片割れ

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片割れ

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 大人たちはあたしみたいな奴を見ると世も末だって騒ぐけど、多分世はとっくに末。そんなこと皆知ってるし、それがあたしのことを憎んでる大人のせいだって、ちゃんと分かってる。だからあたしたちは、ばかな大人の言うことなんて聞かないし、何も信用しない。それでも何とか生きていけるから。あたしたちみたいな、親からも見放されて諦められた奴らは皆、学校を卒業すると都会へ出ていく。都会にはあたしたち同様、町からはみ出した若者がうようよいて、堕ちるとこまで堕ちていくって誰かが言っていた。堕ちるとこ、というのがどれほどの深みなのかはあたしには分からない。けれどあたしもいずれは、そこへ行く。堕ちるとこまで堕ちて、世の中の屑みたいな大人の一人になる。そのことが死ぬほど嫌だけど、でも多分それが世の理、なんだと思う。

「みどりちゃん、今から海見に行こうよ」

 授業をサボって図書室でコーヒーを飲んでいると、不良仲間のしろが誘いに来た。しろ、というのはあだ名だ。あたしたちは皆、親に付けられた名前では呼び合わない。名前にはなぜか親の一方的な希望ばかりが詰め込まれていて、あたしたちみたいな不良娘にはちっとも似合わないのだ。しろは髪を真っ白に染めているので、しろ。単純だけど、名前なんてそんなものでいい。あたしは毛先だけ真緑に染めているので、みどりと呼ばれている。ちなみに本名は優美。親の期待とは裏腹に、優しくも美しくもない娘に育ってしまった。残念でしたー。

 しろはあたしが図書室の床に寝そべって分厚い本を開いているのを見て、げ、と顔を顰めた。

「ほんと、みどりちゃんは本が好きだねぇ。不良なんだかがり勉なんだか分かんないよ」

「がり勉だったら授業サボんないよ。待って、ここだけ読んだら行くから」

「ほいよ」

 そう、あたしは不良のくせに本を読むことが好きなのだ。本を開かない日はないし、呼吸をするのと同じくらい、あたしが生きていくのに必要なのだ。おかげで視力は悪い。ぼんやりした視界の中、バイクを走らすのがたまらなく好きだ。いつ事故ってもおかしくない、いつ事故っても別にいい。今が楽しかったら、明日死んだって構わない。それくらいの心構えで、あたしたちは生きている。

 読書に一段落ついたところで、しろと手をつないで廊下を走る。まだ授業中だけど、誰もあたしたちを注意しに来ない。教師たちは、あたしたちのことを完全に諦めている。それでいい。気持ち悪い期待なんか、かけられない方がいい。

 学校の裏に停めてあったバイクに跨ると、しろも後ろにちょこんと座って、あたしの腰に腕を回す。もちろんメットなんてかぶらない。風を感じながら、エンジンを吹かして、ひたすら走る。ブレーキはほぼ掛けない。道路を蛇行したり、わざと逆走したり、無理な運転を繰り返す。しろはあたしの耳もとで、ずっと楽しそうに笑っている。

「ああ、楽しいね、みどりちゃん」

「そんな楽しい?」

「楽しい。死んじゃってもいいくらい楽しいよ」

 しろとは小学校からの幼馴染だ。小学生のときのしろは、引っ込み思案で泣き虫だった。いつもあたしの後を金魚の糞みたいにくっついてきて、あたしは正直、苦手だった。しかし、しろの両親が離婚して互いに一人娘の養育を押し付け合った頃から、しろは分かりやすいぐらいにグレた。グレたと言っても、酒と煙草とバイクのみ。だからあたしは、今のしろが好きだ。どんなにお金がほしくても、決して売春や援交に手を出さなかったから。不良娘たちの中にも、暗黙のルールみたいなものが存在する。消費するはよし、消費される側には、決して回らないこと。身体を売ってお金を貰うなんて、あたしたちが憎んでいる汚い大人と何も変わらないのだ。しろは、そこをちゃんと分かっていた。

 一時間ほどで、海に着いた。ごみがたくさん流れ着いている、汚い海。すぐ近くに漁港があるので、魚の腐った生臭い臭いが立ち込めている。そんな海が、なぜだかしろは好きなのだ。靴を脱いで裸足になり、嬉しそうに砂浜を走っていく。あたしはその後ろを、ポケットに手を突っ込んだままぶらぶらと付いて行く。しろは波打ち際をぴょんぴょんと飛び跳ねながら歩く。白い素足が、あたしの視界の端でちらちらと動く。あたしは砂浜に座って、ポケットから文庫本を取り出した。

 どれほどの時間が経っただろう。

 辺りが薄暗くなり、文字を追うのが難しくなって、あたしは顔を上げた。もう何本目か分からない煙草に火を点け、もごもごと咥える。いつの間にかしろははしゃぐのをやめていて、疲れ切ったように砂浜に倒れていた。

「煙草いる?」

 しろが頷いたので、あたしはしろの横まで歩いて行った。煙草を一本取り出して、しろの赤い唇の隙間に押し込む。ライターを取り出すと、しろは体を起こした。火を点ける。

「ねーぇ、みどりちゃん」

「何」

「みどりちゃんは、ずっと私と一緒にいてね。みどりちゃんと一緒なら、私、どこまで堕ちたって構わないよ」

 堕ちるとこまで、堕ちる。

 それはきっと、売春や援交も含まれるのだろう。いずれ、そういうことも覚えていくのだろう。そのときのあたしはきっと、今のあたしとは全くの別人だ。穢れ切った、大嫌いな大人になっている。

「だいじょぶだよ、しろ。堕ちるときは一緒だよ」

 返事がないので、そっとしろの顔を覗き込む。しろは黙ったまま、目を潤ませていた。あたしは手を伸ばして、しろの頭をぐりぐりと撫でた。真っ白の髪は、ブリーチを繰り返したせいでごわごわとぱさついている。

「帰ろう、しろ」

 しろは大きく頷いて立ち上がった。先程までの涙が嘘のように、けらけら笑いながらバイクまで走る。そこから二人で、やっぱり危ない運転を繰り返して、夜の学校まで戻った。昼間の学校にあたしたちの居場所はないけど、夜の学校はあたしたちの場所だ。使われていないうちに緑の藻がびっしり生えたプールまで行き、シャワーを浴びる。ここはいつだって水しか出ないから、あたしたちはその冷たさに飛び上がって笑いながら、騒々しくシャワーを浴びる。しろの肌は陶器のようにすべすべで、あたしはしろの裸体に思わず見とれてしまう。タオルなんてないから、体が乾くまでプールの縁に座って煙草を吸う。吸い殻はプールの中に投げ入れる。ここでシャワーを浴びる色んな人たちの吸い殻が、プールの緑色の水に、たくさん浮かんでいる。

「みどりちゃん、私おなか空いた。何かパクってこようか」

「あ、あたし今日はパス。行くとこあんの」

「えー、残念無念。じじいのとこ?」

「じじいって言うな」

 調子に乗って「じじいじじい、ハゲじじい」と連呼し始めたしろの頭を笑って小突きながら、あたしは昨日のうちに洗って干しておいた制服を着る。この学校の制服はセーラーだけど、あたしのは汚れて洗って漂白剤をぶっかけて、を繰り返していたら、随分色が薄くなってしまった。元は濃紺だったはずの生地は、今は薄い灰色。身長がこの一年でぐんと伸びたから、スカートの丈はやや短い。半乾きの緑の髪を後ろで一つに括り、バイクに跨る。エンジン音を夜の街に響かせながら、あたしは街の外れにある小さなプレハブ小屋を目指した。最初の頃、あたしがここに行くことを援交だとしろは疑っていたらしいけど、とんでもないことだ。いくら金を貰ったって、こんな年寄りはごめんだった。

「相変わらずエンジン音が騒々しいね」

 ドアを開けて迎えてくれたのは、しわくちゃの小さな老人。年齢は聞く度に違うので、正式年齢は分からない。が、多分八十は超えている。

「桂さん、腹減った」

「はいはい。シチューがあるから温めて勝手にお食べ」

 桂さんは、あたしが唯一嫌悪感を抱かない大人だ。あたしの遠い親戚らしいけど、詳しいことは分からない。若い頃は外交官をしていたとか、フランスの貴族のお嬢様と恋仲だったとか、戦争に行ってすごく酷い目に遭ってちょっと頭がおかしくなっちゃったとか、色んな噂のある人だった。どれが本当なのかと尋ねると、まるで外国人のように肩を竦めて見せた。多分、どれも本当なんじゃないかなと、あたしはシチューをかき込みながら考える。桂さんは確かにちょっと頭がおかしいところはあるかもしれないけど、あたしみたいな不良娘にも決して嘘を吐かない大人だからだ。だからあたしは、親戚の中では疎まれている独りぼっちの桂さんに、子供の頃から漠然とした好意を抱いていた。

 桂さんはあたしがシチューを食べている横で、椅子に座って分厚い本を開いている。あたしの本好きは、桂さんの影響だ。しかし、桂さんの家にある本はどれも日本語ではないので、あたしには読むことができない。

 シチューを食べた後は、桂さんのワインを勝手に飲み、桂さんの煙草を勝手に吸った。

「優美は、本当にワインの味が分かってるのか」

「分かんない」

「じゃあどうして酒を飲む?」

「……ダメになりたいから?」

 桂さんはあたしの答えをばかにしない。真顔で頷き、あたしの横で自分も煙草を吸っている。桂さんはあたしみたいな不良娘に何の注意もしないから、多分ちゃんとした大人じゃないけど、でも桂さんの隣はとても居心地がいい。

 桂さんの家を出て学校に戻る頃には、とうに十二時を回っていた。図書室に入ると、誰が持ち込んだのかも分からない古い毛布の山の中で、しろが小さな寝息を立てていた。普段は魔法のように二重を作り、濃いアイラインとマスカラで強調された目元は、元の腫れぼったい一重に戻っている。真っ赤なルージュを落とした唇は、小学生のときと変わらない薄い桃色。

「……ただいま、しろ」

 低く囁くも、しろの返事はない。幼子のように熟睡しているしろが急に愛しくて堪らなくなる。

 しろ、あんたはあたしの片割れ。

 二人一緒なら、堕ちるとこまで堕ちたって、怖くないよね。

 手を伸ばしてしろの頬にそっと触れた。思いがけず冷たくて、あたしは不安になる。しかし、しろはすぐに眠そうに薄く目を開けた。

「おかえりぃ、みどりちゃん」

「しろ、寒くないか」

「だいじょぶ」

「ん、おやすみ」

「おやすみ」

 しろは再び目を閉じて、すぐに寝息を立て始めた。しろ。あたしの可愛い親友。本当は知っている。二人でずっと一緒にいられるなんて夢物語だって。永遠なんていう言葉は嘘で塗り固められていて、本当は実在しないのだ。きっとしろだって分かっている。

 それでも今この瞬間、確かにあたしたちは二人なのだ。それでいい、という気もする。

「好きだよ、しろ」

 夜の図書室に、窓から月明かりが差し込んでいる。あたしはしろの隣に横たわって目を瞑った。なぜだか、夜が明けるまで眠れなかった。


■■■


 月日が流れても、あたしとしろは何も変わらず、二人だった。日中は寝るかどこかへ出かけるかして、夜になるとあたしは時々、桂さんの家に行った。毎日、図書室でしろと寄り添って眠った。時間とは、潰すもの。人生とは、消費するもの。毎日やりたいことをやって、食べたいものを食べた。今が楽しければ、明日死んだって構わない。むしろ、今日が楽しかったら、明日死にたい。どうせあたしたちを見ていてくれる人なんていないのだから、しろと二人で堕ちるとこまで堕ちたら、楽に死んでしまいたい。

 ある夜、桂さんの家に行くと明かりが点いていなかった。声をかけながらドアを押すと、難なく開いた。部屋の奥から、ごほごほと咳き込む声がした。

「桂さん、風邪引いたの?」

 明かりを点けて、あたしははっと目を見開いた。あたしの知っている桂さんは、そこにはいなかった。ほんの二週間ほど来なかっただけで、桂さんはすっかり変わり果てていた。やせ細り、ベッドの上で死にかけている小汚い老人。部屋の中が甘酸っぱいようなおかしな匂いで満ちていることに、そのとき初めて気付いた。

「だ、大丈夫?」

 あたしは慌てて桂さんの枕元へ駆け寄った。ぷぅん、と鼻につく吐瀉物の臭い。寝たまま吐いて、それを片付けることもできないまま乾いてしまっているようだった。どこもかしこも汚くて、臭くて、でもそれ以上に桂さんがあたしをぼんやりした遠い目で見つめていることがショックだった。あたしのことが、もう分からなくなっているのかもしれない。漠然とした好意を抱いていた相手が、本物のボケた老人になっていることを、認めたくなかったが認めざるを得なかった。

 あたしは小さく嗚咽しながらキッチンに立った。今まで料理をしてこなかったことを悔みながら、何とかお粥らしきものを作る。シンクには、使ったまま洗われていない食器や鍋が積まれていた。恐らく病気になってもしばらくは料理をしていたのだろう。それが今では、自分の吐瀉物を片付ける元気もないわけだ。あたしはお粥を一さじずつ掬って、桂さんのひび割れた唇の隙間に押し込んだ。桂さんがむせて、お粥を吐き出す。あたしの顔にまで飛び散って、あたしは泣きそうになりながらそれを袖で拭った。手を伸ばして、桂さんの上半身を起こす。捲れた布団の内側から、排せつ物の臭いがした。体を起こした桂さんがもごもごと口を動かして何か呟くので、あたしはその口元に耳を寄せた。

「――ルイーズ」

 ルイーズ。遠い異国で恋仲だったという女性の名前なのだろうか。あたしをルイーズと間違えているのだろうか。

「桂さん、しっかりしてよ。あたしは優美。ルイーズじゃないんだから」

「ルイーズ、ルイーズ……」

 桂さんは自らの吐瀉物と排せつ物にまみれているのに、目だけは青年のように明るく輝いていた。細い腕を伸ばして、あたしの手を驚くべき強さで握る。

 桂さんを放っておけないので、あたしは学校へ戻ることを諦めた。桂さんの傍に付きっ切りで、体を拭き、お粥を口に押し込んだ。シーツに染み付いた臭いはどうしようもなく、傍にいるあたしにもその臭いは染み付いた。

 三日目の晩。桂さんが唐突に正気に戻った。

「優美、迷惑をかけてすまないね」

 はっと顔を上げると、いつもの桂さんの目で、あたしは何だか泣きそうになった。涙ぐんで黙り込んだあたしに、桂さんは優しく微笑みかけた。

「優美は、本当に優しい子だね。こんなに良くしてもらっても、何も返せないのが申し訳ないよ」

「そんなの、いいんだよ」

 元気になって、またシチューを作ってよ。二人でワインを飲んで煙草を吸って、昔の恋人の話を聞かせてよ。

 そう言いたくても、あたしの口はぱくぱくと開閉するばかりで、何も言葉は出てこなかった。口下手で素直になれない自分が悔しくて、あたしは唇を噛んだ。桂さんは、分かっているよ、という風に頷いた。優しく穏やかな瞳が、あたしをじっと見つめる。

「高校を卒業したら、都会へ出るのかい?」

 唐突な質問に、あたしは面食らった。桂さんがあたしの将来について尋ねるのは、初めてのことだったから。あたしはしばらく黙り込んで、頷いた。多分、都会に行くのだ。あたしたちみたいな不良娘は、そうと決まっている。それで、堕ちるとこまで堕ちるのだ。それ以外の道は、ない。

「都会で、いいものが見つかるといいね。本でも、人でも、仕事でも。ものだけはたくさん溢れている場所だからね」

「そんなものを見つけに行くんじゃ、ないよ」

 そこしか行く場所がないだけ。

「でも私は、優美がそういうものを見つけて幸せになれることを、祈っているよ」

 桂さんの瞳から、不意に優しい光が消えた。再び、若者特有の輝きが目に宿る。一瞬戻ってきてくれた桂さんは、もういなくなってしまった。あたしは桂さんに水分を摂らせ、眠るように促した。桂さんは頷いて一旦は目を閉じたが、すぐに目を見開いてあたしの手を取った。

「桂さん、どうしたの」

 手の力は痛いくらいだった。あたしの手を口元まで運び、指にそっとキスをする。

「愛している」

 呆然と固まっているあたしを残して、桂さんはぱたりと眠りに落ちた。そのままこんこんと眠り続け、目覚めないまま、翌朝には心臓が止まっていた。ルイーズが迎えに来たのかもしれない。やっぱり最期も、あたしとルイーズを間違えていたのかもしれない。でも、もし、本当にあたしに、優美に対して向けられた言葉だったとしたら? 冷たくなった桂さんの眠っているような顔を見て、あたしはぼんやりと考えていた。



 久し振りに学校へ行くと、しろは独りぼっちでプールの縁に座り込んでいた。もう冬が近いというのに、コートも着ないでセーラー服を着崩している。あたしの顔を見るとぱっと笑顔になり、手に持っていた火の点いた煙草をプールの中に放り投げて走ってくる。

「みどりちゃん、おかえり。どこ行ってたの」

「ちょっと桂さんのとこ」

「またじじいのとこ? 随分長かったけど、何かあったの?」

 無理に笑おうとして、それが上手くいかなくて、あたしは黙ったまましろをぎゅうっと抱き締めた。しろはあたしの背中にそっと腕を回して、優しくあたしの背中を撫でた。しろの髪が、ちくちくと頬に当たる。

「しろ、愛ってなあに」

「ええっ」

 あたしに抱き着かれたまま素っ頓狂な声を上げたしろは、ちょっと唸った。

「――自分の幸せより、他人の幸せを願うことなんじゃないの」

「そんな風に、愛されたことある?」

「ないよ。あったらこんな不良になってない」

 しろはまるで子供のように、てへへ、と笑った。

「みどりちゃんは、あるの?」

 冗談めかして尋ねられた問いに、あたしは小さく頷いた。しろの細い肩が、不安そうに揺れた。あれは愛なのか。もしかしたらあたしの単なる勘違いかもしれないけど。桂さんはあたしのことを愛してくれていたのか。

「もしかしたら、あたしは愛されてたのかも」

「……じじいに?」

「うん」

 あたしは頷き、ポケットから煙草を取り出す。いつものように火を点けようとして、少し迷ってから、箱ごとプールに投げ込んだ。

「だからあたしは、不良をやめるよ」


■■■


 もともと毛先を染めていただけだったので、自分でハサミを取り出してきて小ざっぱりと短く切ると、黒髪のつまらなそうな顔をした少女が現れた。派手な化粧を落とし、制服だけはどうしようもないまま、ふらりと授業に出てみることにした。数学や英語は、教師が何を言っているのかも理解できなかった。しかし現代文だけは面白いと感じた。あたしが授業に出るようになっても、教師たちや他の生徒たちは何も言わなかった。関わりたくなかったのだろう。あたしは分からないなりにノートを取り、夜になってから図書室の本を引っ張り出して勉強した。ちゃんとノートを取るようになると、自分の視力の悪さが浮き彫りになった。黒板が見えず、休み時間に教室の前方まで行って写さなければならなかった。ある日、なけなしのお金を握りしめて眼鏡を買いに行った。黒縁の眼鏡をかけて鏡を覗き込むと、びっくりするほど気真面目そうな顔だった。視界は鮮明になり、恐らくもう、ぼんやりした世界の中で蛇行運転を繰り返す、なんてことはないのだと感じた。

 こんな輪郭のはっきりした世界では、もう夢見がちではいられない。汚いものを、ちゃんと直視しなくては。

 あたしが不良をやめてから、親友だったしろは全くあたしに近寄らなくなった。一度だけ、夜中に図書室で英単語を暗記しているあたしの隣に来て、盗んで来たのであろうお菓子とジュースを大量に並べた。

「……つまんない女になっちゃったね、みどりちゃん」

「うん、そうかもね」

「ま、私は一人で堕ちるとこまで堕ちるしかないかな」

 あたしは何も答えなかった。しろはしばらくあたしの隣でぼんやりしていて、それからぷいっと図書室を出ていった。しろと話したのは、それが最後。彼女は卒業後、都会へ出て文字通り堕ちたと聞いた。身体を売って生活しているうちに性病にかかり、しかし身体以外に売れるものがないから男を騙すしかない。風の噂で流れてきたしろの姿を想像すると、胸が苦しくなった。毎晩男に媚びた視線を送る、性病持ちの孤独な女。しろ。あたしはしろを愛していたのかもしれない。だけどそれを伝えることができなかったから、しろは結局愛を知らないままだった。

 あたしは進学し、平凡な女子大生として本を読み耽った。酒や煙草なんてやったことありません、バイクなんて乗ったことありませんという顔をして、真面目に講義を受けた。大学を卒業してから就職し、そこで出会った普通の男性と普通に結婚した。何てつまらない平凡な人生! しかしあたしは、桂さんが言っていた、いいもの、を見つけることができたのだと思う。退屈過ぎて溜息が出ることがあるし、夫に比べてあたしは圧倒的に地に足が付いていない。それでもあたしは今、それなりに幸せに生きているのだ。単調な毎日が嬉しかった。

 日々の生活の中で幸せだなと感じるとき、あたしはしろのことを想う。堕ちるとこまで堕ちた不良娘のしろ。彼女がいいものを見つけて幸せになれることを、あたしは心から願う。

 しろ。あたしの片割れ。

 愛してる。




                                     おわり

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