月と奏でて・1

秋雨薫

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0 始まりの事件

佇む男

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三日月が夜空を煌々と照らす深夜。灯りが少なく、人通りの無い夜道は一人で歩くのは酷く不安を煽る。
そんな中、ヒールをコツコツと響かせながら一人の女性が歩いていた。彼女は近所の工務店で働く事務員。普段は定時に帰れるのだが、今日はトラブルが重なって夜遅くまで働く羽目になってしまった。
いつもの帰り道なのに、暗いせいか酷く不気味に見える。電柱の影から不審者が出てくるのではないか、と変な想像をしてしまい、女性は慌てて鞄からスマートフォンを取り出して電源を押した。人工的な光が、女性の不安を少しだけ振り払った。

早く行ってしまおう。あと数分で家に着く。スマートフォンを鞄にしまい、自分を勢いづけるように息を吐いてから顔を上げて―
「ヒッ」と彼女の喉から空気が漏れた。何故なら、誰もいなかったはずの目の前にいつの間にか男が立っていたからだ。

黒髪で黒いコートを羽織った長身の男だ。綺麗に描かれた二重に、高い鼻筋。血色の悪い唇はやや薄い。作り物ではないかというくらい男の容姿は整っていた。
そして何よりも目を引くもの。それは男の血のように真っ赤な瞳だ。その瞳は人間には感じられない異様さが滲んでいた。
全く気配などしなかったのにと女性は恐怖する。目を逸らしたいのに何故か凝視してしまう。この人間離れした雰囲気の男に。
どれくらい見つめ合っていたのだろうか。男が不意に微笑んだ。

「こんばんは」
「…こ、んばんは」

 まさか挨拶をされると思っていなかったが、反射的に返してしまった。あんなにも恐怖していたというのに、男の綺麗な笑顔を見て頬が紅潮してしまう。これが女の性なのだろうか。

「こんな暗い夜道に一人でどうしたのですか?」
「えーと、仕事で遅くなってしまってこれから家に帰るところなんです」
「遅くまでお疲れ様です。こんな夜道だと何が現れるか分かりませんよ。俺が送りましょうか?」

 こんなに綺麗な男の人に家まで送ってもらえるなんて、と一瞬気持ちが高揚したが、女性は慌てて首を振った。格好いいとはいえ、相手は初対面。初めて会う人に家を教えるのは気が引けた。

「家はすぐそこなので大丈夫です」
「そうですか」

 断ったら気分を害してしまうかと思ったが、男は微笑んだまま。その笑顔に何処か違和感を覚えながらも女性は男に向けて軽く礼をした。

「ではこれで…」

 そう言って男の横を通り過ぎようとした時だった。突然男が女性の手首を掴んだ。驚いた女性は驚いて思わず小さく悲鳴を上げた。彼女が驚いた理由は二つある。一つは男が急に腕を掴んできた事。そしてもう一つは彼の手が異様に冷たかった事だ。季節は夏に差し掛かるところで、今は夜だが若干蒸し暑い。だというのに、彼の手に体温が存在していない。あまりの冷たさに女性の腕が粟立った。

「あの、何ですか」

 振り返って男の姿を捉える。声が震えていたのは、緊張と恐怖が入り混じっていたから。例え綺麗な顔をした男でも、初対面なのに突然腕を掴まれたりしたら警戒する。恐怖を露わにする女性をよそに、男は人のよさそうな笑顔を浮かべたまま血色の悪い唇を開いた。

「俺の食事に付き合ってくれませんか?」
「しょ、食事…?」
「そう、俺の食事に」

 端から聞いたら食事のお誘いだ。それなのに何なのだろう。この男から感じる違和感は。駄目だ、この男の誘いに乗ってはいけない。脳の奥で警鐘が鳴らされる。それなのに男から目が離せない。男の赤い瞳を見ていると、まるで吸い込まれるような錯覚に陥る。
 手首を持ったまま、男が女性との距離を縮め、服が擦れるほど至近距離になる。逃げたいと思っているのに、女性の足は縫い付けられてしまったかのように全く動かない。声を出そうと口を開くが、ひゅ、と細い呼吸が出ただけ。何故動けないのか混乱する女性の前で、男がくいと口角を上げた。

「動けないし、声も出ないだろう」

 先ほどとはガラリと雰囲気の変わった男に、女性は身体を強張らせた。優しそうに微笑んでいたというのに、今は口の端を吊り上げて嘲笑している。

「催眠をかけたからな。 そう簡単には動かない」

 催眠とはどういう事なのか。疑問は声にならなかった。口がパクパクと金魚のように動くだけで、声が出ない。女性の姿を滑稽に思ったのか、男は喉の奥でくつくつと笑いながら言う。

「意味が分からないって顔をしているな。教えてやろうか。お前が今どんな状況に置かれているのか」

 つう、と男の冷たい指が女性の首筋を撫でる。ゾクリと鳥肌が立ち、女性は声にならない悲鳴を上げる。

「お前を動けなくしたのは俺だ。餌に逃げられないように催眠をかけたんだ。何故だか分かるか?」

 餌、催眠。突如出て来た単語に困惑する。視線を彷徨わせていると、女性の思考を読み取った男が言葉を紡ぐ。

「何故なら俺は吸血鬼で、人間の血を糧に生きているからだ」

 そう言って男は歯を見せて笑った。その両端に鋭い犬歯が見え、女は自分の身に危険が迫っている事を悟った。

「大丈夫。すぐに終わるから」

 男の綺麗な顔が徐々に近付いてくる。誰か助けて、と叫びたかった。それなのに声が出ない。逃げたいのに足が動かない。男を突き飛ばしたいのに振り払えない。こうもしている間に、男は女の首筋に顔を近付けた。そして、

「いただきます」

 その言葉が聞こえたと同時に、首筋に鋭い痛みが走った。

「あ……!」

 声にならない悲鳴を上げ、何かを吸い取られる感覚を感じながら……女性は意識を手放した。
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