月と奏でて・1

秋雨薫

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3 吸血鬼の少女

兄と姉

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 草木が眠る丑三つ時。人々も眠り、灯りがまばらになり昼間の喧騒が嘘のようにひっそりと静まり返っている街。
 その街で一番大きなデパートの屋上に一人の少女がいた。黒髪をサイドで結い、ピンクのフリルのついた服の上には黒いコートを羽織っている。少女は隅に座り、足を空中でぶらぶらと動かしていた。
 デパートの照明は勿論消えており、他に人は見当たらない。少女くらいの歳ではこんな真っ暗な中一人でいたら泣いてしまうだろう。しかし、少女は泣く所か、鼻歌を歌っていた。何故なら彼女は吸血鬼で、夜に活動する者だからだ。
 カンナは自分の手のひらを見つめた。体温の無い、冷たい手のひら。しかし、今は少しだけ温かみが残っている気がした。

「……温かかったなぁ」

 握った奏の手は熱を帯びていた。
 人間の生を意味する体温。その体温は吸血鬼には熱すぎて、優しすぎた。カンナは手のひらを握る。
 弟が、あの子の温かい心で火傷しなければいいけど、と思ってカンナはクスリと微笑んでから―表情を曇らせた。
 そんな事を兄、ミナトに知られたらどうなるんだろう。考えるだけも背中が寒くなる。恐らく、奏だけではなくミツキに被害が行くはずだ。
 ミナトは兄弟でも容赦はしない。だから―ミツキは家を飛び出した。そんな冷酷なミナトに嫌気が差して。―いや、違うか。カンナは目頭を押さえた。
 ミツキがミナトを恨んでいるのには理由がある。ミナトが冷酷だからこそ起きた事件。カンナも忘れる事の出来ないあの出来事は―兄弟の絆を見事に打ち砕いた。
 叫び声。血に濡れたミナト。怯える幼いミツキー脳裏に甦った記憶に、カンナは首を振った。
 今はそんな事考えている場合ではない。とにかく、ミツキと奏の場所を知られないようにしなくては。そう思って立ち上がろうとした時―

「カンナ。何しているの?」

 背後から聞き慣れた声が聞こえた。カンナの背後に、先程まで感じなかった人の気配。カンナは驚きもせずにゆっくりと振り返った。
 背中まである長い黒髪を一つに結い、膝下まである黒衣を纏った男。その男の顔は、何処と無くミツキに似ている。そしてその瞳は血のように赤い。男の姿を確認してから、カンナは内心で舌打ちをした。それを悟られぬよう、カンナはその男にニコリと微笑みかけた。

「夜空を眺めていただけだよ―。…ミナト君」

 男―ミナトは目を細めて微笑んだ。

「へぇ…珍しい事もあるんだね?カンナが目的も無く夜空を眺めているなんて…」
「女の子なんだからたまには物思いに耽ってもいいでしょ~?」
「フフ、そうだね」

 ミナトはク、と喉の奥で笑った。

「ミツキが見つからないって慌てていたっていうのに、今は随分落ち着いているね。夜空を見る余裕も出来ているなんて」
「…たまには息抜きも必要なんだよ!焦っていてもミツキ君が見つかるとは限らないしね!」
「そう。何だ…てっきりミツキを見つけたからそんなに落ち着いているんだと思ったんだけど?」
「…そんなわけないじゃない―!ミツキ君を見つけていたら私はとっくに連れ帰っているよ!」
「…ふぅん?」

 ミナトは目を細めたまま、カンナを見つめる。まるで全てを見透かすかのような瞳。その赤い瞳から逸らしたい衝動に駆られる。しかし、カンナは逸らさない。目を逸らした瞬間、ミナトはすぐに嘘だと見破るからだ。ミナトはやけに鋭い。
 しばらく見つめあっていると、ミナトが突然声を上げて笑った。

「そんなに見つめないでよ。恥ずかしいな」
「そっちこそ私が可愛いからって見つめちゃダメだよ~!」

 カンナもつられてころころと笑った。

「ま、いいさ。ミツキくらい簡単に見つけられるしね」

 そう言いながらミナトはカンナの隣に腰掛けた。
 ミナトは本気でミツキを見つけようとしていないのだろう。本気で探していたら、きっととっくに見つけている。
 視界の端でミナトの長い髪が風でゆらゆら揺れている。カンナは自分の足元を見つめる。遥か下に駐車場がある。

「…ミナト君。もし……ミツキ君を見つけたとして、連れ戻せなかったらどうするの?」

 長方形に囲っているたくさんの白線を見つめながら、カンナは問い掛ける。

「連れ戻すよ。どんな手を使ってもね」
「…じゃあもしミツキ君が抵抗したら?」
「まぁしつけは大事だからね。戻るって言うまで痛め付けるよ」

 さらりと言うミナトに、カンナの頬がひくりとひきつる。
 ミナトの残忍さは知っている。人を傷付けるのを何とも思っていない。それが例え弟だとしても―妹のカンナだとしても容赦はしない。

「もしミツキに戻りたくない理由があったとしたら…俺がその枷を取り払ってあげるよ。それがミツキにとって良い事だと思うしね」
「……」

 カンナの脳裏に奏の顔が浮かぶ。奏はミナトの言う枷になるのだろう。奏の事を言われたわけではないのに、嫌な胸騒ぎを感じさせるその言い方に恐怖を抱く。しかし、カンナは怯むわけにはいかない。あの二人を引き裂こうなどとはもう思えなかったから。

「…ミツキ君が家出したのは…ミナト君のせいだよ。例え枷があるとしても…そのせいじゃない」

 絞るような声で、カンナは言う。その頭に、過去の映像がフラッシュバックする。
 血に濡れたミナトその目の前に倒れているのは―

「ああ、それって俺が父を殺した事?」

 ミナトが何とも思っていないかのように笑顔で言った。

「あんな父親、生きている価値がないと判断したから殺したまでだよ」
「…だからって」
「殺さなくてもよかったんじゃなかったって?はは、綺麗事を言っちゃダメだよカンナ。お前だってあいつが死んでよかったと思うだろ?あんな使えないの、必要無いよ」
「………」

 カンナは頭を押さえる。確かに三人の父親は酷い男だった。子供に全く興味を持たず、気に入らない事があったら暴力を奮う。カンナだって本気で殺そうと思った事もある。だが、だからといって殺していいわけがない。
 ミナトは生きていくのに必要な感情が欠落している。
 だが、父親を殺してもカンナがミナトを信じるのは、彼が兄だからだ。きっと、ミナトも自分の過ちに気付いてくれる。ミツキは無駄だと言うだろうが、ミナトにだって少しくらい情があると信じているから。
 カンナはおもむろに立ち上がった。

「ミナト君。ミツキ君は私が探すから手を出さないで。ミナト君が行くより、私が行った方が戻って来てくれる確率が高いから」

 とりあえず今はミツキと奏の身の安全を確保しなくてはいけない。ありきたりな理由を付けて、ミナトに捜索をさせないように促す。
 ミナトはゆっくりとカンナを見上げる。全てを見据えているかのような鋭い瞳。カンナは喉を鳴らすのを我慢して見つめ返す。自分の嘘がバレているのではないかと錯覚し始めた頃―ようやくミナトが頷いた。

「……カンナがそう言うなら別にそれでもいいけど?」
「ありがとう―!ミナト君ならそう言ってくれると思ったよ!」

 真剣な表情は何処へやら、カンナは内心で安堵をしながら晴れやかな笑顔でそう言うとミナトの肩に抱きついた。

「フフ、たまにはカンナにもミツキにお姉ちゃんらしい事をさせてあげないとね」
「えへへ、ありがとうミナト君!」

 やっぱりミナト君にも情はある。妹の意思を尊重して身を引いてくれるのだから。そう思い、カンナは顔を綻ばせた。

「カンナ、先に帰っていてくれるかな?俺は後から行くからさ」

 自分の肩に回されているカンナの手をほどきながら、ミナトは微笑む。

「え……でも」
「ちょっとご飯を食べてから帰るよ。こんな時間でも餌はうようよしているからね」
「…うん、分かった」

 早く帰って来てね、と言うとカンナは溶けるようにその姿を消した。
 デパートの屋上で一人残されたミナト。ミナトは立ち上がると、ニィと口を弧に歪めた。

「本当に、カンナは嘘が下手だね。お前が見つけたというのに、俺がまだミツキを見つけていないとでも?」

 言いながら、ミナトは懐から二枚の写真を取り出した。
 一枚は、弟のミツキ。昼間に撮ったようで、その瞳は黒く、高校の制服を着ている。―そしてもう一枚は。
 肩より上にある暗めの茶髪。高校の制服を着ており、不機嫌そうにしている女。

「原田奏、ね」

 ミナトはその女の名を呼んだ。口元を歪めながら、楽しそうに。

「カンナは知らないと思うけど、俺には密告者がいるんだ。俺が自分で動かなくても、そいつが調べてくれる」

 奏の写真がミナトの手元で風に揺れる。それがミナトから逃れようともがいているようにも見える。写真のもがく様を見つめながら、ミナトは目を細めた。

「この子の名前も、居場所も………過去も」

 風がミナトの髪を撫でる。自分の髪が揺れる様を視界に捉えながら、ミナトは写真をしまった。

「少ししたら会いに行くよミツキ。……それまで待っていてね」

 それだけ言うと、ミナトの身体は徐々に消えて行き、屋上には誰もいなくなった。


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