笑う天邪鬼な″垣根孝″は、そこにはいなかった。
神経を尖らし、渦のような目が″近付くな″と周りを睨む。
クラスはシンと静まり返り、誰からともなく垣根から離れた。


もう、ここだけだ。
この教室の中だけは澪に侵されず、″支配者″でいられる

なのに、俺から距離を取ってもなお、こちらを見る不躾な視線が俺に纏わりつく。
気持ち悪い、好奇心を抑えようともしない大衆の目。
これまで散々、俺の欲のために″この大衆の目″を利用してきたはずなのに、今はただただ気持ち悪い。

 

——もう、俺には、ここしか居場所がないんだ。

 

席に着くと、自然と机に突っ伏してしまった。
俯いたまま、何も見たくなかった。

でも——脳裏には朝の光景が焼きついていた。

晴人の隣で笑っていた、美咲の姿。

 

(……ねぇ、美咲くん)

心の中で呼びかけても、当然あいつは答えない。
でも、それでも叫びたかった。

(お願いだから、そんな風に幸せそうにしないでよ)

自分でもわかってる。
あれは“演技”じゃなかった。
あの人と一緒にいることで、あいつは“本気で”嬉しそうだった。

 

(——こんなのが、こんな愛が、幸せだなんて)

 

……証明しないでよ。

 

俺は知ってる。
美咲のことを、あの風紀委員長が、どういう風に見ていたか。
どれだけ周囲に嘘を塗り固めて、本性を隠していたか。

それでも、美咲はその人の隣で、柔らかく笑っていた。
腕を引かれても拒まない。
監視されていても怖がらない。
——いや、もう「怖くなくなった」んだ。

支配されて、管理されて、それを“愛”として受け入れた。

そうなったとき、人は笑えるようになるのか。

 

(俺も、そのうち……)

ぞくりと背筋が冷えた。

俺もそのうち、澪の隣で笑うようになるのか。

飯を食べさせられるのが当たり前になって。
手を引かれて風呂に入るのが当たり前になって。
拒否するのが“変”で、従うのが“普通”になって。

そしていつか——

澪の隣で、「嬉しい」なんて顔をするようになるのか。

 

(……怖い)

自分の心が、自分じゃなくなるのが怖い。

澪の“愛し方”を、俺が肯定してしまいそうになるのが怖い。

 

教室の喧騒は、俺の中にはもう届かなくなっていた。
ひとりの世界で、机に伏せたまま、俺は目を閉じた。

この場所ですら、俺の安全地帯ではなくなっている。

どこにも逃げ場がない。
どこにも、誰もいない。

 

(ねぇ、美咲くん)

 
(俺と、逃げてよ。)






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