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第一部

1-2.ムカつくあいつに助けを求めたら

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 充実した施設を持つ魔術研究学園だが、ほとんど使われていないものもある。
 その代表格が学生寮だ。
 通学が難しい生徒のために建てられたが、馬車で通えば問題ない。
 裕福な家庭は学園の近くに居を構え、日々の送り迎えなど当たり前だった。
 そのため寮住まいの生徒は事情ありと思われることが多く、常に閑散としていた。

「なんか、疲れた……」

 自室に戻ったアリシアは、日課の復習をすることなくベッドに倒れ込む。
 寝間着のシュミーズをめくると、下腹部には変わらず紋章が刻まれていた。
 温めたり冷やしたりシャワーでこすったりと、様々なことを試したが結果はこのとおりだ。
 不気味な文様はどこか不安感を煽り、一人きりの部屋で背筋が冷えた。
 少し早いが今日はもう寝てしまおう。
 魔力切れの特効薬は適切な休息しかないと教わっている。
 もしも精霊が姿を現した時、魔力がなければ意思疎通すらできないのだから。
 灯りを消そうと手を伸ばすと、壁掛け時計が二十二時を指したのが見える。
 そしてその瞬間、アリシアの下腹部から淡い光が生まれた。

「え、何、これ……?」

 薄い布地を透かしているのは、綿密な模様を描く紋章の光だった。
 けばけばしさを感じる赤紫色はどんどん強くなり、燐光となって辺りを漂う。
 色が違えば幻想的だったかもしれないが、この色では怪しさしか感じられない。
 しかし紋章がもたらしたものはそれだけでなく、アリシアの下腹部が強い熱を発した。

「うぅ……っ」

 熱は紋章の表面ではなく、身体の奥から湧き上がってくる。
 じくじくと焦がされるような熱に、アリシアは思わずその場にしゃがみ込んだ。
 何もしていないのに突然身体が熱くなるなんて、絶対おかしい。
 どうしよう、どうしよう……!
 怖くてたまらないのに、伝染する熱のせいで頭が働かない。
 事情を知っているのは実習に立ち会ったロシュとクレメントだけ。
 教師棟はここから遠く、立ち入りには許可が必要だ。
 となれば、アリシアの選択は一つしかなかった。

「あいつに頼るなんて、嫌、なんだけど……っ」

 一人でいるよりはましだろう。
 そう判断したアリシアは、燐光を隠すようにローブを羽織って自室を出た。

 ロシュの部屋は寮の一番端にあった。
 一度だけ来た時は、勝手に教材を持ち帰られたときだっけ。
 よく覚えていたものだと感心しながらたどり着くと、力の入らない手でどうにか扉を叩く。
 こんな時間に訪ねてくる者などいないだろう。
 長い無言の末に開いた扉からは、警戒心を顕わにしたロシュの顔が覗いた。

「……アリシア?」

 壁にもたれかかったアリシアを見て、ロシュは大きく目を見張った。
 普段ならば見られない表情だが、生憎アリシアにそんな余裕はない。
 どんどん高まる熱を持て余しながら、荒い呼吸を続けるしかない。

「お前、まさか」

 言わずとも理解してくれたことに安堵していると、ロシュは強引にアリシアを部屋に引き込んだ。

「ここに来るまで誰かに会ったか」

「会って、ないけど……」

 熱に浮かされた頭で答えると、ロシュは小さく息を吐いた。
 どうしてそんなことを聞くのだろう。
 初めて入ったロシュの部屋は、見たこともない書籍で埋め尽くされていた。
 学園の図書館ですら扱っていないものは、いつもだったら好奇心を刺激されていただろう。
 しかしアリシアの視界は定まらず、一番近いロシュの顔しか認識できない。

「紋章だな? 見せろ」

 言うが早いか、ロシュはローブの合わせを開いた。
 すると押し込められていた燐光が一気に解き放たれ、部屋を赤紫色に染め上げる。
 むせ返りそうな光の中、ロシュの舌打ちが響いた。

「おい、魔力切れ以外にどんな症状がある」

 その質問に、アリシアは咄嗟に俯いてしまった。
 部屋を出るときはただただ身体が熱いだけだった。
 しかし一歩脚を進めるごとにもっと厄介な症状が現れていたのだ。
 服が肌を掠めるたびに、全身に痺れるような感覚が駆け巡る。
 それが快感なのだということは、経験のない身ですら分かるものだった。
 こんな話、言えるわけがない。
 今もくすぶり続ける熱に耐えながら下唇を噛みしめた。

「黙ってて解決するなんて思ってねぇよな?」

 ロシュの声には怒りが混じっていた。
 勝手に押しかけたくせに黙っているなんて、不快に思われても仕方がない。
 それでも口にする勇気が出ないでいると、ロシュは大きなため息をつきながら髪を掻きむしった。

「その紋章は淫魔と呼ばれるインキュバスのものだ。どんな精霊か分かるか」

「聞いたことはある、けど……詳しくは、知らない」

「あんなもん、学生用の精霊図鑑に載せるわけねぇからな」

 深いため息をついたロシュは、雑多に積まれた中から分厚い本を引っ張り出す。
 ぱらぱらとめくったかと思ったら、開いたページをアリシアに突き出した。

「夢に入り込んで人間の生気を奪う悪魔だ。だが、魔術師相手にはもっと強引になる」

 そこに描かれていたものは妖艶な女性の姿で、あられもない格好に目を背けたくなる。
 精霊といえば清廉潔白なイメージを持つものだが、分類的には悪魔も精霊の一種とされていた。

「強引、って……」

 熱が下腹部に集まり続けるせいで頭が回らない。
 今は夢ではないのに影響が出ているのは、その強引な手段からなのだろう。
 だったらそれは一体なんなのか。
 乞うような視線をロシュに向けると、皮肉な笑みが返ってきた。

「術者を操って生気を集めるんだよ。簡単だろ」

 あっさり言われた言葉に全身の熱が高まった。
 魔術師にとって生気とは身近な概念だ。
 単純な生命力と取られることが多いが、そうではない分類も頭には入っている。
 生物の繁殖行動は大量の生気が生まれる。
 それを糧としている精霊も居るということは、他人事として覚えていた。
 そんなことが自分の身に降りかかるなんて信じたくない。
 しかし、ロシュの知識は誰よりも信用できると分かってもいた。

「その燐光は理性を壊す効果がある。
 そこらに放れば勝手に男が引き寄せられるぜ。一瞬で理性の飛んだ野郎どもに食い散らかされるだろうな」

「そんなの、や、だ……っ」

 嗤うような声に怒りよりも悲しみがこみ上げる。
 目蓋をぎゅっと閉じることで涙は堪えたが、感情の揺れは下腹部の熱を高めてしまう。
 そんなアリシアに対し、ロシュは慰めるような言葉を持ち合わせていないらしい。
 崩れ落ちそうなアリシアの肩を掴み、苛立ったような視線で見おろした。

「お前がどう思っても抗えねぇんだよ。
 効率よく生気を搾り取るために術者の身体まで変えちまうんだ。自分で分かるよな?」

 アリシアの身体は普段とはまるで違う雰囲気を帯びていた。
 荒い呼吸に上気した頬、濡れた唇に潤んだ瞳と、匂い立つほどの色気を振りまいている。
 しかしそれはアリシアだけでなく、ロシュの姿も普段と違っていた。

「ロシュ、も、燐光のせいで……?」

「そんなもん、俺の魔力なら抑え込めんだよ」

「でも、いつもと違うから……っ」

 いつものロシュならば、アリシアに向ける視線は冷めたものばかりだった。
 なのに今は痛いほどの鋭さで、赤い瞳は熱が滾っているように見えた。

「……仕方ねぇだろ。俺も呪われちまったんだから」

 そう言うと、ロシュは自分のシャツをめくり上げた。
 そこにはアリシアの腹部にあるものと同じ紋章が、ミミズ腫れのように刻まれていた。
 目にした途端、アリシアから溢れる燐光が強く大きくなっていく。
 同時にアリシアは大きな罪悪感と、僅かな安堵を感じてしまった。
 巻き込んでしまった。
 一人じゃなかった。
 両極端な気持ちに胸を詰まらせていると、ロシュは再びアリシアを睨み付けた。

「正直に言え。お前の身体はどうなってる?」

 同じなら、言ってもいいのではないか。
 次第に鋭さを増す感覚は、アリシア一人で抱えるのはもう不可能だった。

「お腹の奥が熱くて……何かに触ると、身体がビクって、しちゃう……」

 いつまでも身体が疼き、意味の分からない欠落感が襲ってくる。
 何かが欲しくてたまらないのに、その何かが分からない。
 ロシュの下腹部を目にした時に近しいものを感じたが、結局正体は分からなかった。

「クレメント先生に、言いにいかなきゃ」

 二人とも呪われているなら報告しなければ。
 生徒として当たり前の考えは、冷たい笑いで掃き捨てられた。

「淫魔の呪いで発情してますってか? 事を大きくしたら困るんじゃねぇの」

 直接的な言葉にカッと血が上ったが、ロシュの言葉は最もだった。
 こんな時間に教師棟に行けば、クレメントに会うまでに事情を説明する羽目になるだろう。
 元から微妙な立ち位置であるアリシアにとって、淫魔の呪いなど知られていいはずがない。

「じゃあ、どうすればいいのよ……っ」

 このままの状態が続くなんて耐えられない。
 それはロシュも同じはずなのに、どうしてこうも余裕なのか。
 知識や魔力の違いだけでなく、危機的状況の対応力までも差があるのだろうか。
 恨めしい気持ちで睨み上げると、馬鹿にするかのように小さく笑った。

「淫魔の呪いなら性交渉で収まるはずだろ」

 まるで簡単なテストの答えでも言うかのように、軽々しく言い放つ。
 こいつにはデリカシーというものがないのか。
 口にしたこともない言葉に羞恥と怒りを感じた瞬間、肩を掴んだ手に力が入った。
 そうして押し倒された先は、書籍に埋もれそうになっているベッドだった。

「連帯責任だ。俺がお前を抱いてやる」

 見知らぬ天井の手前には見慣れた顔が映っている。
 真っ黒な髪が落ちてきて、真っ赤な瞳が細められる。
 とんでもない提案に思わず腕を振り払おうとしても、まるで力が入らなかった。

「いや……離し、て……っ!」

「魔術師目指してんならこういうリスクも頭に入ってんだろ。
 それとも、このままどっかに放り投げてやろうか」

 口では否定しているが、アリシアの身体はそうではなかった。
 腕を掴まれた時も、押し倒されている今も、何かへの期待で身体が歓喜している。
 どうしようもない欠落感を埋めてもらえる。
 意識せずとも浮かんだ考えは、アリシアの理性を揺らがせるのに十分だった。

「これは、あたしの意思じゃない、から……っ」

 これは淫魔の呪いのせいだから。
 このままだと気が狂ってしまうから。
 だから仕方がないのだ。
 それでも僅かに残った理性は、口を開いて恨み言を吐いてしまう。

「初めては、好きな人とって、思ってたのに……」

 自分で言って涙が出そうで、きつく目蓋を閉じてしまう。
 見おろすロシュは呆れているだろうか。
 それとも、馬鹿にしたように笑っているだろうか。
 恐る恐る目蓋を開けようとしたら、ロシュの身体が覆い被さってきた。

「全部呪いのせいだ。諦めて受け入れろ」

 耳元で囁かれた言葉に、アリシアの身体には歓喜の震えが駆け巡った。
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