クロワッサン物語

コダーマ

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【第三章 パン屋の正体】願いは儚く

願いは儚く(6)

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「……なんだ。どうせなら、マリアの手で殺されたいって言ってるのに」

 沈黙を破ったのはアウフミラーであった。
 笑っているつもりか、顔を大きく歪ませて。

「安心しなよ。マリアは悪いことはしてないって。火種を用意しただけ。火をつけて火事を起こしたのも、オスマン軍に情報を流したのも全部オレだよ」

 黙ってなさいよと叫ぶマリア・カタリーナを一瞥して、アウフミラーは「そうそう」と付け足した。

「市門を開けたのもオレだよ。マリアの服を借りてね。この女、異様に大きいから、オレの変装だって気付かなかったろ?」

「あ、あたし、父の居所をあんたに教えたじゃない。あんたが敵に流すだろうって分かってたっていうのに……」

 シュターレンベルクが舌打ちし、同時にアウフミラーが笑う。

「閣下がシュテッフルにこもってるのは町のみんなが知ってることだろ。市長の居所だってそうだ。そもそも一般市民と同じ所に避難してるとか迂闊すぎ」

 彼がさりげなくマリア・カタリーナを庇おうとしているのだということに、リヒャルトは気付いた。
 ちらと見上げた父の表情は、それを察したか苦いものである。

「アウフミラーといったな。お前、しばらくここに居ろ。誰とも接触するな」

 それで──と、指揮官は続けた。

「救援軍が来るか、オスマン帝国軍が包囲を解いて帰るか、或いはウィーンが陥ちたら……お前はその混乱に乗じて市を出ろ。どこへ行っても構わんが、二度と戻って来るな。娘にも会うな。いいな」

 指揮官の、それは恩情であったろう。
 敢えて無罪放免とするわけにもいかないが、何も処置を下さず混乱の中で本人の姿が消えれば、あとは忘れるだけだ。
 この街でアウフミラーのことを知る者は多くない。
 居なくなった画家など、誰も思い出したりはしない筈だ。

「ま、待ってください」

 しかしそこに異を唱えたのはリヒャルトである。

「その前に、一つだけはっきりさせなくてはなりません。ルイ・ジュリアス殿を殺したのは貴方ですか!」

「ルイ・ジュリ……」

 父の肩がピクリと震えたのが分かった。
 その鋭い視線がリヒャルトを貫き、マリア・カタリーナを過ぎ、そしてアウフミラーの元で止まる。

 あの時、炎の中でルイ・ジュリアスが倒れ、マリア・カタリーナが現れた。
 リヒャルトは咄嗟に妹が犯人だと思い庇ったのだが、この期に及んで己の軽率な言動を恥じる。
 どんなに性格が悪く根性が曲がっていたとしても、我が妹が人を殺すなどありえないではないか。
 なぁ、そうだろうと視線を送る。
 しかし手の中の武器を失ったマリア・カタリーナは、ぼんやりと宙を見つめていて、その表情から感情を読み取ることは不可能であった。

 思い出せ。
 あのときも妹はこんな顔をしていなかったか。
 あのとき、リヒャルトはルイ・ジュリアスの後をつけた。
 ルイ・ジュリアスはマリア・カタリーナを追っていて、そしてマリア・カタリーナはアウフミラーに付いて歩いていたに違いない。

 火が上がってルイ・ジュリアスが撃たれ、そして彼女が現れた。
 マリア・カタリーナは彼の死体を前に呆然としていたではないか。

 ──さっき見たんだ、リヒャルト殿の……。

 ルイ・ジュリアスの言葉は銃弾に途絶えた。
 リヒャルト殿の妹が火を付けたんだ──あの時は咄嗟にそう考えて妹を庇う真似をしたが、今はそれが誤りであったと分かる。

 さっき見たんだ。
 リヒャルト殿の妹のそばにいた男が、街に火を──ルイ・ジュリアスはそのように告げようとしていたに違いない。

 アウフミラーは俯いていて、今どんな顔をしているか伺うことはできない。
 醜く歪んだ口元だけが見えて、リヒャルトを不快にする。
 その唇が唐突に動いた。

「……マリア」

 愛しい男に名を呼ばれ、彼女は全身を震わせる。

「これ、マリアにあげるよ。オレが持ってても、もう描く機会はないだろうからね」

 差し出されたのは彼愛用の帳面であった。
 捕えられた時でさえ手から離さずにここまで持ってきたものだ。
 反射的に受け取ってから、マリア・カタリーナはアウフミラーの言葉に衝撃を受けたかのように彼の方を見やる。

「それを貸せ」

 グイードが彼女の手から粗末な冊子を奪い取ろうと手をのばした。
 絵と見せかけて仲間への暗号や秘密が隠されているのではと勘ぐったのだろう。
 させじと胸に抱え込んで、それを守るマリア・カタリーナ。
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