シロクロユニゾン

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「んん……」


 午前9時、凛はベットの上でゆっくりと目を覚ました。


 最初に写るのは見知らぬ天井。ここはどこかと寝ぼけた頭を動かす。


(…あぁ…ここ翔くんの家だ…)


 そうして答えにたどり着くと、大きな欠伸をしてのそりと身体を起こした。


 相変わらず朝に弱い凛は、痛む頭を擦りながら部屋を見渡す。


 カーテンの隙間からチラリと見えたのは曇天の空。試合が昨日にずれ込んだ理由である台風の前兆だ。


 目線は彼の隣…シワがついたベッドのシーツと枕に移る。


 そこには花の香りと微かな温もりがあった。翔もまだ起きたばかりなのだろう。


(……)


 眠気に思考は支配されている。それは、凛を正直にした。


 ポスッ


 彼は上半身の力を抜いて、再びベッドの魔力に従った。


「へへ~…翔くんの匂いだぁ…」


 そして、翔の温もりを感じ、匂いがついた枕を抱きながら彼は恍惚な気分にひたる。


 無自覚に喉をゴロゴロとならし、ご機嫌に尻尾を揺らしながら、枕にスリスリと頬擦りをする。


 やっていることはまさしく“変態”の2文字で表現ができる行為だが、少なくとも今は咎める者がいない。


 もっと嗅ぎたい。そう思った凛は枕に顔を埋めようと首を回す。





 その瞬間だった。





「凛!そろそろ起きたか!」





 寝室のドアが勢いよく開き、エプロン姿の翔が入ってきた。




「あっ」




 寝起きの凛に、それに反応するほどの余裕は全くもって皆無であった。


 枕に顔を埋める凛の姿が翔の視界の真ん中に写る。


 言い逃れはできない。凛はそう思い鈍る頭を必死に動かして言い訳を探す。


「あっ…えっとこれは…」


 凛は目を泳がせながら言葉を詰まらせてしまう。


 だが、


「ははっ、お前寝相すごいな」


 翔から出た声は、気味悪がる声でも、咎めるような声でもなく、布団から半身を出して枕を抱く凛を笑う優しい声であった。


「ほら、朝飯できてるから早く起きろよ?」


 翔はそういうと、微かに香ばしい匂いが漂う廊下へと足を向けた。


「うっ…うん!」


 凛は慌ててベットから下りて、依然として鼓動を早める心臓を抑える。そして、ダボダボなジャージの裾を上げながら、おぼつかない足取りで翔の後を追った。





 ◇◆◇◆





 リビングには、小麦の焦げたいい匂いと、ベーコンの食欲のそそる香りが充満している。


 テーブルを見るとつやつやと輝く目玉焼きが乗ったベーコンエッグトーストが置いてあった。


「ほら、冷めないうちに食えよ」


 翔はそういってシンクの洗い物を片付ける。


「ありがと…いただきます…」


 照明の光に目を細めながら、凛はトーストを口に運ぶ。


 1口かじると、「ザクッ」という音と共に小麦の香ばしさ、ベーコンの塩味、卵のまろやかな味わいが口の中に広がった。


「…おいしい…!」


 その味は、半分寝ていた凛の頭を覚醒させる。


「おっ、なら良かったよ」


 それを聞いた翔は、少しご機嫌そうな声になった。皿を洗う手も、心なしか弾んで見える。


 空調の効いたリビングは、蒸し暑い空気が蔓延する外とは正反対の過ごしやすさだった。


 最初は今日になったらすぐに帰ろうと提案していたのだが、今日は台風によって天候が荒れる予報のため、翔の言葉に甘えて今日はここで過ごすことになっていた。


 隅まで掃除が行き届いた部屋で、好きなヒトが朝食を出してくれて、しかもエプロン姿まで披露している。そんな夢のような空間が目の前に広がっている。


 凛はただただ今の幸せに身を任せていた。





 今がずっと続けばいいのに





 それが今純粋に思う凛の素直な感情であった。





 ◇◆◇◆





 朝食を終えた凛は食後のコーヒーを嗜む。


 そうしていると、翔が凛の目の前にゆっくりと座った。彼の手には、付箋がびっしりと貼られたノートと、使い込まれカバーが所々破れている1冊の本があった。


「……すっごい使い込んでるね…何のワーク?」


 凛は感心しながらも相当の熱意を感じるワークの正体を問う。


「ん?あぁ、将来の為の勉強ってやつだよ」


 そういって翔は表紙を凛の方へ向けた。


 そこには、日に焼けた文字で「体育教師のすすめ」と書かれていた。


「えっ!翔くんって先生になりたいの!?すごいや…」


「あぁ、教師になるのが俺の夢だ」


 そう言う翔は目を細める。以前見た、昔を思い出すときの顔だ。


「俺は体育教師になってバスケが好きってやつを増やしたい。そんでもって、学校に蔓延るいじめから色んなやつを救いたいんだ」


 翔はワークを見つめながら呟く。


「あいつ…遥みたいなやつに憧れてんだ…俺はああなりたいんだよ」


 翔は優しい笑みを浮かべる。遥の事を話すとき、彼は他にはないような優しい顔になるのだ。


 遥が話しに出ないと見せない表情。










 チクリ











(……)





 なぜだろう。それを見ると、心が痛む。あの表情は翔と遥がどれ程強い絆で結ばれているのかが分かる物だ。だが、それを見るのが、今の凛には、堪らなく“イヤ”なのだ。


 その時、


「…凛?どうした?」


 俯く凛の顔を覗き込むように、心配そうに翔が声をかけた。


「んえっ!?」


 凛は咄嗟に我にかえる。


「あっいや…何でもないよ!…ハハ…」


 取り繕うような乾いた笑い。誤魔化そうと視線を泳がせる。


「そうか…まぁ大丈夫ならいいんだけど」


 そう言って翔は開いたノートにペンを走らせようとする。






 だが、それはピタリと動きを止めた。翔の目線は、ノートから凛に移っていた。


「…そういえば…凛は将来の夢とか決まってんのか?」


「えっ?」


 あまりに唐突な質問。驚いた凛は思わず声を出してしまう。


「俺ばっかり話すのもなんかと思ってな…凛の夢も聞きてぇなって」


 自身の夢。確かに1つだけそれは凛の胸の中にある。だが、夢を他人に語るというのは勇気のいることである。


「あー…えっと…」


 凛は目線を泳がせ口どもる。


 ただ、翔の夢を聞いた以上自分だけ言わないのはフェアではない。そう考えた凛は、聞き取れるかどうかギリギリのボリュームで呟いた。


「…ぼ…僕は…カウンセラーに…なりたいんだ…僕みたいなヒトを…助けたくて…」


 うつむき、自信なさげな声は続く。


「僕が助けになるかはわからないけど…その…理解して貰えるのって…救いになるから…」


 翔くんにそうしてもらったし。そうは言えなかった。


 夢、それは聞くものによっては笑われたり馬鹿にされたりと、語るのにはリスクがいるものだ。


 凛は恐る恐る翔の表情を伺う。


 しかし、


「…なんだ、お前もすごいじゃねぇかよ」


「えっ?」


 そこにある翔の表情は、馬鹿にする感情は一切なく、純粋に感心するように首を動かしていた。


「ちゃんとやりたいこと見据えてるしな。流石凛だ。」


 それを聞いた凛は、思わずこう呟く。


「…笑わないの…?」


 それは彼がいじめられていた時の周りの環境が生んだ疑問だった。


『そんなこと出来るわけがない。』


『やめた方がいい。』


 夢を語るとそんな言葉が凛を突き刺す。そんな環境だ。






 常に否定され、馬鹿にされていた凛にとって、翔のその声は初めて聞くものであった。



「笑わないのかって…そんなことするわけ無いだろ?」


 だが、凛の呟きに、翔はさも当然といった顔で答える。


「人の夢ってのは笑うもんじゃなくて応援するもんだろ?夢を持ってそれを突き通そうとするなんて最高にカッコいいだろ?」


 そして、凛の頭を撫でながらそう言ったのだ。


「夢を追ってるやつってのはとんでもなく輝いてんだよ。夢を諦めたり、バカにしたりするやつより何千倍もな。」


 そう言い放った彼の顔には、爽やかや笑顔があった。


 優しい翔の声は凛の涙腺を緩くし、彼の目にじわりと涙が浮かんだ。


「おいおい泣くなよ?大丈夫か?」


 涙を拭い頭を撫でる翔の手の温もりは、凛に安心感を与え、凛の心にある「友達以上の感情」を刺激する。


「へへ…やっぱ翔くんは優しいよ…」










 この瞬間、凛の心は決まった。









 凛は向かいに座る翔の顔を、上目遣いで覗き込む。









「…やっぱ…僕…翔くんのこと…」


 その刹那


 ドォォォォォオン!!!!


 外から激しい閃光と共に轟音が鳴り響いた。


「ピャッ!?」


 驚きのあまり凛は椅子から跳ねる。


 外に目をやると、ベランダの手すりを激しく叩く大粒の雨が降り注いでいた。


 試合の日にちがずれた理由の台風がやって来たのだろう。天候は荒れに荒れていた。


 そして、翔はというと、顔を片手で隠しながら肩を震わせていた。


「いや…お前…『ピャッ!?』って…」


 どうやら先ほどの凛の反応が笑いのツボにはまったようだ。


「だっ…だって怖いんだもん!」


 それを聞いた凛は顔真っ赤にして反論する。


「スマンスマン……しかし…すごい荒れてんな…」


 外では先程よりかは小さいが、いくつも雷光が瞬き、空気を切り裂くような音が響き続けている。


 その音がなる度に身体を震わせ、尻尾を身体に巻き付け抱き締める凛。そんな様子を見かねて、翔はゆっくりと立ち上がった。


「…そしたら、こんなのどうだ?」


 そう言いながらテレビ台の下を開けると、1つの円盤を取り出した。


 その表面には、少し前に話題になった刑事ものの映画のタイトルがギラギラとしたフォントで載っている。


「これでちっとは気分紛らわそうぜ?」


 翔は口角を上げてそう言いながら、ヒラヒラと円盤を揺らした。




 ◇◆◇◆




「…こんなもんでいいだろ?」


 机の上には炭酸がパチパチと弾けるコーラの入ったコップが2つと、キャラメルの甘い匂いをただよわせる大量のポップコーンが入ったバゲットが置かれている。


「すごい…本格的だね?」


「せっかく2人で観るんだからな、こんぐらいしねぇと」


 そう言って翔は映画の円盤をセットする。


「よしっと」


 セットが完了すると、翔は凛の座るソファへと向かう。




 そして、姿勢よく座る凛の後ろに、翔は体をねじ込んだ。


「んえっ!?」


 翔の顎の下に、凛の頭がすっぽりと入る。


 凛の体は体格のいい翔に包み込まれるような状態となった。


「これなら雷の音も気になんないだろ?」


「えっ…いや確かにそうだけどっ!?」





 背中に感じる翔の体温、翔の鼓動。確かに雷は気にならなくなったが依然として凛の心はざわめき続ける。





「よしっ。それじゃ再生するぞ」


 そして、そんなことに気づかない翔は再生ボタンを押し込んだ。





 その瞬間、テレビから大音量で銃声が響き始めた。


 このシリーズはアクション要素が多いのが特徴だ。主人公のドーベルマンの刑事が銃を撃ちながら華麗なアクロバットを披露する。


 黒い毛並みが月の光を反射し美しく輝く。


 闇夜を切り裂く銃弾を掻い潜りながら、敵に鋭い蹴りをおみまいする。


 激しいBGMが佳境へ移り、アクションシーンもさらに激しくなっていった。


 だが、主人公の目にとあるものが入った瞬間、時が止まったようにBGMが止んだ。





 目線の先にあるのは、腹を撃たれ倒れる同僚の姿だ。


 それまで冷静な顔をしていた主人公の表情が歪む。


 絶叫。あまりにも悲痛な叫びが響き渡った。


 意識が薄れ、冷たくなっていく同僚の体を抱える主人公に雨が容赦なく降り注ぐ。




 圧巻の演技だ。凛は外の雷を忘れ、映画の世界に引き込まれていた。



 背中に感じる鼓動も次第に心地よいものになっていく。


 その後も目まぐるしい速度で物語が展開する。




 好きな人と同じポップコーンをつまみ、寄り添いながら映画を観る。凛の心は幸せに満たされていた。





 ◇◆◇◆





 映画を観終わる頃には、外は明るくなっていた。


「思ったより荒れなかったみたいだな」


 翔が外を眺めながら呟く。


「うん!これならもう帰れそう」


 凛はそう言って荷物をまとめ始めた


「ん?もう帰るのか?昼飯食ってけばいいのに」


「いやいや…流石にそこまでお世話になるのも悪いしさ」


 凛はリュックを持ち上げ玄関に向かう。


「怪我は大丈夫なのか?」


 翔は心配そうに聞く。


「大丈夫!綺麗にテーピングとかしてくれたお陰ですっかりよくなってるよ!」


 凛はキッチリとテーピングされた足首をトントンと叩き笑顔を見せる。……少し痛みで顔は歪んだが…


「そうか……んじゃ気を付けろよ?」


「うん!色々ありかとね!今度学食とか奢るからさ!」


 そう言って凛は玄関のドアノブに手をのせる。







 その時、







「翔ちゃん!!大丈夫!?」





「えっ!?」



 突然、そんな声と共に扉がものすごい力で外から開けられたのだ。


 ドアノブを握っていた凛は、そのまま外に投げ出されてしまい、


「ぶわっ!?」


 外にいた人物の胸元に飛び込んでしまった。


 鼻腔を抜けるのは花のような爽やかな甘いにおい。翔の匂いにそっくりだ。


「いてて…」


 飛び込んだ反動で凛は尻餅をつく。



「…あら?…ごめんね…ってどちら様?」



 上から聞こえるのは貴婦人のような高く上品な声。


 凛が顔を上げると、黒い鬣を結い、必要最低限な化粧で美しさを際立てる栗毛の馬の女性がいた。


 その優しく奥に揺るがない精神を宿した目元は、翔に瓜二つだ。


「……また来たのかよ…“母さん”……」


 それを見た翔は、呆れながらそう言った。


「えっ…かっ…母さんって…?」


 凛はぶつけた鼻を擦りながら翔に聞く。


「そのまんまだよ。俺の母親。地震とか台風とかの度にこんなんだから困るんだよな…」


「あらぁ…そんなこと言われると母さん寂しいわぁ…」


「は…はぁ…」


 唐突な展開に、凛は全くついていけなかった。





 ◇◆◇◆




「~~~♪」


 キッチンでは、翔の母親が鼻唄を歌いながらご機嫌に料理をしていた。


 リビングには翔の隣に凛が少し緊張した面持ちで座っていた。


 最初はあの後すぐに帰ろうとしたが、翔の友人であることを自己紹介で知った翔の母親に「せっかくだからお昼も食べていかない?私つくるわよっ!」とキラキラとした目で言われたため断れず、結局戻ってくることになった。


「……お母さん…すごい上品な方だね…」


「そうか?見た目はともかく中身はすごいぞ…?」


 母親に聞こえないような声量になり、翔は続ける。


「昔からなんだけどさ…むちゃくちゃ過保護なんだよ…」


 そう言って、彼は昔のことを話し始めた。


「俺は父親がイギリス、母親が日本生まれのハーフなんだけどさ、……ちょっと仕事の都合で父さんだけイギリスに帰ったんだよ…」


「うん…」


「んで、父さんがめちゃくちゃ厳しいからかわからんけど母さんがとにかく世話焼きで…子離れ出来なくてさ、嫌気が差したから一人暮らし始めるって言ったとき泣かれちまったもんでさ…」


「えぇ…」


 これには凛も少し引いてしまう。


「挙げ句の果てに父さんに相談して意地でも止めようとしたからそこで大喧嘩よ」


「あらら…」


 中々のストーリーだ。母親の行きすぎた愛というのはここまで来るのかと若干の恐怖を覚える。


「結局、妥協案で親が用意する家に暮らすってことになったんだよな」


「なんか…大変だったね」


 ため息をつく翔に凛は苦笑いで声をかける。


 そうしていると、


「ほら!できたわよ!」


 翔の母親の元気な声が響いた。


「いっぱい作ったから遠慮しないで食べてね!!」


 そう言って机にドンドンと料理が乗せられていく。


 肉じゃが、卵焼き、おにぎり…和食が中心の食卓には、そのどれもが美しく盛り付けられ食欲をそそる匂いを放つ料理が並んだ。


「わぁ…すごい…」


 凛はそれをみて無意識に尾を揺らす。


「さっ!冷めないうちにどーぞ!」


「い…いただきます!」


 凛は箸を取ると、卵焼きを1つとり、ゆっくりと口に運んだ。


(……!)


 口に入れた瞬間に広がるのは、出汁のうまみだ。一噛みするごとにそのうまみは増していき、卵の甘味と絶妙なバランスで混ざりあう。


「すっごい美味しい…!」


 今まで食べたことのないような卵焼きの味に凛は感激する。


「あらぁ!よかったわぁ!」


 凛はその後も子供のようにニコニコしながら箸を休まず動かしていた。


 隣の翔は黙々と食べているが、箸が止まっていないところをみると、やはり美味しいと感じているのだろう。


 唐突に始まった翔の母親を交えた食事会は、終始和やかな雰囲気であった。





 ◇◆◇◆





「ふぅ…美味しかった…」


 食後のお茶をすすりながら、凛は膨れた腹をさする。


「満足してもらったみたいで何よりよ~」


 凛の目の前に座った翔の母親は、ご機嫌そうな顔で笑う。


「ったく…すごい食べっぷりだったぞ?」


「え~?翔くんもなんやかんや食べてたじゃん!」


 そう言って2人は談笑を始める。


 仲睦まじく、笑顔で、親の前ということも忘れて翔は饒舌になる。


 そうしていると、


「ふふ…2人とも仲いいのね…?」


 翔の母親はそう呟いた。


「そういえば2人はどういう繋がりなの?凛くんは泊まってたみたいだし」


 確かに我が子の家に見知らぬ人物が泊まってたいたのだ。母親としては少し不安に思うだろう。


「こいつは俺らのバスケ部のマネージャーだ。…昨日の試合の時に飛んできたボールにぶつかって怪我しちまったから一旦泊めたんだよ。こいつ会場から家遠いからさ」


 咄嗟についた嘘。下手なトラブルに巻き込んだことをこの過保護な親に言ったら何をいわれるかたまったものじゃない…といったところか。凛は翔の目を見て悟った。


「ふぅん…凛くんマネージャーなのね…どんなことしてるの?」


 話の矛先が唐突に変わった。凛は一瞬ドキッとするがすぐに言葉を返す。


「えっと…体育館の掃除とかゼッケンの洗濯…あとは練習メニュー組んだりとか色々ありますね…」


 それを聞くと「そう…」と言って翔の母親はお茶をゆっくりと喉に流し込み、少し考える素振りを見せる。


そんな母親を見た翔が口を開く。


「…こいつの組んだ練習メニューはすごいんだ。俺たちプレイヤーの苦手何かってめちゃくちゃ観察してさ…それに対応したのを組んでくれんだよ。それのお陰で今回の試合勝てたからな」


「…あら?そうなの?」


そんな凛の功績を耳にした翔の母親は耳をピンとたて、驚いたような表情になる。


「マネージャーでもこいつは俺たち以上に今回の試合に気合いいれてたんだ。なっ?」


翔は凛の肩に手を回す。


「うわっ!…へへ…まぁ…ね…!」


凛は一瞬驚くものの、少しの照れ笑いを含めて胸を張った。


そんな様子を見た翔の母親は、どこか安心したような顔で呟いた。


「翔ちゃんにいい友達ができて何よりよ…これからも翔ちゃんをよろしくね?凛くん」


そんな母親からの純粋な願い。凛は背筋を伸ばす


「はっ…はい!」


少しあがったような声になったが、凛はその願いをしっかりと受け取った。


翔がしてくれたように、今度は自分が翔の支えになりたい。そんな願いが凛の心に強く灯った。


◇◆◇◆




外は台風一過によって雲一つない空からの夕陽に照らされていた。


「…じゃあ僕はこれで失礼しますね」


夕陽を浴びて黒い体毛を輝かせる凛は、後ろを振り向き親子にそう声をかける。


「えぇ。いろんな話が聞けて楽しかったわ~」


「なんかあったらまたこいよ~」


色は違えどそっくりな美顔の親子がそう言って手を振る。


「はい!お世話になりました!」


凛は頭を下げると、すっかり痛みが引いた足を動かして翔の家を後にした。


(にしても…なんかすごかったな…)


凛は今回のことを少しずつ思い返していた。


翔にトラウマを知られたが、それを壊してくれたこと。


一瞬だか翔と2人きりで風呂に入ったこと。


同じベットで寝てくれたこと。


お互いの夢を語ったこと。


同じポップコーンを摘まみながら映画をみたこと。


そして……勢いで告白しかけたこと



そこまで思い出して凛は顔を夕陽に負けないほど赤く染めた。



(わぁぁぁぁあ!?僕すごいこと言おうとしてた!?してたよね!?)



穴があったら入りたいとはこのことだろう。火が吹き出そうになる顔を両手で押さえる。


(うわー…変に悟られてたりしないといいけど…)


恥ずかしさの後に来たのは罪悪感だ。凛は少し落ち込んでしまう。


(しかもお母さん来たしなぁ…変な態度とってなかったよね…)


そんな不安も感じてしまい。凛の感情は様々なものでぐちゃぐちゃになっていた。


(でも…翔くん僕のこと褒めてくれたし…変な印象は…)



その時、凛は足を止めた。翔が自分に肩を回したときに気付いた、ほんの少しの違和感。それを思い出したのだ。


その時に翔の首筋に光った1粒の滴。










「そういえば…なんであの時あんな冷や汗みたいなのかいてたんだろ?」





◇◆◇◆





親子2人きりの部屋。翔は片付けをする母親の背中を見ながら、首を冷や汗で濡らしていた。


「あの子…随分といい子だったわね…?」


皿を磨き、手際よく並べながら背中越しに翔に話しかける。


「凛は……俺にとって大切な仲間なんだ…だからっ」


「わかってるわよ。だから“あの時”みたいなことは起きないはずよ?」



翔の言葉を遮り、翔の母親…暮馬(くれま)はそう言い放つ。


“あの時”…それの意味する過去は、翔の心を締め上げる。


「それに…対した時間一緒になる訳じゃないしね。今更引き離す必要もないわ」


そして、暮馬は凛に向けた柔らかい笑顔ではなく、能面のような薄い笑顔で翔の方を向く。










「…8月末…それまでにはイギリスに行くわよ。翔。お父さんの会社を継ぐのよ。」




残酷な通達。前々からわかっていたことだとしても、改めて聞かされると耳が痛くなる。



「……」



拒否権はない。その現実に握る拳が震える。



「…って…貴方まだこれ持ってたのね」



皿を綺麗に棚に入れた暮馬は、翔の本棚に目をやり、1冊の本を手に取った。



ボロボロのワーク。その表紙を見る暮馬の目は鋭い。





「貴方…まだ教師になりたいと思っているんでしょうけど…いい加減諦めなさいよ?」





言葉という呪いが翔を縛る。翔の夢…思い描いた日々にヒビが入る。



「じゃあ…お母さんトイレ行って帰るわね?何か困ったことあったら言いなさいよ?」



そして、暮馬は翔と目を合わせることなくリビングを出た。








机にほっぽられたワークを見て、翔の歯に力が入る。





「……クソッ…」





こんな悪態をつくことぐらいが今の翔に出来る今後の未来に対する反抗だった。
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