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踊る炎
踊る炎(4)
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思えば別れ際も何となくおかしかった。
マリア・カタリーナに去られた後、ルイ・ジュリアスは用事があると言っていそいそとその場から消えたのだった。
おかげでリヒャルトは変人のパン屋と二人残され辟易したものだ。
まさかルイ・ジュリアスの奴、あの陰気な妹に想いを寄せて?
それで妹の後を追って?
「ないない。さすがにそれはありませんね」
なんて言いながらも、どうしても気になる。
ルイ・ジュリアスは狭い市壁内をうろつき、そしてリヒャルトをこんな所にまで誘ったのだ。
奴を陥れてやろうという高揚感も、彼がどこへ向かうのだろうという好奇心も次第に消えて、リヒャルトはただ諾々と尾行を続けていた。
切り上げる潮時を完全に見誤った──今はそういう心境だ。
実戦向きではないかもしれないが、自分だって馬鹿ではないとリヒャルトは自負する。
ルイ・ジュリアスの動きがおかしいということは後をつけてすぐに気付いた。
急に立ち止まったり、物陰に隠れたり。
かと思えば突然走り出したり。
その行動は、リヒャルト自身のそれととてもよく似ている。
そう、ルイ・ジュリアスも誰かの後をつけていたのだ。
リヒャルトからその者の姿は見えないだけに、ふと我に返ると何とも言えない虚しさに襲われる。
狭い街の中で後をつけあって……自分たちは一体何をしているのだと。
この場合、ルイ・ジュリアスが何かをやらかす可能性は皆無だ。
もし何事かが起こるとすれば、それは彼が後をつけている人物が行うわけで。
それが何であっても、ルイ・ジュリアスを糾弾する材料とはなるまい。
とんでもなく無駄な時間を過ごしている気がして、リヒャルトは遂に足を止めた。
いいです、戻ります。
何事にも中途半端な自分は、暗くなるまで街をほっつき歩いて何をしていたのかしらと妹にけなされるのが似合いなのです。
「陰気なマリア」という妹本人にしてみれば不本意であろう異名ですら、リヒャルトには羨ましく思えて仕方なかった。
なぜなら、それは圧倒的な存在感の証に他ならないからだ。
対して己はどうだ。
消え入りそうなこの姿。
街からいなくなっても誰も気付きはしないだろう。
またもや視線を足元に落としかけたその時だ。
視野の端で、赤が踊った。
「なんですか……?」
初め、それはただ美しく思えた。
赤いドレスを着た女性が踊っている?
地を舐めるような足取りで、情熱の舞を──違う!
嗅覚からの情報が、視覚の認識を覆した。
鼻の奥がツンと痛む。
口の中から水分が失われ、乾ききった上顎に舌が張り付く。
染みるような刺激に、反射的に涙がこぼれた。
すえた匂い。
この焦げ臭さは何だ。
「……火事?」
ようやく気付いた。
道端で木桶が燃えている。
一瞬後にはそれは石畳に広がり、炎は大きくなった。
「なぜ……」
石で造られている地面なのに、何故こんな簡単に火を噴きあげるのだ。
無意識の動きだろう。
右手は上着のシャイブラー紋の元へ。
しかし名門貴族の証たる獅子は、こんな時何の力も貸してはくれない。
「だ、だれかぁ……かはっ」
助けを求めての叫び声も掠れ、さらに震えを帯びていた。
喉の痛みというより恐怖故か。
足が動かないのも、臆病なこの心のせいなのか。
逃げ出したい。
父が冷たくこちらを見ても、妹に馬鹿にしたように罵られても、それでもここから逃れたい。
駄目だ──リヒャルトは震える膝に力を込めた。
青色の上着を脱ぐ。
その肩口を両手で握りしめるようにつかんで振り上げる。
火に向けて叩き付ける。
何度か同じ動作をしてから、これでは無理だ、火は消えないと悟る。
立ち尽くし、それでもリヒャルトはこの場を離れようとはしなかった。
──防火対策はリヒャルトが担当しろ。
それは他ならぬ父の言葉だ。
案の定というべきか、花形である小隊の指揮はルイ・ジュリアスに任された。
総司令官の息子たる自分は、集落の住民の避難誘導と防火班。
地味としか言いようがない任を与えられたのだ。
それを、適材適所という安易な言葉でまとめられたのだから腹も立つというもの。
それでも、それは父の言葉であった。
立ち昇る熱から顔を背けながらも、リヒャルトはその場に踏み止まる。
両肩が悲鳴をあげるのも構わず、上着を振り続けた。
火の粉が手に、顔に、見境なく爆ぜて肌を焼くことにすら気付かずに。
しかし炎は鎮まらない。
桶数個の水があれば簡単に鎮火しそうな小さな面積の炎なのに。
あらかじめこの地点に布や紙など用意し、いや、油でも撒いているのでない限りこんな風に燃える筈がない。
それはつまり故意に火災を起こそうとしたということ。
「熱っ!」
その油に接触したか、上着に炎が燃え移ってしまった。
裾半分がゴウと音たて火の粉を振りまく。
両手に迫る熱。
とっさに上着を放り出してしまいそうなるのを懸命にこらえる。
リヒャルトは自身の手元で燃える炎をも消そうと、更に勢いよく地面に上着を叩き付けた。
マリア・カタリーナに去られた後、ルイ・ジュリアスは用事があると言っていそいそとその場から消えたのだった。
おかげでリヒャルトは変人のパン屋と二人残され辟易したものだ。
まさかルイ・ジュリアスの奴、あの陰気な妹に想いを寄せて?
それで妹の後を追って?
「ないない。さすがにそれはありませんね」
なんて言いながらも、どうしても気になる。
ルイ・ジュリアスは狭い市壁内をうろつき、そしてリヒャルトをこんな所にまで誘ったのだ。
奴を陥れてやろうという高揚感も、彼がどこへ向かうのだろうという好奇心も次第に消えて、リヒャルトはただ諾々と尾行を続けていた。
切り上げる潮時を完全に見誤った──今はそういう心境だ。
実戦向きではないかもしれないが、自分だって馬鹿ではないとリヒャルトは自負する。
ルイ・ジュリアスの動きがおかしいということは後をつけてすぐに気付いた。
急に立ち止まったり、物陰に隠れたり。
かと思えば突然走り出したり。
その行動は、リヒャルト自身のそれととてもよく似ている。
そう、ルイ・ジュリアスも誰かの後をつけていたのだ。
リヒャルトからその者の姿は見えないだけに、ふと我に返ると何とも言えない虚しさに襲われる。
狭い街の中で後をつけあって……自分たちは一体何をしているのだと。
この場合、ルイ・ジュリアスが何かをやらかす可能性は皆無だ。
もし何事かが起こるとすれば、それは彼が後をつけている人物が行うわけで。
それが何であっても、ルイ・ジュリアスを糾弾する材料とはなるまい。
とんでもなく無駄な時間を過ごしている気がして、リヒャルトは遂に足を止めた。
いいです、戻ります。
何事にも中途半端な自分は、暗くなるまで街をほっつき歩いて何をしていたのかしらと妹にけなされるのが似合いなのです。
「陰気なマリア」という妹本人にしてみれば不本意であろう異名ですら、リヒャルトには羨ましく思えて仕方なかった。
なぜなら、それは圧倒的な存在感の証に他ならないからだ。
対して己はどうだ。
消え入りそうなこの姿。
街からいなくなっても誰も気付きはしないだろう。
またもや視線を足元に落としかけたその時だ。
視野の端で、赤が踊った。
「なんですか……?」
初め、それはただ美しく思えた。
赤いドレスを着た女性が踊っている?
地を舐めるような足取りで、情熱の舞を──違う!
嗅覚からの情報が、視覚の認識を覆した。
鼻の奥がツンと痛む。
口の中から水分が失われ、乾ききった上顎に舌が張り付く。
染みるような刺激に、反射的に涙がこぼれた。
すえた匂い。
この焦げ臭さは何だ。
「……火事?」
ようやく気付いた。
道端で木桶が燃えている。
一瞬後にはそれは石畳に広がり、炎は大きくなった。
「なぜ……」
石で造られている地面なのに、何故こんな簡単に火を噴きあげるのだ。
無意識の動きだろう。
右手は上着のシャイブラー紋の元へ。
しかし名門貴族の証たる獅子は、こんな時何の力も貸してはくれない。
「だ、だれかぁ……かはっ」
助けを求めての叫び声も掠れ、さらに震えを帯びていた。
喉の痛みというより恐怖故か。
足が動かないのも、臆病なこの心のせいなのか。
逃げ出したい。
父が冷たくこちらを見ても、妹に馬鹿にしたように罵られても、それでもここから逃れたい。
駄目だ──リヒャルトは震える膝に力を込めた。
青色の上着を脱ぐ。
その肩口を両手で握りしめるようにつかんで振り上げる。
火に向けて叩き付ける。
何度か同じ動作をしてから、これでは無理だ、火は消えないと悟る。
立ち尽くし、それでもリヒャルトはこの場を離れようとはしなかった。
──防火対策はリヒャルトが担当しろ。
それは他ならぬ父の言葉だ。
案の定というべきか、花形である小隊の指揮はルイ・ジュリアスに任された。
総司令官の息子たる自分は、集落の住民の避難誘導と防火班。
地味としか言いようがない任を与えられたのだ。
それを、適材適所という安易な言葉でまとめられたのだから腹も立つというもの。
それでも、それは父の言葉であった。
立ち昇る熱から顔を背けながらも、リヒャルトはその場に踏み止まる。
両肩が悲鳴をあげるのも構わず、上着を振り続けた。
火の粉が手に、顔に、見境なく爆ぜて肌を焼くことにすら気付かずに。
しかし炎は鎮まらない。
桶数個の水があれば簡単に鎮火しそうな小さな面積の炎なのに。
あらかじめこの地点に布や紙など用意し、いや、油でも撒いているのでない限りこんな風に燃える筈がない。
それはつまり故意に火災を起こそうとしたということ。
「熱っ!」
その油に接触したか、上着に炎が燃え移ってしまった。
裾半分がゴウと音たて火の粉を振りまく。
両手に迫る熱。
とっさに上着を放り出してしまいそうなるのを懸命にこらえる。
リヒャルトは自身の手元で燃える炎をも消そうと、更に勢いよく地面に上着を叩き付けた。
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