月と奏でて・1

秋雨薫

文字の大きさ
上 下
11 / 59
1 最強の女子高生と吸血鬼

学校を抜けて

しおりを挟む

 周りの野次馬は、奏の敗北によって静まり返っていた。野次馬は奏の勝利を信じていたようで、目の前の光景が理解できないようだ。全員が、ぽかんと口を開けている。

「……いつまでそうしてるんだ?」

 上半身を起こしたはいいものの、地面に座り込んだままの奏を見かねてミツキが聞くが奏は何も言わずに、ただ地面を凝視している。ふう、とため息を吐いてからミツキはニコリと笑って奏に手を差し出した。

「さあ、オヒメサマ。どうぞ、お手を」
「………っ、自分で、立てる」

 ミツキを鋭く睨んでから差し出された手を無視してゆっくりと立ち上がる。

「フ、そう」

 特に気分を害した様子もなく、ミツキは軽く笑って手を引っ込めた。

「………原田が、負けた」

 静まり返っていた野次馬の中の一人が、ぽつりと呟いたのと同時に、周りが思い出したように騒ぎ始める。

「あの原田さんが?」
「手も足も出ないなんて…」
「彼氏、強すぎ」
「人造人間が………」
「………人造人間?」

 一人の生徒の呟きに、ミツキがピクリと反応する。そして奏を下から上へとなぞるように視線をやった。

「…お前が?」
「いや、みんなが勝手に呼んでいるだけだから」

 ミツキが本物の人造人間だと疑っているんじゃないかと思い、奏はすぐに訂正した。

「ふうん…なるほど…」

 ミツキは顎に手を当てて考える素振りを見せた後、ニヤリと笑った。

「人造人間なんて、お前の柄じゃないだろ」
「‼」

 言われた瞬間、いつか見た夢が思い出される。手も足も出せず、ただただ屈辱感を味わされた夢。まさか、正夢になるなんて。

「は、原田奏ぇー!」

 呆然としていると、背後から間の抜けた声が近付いてきた。言うまでもなく、佐々等だ。佐々等はやや半泣きになりながらも、ガシリと奏の両肩を掴んだ。

「な、なんで負けちゃうんだよー?お前に初めて勝つのは俺の予定のはずだったのにー!」
「……」
「おい、原田奏―」
「うるさい」

 揺さぶろうと力を込めた佐々等の手を、奏は無理やり払う。佐々等をいつものようにあしらう気力も起きない。

「は、原田奏?」

 いつもと様子が違うのにやっと気付いた佐々等は恐る恐る奏の名を呼んだ。その時―

「………まずいな」

 今まで黙っていたミツキがぽつりと呟く。予想だにしない呟きに、佐々等だけではなく、奏もミツキの方を向く。ミツキは校舎の方をジッと見つめていた。いや、正しくは中庭から見える校舎と体育館を繋ぐ通路のようだ。一体何がまずいというのか。思わず聞こうと奏は口を開こうとしたが、できなかった。

「行くぞ」
「うわっ!」

 ミツキに突然手を掴まれて走り出され、奏はバランスを崩しながらも何とか持ちこたえながら引っ張られる。

「原田奏⁉」

 佐々等の驚いた声と、野次馬のざわめく声が背後から聞こえる。

「ちょ、ちょっと離して!」

 奏は、足を止めて抵抗しようと試みるが、強引に引っ張られているので上手く行かない。

「何でいきなり走るのよ!理由を言って!」
「いいから」

 ミツキは理由を言わないまま黙々と走る。気付けば中庭を抜けていて、背後のざわめきはもう聞こえなくなっていた。むわりと夏特有の生暖かい風を顔に浴びる。奏の手は暑さでとても熱くなっているのに、それに反してミツキの手は氷のように冷たかった。

「は、速いよ…!」

 ミツキの足が速く、奏もついていくのがやっとだ。吸血鬼の速さから、大分手加減をしているのだと思うが、それでも速い。ミツキはチラリと奏を見てから、少しだけ速度を落とす。
校庭では、野球部やサッカー部が活動している。もうそろそろ大会なのだろう。いつもより練習に気合いが入っている。そのおかげか、ミツキと手を繋いで走っている所をほとんど見られる事はなかった。それは奏にとって救いだった。これ以上変な噂が流れるような行動を見られたくなかったから。

「……もういいかな」

 校門を出て、少し走った所でミツキはやっと走るのを止めた。

「……あん、た……急に、なん、なのよ……」

 乱れた息を整えようと、酸素を胸一杯に吸う。こんなに思いっきり走るなんて、体育の授業でもなかなかない。息が乱れた奏の横には汗一つかかず涼しい顔でいるミツキ。彼は校舎を振り返って、ううんと唸った。

「今来たくらいかなぁ?」
「…何が?」

 自分の問いの答えにしては脈絡がなさすぎて、大分落ち着いた奏は不機嫌そうに顔をしかめる。するとミツキは不機嫌な奏にやっと気付いたようで、軽く笑ってごめんと呟いた。

「センセーが来そうだったんだ」
「先生?」
「そう、騒ぎを聞きつけたんだろうな。間一髪だ」
「……」

 あの時まずいと呟いたのは先生が来そうだったからかとようやく理解する事が出来た。今頃、中庭にいた人達はその先生の餌食になっているのだろう。それにしてはそんな気配は無かった気がするが―

「だから言っただろう?俺はお前らと造りが違う」

 思考が顔に出ていたのか、ミツキが自分の耳を触りながら言う。今度は聴覚で先生の足音と声を聞き取ったと言いたいのだろう。

「……鼻といい、耳といい、随分と都合のいいものをお持ちですね」

 奏はとりあえず嫌味を言っておいた。

「………それより、そろそろ離してくれる?」

 ミツキにそう言われ、奏は何の事だ、と首を傾げる。

「これ」

 ミツキは右手を軽く持ち上げて、未だ繋がれたままの手を指差した。

「‼」

 奏は顔を真っ赤にして勢いよく手を離した。ミツキの手がひんやりとしていて気持ちよかったから、ついずっと握ってしまっていた。

「こ、これは、ただ、繋いでいるのを、忘れていた、というか……」

 必死に言い訳をしようとしたが、しどろもどろになり、何とも説得力がない。

「へえ。忘れていた、ね」

 明らかに信じていない様子のミツキを見て、奏は更に顔を赤らめる。しかし、それは羞恥からではなく、怒りからだ。

「も、元はといえばあんたが急に私の手を握って走ったのが始まりでしょ!?何で逃げたりしたのよ?」
「面倒な事になりそうだったからな。だから逃げた」
「だからって何で私まで…」
「置いてきた方が良かった?」
「…そんな事は、ないけど」

 そんな奏を見てクスクスと笑って、ミツキはチラリと西の空に視線を移した。陽は傾いているが、沈むにはまだ時間がありそうだ。

「……あと二時間くらい、かな」
「……何が?」

 ミツキの微かな呟きを拾った奏は、眉を潜める。ミツキは、胸ポケットから金色に光る懐中時計を取り出した。表面に薔薇のような刻印がある。とても凝った造りをしていて、すごい値段が張るのでないかと、奏は現実的にそう思った。そんな奏に、その懐中時計を目前に突き付ける。針は四時四七分を指していた。

「今日の日没は六時五九分。……あと二時間で夜になるって事だ」

 そう言って懐中時計を胸ポケットに戻す。

「……夜、ね」

 ミツキと初めて会った時の事を思い出し、奏は顔をしかめた。ミツキの今の風貌は、誰が見ても普通の人間そのものだが、夜になったら吸血鬼の姿になるのではないだろうか。そうしたら、この吸血鬼はどうするのだろうか。

「夜になったら私の血でも吸うつもり?」

 自分で言って寒気がした。自分に恨みがある吸血鬼が、何も危害を与えないで側にいるわけがない。しかし、ミツキは鼻で笑って首を振る。

「いや、吸わない。他にいい事思い付いたから…な」
「……いい事…?」
「少ししたら分かるよ」

 怪しく笑うミツキに、奏はただただ嫌な予感を感じるだけだった。とにかく、この場から抜け出したい。しかし、ミツキの事だからそう簡単には帰してくれないような気がする。隙をついて、こっそり逃げよう。そう決心した奏は、無理やり話題を振る事にした。

「……やっぱり、太陽は苦手なわけ?」

 そう聞くと、ミツキは少し驚いた表情を見せてから探るように奏の顔をじいと見つめる。自分の思惑が伝わってしまっただろうか、と内心ドキドキしながら、平静を装って睨み返すと、ミツキはフと一瞬だけ柔らかく笑った。

「そうだな。灰になったりはしないけど、少しダルいな」

 にっこりと笑うミツキは、ちっとも具合が悪そうに見えない。顔色が悪いのは差し引いて、だが。

「…早く陽が落ちないかな…」

 ミツキは太陽を眩しそうに見上げながら、ぽつりと呟く。彼の注意を逸らす事に成功した奏はミツキの背中を見つめながらじりじりと離れ、ゆっくりと歩を踏み出そうとする。ミツキはぼんやりと太陽を見上げたまま、気付いていない。数メートル離れて、そろそろ走り出そうとミツキに背中を見せた時、

「どこ行くんだよ?」

 呼び止められ、びくりと肩が跳ね上がる。恐る恐る振り返ると、ミツキが首を捻ってこちらを見ていた。奏はバツが悪そうに顔をしかめた。

「…何って……帰るんだけど」

 バレたので、隠す必要もないと思い、堂々と言う。

「奏」

 じゃ、と手を上げて無理やり帰ろうとする奏を呼び止めて、ミツキは自分の左肩に掛かったバッグを軽く叩いた。

「バッグはまた置いていくのか?」
「…あ」

 よく見ると、ミツキはバッグを二つ持っていて、一つは奏のものだった。奏は突然ミツキに連れていかれたので、中庭の端に置いておいたバッグを持って行く余裕が無かった。いつの間に。奏はニコニコ笑うミツキを訝しげに見つめた。

「と、とりあえずありがとう」

 奏はミツキから引ったくるようにバッグを奪った。

「…じゃ、そういう事で!」

 そしてミツキに向かって軽く腕を上げると、返事も聞かずにくるりと踵を返して歩き出した。一分一秒でも、吸血鬼と一緒にいたくない。そう思っているのだが―後ろからゆっくりと…しかし確実に自分に付いて来る足音が聞こえる。しばらく歩いた所で、奏は立ち止まってくるりと振り返る。そこにはニコニコとわざとらしく笑って立っているミツキの姿。奏は鋭く睨んでから今度は早足で進む。やはり、背後からの足音は消えない。奏がピタリと止まると、背後の足音も消える。振り返ると、そこにはやはりミツキが。奏は前を向いてから息を深く吐いてから、一気に走り出した。
 大きく揺れるバッグを脇の下で押さえつけながら歯を食いしばって走る。真剣な表情で全力疾走をする女子高生を見たら、その異様さにみんな目を丸くして振り返るだろう。しかし、タイミングが良かったようで、通りすがりの人に出会う事はなかった。
 しばらく走って曲がり角に入った所で、奏は膝に手を当てて肩を上下させた。そろそろと片目だけを曲がり角から出して来た道を見てみる。そこには、ミツキどころか人っ子一人いなかった。

「上手く、撒けたみたい…」

 そう言って安堵のため息を漏らす。今日は何とか上手くやり過ごせた。今度は明日をどうするか考えなくては。

「何を、撒けたの?」
「‼」

 突然頭上から声が降ってきて、奏は身を震わせて素早く上を見上げる。塀の上、奏のすぐ真上に。

「酷いなぁ、逃げるなんて」

 ミツキが塀に腰掛けて見下ろしながら笑っていた。
しおりを挟む

処理中です...