海怪

五十鈴りく

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稲荷

稲荷 ―拾―

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 水のなくなった生け簀の中で、マル公は火消や野次馬、たくさんの人々の視線の中で甚吉にささやいた。

「オイ、甚。受け答えは慎重にやれ。おめぇが火元とあっちゃ、遠島か火刑なんてことにもなりかねねぇかんな。知らぬ存ぜぬで通せッ」

 それは怖いことを言う。思わず振り向くと、マル公はすでにただの獣を装っている。少ない水に背中が乾いてしまうのを防ぐためにか、ゴロゴロと転がっていた。

「――」

 話しかけるのはもうよそう。
 甚吉がどうしたものかとべそをかきつつへたり込んでいると、野次馬の中から声が上がった。

「見たことのねぇ男がうろついてやがったゼ。あいつの仕業じゃねぇのか?」

 それは救いの声であった。

「なんだと? どんな男だッ?」

 刺青の入った腕を捲る人足に、野次馬の中からまた声が上がる。

「どこにでもいそうな男だったけどなぁ。どっかの奉公人じゃねぇのか。お仕着せだったゼ」

 その声は若い男のようであったけれど、姿は人垣の中でよくわからない。

「その坊主は、そのけったいな生き物を救い出そうと火の中に飛び込んでさ、感心な坊主だ」

 などと甚吉を援護してくれた。本当に、まるで見てきたようなことを言う。

「おい、そこのお前、こっちに出てこい。話を聞かせてもらおう」

 火消の親分が顎をしゃくる。人垣から出てきた特徴のない若い男に、甚吉はまるで見覚えがなかった。けれど、男は煤だらけの甚吉の方を見て、ふと一度笑った。
 その時に、甚吉は確信したのである。

 ――あれは稲荷の使いである、と。


     ●


 それからも、検分は行われた。役人たちも証言だけを鵜呑みにしたわけではない。

 しかし、甚吉たちのところに火種になるものはなく、屋号は読めぬほどに焼けてしまったものの、提灯の留め具が一部残っていた。それが決め手となり、見世物小屋からの失火ではないということだけは伝わった。

 小火(ぼや)で済んだこともあり、見世物小屋が咎められることはなかった。
 そのことに甚吉はほっと胸を撫で下ろしたのである。

 とりあえず、皆の手を借りて、新しいこもをかけ直した。マル公はひと晩水を張った盥の中で我慢してもらい、煤だらけの甚吉は行水ついでに着物も洗わせてもらった。ふんどし一丁で寝たところで夏風邪を引くことはなかった。


 翌朝、戸板に張りつけて干しておいた着物を取り込みに行くと、どういうわけだか萬助に破られた襟のところが綺麗に繕われていた。
 まさか稲荷の使いがここまで気を回してくれたなんてことがあるだろうか。小首をかしげた甚吉だったけれど、とりあえずその着物を着込み、それから朝の仕事をこなす。

「おはよう、マル先生」
「おお。ったく、昨日は散々だったなぁ、オイ。狭ぇたらいにひと晩たぁ、体のあちこちが痛くって仕方がねぇ」

 と、水の減った生け簀の中に置かれた盥の中でマル公は不機嫌だった。しかもあの盥の水は江戸上水――真水なのだ。塩気が恋しいのだろう。
 甚吉はクスリと笑った。

「うん、ちょっとは煤も残ってるから、なるべく手早く掃除するよ。待っててくんな」

 けれど、あの惨事があったにしては綺麗な方だ。あの猫――いや、もう猫ではない――あの狐が水をかけるついでに火が燃え広がるのを抑えてくれたのだろう。

 それから甚吉はせっせと掃除をし、清めた生け簀にいつもの少し薄味な海水を入れた。汗を拭きつつ作業を終えると、マル公は甚吉が声をかけるよりも先に生け簀の水に飛び込んだ。それはそれは気持ちよさそうに泳ぐ。

「カーッ、ここでも狭ぇと思ってたが、盥に比べりゃ天と地ほど違いやがるな」

 パシャパシャ、パシャパシャ。
 はしゃぐマル公を甚吉も微笑ましく眺めていた。すると、マル公はふと泳ぐのをやめ、生け簀の縁に来ると、いつものごとくてん、と板敷に手をついた。

「ところでよ」
「うん?」
「稲荷寿司はどうなったんでぇ?」
「――」

 ここへ来て、稲荷寿司が出るとは思わなかった。完全なる不意打ちである。マル公の食に対する執念を、甚吉はまだまだ甘く見ていたのかもしれない。

「こ、今度――」
「急げよ。忘れんなよ」

 よっぽど食べたいようだ。元気な証拠かと、甚吉は苦笑した。


 その後の朝餉の時に見世物一座の面々が顔を合わせた。寅蔵親方はあの小火のことをとんだ災難だったとぼやいていた。皆、それに合わせて首肯するばかりである。

 そんな中、照が炊いてくれた飯が出た。やっぱり、照が炊いたものが一番美味い。それもあるのだけれど、照がこうして元気になって仕事に復帰できたことが嬉しい。
 これも稲荷神に願いが届いた証拠だろう。あの狐にも感謝しなければ。

 ふと、照が甚吉に目を向けた。甚吉は笑って返す。その時、照の視線が甚吉の首元に留まった。それでああ、と思った。
 ほつれを直してくれたのは、ささやかな感謝の気持ちであったのかな、と。


「甚吉ッ」

 小屋の前を歩いていた甚吉を鋭く呼びとめたのは、真砂太夫であった。暑い最中、必死で駆けてきたのか、玉の汗が額に浮かんでいる。

「おはようごぜぇま――」

 ドン、と衝突するようにして真砂太夫は甚吉を抱き締めた。甚吉はもう、頭が真っ白でその先の言葉が零れ落ちてしまった。あわあわとうわ言を繰り返す甚吉に、真砂太夫はほっとした様子で言った。

「昨晩の小火、まさかここだったなんて――無事でよかったよ」

 よしよし、と何度も頭を撫でてくれた。これももしかして稲荷神からの贈り物だろうか、などとほんのり思う。

 マル公に言わせると『デレデレ』していた甚吉だが、真砂太夫は忙しい身である。体を離すと軽やかに微笑んだ。

「じゃあ、あたしも稽古があるから行くね。甚吉も頑張りなよ」
「へ、へいッ」

 大声で答えて、それでもまだ顔がにやけていた甚吉のもとへ、もう一人の客が来た。軽い足音に振り返ると、それは粂太くめたであった。
 マル公を模したまんじゅうを売る『巽屋たつみや』の嘉助のもとで修行する小僧である。粂太は赤い頬を甚吉に向けて言った。

「甚吉にいちゃん、昨日ここから火の手が上がったって嘉助さんが心配してたよ。これ、火事見舞いだって」

 と、粂太が手渡してくれた包みはいつもの海怪まんじゅうである。甚吉はふと笑った。

「ああ、すぐに火は消してもらえたから大丈夫だったんだけど、ありがたく頂くよ。嘉助さんにもよろしく伝えてくんな」
「うんッ」

 大きくうなずいて去る粂太の背中を見送りつつ、甚吉はあたたかな気持ちであった。

 真砂太夫、嘉助、粂太――マル公と関わってから、甚吉の交友関係も広がった。皆の優しさに、甚吉も癒される思いであった。
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