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判じ絵
判じ絵 ―陸―
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甚吉は本を懐にしまい、夕暮れの中を走った。稲荷社の段を駆け上り、甚吉は参拝者がいないことを確かめると、大声で穂武良を呼ぼうとした。
しかし、拝みもせずに呼びつけるのもいけないかと、手を打って拝み直して口を開く。
「急ぎの用事がごぜぇやすッ。出てきておくんなせぇ、しらた――」
あ、と甚吉は慌てて口を押えた。間違っても『しらたま』と呼んではいけないと思ったら、逆に口にしてしまった。粗忽な自分が悲しい。
「誰がしらたまじゃッ」
――残念ながら反応してしまうらしい。甚吉は思わず振り返った。
穂武良は真っ白に光る毛を見せつけるようにして鳥居の下に降臨した。
『しらたま』とは、猫に化けた穂武良に、廻船問屋の染という娘がつけた名である。穂武良は少しも気に入っていないらしいけれど、その白さに白玉は似合っている。
「すいやせん、穂武良様ッ、お、おれ、そんなつもりじゃ――」
甚吉が目を潤ませて頭を下げると、穂武良はぐぐっと唸った。この狐、取っつきにくそうに見えて実は案外優しいのである。
「もうよい。それで、急ぎの用とはなんぞや?」
「――へい、マル先生が急いで穂武良様を呼んできてほしいと言うんで走ってきやした」
「用件は――知らぬようだな」
「す、すいやせん」
細かいことは聞かなかった。急ぎだというから急いできた、素直な甚吉である。
「仕方がないのぅ。直接ヤツに聞くしかなさそうだ」
ため息をつくと、白狐の体はポッと消えた。
「あ――」
一緒に、というわけにはいかなかった。
これは、甚吉がもう一度急いで戻らなくてはならないというやつだろうか。稲荷社に取り残された甚吉は、再び慌てて来た道を戻った。
甚吉が戻ると、生け簀の中でそわそわしたマル公と、その縁に白狐が待っていた。すでに小屋の中は薄暗いけれど、穂武良がいるおかげで淡い光がある。体がうっすらと光っているのだ。神使だけあって、ありがたい光である。
「おっせぇ」
急いで戻ったのに、マル公はあんまりなことを言う。
そして、マル公は生け簀の縁にヒレをてん、と突いた。
「オイ、甚、あの貸本を出しな」
「へ、へぇ」
全力で駆け抜け、疲れて反論する気にもなれない。甚吉は大人しく本を出した。その本を穂武良も覗き込む。
「『判候恋花夢』、恵比寿初詣とはまたけったいな名だの。ヒトの好みはワタシにはわからぬ」
それは、『しらたま』と名づけられたことも含まれるのだろうか。染にも悪気はないのだが。
しかし、これではっきりとした。穂武良は字が読める。この本も読んでもらえるだろう。
甚吉はマル公が穂武良にこの本を読ませようとしているのだと思った。けれど、そうではなかった。マル公もまた、読めたのである。この文字を――
「本を開きな。早くッ」
「へ、へい」
結構な剣幕であった。甚吉は一も二もなく本を開いた。みっちりと詰め込まれた黒い文字。それをマル公はフンフン言いながら目で辿っている。――何故、読めるのだ。
そうして、穂武良を呼んでこいと言った理由がこの時にわかった。
「ホムラ、狐火出してくんな」
「な、何だと?」
穂武良は驚いてのけ反った。そんな狐に海怪は平然と言う。
「日が暮れたらこの小屋は真っ暗だ。甚の稼ぎじゃ油も買えねぇから、行灯の火は灯せねぇだろ」
本を急いで返さねばならないから、マル公は夜通し読むつもりなのだ。そうして、そのための灯りがほしかった。行灯の油代も持たぬ甚吉だと知っているから、この稲荷神の使いを呼んだのである。
まさかの行灯代わりに。
「ワ、ワタシを行灯にッ。この稲荷神様の使いであるワタシにッ」
屈辱である。ひどい話だ。甚吉もさすがに申し訳なくなった。
「ほ、穂武良様、すいやせんッ」
ぺこぺこと頭を下げるけれど、穂武良は気分を損ねていた。ただ、そんな狐にマル公は真剣な目をして頼むのであった。
「ホムラ、頼む。この借りはいつか返す」
マル公が下手に出て頼んだ。それほどまでに今、この本をどうしても読まねばならぬのだろうか。この本には一体何が書かれているのだろう。
穂武良は渋々、青白い狐火を三つ出した。その途端、小屋の中はぽぅっと明るくなる。
「恩に着るぜ。さ、甚、本をめくってくんな」
マル公の手では本をめくれない。甚吉は言われるがままに本をめくった。どこを見ても難しい字が並んでいて、甚吉は少しも面白くなかった。
けれど、マル公は驚くほど本に集中していた。読み終わるとは、次ッ、次ッ、と声を上げる。甚吉はマル公のために夜通し本をめくり続けた。穂武良は狐火を出したものの、気を抜くとその火が小さくなってはマル公に文句を言われていた。言われる筋合いはないような気はするのだけれど、なんやかんやと言い返しつつも付き合ってくれる穂武良はいい狐だと甚吉は眠い目をこすりながら思った。
しかし、この本には判じ絵が出てくるというけれど、一体どんな謎が含まれているのだろう。マル公が美味い食い物もないのにこんなふうに熱中することがあるなど、初めてのことである。
恵比寿初詣――侮れない戯作者だと、甚吉は薄暗い中で恐れおののいた。
しかし、拝みもせずに呼びつけるのもいけないかと、手を打って拝み直して口を開く。
「急ぎの用事がごぜぇやすッ。出てきておくんなせぇ、しらた――」
あ、と甚吉は慌てて口を押えた。間違っても『しらたま』と呼んではいけないと思ったら、逆に口にしてしまった。粗忽な自分が悲しい。
「誰がしらたまじゃッ」
――残念ながら反応してしまうらしい。甚吉は思わず振り返った。
穂武良は真っ白に光る毛を見せつけるようにして鳥居の下に降臨した。
『しらたま』とは、猫に化けた穂武良に、廻船問屋の染という娘がつけた名である。穂武良は少しも気に入っていないらしいけれど、その白さに白玉は似合っている。
「すいやせん、穂武良様ッ、お、おれ、そんなつもりじゃ――」
甚吉が目を潤ませて頭を下げると、穂武良はぐぐっと唸った。この狐、取っつきにくそうに見えて実は案外優しいのである。
「もうよい。それで、急ぎの用とはなんぞや?」
「――へい、マル先生が急いで穂武良様を呼んできてほしいと言うんで走ってきやした」
「用件は――知らぬようだな」
「す、すいやせん」
細かいことは聞かなかった。急ぎだというから急いできた、素直な甚吉である。
「仕方がないのぅ。直接ヤツに聞くしかなさそうだ」
ため息をつくと、白狐の体はポッと消えた。
「あ――」
一緒に、というわけにはいかなかった。
これは、甚吉がもう一度急いで戻らなくてはならないというやつだろうか。稲荷社に取り残された甚吉は、再び慌てて来た道を戻った。
甚吉が戻ると、生け簀の中でそわそわしたマル公と、その縁に白狐が待っていた。すでに小屋の中は薄暗いけれど、穂武良がいるおかげで淡い光がある。体がうっすらと光っているのだ。神使だけあって、ありがたい光である。
「おっせぇ」
急いで戻ったのに、マル公はあんまりなことを言う。
そして、マル公は生け簀の縁にヒレをてん、と突いた。
「オイ、甚、あの貸本を出しな」
「へ、へぇ」
全力で駆け抜け、疲れて反論する気にもなれない。甚吉は大人しく本を出した。その本を穂武良も覗き込む。
「『判候恋花夢』、恵比寿初詣とはまたけったいな名だの。ヒトの好みはワタシにはわからぬ」
それは、『しらたま』と名づけられたことも含まれるのだろうか。染にも悪気はないのだが。
しかし、これではっきりとした。穂武良は字が読める。この本も読んでもらえるだろう。
甚吉はマル公が穂武良にこの本を読ませようとしているのだと思った。けれど、そうではなかった。マル公もまた、読めたのである。この文字を――
「本を開きな。早くッ」
「へ、へい」
結構な剣幕であった。甚吉は一も二もなく本を開いた。みっちりと詰め込まれた黒い文字。それをマル公はフンフン言いながら目で辿っている。――何故、読めるのだ。
そうして、穂武良を呼んでこいと言った理由がこの時にわかった。
「ホムラ、狐火出してくんな」
「な、何だと?」
穂武良は驚いてのけ反った。そんな狐に海怪は平然と言う。
「日が暮れたらこの小屋は真っ暗だ。甚の稼ぎじゃ油も買えねぇから、行灯の火は灯せねぇだろ」
本を急いで返さねばならないから、マル公は夜通し読むつもりなのだ。そうして、そのための灯りがほしかった。行灯の油代も持たぬ甚吉だと知っているから、この稲荷神の使いを呼んだのである。
まさかの行灯代わりに。
「ワ、ワタシを行灯にッ。この稲荷神様の使いであるワタシにッ」
屈辱である。ひどい話だ。甚吉もさすがに申し訳なくなった。
「ほ、穂武良様、すいやせんッ」
ぺこぺこと頭を下げるけれど、穂武良は気分を損ねていた。ただ、そんな狐にマル公は真剣な目をして頼むのであった。
「ホムラ、頼む。この借りはいつか返す」
マル公が下手に出て頼んだ。それほどまでに今、この本をどうしても読まねばならぬのだろうか。この本には一体何が書かれているのだろう。
穂武良は渋々、青白い狐火を三つ出した。その途端、小屋の中はぽぅっと明るくなる。
「恩に着るぜ。さ、甚、本をめくってくんな」
マル公の手では本をめくれない。甚吉は言われるがままに本をめくった。どこを見ても難しい字が並んでいて、甚吉は少しも面白くなかった。
けれど、マル公は驚くほど本に集中していた。読み終わるとは、次ッ、次ッ、と声を上げる。甚吉はマル公のために夜通し本をめくり続けた。穂武良は狐火を出したものの、気を抜くとその火が小さくなってはマル公に文句を言われていた。言われる筋合いはないような気はするのだけれど、なんやかんやと言い返しつつも付き合ってくれる穂武良はいい狐だと甚吉は眠い目をこすりながら思った。
しかし、この本には判じ絵が出てくるというけれど、一体どんな謎が含まれているのだろう。マル公が美味い食い物もないのにこんなふうに熱中することがあるなど、初めてのことである。
恵比寿初詣――侮れない戯作者だと、甚吉は薄暗い中で恐れおののいた。
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